コーヒーブレーク



By くう様



 ひゅう…とまるで音がするように、風がすり抜けて、思わずわたしは羽織っていたジャケットを握り締めた。
 もう秋も深いのを感じさせてくれる空の色。
 「ねえ。珍しいね。コーヒー買うなんて」
 園子が不思議そうに紙袋を覗き込んだ。
 「今年のお中元で、お父さん宛にいただいたものの中に、すっごくおいしいのがあったの。
 今日、たまたまお店で見かけたから、つい…」

 いっていることにうそはないけれど…。
 少しの秘密を、抱えているような気がした。

 そっと視線を注ぐ。
 ほんの少しだけの、暖かな時間に思いをはせた。





*****


 「コナンくん。来週の月曜日、漢字テストなの?」
 事務所のソファで本を読んでいるコナンくんに声をかけると、少し驚いたように顔を上げた。
 「な、なんて知ってるの?」
 「今日、帰りに偶然歩美ちゃんと会って、聞いたんだよ」

 話しかけているところへ、がさがさと音が聞こえてきて振り返ると、あわただしく背広を着込んだお父さんの姿があった。
 「お父さん、依頼人さんのお誘いだからって、あんまり飲み過ぎないようにしてね?」
 以前にかかわったことのある依頼人の誘いで、出かけるというけれど、また飲みすぎで帰ってくるのではないかと思うと心配で仕方がなくて、いつものように念を押す。



 お父さんが出て行った後の、二人きりの空間に、少し、胸が波打った。

 「…わたしも、来週数学の小テストがあるから。一緒に勉強しよう?」

 振り向いたときのわたしの笑みが、ちょっぴりぎこちなかったのかもしれないね。

 うん。
 といいかけて、

 瞳の色が、少し大人びたものをにじませたかと思うと、一言返してくれた。
 「…ああ」



*****


 3階の自宅に戻り、二人でノートや教科書を並べる。
 それはまるで、傍から見れば、きょうだいの勉強風景のように見えるのだろう。
  ペンケースからシャープペンシルを取り出しながら、わたしはちらり、と彼を見た。

 パチ、と視線がぶつかる。

 瞬間、まるで人とぶつかったように、互いに顔をそらしてしまって。
 それがかえっておかしくて、二人で思わず吹き出してしまった。
 「べつに、緊張することねーだろ?」

 苦笑混じりに言う彼の瞳はまだ、眼鏡越し。
 けれどその言葉が、今この時間だけは、彼が彼自身を取り戻しているのをあらわしていて、わたしはどうしようもなく、笑みを浮かべずにはいられなかった。
 「うん、そうだね」
 言葉を切ってためらうのは、毎度のことで。
 ひとつ息を吸ってから、やっと口にできた。

 「しんいち」




 もうどれくらいになるだろう?
 ずっとずっと、わたしが気がつかないはずはなかったのだけれど。
 こうして今は、ほかに誰もいないひと時だけ、彼はほんとうの姿をその瞳に宿して、わたしを見てくれる。

 当たり前のように、すっとはずされた、眼鏡越しではないその目に映されると、

 トクン!

 と音がなるのが聴こえるようで。



 ゆったりとした、二人だけの時間に、それでもわたしたちはノートを広げているから、それが少し滑稽でもある。
  決して得意、とはいえない分野に少し頭を抱えながら、時々はその手を止めて考え込むその姿が気になるのか。
 それとも、漢字の小テストの勉強はもう終了してしまったのか。
 時折わたしを見ているのに気がついて、
 「…どうしたの?」
 
 らしくなくしばらく言いよどんだあとに聴こえてきたのは。
 「いや…。なんか、苦労してるみてーだから」
 「ありがと。でも、できるだけ自分でがんばってみる」
 わたしがそう答えるのを新一は知っているから、あえて「みてやろうか」なんて、そんな言葉は口にしない。

 今までもずっと知っていた、そんなさりげないやさしさは、たとえ「コナンくん」であっても変わりないのだけれど、こうしていると、中学生のころ、お互いの家に宿題を持ち寄って片付けていた日を思い出す。
 できるのに推理小説に熱中するばかりに、結局夏休みの課題を後々に回してしまうから。
 一緒にやろうなんて提案してみても、それは、少しでも一緒にいられる時間が増えることの小さな喜びも入り混じっていた。

 「漢字ドリル、もう終わったの?」
 にっこり笑って問いかけると、新一はばつが悪そうな、くすぐったそうな表情を浮かべた。
 「なにいってんだよ。小1の問題なんだぜ…?」

 かといって、いつも満点を取ったりすれば、スーパー小学生になってしまいかねないから、小学生稼業もそれなりに苦労が耐えないらしくて、わたしは苦笑を漏らしてしまった。
 「ごめんね、新一。手持ち無沙汰だよね。もう少しで多分終わるから、あとでコーヒー淹れるね。
 今日、コーヒー豆買ってきたんだよ」
 いつもはオレンジジュースと相場が決まっている「コナンくん」だから。
 「サンキュ」
 わたしの言わんとするところを察して、新一は笑っていた。

 眼鏡をはずしていると、その顔は紛れもなく幼いころの新一そのもので。
 だけど、今向かい合っているのは小学1年生ではなくて。

 しんいち。

 ただそれだけが嬉しくて、わたしは心が温かくなる。



*****


 カップ二つを持って居間に入ると、たちまち部屋にはコーヒーの香りが満ちて。
 「はい、どうぞ」
 二人きりのときには、新一にオレンジジュースを出すことはないけれど、今日のコーヒーは特別。
 「この間は、紅茶だったから。今日はコーヒーにしようかなって思って」
 新一、コーヒーのほうが好きでしょ?
 そう問いかけると、少し瞬くさまはまるで少年のまま。
 「こないだの紅茶も、美味かったよ」

 見慣れた風景の、この部屋にいるのは変わらないのに。
 それなのに、なんて違う時の重なり。

 不安をにじませただけで見抜いてしまうから、時々こうして「彼」自身の姿で接してくれる。
 それだけで。
 それだけで、いいよ。

 あなたと
 コーヒーの香りと。

 この穏やかな空間にいることができれば、それだけでいいと思える。
 けれどときどき。
 ほんとうにときどき。
 ふと、よぎってしまう思い。


 「…このまま…時が止まってもいいかもね…」
 ぼんやりと、どこに視点を合わせるでもなく眺めながら、カップを包むようにして持ったままつぶやいたら。
 新一は軽く目を見張るようにしてこちらを見た。


 「なんてね」
 うそだよ。
 そう。

 うそだから。
 軽く笑って見せた。

 限りある「新一」とのひと時が惜しいのは、うそじゃないけれど、でもそれは。
 そう願うことは…。

 口に含んだコーヒーは、思いのほか少し苦くて、それは切なさを含んでいるせいかもしれなかった。


 「…バーロー…」

 幾分か低いその声音にはっとなってみれば、少しうつむき加減で、その表情を読むことができない。

 「約束、しただろ?」
 そういう彼の瞳に迷いはなくて、しゃんと上げたその顔の、凛としたさまからは、目が離せなかった。
 「絶対、元の姿に戻る…って」

 小さくても、新一なんだ、と思わせられる。
 そのしぐさも、表情も、口調も、何もかもが大切で。

 「だから。時間をとめる必要なんて、ねーんだよ」

 「新一…」

 なぜか不意に、その声はかすれてしまったけれど、握ってくれた手のひらを、優しく握り返した。
 胸の奥にまで染み渡って伝わるぬくもりは、熱いカップに触れていたからじゃないと、確かに信じられる。

 あなたが秘密をまとわなくてもいいひと時が、こうして少しでも増えるのなら。
 少しは役に立てているのかな。
 重荷にだけは、なりたくないから……。

 立ち上る湯気に目を落としてから。
 二人、熱いコーヒーをまた一口飲むと、今度はなぜか、やわらかなものが口の中に広がった。





 こんな穏やかな日には。
 このまま時が、止まってもいい。

 そんな風にすら、思えてしまうけれど。

 このまま止まってはいけない。
 いつか必ず、真実を取り戻せる日が来るから。



 少し切なくて、ほろ苦くて。
 だけど、ほのかに甘い。



 そんな、コーヒーブレーク。





Fin.



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