stinger



by あおり様



「今日も暑っいわね〜!」

少しでも涼を取ろうと開け放した窓辺で、園子はぶつくさ言いながら襟元をばたばたと扇いだ。
そんなことをしたって、暑さが和らぐわけではないってわかってはいるけれど、ぼやきの一つも言わなければやってられないほどに、今年の夏は暑かった。

教室のなかが全体的にだれているのも無理は無く、生徒のほとんどがネクタイをとってシャツを開襟にしていた。
もっとも、登下校で校外を歩く時にある程度きちんとしてさえいれば学校内で襟を開けるくらい、お咎めがあるわけでもない。
教師たちですら、クールビズの煽りで昨今はノーネクタイの者たちも多いのだから。

隣では蘭が長い髪を首にまとわりつかないよう、手で束ねて持ちながらお嬢様らしからぬ仕草で首元に風を送る園子をくすりと笑いながら見ていた。

新一はというと、教室の片隅の自席で黙々と読書中。
彼とて木石ではないのだから当然暑さは人並みに感じているはずなのだけどどうやら手にしているのは新しい本のようで、夢中になって雑念が頭から消えると暑さすら忘れるのか汗一つかいていない。
心頭滅却すれば火もまた涼し、を体現しているような様相で周囲の温度もそこだけ2度ばかし低いような感じさえ見受けられた。

そんな新一を見つめながら蘭はあまりの没頭ぶりにふふ、と笑った。

「もう、暑いわョあんたたち!」

園子にほっぺたをつつかれてやっと、思わず見入っていたことに気づいて赤くなる。
慌てて否定するも、園子はにやにやと笑うばかりだった。

と、突然。

「きゃ!蜂!」

園子と蘭の立つ窓辺に、どこかから飛んできた蜂の羽音が響いた。
結構大きく、虫嫌いの園子は慌てて手で払おうとした。

「危ない!」

園子の顔に向かって飛んだ蜂を、蘭が思わず素手で払いのける。
すると蜂はそのまま、代わりにと言わんばかりに蘭のほうに方向を変え、小さな矢のように鋭く、開いたシャツの胸元に飛び込んだ。

「キャー!」

それを見て園子の方が悲鳴を上げる。

「やっ…」

まずい、と思った瞬間…二人の間に風みたいな速さで伸びてきた腕が、蘭のシャツの襟を、思い切り良くくつろげた。
ぴっ、とシャツのボタンが2つばかりはじけ飛ぶ。
その中から何事も無かったように蜂がするりと抜け出て、開いていた窓から飛び去っていった。

「どこも刺されてねーな。良かった」

見える範囲に異常がないことを確認した新一はほっとため息をついた…が、我に帰ると、その『異常なかった見える範囲』は…

「あ…」

白いふっくらした胸の谷間と、その上の鎖骨と、さらにその上の…真っ赤な頬の、蘭。

新一の頬が音高く鳴った。



  ☆☆☆



午後の授業が始まり、教室にやってきた教師は自席に座る蘭が下は制服のスカートで上は部活用の白いTシャツという奇妙な格好でいるのに気づく。

「毛利、どうした、その服装は?」

なぜか赤くなって答えられない蘭の代わりに園子が言う。

「先生ー、蘭、蜂に襲われたんです」
「その答え、毛利が着替えてる理由の答えになってないぞ?」

教師は首をかしげた。
しばしの沈黙の後、一人の男子生徒が笑いをこらえながら

「実はその後、蜂に先を越されて我慢できなくなったヤツがいまして…」

教室が爆笑する中、真っ赤な顔のまま何も言えない蘭と、今世紀最高の不機嫌面で指の跡を頬に残した新一を見て…教師は、ぼんやりとではあるが事情を察したのだった。



  ☆☆☆



放課後。幸か不幸か本日日直だった新一は教室が空になるまで残っていなければならず、からかいながら出て行く級友たちを悪態で見送った。

ようやく一人になり、ぼつぼつと日誌を書く。

「…はぁ」

もう熱は引いたがダメージは深刻な頬を手で押さえる。
叩かれたことを怒ってるんじゃなく、強烈な自己嫌悪。

あれは緊急事態。
服の中に入った蜂は暴れて刺す可能性が高いので、一刻も早く外に出してやるのが正しい措置だ、ということはわかってる。
わかってるけど。

…衆人環視の前で女性の服を破るなど、紳士としてあってはならない失態だった。

幸いと言うかなんと言うか、蘭の目の前にいたのは自分と、園子だけで他の誰にも見られたわけじゃないけれど…
ついでに言うと、あの短い時間にもかかわらずブラの柄まで確認できてしまった自分の観察力も自己嫌悪の対象だったし、放課後、蘭が逃げるように急いで帰ってしまったこともショックだった。

(やっぱ怒ってんの、当たり前だよなぁ…)

今夜、取り合えず電話で謝って…会ってくれたらまた詫びよう…

教室に鍵をかけ、職員室に日誌と鍵を戻すといつもの新一と同じ人間とは思えないしょんぼりした様子で、『とぼとぼ』と擬音がつきそうな足取りで学校を出た。

ふと顔をあげると門柱のところに、蘭がぽつりと立っていた。

「あ…」

ずっと下を向いていた蘭が声に気づいてぱ、と顔を上げる。
その顔は夕日に照らされているのか、それともさっきのことでまだ恥ずかしさが治まらないのか、頬が赤い。
心なしか少しその瞳は潤んでいるように見える。

咄嗟に言葉が出ない新一。

ごめん

「ごめんなさい」

やっとのことで言いかけた言葉に、蘭のそれがかぶさる。
タイミングを失った新一に、蘭はなおも言った。

「さっきは…助けてくれたのに、叩いちゃってごめん…」

真剣に、心から謝る蘭の姿に、新一は慌てる。

「いや…謝るのは俺の方だって。ほんとに、悪かった」
「でも…痛かった、でしょ」

心痛そうに自分を見つめる蘭の瞳を見て、新一はもう叩かれたことなんてどうでも良かったので、

「蘭が、刺されなくて良かった。そっちのほうがおれにも痛い」

と言って笑って見せた。
新一が、笑顔で許してくれてほっとした蘭もやっと、笑顔を見せる。
近寄ってきて、新一の頬をじっと見た。

「跡、ついちゃったよね…?」
「まぁ…咄嗟に正拳突きじゃなく平手にしてくれたあたりに、オレへの愛を感じたよ」

冗談めかして言うと、蘭も笑った。

「ね、お詫びに今日ばんごはん、一緒に食べよう?好きなもの作るね」
「そーだなー…何もねーから買い物しながら決めるか…」

蘭は自分の声がびっくりするほど甘くなっているのに驚く。
差し出された手に素直に掴まって、二人は先までとは打って変わった軽い足取りで、家路へと消えていった。

…思いがけずこの場面に遭遇し、物陰で様子を見ていた園子と、数人のクラスメート女子たち。

園子が、しみじみと言う。

「ありゃ〜、刺されちゃったわね」
「え?蘭、大丈夫だったんじゃないの??」

きょとんと尋ねる級友に、園子は自分の胸辺りを指でさしながら言った。

「このへん刺されたんじゃないの?蜂よりもっとたちの悪い虫にね…」



END



  ☆☆☆



おまけ


翌日、今日も暑い。
今日も開襟シャツの生徒が多い中、
蘭はきっちりネクタイまで締めている。

「あら〜?蘭ってば、今日は襟、開けないのね。暑いのに」
「……ちょっと、虫に刺されちゃったの」

赤くなる蘭。
新一は、涼しい顔で今日も読書中。



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