ホットコーヒー



By 飛香里様



朝から蘭の買い物に付き合っていた俺がその小さなカフェに彼女を誘ったのは全くの偶然だった。
「いらっしゃいませ。おや、新一君、それに蘭ちゃんじゃないか」
親しげに声をかけてきた店主らしい男性を俺はまじまじと見つめた。
不意に古い記憶が蘇る。
「あ…! 日下部さんですか?」
「正解。若い頃よりかなり太っちゃったからわからないかと思ったけどさすがだね」
俺たちを席に促し、水を用意しながら穏やかに微笑む。
忘れるはずがない。この包み込むような優しい表情。幼心に父とは別の意味で敵わないと思わせられた相手だ。
あの頃、別の出会い方をしていたら俺はきっとこの人を大好きになっていただろう。
「新一、知り合い?」
蘭の声に俺は思わず振り返る。
「へ? 蘭、オメー覚えてねーのか?!」
「え? 私も知ってる人?」
キョトンとする彼女をみて日下部さんは苦笑いをもらした。
「15年も前だからね。二人ともまだ小さかったし覚えてなくても仕方ないよ」
「けど、蘭はあの頃あんなに…」
言いよどむと日下部さんは口の横に手を当ててボソリと囁いた。
「新一君、女の子ってのは案外あっさりしてて冷たいんだよ」
「あら、聞き捨てならない言葉ね」
オーダーした飲み物を持ってきた女性が彼に肘鉄を食らわす。
「蘭ちゃん、私のことはわかるかしら?」
彼女の問いかけに蘭は一瞬考えてすぐに目を輝かせた。
「あけみ先生?! 米花幼稚園のあけみ先生ですね? 新一、覚えてる?」
「覚えてるさ。年長組の時の担任だろ?
俺たちが卒園したあと結婚退職したって聞きましたけど、もしかしてお相手は─」
「そ。相手は当時、通園バスの運転手をしていたこの人なの」
彼女の言葉を聞いて蘭が『ああっ』と声をあげた。
「日下部さんってカモメ号のクー先生?」
「やっと思い出したのかよ。あの頃はクー先生、クー先生って毎日うるさかったくせに」
「そうだっけ? 全然覚えてない。本当ですか?」
蘭が首をかしげて二人を見る。
「本当よ。通園の時はもちろん、バスの整備をしている時だってこの人を見つけるとすっ飛んでって傍を離れなかったわよ。
そしたら新一君ったらすっごくヤキモチやいて。それがもう見ていて可愛くて可愛くて」
「僕は送迎のたびに新一君に睨みつけられて大変だったよ。幼稚園児が何でこんなオーラを出せるんだってくらい怒りのオーラ出しまくりでさ。
たまりかねて園長に他のルートの送迎バスにかえてくれって頼んだくらい」
「ちょ、ちょっと、やめてくださいよ。そんな古い話」
「へぇ、新一ってその頃からやきもちやきだったんだ」
「うっせーよっ」
クスクス笑う蘭を思い切り睨みつけたが気にしている様子はない。
「あ、でもカモメ号の運転手をしばらくかえようかって話がもちあがった時、それを止めたのも新一君なんだよ。
日下部さんがいなくなったら蘭が泣くからかえないでほしいって言ってね。
園長室に直訴しに来る子なんて初めてだって園長が笑ってたよ」
俺はよく覚えてないが言われてみればそんなこともあった気がする。
「実はあなた達が園にいたころ、私達あまりうまくいってなかったの。この人が結婚にしり込みしちゃって。
いざとなるとてんで行動力がないんだから…」
あけみ先生に肘で小突かれ日下部さんは肩をすくめた。
「スミマセンね。頼りない男で。
でも蘭ちゃんのことをいつも第一に考えて全力でぶつかる新一君の姿にハッとしてね。結婚の決心がついたんだよ」
「つまり、二人は私達夫婦のキューピッドね。だから私達、卒園してからもずっと二人のこと応援してたの」
「新一君の姿がしばらく見えなくなったときはずいぶん心配したけど、こうして二人元気そうなのを見て安心したよ。
これからも二人仲良くな」
慈愛に満ちた彼らの目は出されたコーヒーよりもずっと俺の心を温めてくれた。
自分の知らないところで自分たちを見守ってくれている人が居たのだ。
その一人はかつて自分が敵意をむき出しにしていたにもかかわらず。やっぱりこの人には敵わない。

帰り際、日下部さんがそっと俺に囁いた。
「蘭ちゃん、帰りのバスではいつも疲れて寝てたけど新一君がお休みの時は絶対寝なかったんだよ。
起こしてあげるから大丈夫だって僕がいくら言ってもね。きっと君が傍にいないと安心できなかったんだろうね」



≪終≫







副会長ドミのコメント


飛香里さんのサイト「風車」10周年記念の、10個の短編集最後のお話です。
このホットコーヒーは、蘭ちゃんの「初恋」を扱っていまして、新蘭お互いが初恋で唯一の恋!と考えているドミにとって、初めて読んだ時は、少し微妙な気持ちになってしまったものでした。
けれど、飛香里さんご自身の解説を読んで、納得しました。

「初恋は、実らないもの」というジンクスがありますよね。
飛香里さんは、新蘭には絶対、結ばれて欲しい、結ばれて幸せになって欲しいと強く願っておられます。だから、2人の絆がジンクスに邪魔されてしまわないように、蘭ちゃんに、記憶にも残っていないような小さな幼い初恋をさせようと、考えたそうです。

私・ドミは、確かにそういう話は聞くけど、新一君と蘭ちゃんなら、ジンクスなんてきっと吹き飛ばしてしまうだろうと考えています。
で、飛香里さんの「ホットコーヒー」に触発される形で書いたお話が、拙作の「初恋のジンクス」です。

それぞれの感覚の違い、感じ方の違いで、同じ事を取り扱っても、全く違った味わいの作品が出来上がる。
誰かの書いたものに触発されて、また別の作品が生まれる事がある。
その面白さを感じていただければ、幸いです。



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