Full moon
By 春陽様
「は?」
照りつける、ぎらぎらした太陽の陽射しを一身に浴びながらの登校は目眩がするほど、身体に堪える。
ふらつく身体をどうにか動かしながら、隣を歩く蘭の話を聞いていた。
断片的に聞いていたが、蘭の突拍子な話に思わず聞き返した。
「ちゃんと聞いてたの? だからね……テストが終わったら、合宿があるの。だから学校を休むわ」
「合宿?」
ちらり、と顔を隣に向ける。
視線に気づいたのか、蘭は新一の方に顔を向け、頷いた。
テストが終わっても、夏休みまで授業はしっかりある。それなのに、合宿? 授業を不意にしてまで、合宿をする理由がわからない。
「なんで夏休み前なんだ?」
「夏休みに入ってすぐ大会があるのよ。それに向けての合宿」
夏休み入ってすぐに行われる大会は、アマチュアの大会で、高校生の出場枠に限りがあるため、合宿は選手の選抜も兼ねているらしい。
近辺の高校から選りすぐりを集め、さらに選手を絞る。練習は厳しく、選抜されるのも難しいと蘭は自信なさげに言った。
合宿は一週間。大会も合わせて、蘭は十日ほど留守にする。
その間、学校は特別な計らいで公休扱いになるらしい。うらやましい話だ。自分も特別に計らってくれないだろうか、と新一はこっそり思った。
「それでね、新一にお願いがあるんだけど……」
蘭は足を止め、言いよどんだ。言いづらいお願いらしい。ちらちらと新一の様子を伺うが、言い出せずにいた。
「なんだよ……」
新一は足を止め、振り返った。
上目で見上げられて、自然と心臓が跳ね上がった。目を合わせると、顔が真っ赤になってしまいそうだと新一は顔を逸らした。
「授業のノート取っててほしいの……」
新一が不意に顔を逸らしたことを機嫌が悪くなったと勘違いした、蘭は慌てて早口で言った。
「は?」
考えてもいなかった蘭のお願いに新一は目を丸くした。
なんでオレに頼むんだよ、と新一は呟いた。蘭に新一の呟きが届いたのか、肩がぴくりと跳ねた。
新一が普段、ノートを満足に取っていないことは蘭だって知っているはず。ノートを提出するときだって、蘭に写させてもらう方の立場だというのに。
「園子に頼んだんだけど、無理だって言われて」
蘭が申し訳なさそうに言った。
園子も蘭に写させてもらう方だ。むしろそれを当てにしてるだろう。自分でまとめるより、蘭がまとめたノートを写した方が、見やすい。
新一の場合、授業を聞いていないもしくは受けていないことが多いため、ノートを満足に取っていない。
俯く蘭に気付かれないよう、新一はため息をついた。
「授業に出たところだけでいいのなら」
新一は、最近ようやく高校生探偵として認知されはじめていた。
頻繁にではないが、謎の潜む事件が起こった場合、警察から相談されることがある。時と場合により、連絡があるとすぐに現場に駆けつける。それは授業があっても、だ。
それは蘭だって知っている。
授業に出なかった分のノートは彼女に頼んでいるのだから。
「ううん、それだけでも充分だよ。足りない分は、他の人に頼むから」
蘭はパッと顔を上げて、嬉しそうに微笑む。
照れくささから、新一は顔を逸らし、先を歩いた。
「新一! ありがとう!」
すぐに追いついてきた蘭が新一に眩しい笑顔を向ける。
無防備に笑顔を振りまくな、とひっそり思ったところで、新一の気持ちなんて彼女は気付きもしない。
彼女の無垢な笑顔が新一の心をどれだけ揺さぶるのか、彼女はわかっちゃいない。
ちらっと彼女の笑顔を覗いて、ああ、と短く返事をした。
少しだけ顎を上げて、彼女に自分の顔が見えないように、すぐに前方に顔を戻す。
いくら暑いといっても、顔の火照りは言い訳できないほどだろうと自覚していたから。
「……オレにそんなこと頼んでいくからには、がんばってこいよ」
素直にがんばってこいと言えない自分が憎らしかった。
蘭はうん、と嬉しそうに頷いた。
「新一、あのね……」
「まだ何かあんのか?」
校舎に入り、下駄箱で靴を履き替えた。額にうっすら浮かんだ汗を手で拭った。
明るい外から薄暗い玄関に入ったため、目の前が慣れず、蘭に顔を向けたが、ぼやけて見えた。
「……何でもない、先に行ってるね」
蘭は何を言おうとしたのだろう、と首を傾げたが、クラスメイトに話しかけられ新一はその疑問をすぐに忘れた。
テストが終わり、蘭は合宿へと旅立った。
「いってきます」
行く前、笑顔で言った蘭。
彼女の笑顔が残像となり、ずっとまぶたの裏に張り付いていた。
ジリリリ……と鳴り響く、目覚まし時計を手探りで探し当て、音を止めた。
寝起きで動きの鈍い頭を、揺り動かし、ベッドから下りる。寝るとき着ていた、シャツが寝汗でべっとり張り付いていた。
昨夜も遅かった。
数日前、立ち会った事件の聴取のため、警視庁へ。帰宅したのは深夜だった。
目覚ましだけでは心許なく、朝起きれるか自信がなかったのに。不思議と目が覚めてしまった。
新一はあくびをかみ殺し、シャワーを浴びるべくバスルームへ向かった。
いつもなら蘭が家まで呼びに来る時間、新一はひとり家を出た。
寝不足の目に、晴れ渡る空の明るさはキリキリと痛んだ。
今日はやけに日差しが強い。寝不足の身体には堪えた。
教室に入り、すぐに自分の机に突っ伏す。
暑さと寝不足で不快指数はぐんぐん上昇。できることなら、空調の効いている保健室に逃げ込みたい。
授業に出るか、保健室に行くか。
一瞬悩んだが、すぐに思い出す。
そうだ、蘭は今日から合宿でいないんだった。
すっかり忘れていた。朝から密かに感じていた、違和感の意味を知る。
自分が学校にいるのに、蘭がいないなんてこと今までにあっただろうか。
こんな風に部活動で、学校に来なかったこともあったはず。
それなのに、今回だけぽっかり心に穴が空いたように感じるのはなぜだろう。
本鈴が鳴り、教師が教室へ入ってきた。
新一は身体を起こし、机の引き出しから教科書とノートを取り出した。蘭との約束を守るため。
なんでこんな時に限って、四時間ぎっしり授業が詰ってるんだよ。
四時間の授業が終わり、新一はぐったりと机に突っ伏した。
普段しないことをするのは疲れる。
いつも見せてもらう彼女のノートは、黒板で書かれていることだけではなく、教師の言った重要なことも書き留めていた。
全く同じとはいかなくても、彼女が後で困らないものを、と意気込んで取り組んだ。
その結果、余計な疲労が増えた。
これがしばらく続くのか、と考えただけで頭が痛い。
「お疲れじゃん」
パン、と机を叩かれ顔を上げるとにやにや笑う園子が立っていた。
「おめぇ……誰のせいで」
「おおっ! よく取れてんじゃん。私には無理だわ」
園子は新一が机に置きっぱなしにしていた、ノートをぱらぱらとめくった。
「おめぇが断るからオレに回ってきたんだろ」
新一は園子の手からノートを奪い取った。
「たまには蘭の有難みを知りなさい」
「は? お前がそれを言うか」
「あんたほど迷惑かけてないわよ」
迷惑かけてる自覚はあったんだな。
呟いた言葉は届いたはずだが、園子は聞こえないフリをした。
「とにかく、がんばってね」
ひらひらと手を振りながら、園子は自分の席に戻っていった。
夏の夕暮れ。西の空はオレンジに輝き、東の空はディープブルーに染まっている。
自然が作り出す、グラデーションは新一に感嘆のため息をもたらした。
ノートを取り出して、一週間。
昼間は事件に呼び出されることなく、順調にこなしていた。しかし、放課後は忙しく、寝る時間は削られていた。
日に日に重くなる身体。胸にぽっかり空いた空虚感が、余計に身体に疲労をもたらす。
瞼の裏の残像は、日に日に薄くなり、今では目を閉じても彼女の笑顔に会うことはできない。
――蘭は今何をしているだろう。
新一は立ち止まって、空を見上げた。
この空は、蘭がいる場所とつながっているだろうか。
この一週間で、蘭が自分にとってどれほど大きな存在になっていたかがわかった。
自分にとって、蘭は空気だ。なくては生きていけない。それも、側にないとダメなんだ。
無性に蘭に会いたかった。
電話してみようか。携帯電話は持っていっているはず。
用もないのに、電話できないと今まで自分からは掛けずにいた。でもせめて、声だけでも聞きたい。
制服の胸ポケットに手を当てる。携帯電話の固い感触を確かめるように撫でた。
新一が立ち尽くしている間に、空の闇は広がっていた。東の空には黄金に輝く月。
真ん丸い満月がぽっかり浮かんでいた。
ブブブ……と携帯電話が震えた。手を当てたままだったため、ぶるっと身体が震えた。
慌ててポケットから携帯電話を取り出す。着信相手が誰かも確認しないまま、電話に出た。
「はい、工藤です」
「……っ!」
電話口の向こうで息を飲む音が聞こえた。
「もしもし?」
人の気配はあるのに、相手の反応がないため、伺うように言った。
「し、新一?」
聞きたいと願っていた声が耳に響いてきた。とうとう幻聴まで聞こえるようになったのか?
思わず電話を耳から離す。
着信相手を見ると、『蘭』の文字。
本当に蘭からの電話だった。
「新一、どうしたの?」
「い、いや……蘭こそどうしたんだよ」
慌てて携帯電話を耳に戻す。
もしかして、合宿中に何かあったのか?
「え、あ、あの……新一は何してた?」
「あ? ああ……家に帰る途中」
「あっ! じゃあ、満月見える?」
新一は確認するように月を見上げてから、ああ、と返事をした。
この月を蘭も見ている。蘭とつながっているようで、それだけで心が湧き上がる。
「……合宿はどうしたんだ?」
「終わったよ。明日から試合なの」
合宿のあと、そのまま試合だとは聞いていたが。詳しい日程までは聞いていなかった。
「それでね、新一にお願いがあって」
「またかよ」
蘭のお願いにうんざりした声で応えた。
言ってすぐ後悔した。せっかく蘭と話しているのに、こんなことが言いたかったのではない。
「ご、ゴメンなさい。新一、忙しいよね。もう切るね。ちょっと新一の声が聞きたかっただけなの」
蘭の声が震えていた。傷つけてしまった。自分自身に腹が立つ。
「ちょっと待て、蘭。何だよ、お願いって」
「……ううん、もういいの」
「よくねぇだろ! いいから言ってみろよ」
つい声を荒げてしまった。これではただの八つ当たりだ。
気分を落ち着かせるため、深呼吸をする。
「蘭、言ってみろよ。お願いってなんだ?」
ゆっくり吐き出した言葉は、ちゃんと彼女に届いたようだ。
それでも躊躇っているのか、電話口で息を止める気配。
「……新一にがんばれっていってほしくて」
「へ?」
蘭の意外なお願いに、新一は驚き、呆けた問いが口を出た。
「なんだ、そんなことかよ」
「なんだ、って何よ! 試合前、新一に言ってもらうのともらわないとでは試合結果が全然違うんだから」
だんだん顔がにやけてくる。
会いたいと願っていたが、電話でよかったかもしれない。
鏡を見なくても、自分がふやけた顔をしているのは、充分気付いていた。
「もういいわよ! 電話切るから」
恥ずかしさからか、蘭は早口だった。
待て、と新一は慌てて止める。
「蘭、試合がんばれ」
そして、早く戻って来い。新一は心の中でそっと呟いた。
新一にとって蘭が空気だと思ったように、彼女も自分のことをそう思ってくれているだろうか。
そうであって欲しいと願うが、確認するのが怖い。自分たちの関係が変わってしまうのが怖い。
もう少しだけ、今の関係を続けていたい。
まるでぬるま湯のような、安心する関係を。
「……ありがと、新一。すっごい勇気出た」
こっちこそ、感謝したい。蘭の電話で、身体が軽くなっていた。
目を閉じれば、蘭の笑顔が見えた。現金な自分をあざ笑うように、新一はひっそり笑った。
満月は二人をいつまでも優しく照らしていた。
FIN・・・・・・.
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