夜更けの天女



By あおり様



新一がふと時計を見たとき、針は0時を指そうとしていた。
こんな時間にベッドにもぐりこんでいられる日は、めずらしい。
彼は常にいくつもの依頼を並行して抱えていることがほとんどだったし、外での仕事が無くても事後処理や報告書のまとめ、インターネットで情報収集、資料に目を通すなど家にいて出来る仕事は山ほどあった。
それがたまたま今日は、それらも思いのほか早く片が付き、いつものように食後しばらく寛いだあとおもむろに机に向かう用事も無かった。
年に何回か、オフ以外にもこんな日が訪れることがある。
彼は仕事においては勤勉と言って良かったが、突然に訪れた休息のチャンスを、明日でも構わない用事を今日にまわしてフイにするほどの仕事中毒でもなかった。
幸運にもやってきた休息時間を最大限に楽しむべく、仕事のことや諸々の雑事を頭から追い払い、こうしてベッドに身を沈めている。
隣には、言うまでも無く、彼の溺愛する妻、蘭がいる。
こんな夜、二人はベッドの中で身体を寄せ合い、眠るでもなく、静かにいろいろなことを語り合うのが習慣だった。

もちろん、そんな穏やかな時間の前にはイロイロとあるのだが…ここでは省かせていただく。

ほとんど生まれた時からいつもくっついて育ち、幼馴染を卒業してより親密になり、やっぱりというかついに結婚し晴れて夫婦となって、いままでの人生のほとんどを共有してきた二人のこと、話のタネは尽きる事が無い。
お互いの両親のこと、二人の将来設計のこと、それから子供の頃の思い出。

そして今日、その話題を振ったのは蘭だった。

「ねえ…覚えてる?小学校の4年のとき…学芸会で、『天女の羽衣』ていう劇をやったの…」

新一は目線を上にあげ、脳の中で細かく分類されている記憶の引き出しを順番に開けていく。
やがてアルバムの1ページを開くように鮮明に甦った記憶の映像には、まだあどけない顔の、蘭がいて。

「ああ、覚えてる。お前、主役の天女の役だったよな。」
「主役はどっちかっていうと漁師の男の方なんだけど」

そう、天女は蘭だったが、相手役の漁師を演じたのは新一ではない。
その年の学芸会では新一は、もうひとつのこちらは4、5、6年生が合同で行う『英語劇』のほうにかりだされていて、蘭とクラスの男が劇中とは言え、夫婦になると聞いて胸中穏やかでなかった記憶もある。

『天女の羽衣』は日本に昔から伝わる話で、若い漁師がある日、水浴している天女をみかけ、木に懸けてあった羽衣をこっそり奪って隠してしまう。
羽衣が無ければ帰ることが出来ない天女はそのまま地上にとどまり、男の妻となって暮らすが、何年かたったある日、隠されていた羽衣を見つけ、男を置いて天に帰ってしまう…と、かいつまんでいうとこんな内容である。

「今だから言うけど、最初のシーンは天女の水浴びだろ。みんなの前で裸にされんのかと思ってハラハラしたぜ。」
「…小学生の劇で、そんなわけ、無いじゃない…」

蘭は新一に向けていた身体を仰向けにし、昔を思い出すように天井をぼんやり見上げながらいった。

「…あの劇のこと、いまでもすごく印象に残ってる。台本読んで、すご〜く深く、考えちゃったから。」

新一も良く覚えている。
何度も新一と蘭で、台詞の読み合わせをしたこと。
その練習を有希子にみつかり、熱のこもった演技指導が入ったこと。
学校では蘭は新一とではなく相手役の男の子と台詞を言い合い、その光景はあまり愉快ではなかったこと。
本番で天女の扮装をした蘭があまりにもキレイで、息を呑んだこと…

だが蘭の言いたいことはそんなことではないようだ。

「何を、深く考えたんだよ」

水を向ける新一に、蘭は一番上手く伝わる言葉を探すかのようにゆっくりと、考えながら話し始めた。

「はじめに会ったとき…着物を取り上げて隠しておいて、妻になれって言うのもひどいんだけどね」
「…ごもっとも」
「その後、そこまでして手に入れた妻なのに、男はだんだん裕福になって、それとともに都にいりびたるようになってだんだん妻のことをほったらかしにするようになるのよ。」
「ああ…それはだな。天女の羽衣って表向きは奸計を用いて天女を篭絡する話だけどな、裏では紡織や製糸の高い
技術を持った職人…主に女性だったんだけど…を地方都市から奪って、富を独占したっていうことの隠喩なんだよ。
昔は糸や布、織物の技術ってのはそれで国家が揺らぐほどの重要産業だったからな…って、あれ??」

いつのまにか背を向けている蘭に気づき、顔を覗きこむと軽く睨み返される。

「…誰がそんな講釈聴きたいって言ったのよぉ」
「悪かった。…それで?」

慌てて平謝りし、機嫌をとるように髪を撫でる。
蘭も本気で怒ったわけではなく、またぽつぽつと話し出した。

「最後には、隠しておいた衣を偶然発見した天女は男の目の前で衣を身に着け、何も言わずに天に帰っていくの」
「まあ、当然だろうな」

新一がそう呟くと蘭は顔だけをこちらに向けて言った。

「あの時、お義母さんが練習見てくれたでしょ。そのときに『蘭ちゃん、台詞は書いてあることだけをただ読むんじゃなくて、自分が本当に天女になったら、この時どんな気持ちかしら?って考えてみるの。台詞には書いてないことを、表情や、目や手の動きなんかで表現するのよ』って、教えてくれたのね。」
「小学生相手に、小難しい指導しやがって…」

しかし記憶では蘭は有希子の言ったことを良く飲み込み、素晴らしい演技を見せて父兄から絶賛されていたはずだ。
自分のことのように得意げな小五郎の笑顔を今でも覚えている。

「それでね…台本読みながら、天女の気持ちになって考えたんだ。」

新一は相槌を打つのも忘れ、子守唄のように優しい蘭の声音に耳を傾ける。

「天女は、漁師が羽衣を隠していたって事知らなかったわけだから、最初、帰るところが無い自分を…やや強引だけど…妻として家に置いてくれたことに、感謝してたんだろうなって。」
「うん。」
「だから夫がだんだん都に入り浸って、自分との生活をないがしろにするようになって…すごく、すごく寂しかった。…暮らしていくなかで、だんだん夫となった男を、
愛するようになってたから…」
「…ん…」
「そんなある日、夫の箪笥の中から自分の羽衣を見つけたとき、どんな気持ちがしたか…」
「怒りが爆発したろうな、助けてくれたと思ってた男が、実は自分の羽衣を奪った張本人だったんだからな…」

新一は蘭の気持ちを代弁したつもりだったが、意外にも蘭はふるふると首を振った。
『?』マークを貼り付けた表情で自分を見つめる新一に、蘭は言葉を選びながら言う。

「…天女は、少し、嬉しかったんじゃないかしら…そりゃ、ショックだったし、はらも立ったと思う。けど、羽衣が隠し込まれているのを見てね、『この人は、こんなことまでして、私を手放したくなかったんだわ』って…ちょっぴり、嬉しくもあったんじゃないかって、思うの。」

新一は瞠目する。

(それが…小学4年生の発想か?!)

今の、大人になった蘭ならともかく、そんな子供が…いや、小さくても女性を侮ってはならない。
台本を読んで感情移入するうち、蘭はほんとうに天女の心に近づいていたんだろう。

「だからね、最後のシーンで天女は夫の目の前で衣を羽織って見せるでしょ?…引き止めてくれるのを、待ってたのよ。本当に怒ってたんなら、留守の間に帰っちゃったって良かったんだから。」

新一はそのラストシーンも結構鮮明に思い出せる。
白い着物のうえに、透けて輝く布を肩から羽織った天女そのものの蘭。
舞台にひざまづく男。
何度も読み合わせに付き合ったため、台詞も良く覚えてい
る。

『お前も都に連れて行こう。今よりもっと楽な暮らしが出来る。欲しいものは何でも買ってやれる。都で暮らそう。』

天女は何も答えない。
背を向けたまま黙って、男の言葉を聞いている。

『俺を、置いていくのか…』

そんな男の姿を、天女は一度だけ振り返ると、そのまま天に昇っていってしまう。
がっくりとうな垂れる男だけが取り残され、幕が引かれる。
去りぎわに一度だけ振り返った蘭の、微笑むような、泣いているようななんとも形容しがたい子供らしからぬ妖しい表情にクラッと来てしまったのも忘れられない。

「もっと別の言葉で、引き止めてくれたら…」

蘭がぽつりとつぶやく。
その目は天井に向けられているが、天井ではない何かを見つめている。
あたかもあのときの天女が蘭の身体に再び舞い降りているかのように…いつしか愛するようになっていた人間の夫の、言われることの無かった言葉をいまもずっと待っているかのように…新一は不意に、広いとはいえ一つのベッドの中で、すぐ触れられる距離にいるはずの蘭と自分との間に、それこそ地上と宇宙ほどの隔たりがあるような錯覚にとらわれた。

このまま、蘭が飛んでいってしまうような。
人の身の届くことのかなわぬ高みへ、翔けていってしまうような…。

言いようの無い不安にさいなまれ、思わず蘭の身体を胸に引き寄せる。
両手をまわして掻き抱き、額や頬にくりかえし口付けた。
自分が冷静でないことは解っていたが、今はそうせずにはいられなかった。
蘭の目は、表情は、あの天女、そのものだったから。
突然のことに戸惑う蘭の頬を両手で包み、息が触れ合うほど近くで、囁く。

「行かないでくれ」

瞬きをするのも忘れたように新一を見つめ返す蘭に、さらにかき口説く。

「お前以外に、欲しいものなんて無い。お前がそばにいてくれれば他に何も望まない。俺をおいて、どこへも行かないでくれ、蘭!」

驚きの色を浮かべていた蘭の瞳が、ふっとやわらかく潤む。
頬を包む手に自分の手を重ね、悲しみの欠片も無い、穏やかで美しい微笑をうかべる。

男があの時、都での華やかな暮らしなどではなく。
自分以外のなにもかもを捨てても、二人で生きていくことを望んでくれたら。
たった一言、愛していると囁いて、どこへも行くなと言ってくれたなら…

天女はきっと、男の元にとどまっただろう。
天界の暮らしに未練を感じることもなく、人間の女として生涯を男のそばで送っただろう。

”やっと、言ってくれたのね”

天女はようやく、待ちつづけていた言葉を手に入れた。

「新一。…ありがとう。好きよ。」

蘭は優しく囁き、新一の手をとり、指を絡める。
それが合図のように、新一の手が蘭を求めて動き始める。
甘い吐息でそれに応える。

それからの新一はいつも以上に優しく、宝物を扱うかのように蘭を抱いた。



  ☆☆☆



再び新一が目を覚まして時計を見たとき、針は間もなく4時を指そうとしていた。
自分の腕の中で、安心しきって眠る大切な妻に視線を落とす。
白い頚すじに絡まる髪を取り除けてやりながら、新一は思う。

なあ、蘭。あの話の後日談ってのは、諸説あるんだけど…
俺が思うに、男はしばらく経つうちにきっと気づいちまったと思うんだ。
自分にほんとに必要だったのは、金でもなく都での暮らしでもなく…ほんとは愛してた、天女自身だったって事に、さ。
男は死ぬほど後悔して…毎晩夜空を見上げて、祈って。
何年も経って、すっかり何もかも無くした男の前に、ある日天女は現れるんだ。
そして、今度こそ男は間違えないで告げる。

『愛してる。お前がそばにいれば、何もいらない』

って。
そうしたら、天女は…さっきのお前みたいに、微笑んでくれて。

「それから二人は、いつまでも幸せに暮らしました…ってのは、どうだ?」

夢の中でも新一の声が聞こえたのか、蘭は眠ったままにこっと微笑む。
身じろぎする細い身体を起こさぬよう、優しく抱きなおしてやり、自分ももう一眠りしようと、新一は目を閉じる。
時を越えてようやく天女の心を手に入れた男と、待ち焦がれていた愛の言葉を手に入れた天女のような二人を祝福するかのように、夜は白々と、明け始めていた。



end



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