my funny valentine



By 柚佐鏡子様



一番最初のは、たしかお小遣いで買った、サッカーボールの包み紙の小さなチョコレート。
お店に行くと本当にいろんなチョコレートがあって、毎年選ぶのが楽しかった子どもの頃。
小学校中学年から始まった手作りチョコは、最初は不格好だったけど、だんだんと腕を上げていった。
中学生くらいになったら、手作りもすっかりお手の物。
チョコケーキやフォンダンショコラなど、手の込んだ品々も登場するようになり。
そして、義理のラベルはついに剥がれ落ちたのは高校生の頃。
名前を書けなかった高校2年生の時のチョコは、思いがけず、ちゃんと本人の手元に渡っていた。
その翌年、いなくなっていた彼が戻ってきて、恋人同士になって。
何の障害もなく本人に直接チョコを手渡せる幸せに、人知れず涙した。
思い返せば、本当にいろいろなことがあったけど。
ここ数年は、ごくごく平和なバレンタイン。
チョコを作って、新一に渡して。
昔は憎まれ口ばっかりだった彼も、今ではこっちが恥ずかしくなるくらいの優しい笑顔でお礼を言って、素直に受け取ってくれるし。
時々事件なんか挟みつつも、基本的にはまったりと、ふたりきりで過ごすバレンタイン。

別にそれでもいい。そういうのがいいって思ってたんだけど−−−


2月、バレンタインも間近に迫ったある日のこと。
蘭と園子は、喫茶店で女性雑誌の特集記事などを広げながら、今年のバレンタインについて相談していた。

「といっても、わたしの場合、真さんと会えるかどうかも分かんないしね〜」

は〜あ、と、大袈裟な溜め息を吐きながら、園子は言う。
園子の恋人・京極真は、空手修業で海外留学中のため、バレンタインといっても日本に帰国しているとは限らないのだ。
その場合、チョコレートは留学先に郵送することになるわけだが、実直な真が園子の“ラブラブ大作戦”に引っ掛かって(?)、毎回毎回律儀に帰国してくるのを、蘭はよく知っていたから、

「まあまあ。そう言わずに、今年も頑張って手作りしようよ!ね、園子」

と親友に発破をかけたが。

「それなんだけどね、蘭。手作りチョコもいいけど、今年は何かこう、ドーンとインパクトが欲しいと思わない!?」
「インパクト?」

キョトンとする蘭に、園子は両の拳を握りしめ、例によって、いつもの、変な企画を思いついた時の表情で、ググッとにじり寄ってくる。

「だってね、手作りチョコも毎年毎年食べてたら、最初の頃ほどの感激も新鮮味も薄れてくると思うのよ?」
「そ、そーかなー…」
「残念ながらそーなのよ!だから今年は、すっごい斬新な計画立てて、真さんと新一君を感激させようって作戦よ!」
「へ?その作戦って、わたしも入ってるの?」
「当たり前じゃない!」

園子のラブラブ大作戦に巻き込まれるのは毎度のこととはいえ、

「だって蘭のとこなんか、自称幼なじみ時代も入れたら、もう20回近くチョコレートあげてるんでしょ?手作りだって10回以上はあげてるはずよね。毎年ネタが被らないようにするのって、ぶっちゃけ大変じゃない?」

と言われたら、それはそうだと思う。
一応、前年と同じにならないように気をつけてはいるし、新一にさりげなくリサーチを入れたりすることもあるけど、こうまで付き合いが長くなると、さすがにネタが苦しいと言えば苦しい。

「蘭はこんなに頭を悩ませて、毎年チョコ作りに励んでるっていうのにさ〜。あの推理野郎ときたら、“蘭のチョコは自分が貰って当然”っていうか“蘭の全てはオレのもの”みたいな顔してんのよ?ムカツクじゃない!だからギャフンと言わせてやるのよ〜!」

自分のラブラブ大作戦じゃなくて、何故か新一をやりこめる方に目的がシフトしているんじゃないかと思えるほど、園子はメラメラと燃えている。

(でも、たしかに−−−)

蘭は、つい最近の新一とのやりとりを思い出していた。



「新一。今度の土曜、わたし、園子と出かけるからね」

先日、蘭が週末の予定を報告した時も、

「ふーん。バレンタインの相談か?」

新一は顔色ひとつ変えずにそう言い放ったし。
あまりにも「当然だ」と言わんばかりの口ぶりなので、蘭の方が逆に照れてしまって、

「もう!そういうこと自分で言わないでよね!」

と赤くなって言い返したけれど、

「でも、そうなんだろ?」

なーんて、余裕たっぷりの笑顔で見つめてきて。

「バ、バカァ!そんなこと言うんだったら、今年のチョコレート何がいいかリクエストしてよね!わたしだって迷ってるんだから…」

それでなくても、新一は全国のファンからとか、警視庁のお姉さん達から義理チョコをもらっている。
ファンからの応援の気持ちや、日頃の捜査協力へのお礼の気持ちだとしても、どれも送り主の思いの詰まったチョコレートだから…ひとつひとつ意味があって、大事なものだとは思う。
だけど、自分のはそれらのどれとも違うはず。特別なんだって思いたいし、差別化を図りたい。新一に喜んでもらいたい。
それなのに新一と来たら、

「なんでもいいって。オレは蘭さえいれば、チョコとか何でもいいし」

しれ〜っとそんな気障なことを言って、既に真っ赤になっている蘭の頬に軽いキスなんか送りながら、

「ま、しっかり相談して来てくれよ。楽しみにしてっから」

と耳元で囁いたりするから。

(もうっ…完全にからかわれてる〜〜…!!)

蘭はちょっぴり悔しかったのだ。
いつもあたふたしているのは自分だけで、新一は常に落ち着いていて、気障で意地悪で。

未だにささいなことでドキドキしているのは自分だけだと−−−事実と著しく反する勘違いをしていた。


「園子っ!教えて、新一をギャフンと言わせる方法!」

案外ノセられやすいところのある蘭は、既にメラメラと燃えているのだった。



  ☆☆☆



バレンタイン当日。
新一は夕暮れの町を家路へと急いでいた。
今朝、いつもの如く事件に呼ばれて出かけて行こうとする新一に、

「今日はいつ頃帰れそうなの?」

と、心配そうに尋ねてきた蘭の表情を思い出す。

「あぁ。たぶんはそんなに遅くはならねーと思う。帰る前には連絡するし。オメー、どうする?」

まるで新婚夫婦のやりとりみたいだと内心ニヤけながら、自然と緩みがちになる頬をなんとか引き締めて、そう答えると、

「じゃあ、新一の家で待ってていい?」

何か期待しているような上目遣いで、控えめに申し出る蘭の、いつも以上の可愛さにクラクラした。

「あ、ああ。なるべく早く帰るから。好きなようにしててくれよ」

と言い残して向かった現場はというと、若い男性が何者かに毒を盛られて重体に陥ったという傷害事件の現場だったのだが。
被害者はテニスを嗜む優男の大学生。
内情を調べてみれば、彼には恋人がいるにも関わらず、陰で何人もの女性を手玉にとり、肉体関係を結んだり金を借りたりと、全くもって好き放題なことをしており、そのことをよく思わないサークルの友人に恨まれて、テニスのラケットに毒を仕込まれたという、何とも後味の悪い事件だったのだ。

(オレには全く理解できねーな…ああいう男の考えることは)

被害に遭ったことは気の毒に思うが、その一方で新一は、大学生に対して根本的な嫌悪感を抱いていた。
自分だって、蘭をほったらかして事件にばかりかまけているという嫌な自覚は、ある。
けれども、それは相手が“事件”だからそうなるのであって、別の女性に向かうということは、まずもってあり得ない。
ずっと想い続けていた至上の女性、今では自分を誰よりも愛し、理解し、待ってくれている蘭がいるのに、なんでわざわざ他の女なんか構わなければいけないのか。
自分はそんなに暇じゃない。
蘭のどんな表情も見逃したくはないし、状況把握だってしておきたい。彼女に好意を抱いて付きまとう男がいないかどうかもチェックしないといけないし、名探偵は本業以外でも結構忙しいのである。
おまけに今日はバレンタインだ。
ようやく彼女の本命チョコを手にするようになってから早数年、この幸せが永遠に続いて欲しいと願うばかりの新一は、今年の彼女が、いつもと一味違った試みを用意していることを、まだ知らない。


「ただいま」
「おかえりなさい、新一」

ようやく帰宅すれば、名前のとおり花のような笑顔で出迎えてくれる彼女に、新一の心はすぐさま事件から日常に切り替わり、幸せに満ち溢れる。

「お疲れさま。それで事件は解決したの?」
「まーな。被害者も搬送先の病院で持ち直したみたいだし、とりあえず一件落着だろ」
「よかったね。今日はどんな事件だったか聞いてもいい?」

日頃から事件の概要なんかは詳しく聞かせてくれない新一だけれど、普段関わっている血生臭い事件に比べれば、今日の事件は死人も出ておらず、少し軽微なものみたいだから、聞いてみてもいいかと思ったのだろう。
無邪気に土産話をせがんでくる蘭の頭をポンポンと叩き、

「いいんだよ、蘭はそんなこと知らなくても」

と苦笑する新一に、また子ども扱いして!と拗ねる彼女を横目に見ながら。
もし、複数の異性を弄ぶスリルに身を浸したり、それでバレンタインに毒を盛られたりするのが“大人”だとするなら、自分は子どもの気持ちをいつまでも忘れず、ずっと蘭だけを見続けていたいものだ…と、しみじみ思う新一であった。
事件の話がそれで立ち消えになると、

「あ。そうだ、新一」

と、不意に蘭が彼の腕を引く。
てっきりチョコをくれるものと思いつつ、それでも一応はしらばっくれて、

「何だ?」

なんて何食わぬ顔で聞いてみると、彼女の発した言葉は、

「お風呂入る?」

などという、予想だにしていなかったものだった。

「は?なんで?」
これには新一も、さすがに不審な顔で聞き返さざるを得なかったが、

「だって、外は寒かったでしょ?」

と、蘭は他意のない笑顔を浮かべているのだ。
たしかに外は寒かったから、お風呂で温まればよさそうだけど、まだ夕方で、時間的にも入浴する時間帯ではないし…。

『そんなことより早くチョコくれよ』

というのが本心だが、そんなことは口が裂けても言えないから、

「いや、別に…。風呂はまだいいよ」

などと言葉を濁そうとする新一に、蘭は更に、畳みかけるようにこう言うのである。

「っていうか、実はね。もうお風呂沸いてるんだ」
「…へ?なんで?」
「新一が帰るコールくれた時に沸かしといたの」

だからホラ、入って入って、と、何が何でも風呂に入らせたいらしいのが顕著な彼女の態度。
訝りながらも、

「わーったよ。んじゃ、せっかくだから入ってくるよ」

と、新一は仕方なく浴室へと向かった。

「…ったく、蘭のヤツ一体何考えてんだ?」

独りごちながら、お得意の推理を働かせてみる。
自分を風呂場に追いやって、彼女は今から何をしようとしているのか?
もしかして、この間にご馳走でも用意してくれるつもりなのかもしれない。
いやいや、でも、ひょっとしたらひょっとして−−−

『新一ぃ、わたしも一緒に入っていーい?』

バスタオル1枚巻いただけの魅惑的な姿で、後から一緒に入ってきてくれたりして…。

人一倍恥ずかしがり屋な彼女がそんなことをするなんてあり得ないことくらい、その明晰な頭脳をもってすれば、よく分かっているはずなのに、

(いや、でも今日はバレンタインだからな…万が一のサプライズってことも…)

新一はいつものように(?)勝手な妄想を暴走させていた。
そして、浴室の扉に手をかけるや−−−

「おわっ!!?」

彼は素っ頓狂な叫び声を上げ、反射的に後ろに飛び退いた。
浴室には不似合いな、得も言われぬ甘ったるい匂いが、急に鼻先をくすぐってきたからである。
もうもうと脱衣所にまで立ち込めるそれに、

「な、なんじゃこりゃ!?」

と戸惑っている新一に、脱衣所の外から、蘭のおかしそうな笑い声が聞こえてくる。

「フフフフ…新一、ビックリした!?」
「オメーなあ…一体何だよ?この匂い…」
「チョコレート風呂だよ!」

いかにも楽しげに、蘭が言った。

「今日はバレンタインでしょ?それで、今年はちょっと趣向を変えてみようと思ってさ!ちゃんと本物のチョコレートの成分が入ってるんだよ?驚いたでしょ〜?」

案外すんなり新一を驚かせることができて、本当に嬉しそうである。

「ねえ、新一。チョコレートの甘い香りにはリラックス効果があるんだって。それに保湿と美肌にもいいそうよ?だから、新一はしばらくゆっくり入っててね♪わたし、ご飯作って待ってるから」
「ハハ…そーかよ」

乾いた笑いを浮かべながら、仕方なくその琥珀色の液体に体を沈めた新一は、

「美肌って何だよ…オレは男だぜ?」

と、もうドアの外にはいないであろう蘭に、呆れたように呟いた。
しかし、朝から妙に張りきっていたような彼女の様子を思い出し、こんなカワイイいたずらで新一をやりこめたつもりでいるのだから、なんだか微笑ましくなってしまう。
イメージしたほどベタベタはしていないが、甘く、ほろ苦く、程良くトロリンとした肌触りで身体を温めてくれるチョコレート風呂は、まるで自分にとっての蘭の存在のようで。

(オレって結構幸せだよなぁ…)

そんなことを考えながら、しばしリラックス効果を堪能していた新一だったが、

「ねーえ、新一ぃ?」

と、またも浴室の外から蘭が話しかけてきた。

「何だー?」
「そこに置いてある石鹸、わたしが手作りしたチョコレート石鹸なんだけど、よかったら使ってみて〜?それで髪も洗えるからね♪」

そういえば、見慣れない焦げ茶色の物体が置いてあると思っていた。
蘭は、妙に入浴剤やソープ類にこだわる女性的な一面があって、てっきり彼女の私物だろうと思っていたが、まさか手作りの石鹸だったとは…。
新一はほんの一瞬だけ眉をひそめ−−−それから迷わずチョコレート石鹸を手にとり、力を入れて泡立て始めた。
チョコレート色から白に変わって泡立つそれは、次々と甘い香りを浴室内に広げてゆく…。



「あ。新一、あがった?」
「おー…」

風呂上がりの新一がまだ身体から湯気を漂わせているところへ蘭はトコトコ近づいてゆき、

「新一ってば、すごく甘くていい匂いしてるね。女の子みたい」

と楽しそうに笑った。

「…ったく。オメーのせいだろが。オメーはオレをどーしたいんだよ…」

さすがに、大の男が全身から甘ったるいチョコレートの匂いを発散させているのも少々気恥ずかしいのか、ちょっぴり頬を染めてぶっきらぼうに言い返す新一に、

「別にいいじゃない。…新一にこんなチョコレートあげられるのって、わたしだけでしょ?」

と言う蘭の口調は勝ち気だけれど、その頬は、湯上がりの彼に負けず劣らず赤くて。
滅多と聞けない嫉妬めいたそのセリフが、本当は一番の贈り物であることに、彼女自身が気づく日はきっと訪れない。
照れ隠しなのか天然なのか、彼の腕や顔にスルスルと手を滑らせて、

「わー、でも本当にスベスベ!いいなあ〜」

なんて言いながら、延々と撫でてみたりしている。

「あ、そうだ。石鹸の使い心地どうだった?」
「ああ、ちゃんと泡立ったし、よく出来てたよ。けど、オメーさ」

しばらくは蘭のしたいように、顔でも腕でも好きなように触れさせていた新一だったが、ふと彼女の手首を掴んで、その動きを止めた。

「石鹸作るって言やぁ、苛性ソーダ使ったんじゃねーの?」

眉間の皺に滲み出たその表情は、わずかに不機嫌そうなもので。

「苛性ソーダは購入の時に身分証明も必要な、強塩基の劇物だ。皮膚に付いたらスゲー火傷みたいになるし、仮に目にでも入ったら、1滴でも失明する危険性があるんだぜ?」

ブツブツといつもの蘊蓄を披露しながら、まるで点検でもするような神経質な仕草で、彼女の指の1本1本を触り始めた。

「オレはともかく、オメーの美肌は無事なんだろうな?」

いつもながら、論点はちょっとズレた感のある恋人に、

「やだな、大丈夫に決まってるじゃない。これ作るために、ちゃんと手作り石鹸の教室へ行って、一から習ったのよ?」

と、それでも蘭は、子どもにでも言い聞かせるように優しく答えるのだった。
ちょっとトンチンカンなところはあっても、いつも自分のことを一番に心配してくれているんだと思うとやっぱり嬉しくて…彼の所作にゆったりと身を委ねていた蘭だったが。
最初は機械的に皮膚の表面を確認するような動きだったのが、いつのまにかだんだん…なんだか妙な強弱とリズムをつけながら、新一の手はそのまま腕を撫でなするように上昇してゆく。
流れるように首、次にスルリと頬を撫でられ、それから明らかな意図をもって、耳の横の髪に手を差し入れられた時、

「ちょ…ちょっと待って…!」

と蘭は俄に赤くなって叫んだ。

「なんで?」

赤面する彼女に反して、新一の方は不満そうだ。

「ね。とりあえず、ご飯食べようよ…バレンタインのチョコも、ちゃんと用意してあるし…」

そう言って、辛うじて新一の魔の手(?)から逃れようとすると、

「…蘭が最初に触ってきたくせに」

ボソッと呟かれて、蘭はますます真っ赤になった。

「わ、わたしはそーいう意味で触ったんじゃなくて…!」
「へえ。そーいう意味って、どういう意味?」

分かっていてニヤニヤする恋人が憎らしい。

「もうっ!新一!」

恥ずかしさを隠そうと、ついいつも怒ったふりをしてしまうけど、残念ながら、名探偵にはそれすらバレているのである。

「悪い悪い、ごめんって。からかいすぎたよ」

せっかくのバレンタイン、これ以上彼女の機嫌を損ねるのは得策でないとばかりに、意外にサラリと謝罪の言葉を口にしたかと思いきや、

「それより早く食わせて。腹へった」

キッチンの方を眺めながら、色気のかけらもない言葉を発する新一。
そんな彼の首元から、仄かに香るのはチョコレートのフレーバー。
ほろ苦いけれど、どこまでも甘くて、どんなに拗ねていても、その香りだけで立ち所に優しい気持ちを思い出させてくれる。
そう、まるで新一自身みたいな−−−

(結局、こうなるのよね…)

今年こそは自分じゃなくて、新一をドキドキさせてやろうと思ったのに…。
心の中で残念がっている蘭は知らない。

『早く食わせて』

という彼の言葉は、単に空腹だから食事させてくれというのではなく、素直にチョコを請求できないカッコツケな彼の、精一杯の催促だということを。
欲しくて欲しくてたまらない蘭のチョコレートを、無事に手中に収めるその瞬間まで、それこそ毎年毎年ドキドキしながら待っている、新一の心中を彼女が真に知る日は、今後も訪れないのかもしれない。
決して表には表れないささやかなインパクトを双方に残して、ふたりのバレンタインは今年も幸せに過ぎてゆく。




(終)




****ちょっと微エロなおまけギャグ****



食事が済んだら早々に、新一は蘭に入浴を勧めてきた。

「え…でもわたし、新一にまだプレゼントがあるんだけど…」

蘭のその言葉を聞いても、新一は特に深くは考えず、その“プレゼント”とは、日持ちのするチョコクッキーか何かのことだろうと勝手に思い込んでおり−−−というのは、彼女は時々そういった物を作っては、

「忙しい時、捜査の合間にでも食べて」

と言って手渡してくれることが多々あったからだが−−−勿論、それだって十分すぎるくらい有り難くて嬉しい贈り物なのだけど、それ以上に彼は、今や別のことで頭がいっぱいであった。

「ありがとう、蘭。でも、せっかくだからオメーもあのチョコレート風呂に入りたいだろ?今、追い焚きしてやっから、早く入って来いって」

妙にニコニコしている新一に怪しい気配を感じつつも、蘭自身、あのチョコレート風呂の入り心地が気になっていたのもあって、

「う、うん…じゃあ、プレゼントは後でね?」

と言って、浴室へ向かおうとしたその背中に、

「オメーが作ったあの石鹸使えよ。保湿と美肌に効くんだろー?」

更に新一の嬉しそうな声が飛ぶ。
どうせ今夜、彼女は新一の家に泊まっていくのだ。
そして、夜はまだまだ長い。
恋人同士の時間はこれからだと言わんばかりに、新一はひとり頬を緩ませて、恋人が入浴を済ませるのを今か今かと待っていた。
そう。あの甘いチョコの匂いを全身に纏った風呂上がりの蘭を、バレンタインのチョコレートよろしく美味しくいただいてしまおう、というのが新一の計画である。
そうして待ち焦がれている間、何気なく開けた冷蔵庫の中で、彼は、見覚えのないバケツ型の容器を発見することになる。

「あ〜気持ちよかった♪」

さて、新一の目論見どおり全身からチョコの香りをいっぱいに漂わせながら、蘭は風呂からあがってきた。

「ベトベトしてなくて、結構サッパリしてたね。あのお風呂。石鹸も我ながらよく出来てたしv」

満足げに話しかけてくる蘭に、

「そーだな…」

と返事をする新一の身体は、実は早くも臨戦態勢(笑)に入っている。

「んじゃ、早速だけど、蘭!」

抱きしめようとして伸ばした両手を、蘭はサッとかわして、

「あ、そうだった」

とか言いながら、突然、冷蔵庫を開け始めた。

(わざとか?わざとなのか?どーなんだ?え、蘭〜!?)

思わぬ肩すかしを食って気が急いている新一を尻目に、蘭は冷蔵庫から例のバケツ型の容器を出してくる。

「なぁ。さっきから思ってたんだけど、それ何だ?」

問われると、蘭は満面の笑顔で、

「バレンタインのプレゼント♪」

と、答えた。

「実はこれ、チョコレートで出来たマッサージ用のクリームなの。珍しいでしょ?よくエステとかで使われてるらしいんだけどね?それで、近頃すごく寒いし、新一、このまえ、事件記録の読み過ぎで肩が凝るとか言ってたじゃない?だから、たまにはマッサージでもしてあげようと思って」

蓋を開けたら、またほんのりと漂ってきたチョコレートの甘い香り。
お風呂に石鹸、おまけにマッサージクリームまで、まさにバレンタインに相応しいチョコ尽くし。

(オイオイ…勘弁してくれよ…)

それでなくて、ただでさえ蘭は甘くていい匂いがしているというのに。
あまりの甘やかさに、新一はだんだん頭に血が上ってくるのを感じていた。
残された一抹の理性も、幾重にも連なる甘い香りの攻撃の前に風前の灯。
彼女に対する愛しさと、それに伴って勝手に高揚する期待感は、ダイレクトに身体の反応に結びついて、もはや自分だけの力ではどうにも収まらない。
けれど、彼のそんな内情などは露知らず、

「あっ!でも、もしソファに零れてシミになっちゃったりしたら、あとが大変だよね。じゃあ新一の部屋のベッドに行こっか?あそこなら、もし零れてもシーツ丸ごと洗っちゃえばいいし…」

などと、蘭はずいぶん所帯じみたことを気にしているのだった。

結局、蘭に言われるがまま上半身裸になり、新一は自室のベッドに横になっていた。
熱を持て余した彼の身体はもう大変なことにいて、実のところ、今にも悲鳴を上げそうな状態だが、一方で、蘭を愛することにかけては常人の発想を軽々と超える彼の頭には、既に別のプランが思い浮かんでいる。
とりあえず、ここはひとまず大人しくマッサージでもなんでもされてやろう。
その勢いで、今度は自分も蘭をマッサージし返してやればいいんだ、と。
そりゃあもう、蘭が気持ちよくなって、全身弛緩して起き上がれなくなるまで、一晩中マッサージし続けてやろう…。
そんなふうに、攻守逆転の瞬間を虎視眈々と狙っている狼男の肩に、

「痛かったら言ってね」

なんて可愛いことを言いながら、蘭は、琥珀色のマッサージクリームを薄く伸ばしていった。
チョコレートを使っていると言っても、用途はマッサージクリームなのだから、そんなにベタベタもせず、伸びがいい。当然、時間がたってもパリパリ固まったりはしない。
どこで覚えてくるのか、蘭のマッサージはちょうどいい力加減で、かなり上手い部類に入ると思う。
それなのに、クリーム越しに感じる彼女の手の温度と、スベスベとした感触とが相俟って、肩凝りを癒すどころか、新一の頭の中は、またまた違うことでいっぱいになってくるのである。

「ねえ、新一。このクリーム、チョコレートで出来てるって言ったじゃない?」

そんな新一の鎖骨に一生懸命に手を滑らせながら、蘭は、クイズでも出題するような得意げな口ぶりで話しかけてきた。

「……あん?」

そして、もはや生返事を返すので精一杯の彼に、よりによって彼女は、最大級の天然爆弾を投下したのだ。

「なんとなんと、このまま口に入れて食べることも出来るんだって!しかも全身に使えるんだよ?すごいと思わなーい!?」
「……◎◇π§%$;@Σ&☆¥ф▲!!!!」
「ちょっ…キャー!新一、鼻血出てる!!鼻血!!」

新一が鼻血を出したのは、いわゆる初体験の時以来、久方ぶりのことだった。
園子の謀略は巡り巡って、当初の予定どおり、近年のバレンタインでは稀にみる強烈なインパクトを発揮したのである。




(終)



戻る時はブラウザの「戻る」で。