Junkie



By 春陽様



 新一がソファーに座り本を読んでいると、玄関の扉が勢いよく開かれる音が聞こえた。鍵を閉めていたはずの玄関が開かれたことに新一はさほど驚かなかった。扉を開けたのが誰かすぐにわかったからだ。

「意外に早かったな」

 新一は小さく呟き、自分のいる部屋の扉が開かれるのをじっと待った。
 パタパタとスリッパが廊下を叩く音が少しずつ部屋に近づき、玄関の扉と同じく、部屋の扉も勢いよく開かれた。

「新一!」

 新一の予想通り、扉を開けたのは蘭だった。蘭が浮かべている表情も予想していたことだった。けれど、予想できていても実際に見るとやはり心は痛んだ。

 蘭は走ってきたのか、呼吸荒く肩を揺らしている。額にはうっすらと汗がにじみ、顔は真っ赤だ。蘭は潤んだ目を新一に向けた。潤んでいるのは決して走ってきたからではない、ということは新一はわかっていた。蘭は泣くのを我慢するように、目に力を入れている。そんな顔をさせたかったわけではない。だから黙っていた。けれど無駄だったようだ。

「ったく、なんて顔してんだよ……」

 蘭は新一の呟きには答えず、新一の座るソファーの前まで駆け寄る。新一の腕と足を見て、痛そうに顔を歪めた。

「どうして……」

 言ってくれなかったの、と蘭は新一から顔を逸らした。そして、零れ落ちそうになっていた目じりの雫を指で拭った。

「ちょっと、な。どうってことないから言わなかっただけだ」

 新一は自分の手と足に巻かれた白い包帯を見た。大げさなほど巻かれた白い包帯。蘭は誰かに新一の怪我のことを聞いて、慌てて新一の家にやってきた。
 新一が怪我をしたのは前日のことだった――





 前日、新一はとある事件現場にいた。それは大きな豪邸で、そこの主人が謎の死を遂げた。謎のある事件と聞いて、新一は居てもたってもいられず、事件現場に乗り込んだ。
 主人の死に取り巻く謎を解き、主人を殺した犯人を名指しした。そこで犯人は取り押さえられた、はずだった。しかし隙を突いて逃げた犯人は階段を塞いでいた関係者を突き飛ばした。犯人を追っていた新一は突き飛ばされた関係者を庇うように手を伸ばした――

 新一の記憶はここでぷっつりと途切れている。気づいたときには病院の診察室に寝かされていた。

 新一は関係者と一緒に階段から落ち、軽い脳震盪を起こしていた。それに受身に失敗し、右手首と右足首を捻挫していた。そのため、病院に運ばれたらしい。
 新一が階段から落ちた後、犯人はすぐに取り押さえられた。新一と一緒に落ちた関係者は新一が庇ったため無傷だったと聞いて新一はホッと胸を撫で下ろした。

 捻挫は全治二週間。たいしたことない。そう思っていた。だが問題は怪我が利き腕だったということだ。動かさないほうがいいと包帯で手首を固定されているため、何をするにも不便だった。

「どうってことなかったら、どうして今日学校休んだのよ」
「……学校に行くのが面倒くさかったんだよ」

 疑いの眼差しを向ける蘭から新一は目を逸らした。
 面倒くさかった。それは半分本当だった。固定された足と手首を動かすのも厄介で、億劫だ。いつも通り足と手を動かせないもどかしさもついて回る。学校に行くため準備することも、学校に歩いていくことも。いつも以上に時間がかかる。それはとても面倒なことだった。
 そして、もう半分は……。怪我をしたことを蘭に知られたくなかった。数日蘭に会わずにいたら、包帯も取れ、怪我をしたことにも気づかれないままでいられただろう。

「嘘ばっかり。痛いから休んだんでしょう?」
「痛みはない。包帯が大げさなんだよ」

 この話は終わりだと言わんばかりに新一は閉じていた本を再び開いた。
 蘭がこれで引くとは思っていないが、新一はこれ以上怪我について蘭と話すつもりはなかった。

「包帯はお飾りだというの」

 蘭はソファーに伸ばした新一の足首をぐっと押した。

「っ!」

 足首から痛みの伝令が全身に走る。突然のことで取り繕う暇もなく、痛みで顔が歪んだ。いくら痛くないと言っても、強く押さえつける必要はないだろう、と新一の頭にカッと血が上った。

「な、何するんだよ!」

 自分の足元に座る蘭を新一は怒鳴ったが、蘭の悲しそうな顔に怒りは急激に冷えた。

「ほら、痛いんでしょう? 嘘言わないで」
「嘘じゃねぇよ。さっきのはおめぇが押さえたからで……」
「腫れは引いてないじゃない。痛くないわけないでしょう」

 動かなければ痛みを感じることはない。それは痛み止めのおかげだ。痛くないというのは、嘘ではなかった。
 蘭に怪我のことを黙っていた後ろめたさから怪我はたいしたことないのだと言い張っていたかった。それが見栄と虚勢だったとしても。しかし、蘭はそれを許さないようだ。

「痛くねぇよ……さっきのはおめぇが体重かけて押さえたせいだ」
「まだそんなこと言ってるの!? やせ我慢しないで本当のこと言ったら?」
「やせ我慢なんてしてねぇよ!」

 手足の怪我は痛いはずだと決め付ける蘭に新一は苛つきながら否定した。

「黙ってたのは悪かったよ。でもたいした事ない。痛みもない。それでいいだろう?」

 いつまでも引こうとしない蘭に新一は驚きながらも怪我の話をこれ以上伸ばしたくないと自分の非を認めた。

「全然よくない」
「は?」
「痛みはなくても右手と右足が動かせないんでしょう? だから、わたししばらくここに泊り込むわ!」
「はぁぁぁ?」

 蘭は新一に向かって高らかに宣言した。
 新一は自分の耳を疑った。幻聴が聞こえたのかとも。呆然と蘭を見上げると、新一ははじめて彼女ががボストンバッグを持っていることに気づいた。

「もしかして、それ荷物か?」
「そうよ。着替えも必要だし、ここから学校に行くなら教科書も必要でしょう」

 新一はようやく先ほどの爆弾発言が現実のことだったのだと認めた。

「オレが怪我したらどうして蘭が泊まることになるんだ?」

 突拍子ない蘭の提案に新一は驚きを通り越して呆れた。
 はいそうですか、どうぞお泊まりください――なんて言うわけがない。怪我をしているとはいえ、男一人の家に泊まると言い出す蘭が新一は理解できなかった。

「だって新一ひとりじゃいろいろ大変でしょ」
「それなら別に泊まる必要はないだろう。それにおっちゃんにはどう説明するんだ?」

 蘭が本気だったとしても、彼女の父親が許すはずがないと新一はたかを括っていた。

「大丈夫! お父さんなら張り込みの仕事で、しばらく帰ってこれないらしいから。ほら、利き手が使えないんじゃ食事するのも大変でしょう」
「おっちゃんがいないからって……とにかく、ひとりでも大丈夫だからおめぇは帰れ」

 新一はため息混じりに言った。どうやって蘭を説得しよう。新一は怪我をしていない方の手で頭を抱えた。

「……食事はどうするのよ。買い物にも行けないでしょう」
「博士に頼む」

 数日間は家を出るのも大変だろうから、食事は出前で済ませようと考えていた。もし、必要なものがあるのなら隣に住む博士に頼めばいい。

「昨日から博士旅行じゃなかった?」

 しまった、忘れていた。蘭の言葉に新一は博士が昨日からいないのだということを思い出した。新一の動揺は些細なものだったが、蘭は機敏に気づいたようだ。蘭はふふっと得意げに新一を見下ろしていたから。

「包帯は二、三日で取れる。その間は出前で済ませる」
「ほとんど動かないで脂ものばっかりなんて健康に悪いわ」
「だから! 二、三日の間だけだ。おめぇの世話になるつもりはない。早く帰れ」

 突き放すように素っ気なく言った。それが蘭を傷つけることだと気づいていたが、蘭が泊まることは避けたかった。

「いや、帰らない!」
「帰れ!」
「帰らない!」

 新一と蘭は押し問答を続けた。二人とも引くわけにはいかない、と意地になっていた。
 睨み合うように蘭の顔を見つめていた新一は彼女の様子がおかしいことに気づいた。蘭も新一を睨んでいるが、その瞳は落ち着きなくさ迷っている。それに、先ほど蘭が体重をかけて押さえた新一の足の上に置かれた彼女の手はずっと彼の足を撫でている。まるで労わるように。
 そして、蘭のもう片方の手は彼女の足の上に置かれスカートをぎゅっと握っている。まるで耐えるように。

 どうやら蘭が爆弾発言に到ったのは他に――新一の世話以外に――理由があるようだ。

「新一がなんと言おうとわたしは絶対帰らないんだから!」
「……勝手にしろ!」

 泊まらせるわけにはいかないが、蘭の様子が気になった新一は一旦引くことにした。あくまで一旦だが。

「ええ、勝手にするわ。じゃあまず夕飯の支度するね」

 家の主に許可をもらい、ホッとした蘭は嬉しそうに立ち上り、キッチンへ向かった。新一は目で蘭の背中を観察したが、変わったところを見つけることができなかった。
 新一はため息を吐くと、本を三度開いた。





 読んでいた本の章節で息を吐くと、背後から視線を感じた。振り返ると、扉から蘭がリビングを覗いていた。

「どうした?」

 用があるのだろうか、と新一は本にしおりを挟んでから上半身を捻り蘭のいる方を向いた。

「あ、う、ううん……何でもない。夕飯もうしばらくかかるけどお腹空いてないかなって」
「ああ、平気だ」

 ほとんど動かず本を貪り読むだけで体力を使わないと腹も空かなかった。

「そう、わかった。もうしばらく待っててね」

 蘭はぎこちない笑顔を浮かべてキッチンへ戻っていった。いったい何だったんだ。新一は首を傾げた。
 耳を澄ますと、廊下を叩くスリッパの音は遠ざかっていった。どうやら新一の空腹具合が気になっただけのようだ。本を再び読み始めようかとも思ったが、気が削げたため、新一は久しぶりにソファーから立ち上がった。

 怪我をしている足に負担をかけないように、引きずりながらリビングを出た。新一が廊下を歩いていると、スリッパの音が背後から近づいてきた。振り向くと蘭が不安げな表情を浮かべ立っていた。

「新一、どこに行くの?」
「……トイレ」

 新一は訝しげに蘭を見つめ、自分がソファーを立った理由を端的に述べた。

「あ、ああ……そう、だったの」
「何か用か?」
「ううん、何でもないの」

 蘭はホッと安心したような表情を一瞬浮かべた。

「蘭?」
「ごめんなさい、何でもないの。気にしないでね」

 蘭は話をそう打ち切ると、そそくさとキッチンへ戻っていった。

 トイレを済ませた後、新一は書斎へ向かった。今読んでいる本があと少しで読み終わるため、次に読む本を探すためだ。それに、最近ゆっくり本を読む時間が取れなかったため、未読の本が溜まっていた。この機会に読破しようと思っていた。

 すぐにリビングに戻るつもりだったが、その場で本のあらすじを流し読んでいるうち夢中に読みふけていた。

「新一! 新一!」

 廊下から蘭が新一を呼ぶ声が聞こえた。悲鳴に近い蘭の声に新一は足の痛みに気づかないふりをして、急いで書斎の扉から顔を出した。

「蘭! どうしたんだ?」

 蘭は瞳を潤ませ、廊下に立っていた。何かあったのだろうかと新一は不安になった。

「新一! どこにいたの? 探したのよ……」
「ずっと書斎にいたぜ、どうした?」
「そう……え、えっと夕飯の準備ができたの。すぐ食べる?」

 落ち着かない様子の蘭から目を離さないまま、新一は頷いた。蘭は自分でもおかしな行動をしているとわかっているのか、恥ずかしそうに顔を赤らめ、新一に背を向けた。

「新一はゆっくり来てね」

 急ぐ必要はなどないのに、蘭はパタパタと廊下を駆けていった。





 利き腕が使えない新一のため、夕飯はスプーンで食べられるものだった。それでも、片手しか使えないため、それを食すのにいつもより時間がかかってしまった。
 新一が食べ終わるころ、蘭はすでに食べ終えていた。

「ごちそうさま。助かった。もう十分だから、暗くならないうちに帰れ」

 蘭はハッと顔を上げた。まさか帰れと言われるとは思っていなかったようだ。

「でも……」
「他にしてもらうようなことはない」
「今なくても後から出てくるかもしれないでしょう。だから、泊まるの」

 今度は熱くならないようにと新一は蘭に気づかれないように深く息を吸った。

「してほしいことは出てくるかもしれない。でも、今はない」
「いつ出てくるかわからないでしょう。何でも手伝うから」
「じゃあ、風呂入る手伝いもしてくれんのか?」
「そ、それは……」

 蘭は何を想像したのか。顔を真っ赤にして俯いた。
 この手と足ではシャワーを浴びるのも難儀なことだろう。だが、蘭に手伝ってもらう気など全くない。蘭が躊躇う手伝いを考えた結果がお風呂だった。

「な、今日は帰れ」
「嫌! 嫌なの! わたしがいない間、また新一が怪我をしたら……」
「蘭?」

 蘭は俯いたままいやいやと首を振る。蘭の震えている声に泣いているのではないかと新一は不安になった。

「蘭、落ち着け。今日のお前、変だぞ」

 蘭の顔を上げさせようと彼女の肩に怪我をしていない方の手を伸ばしたが、パシンと蘭の手によって弾かれた。

「新一が怪我のことを黙っているからでしょう!」

 自ら顔を上げた蘭は泣いてはいなかった。キッと新一を睨んだ。

「新一が怪我のことを自分から言わないんだったら、すぐわかるように見張っておこうと思ったのよ。無茶な話だということはわかってたわ」

 蘭の不可解な行動の理由も不可解なものだった。

「無茶しないで、怪我しないで、って言っても無駄だもの! 新一のことだから身体が勝手に動くんでしょう」

 蘭の指摘は図星を突いていて、新一は言葉に詰まった。
 
 今回の事件がまさしくそうだった。犯人が逃げ、反射的に追った。そして、関係者が突き飛ばされるのを見て反射的に庇った。考えて動いていたら全て間に合わなくなってしまう。頭で考える時間が数瞬だとしても、迷っている場合ではない。

「無茶して怪我をしたことを責めてるんじゃない。わたしは何があったのかちゃんと新一の口から聞きたかったの」
「……悪かった」
 
 黙っていたのは蘭に心配させないためだった。しかし、それが逆に心配掛けることになっていた。

「事件だって飛び出していく新一を見て、心配しないとでも思うの? 新一の身体が勝手に反応しちゃうように、わたしの頭も勝手に心配しちゃうのよ」 
 
 蘭の苦笑いに新一の胸がぎゅっと締め付けられる。
 心配していても、蘭は新一が事件現場に行くことを止めることはない。その場所が危険だとわかっていても蘭はいつも見送ってくれる。ちゃんと新一の望むことを理解してくれている。なのに、自分は蘭の気持ちを全く知ろうとしていなかった。

「……悪かった」
「謝ってほしいわけじゃない。でもお願い。無茶するんだったら必ず帰ってきてよ。もし、もしもよ。怪我したのなら……わたしにすぐ報せて。新一の顔を見て、新一の口から聞きたい。それを誓ってくれるのなら今日は帰るわ」
「……わかった」

 新一は蘭と視線を合わせ、しっかりと頷いた。

「じゃあ、食器片付けてから帰るね」

 蘭は満足そうに笑むと、立ち上がり食器を持って新一に背を向けた。

「新一が推理バカなら、わたしは……バカね」

 笑いを含んだ蘭の声の最後が新一は聞き取れなかった。

「え?」

 新一が聞き返しても、蘭は何でもないと首を振った。けれど、蘭は新一に気づかれないように彼が聞き取れなかった言葉を呟いた。





 ――新一が推理バカなら、わたしは新一バカね……

 




FIN…….



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