プレリュード



By 柚佐鏡子様



Side Ran


お父さんがやっている探偵事務所に警視庁の人から電話がかかってくるのは、そんなに珍しいことじゃない。事件に関連することで、おなじみの目暮警部や高木刑事、佐藤刑事、それから千葉刑事や白鳥警部からも、たまに電話があったりする。それはわたしにとって、よくある日常の一コマで。

だけど、鑑識のトメさんから電話がかかってきたのは今回が初めてだった。
それだけでもビックリするのに、電話の相手はお父さんじゃなくてわたしだと言う。しかも、まるでこちらの様子を窺うように、

「…ところで毛利名探偵は?今そこにいるのかい」

なんてヒソヒソ声で尋ねてくる。

「父はここ数日、仕事で東京を離れていますけど…」
「そうか、そいつは好都合だ。でな、蘭ちゃん。早速で悪いんだが、今から言う店に急いで来てくれねえかな?」
「ええ、いいですけど…」

別に断る理由はないので、わたしはそう返事をしながら壁の時計に目をやる。午後11時前。高校生がひとりで出かけるにしては、結構遅い時間だと思う。こんな時間に警察の人に呼ばれるなんて、鈍いと言われるわたしにだって、そりゃあ何かあったんだろうって薄々分かるよ。でもどうして…あっ!まさかとは思うけど…。

(もしかして、新一がケガでも…)

新一はと言うと、2週間前に発生した連続通り魔事件のお手伝いで、ここしばらくは警視庁に詰めている。家にもロクに帰ってないみたいだし、わたしにも最低限の連絡しか来ないという状況の今日このごろだった。
きっと新一のことだから、いつものように事件解決のために捜査に熱中しているんだろうと思って、邪魔しちゃいけないと、わたしからの連絡も極力しないでおいたんだけど…。

「…何かあったんですか?もしかして、しんい…工藤君の身に何か…」

急に心配が募ってきて詳細を聞き出そうとするわたしに、

「まあ…来て見れば分かるから。ともかく、急いでな!」

と、ハッキリ否定してはくれないで、ただ急かすばかりのトメさんだった。

指定場所への道を急ぎながら新一の無事ばかりを祈ってた、この時のわたしの不安は、結果的に言うと全く的はずれなものだったのだけど。
けれど、たどり着いた先が居酒屋さんで、しかも、わたしの想像を別の意味で遙かに超える事態が待っているなんて−−−酔い潰れてヘベレケになっている警視庁メンバーの中に、しっかり新一の姿が混ざっているなんて、わたしは思いもしていなかった…。


                                    ***


「おー、蘭じゃねーかー!久しぶりだなー!蘭!らあぁぁん!!」

2週間ぶりに会った新一は、わたしの知っているその人じゃなかった。

赤い顔して、ジョッキ片手にひとのこと大声で呼んだりなんかしちゃって、これじゃまるでお父さんじゃないの。
さっきまで新一が無事でいてくれればそれでいいなんて殊勝なことを考えていたのが嘘みたいに、わたしは憮然としてしまった。

「もう!久しぶりだなー、じゃないでしょ!あんたお酒飲んだわね!?」
「まあそう怒んなよ。かわいい顔が台無しだぜ?」

酔ってスイッチが壊れちゃったのか、何の脈絡もなくキザモードに切り替わった彼。
人差し指でプニプニとわたしの頬を突っついたかと思ったら、次の瞬間、チュッと軽くキスされてしまった。

「し、新一!」
「怒んなって。会いたかったぜ?」

ヒュ〜ッ、と周りから歓声が上がる。…って、周りはみんな警視庁の人達じゃないの!
新一の言う『厄介な事件』を解決するにあたって、かなりの協力と後方支援をお願いしていたこの人達には、新一がコナン君だったことも、事件解決後にわたし達が、その…、つ、付き合うようになったことも、全部バレてはいるんだけど。でも、だからって、こんな公衆の面前で…!

「…バ、バカぁ!」

恥ずかしくなったわたしが、新一の肩のあたりを軽くぶって抗議の意を示すと、新一は「ブヘッ」だか「グエッ」だか、変な掛け声(?)を発して、大袈裟に前のめりに倒れ込み、そのままの体勢で動かなくなってしまった。
…どうやら、飲み過ぎて寝入ってしまったようだ。もうダメね、この人…。
深い深い溜め息を吐いて、わたしは周りを見渡す。
正気を保ってない酔っぱらいだらけの中にいて、たったひとりだけ、酔ってはいるけど辛うじて普通の会話が成り立つ最後の砦が残されていた。それが、わたしに電話をくれた鑑識のトメさんだったのだ。
トメさん曰く、新一の活躍もあって例の通り魔がとうとう逮捕されたのは今日の夕方のこと。この2週間の執念がようやく実り、やっと警察の責務が果たせたと喜び合う仲間達は、自然と慰労の場を一席もうけようということになったらしい。もちろん、ずっと捜査に加わっていた新一も誘った上で。
いつまた次の被害者が発生するかというこれまでの緊張状態からすっかり解放されて、みんなのテンションはどんどん上昇してゆき、当然お酒も入り出すと−−−

「彼はもう1課の仲間同然だからなぁ。みんなついつい忘れちまってたんだよ、工藤君がまだ高校生だってことを」

そう言って苦笑いするトメさんに、もはやわたしは何か言い返す気力もなかった。
 
<突然ですが、蘭ちゃんによる再現ドラマでお送りします>

“いやぁ、お疲れ様!君にはいつも世話になっとるな〜、工藤君!いつもながら見事な名推理だったよ!まあ一杯いきなさい!”
“いえいえ、僕はまだ高校生…って、おわっ!零れてますよ、目暮警部!”
“コラッ!もったいないじゃないか、早く飲みなさい!”
“じゃ、じゃあまあ…”グビッ
“あ〜!工藤君がお酒飲んでる!よぉし、飲めるんだったらお姉さんからもお酌してあげるわよ!”
“さ、佐藤刑事…。いや、これはただ零れそうになったから一口飲んだだけで…”
“なによう!?蘭ちゃんの酒じゃないと飲めないってわけぇ?いいわよ、どーせわたしは年上ですよ!…だからなかなかプロポーズしてくれないの…?”(注:後半は高木君に対する独り言です)
“誰もそんなこと言ってねーんだけど…ってか、話変わってるし…。ああもう!分かりましたよ、飲めばいいんでしょう!”グビグビッ
“く〜ど〜お〜く〜ん!”
“うわっ!なんだ、高木刑事か…。いきなり背後から肩掴まないでもらえます?ちょっと飲み過ぎですよ?”
“僕は大丈夫だよ!それより、佐藤さんとふたりで何をコソコソ話してたんだい?”
“別に…。佐藤刑事の酌を受けてただけですよ。だいたいコソコソも何も、周りは酔っぱらいだらけじゃないですか…”
“怪しい!怪しいじゃないか!美和子さん、ちょっと泣きそうになってたみたいだし!”
“だあぁぁぁ!泣きそうになってんのはアンタのせいだろ!…ったく、なんなら教えてやりましょうか?今、佐藤刑事は言ってたのは…”
“わあぁ!ちょっと待った!ストップ!…なんか聞くのが怖くなってきた…。よし、景気づけに一杯飲もう!ホラ、工藤君も!”
“なんで景気づけのためにオレまで飲まなきゃいけないんですか…?”
“あれぇ?工藤君は僕の酌が受けられないの?何かやましいことでもあるのかなぁ”
“ありませんよ、そんなもん!”グビグビグビッ

<再現ドラマ、以下省略>
 
(はぁ…。なんだか目に浮かぶようだわ…)

新一も一応最初は断ってたんだろうけど、いつのまにか名実ともに1課のみなさんの仲間入りしちゃってた、ってわけなんだろうなあ。

「気づいた時には、もう既にあの状態でね。工藤君、ひとりで帰れそうもなかったし、いつもどおり高木に送らせてもよかったんだが…」

トメさんにそう言われて、高木刑事の方へ視線をやると、彼もすっかり出来上がっていて、新一を送って帰るどころか自分の手元さえ覚束無い様子なのに、それでも懲りずにお酒を飲み続けているのが目に入った。

「…まあ、ヤツもあんな調子だし。それにヤツは一度護送中の被疑者に逃げられて減給くらってるから、さすがになあ…」

うーん…それはそうよね。まだ未成年の新一と酒宴で同席してたなんてことが分かったら、今度こそ本当にクビかも…。ううん、高木刑事だけじゃない、いつもお世話になっている目暮警部達にも、きっと大きな迷惑をかけてしまうだろう。
その点、お店が貸切だったのはまだしも不幸中の幸い…なのかなあ。

「ま、そういうわけだから。悪いけどあの名探偵、連れて帰ってくれよ。頼むわ」
「そんな…悪いだなんて。こちらこそ連絡いただけて助かりました、ご迷惑おかけしました」

騒がしい環境の中で、わたしとトメさんは短い挨拶を交わす。
今度ちゃんとお礼しなきゃ…と心に留めながら、わたしは改めて新一のところへ行って、彼を揺すり起こした。

「新一、新一!ホラ帰るわよ、起きて!新一ったら!」
「…あぁ、ちゃんと聞こえてっから、んな大声出すなよ。そんなにオレに構って欲しいのかあ?可愛いなあ、蘭は!」
(なんでそういう方向へ行くのよ…)

まともに話しても埒があかないから、わたしは新一の背に手を回し、無理やり彼の体を立ち上がらせて、

「それじゃあ、お先に失礼します!みなさんお疲れ様でした!!」

と這々の体でお店を後にした。

こうして、新一に肩を貸しながら家路についたわけだけど−−−新一ったら、わざと体重かけてきてるんじゃないかと思うくらいに重くて、しかもお酒臭いし…わたしの顔がたんだん不機嫌になってきてるのが分かったのだろう、

「なぁにそんなにブスッたれてんだよ?久しぶりに会えたってのによー」

新一は呂律の回らない口ぶりで、わたしの機嫌をとろうとしてきた。

「別にブスッたれてなんかないわよ!わたしはただ、情けなくて…」

はぁ…新一ってこんなタイプだったかしら。新一の家には購入なワインやウィスキーがたくさん置いてあるから、なんとなく彼もお酒は強いイメージだったんだけど…。やっぱりわたしにもまだまだ知らない部分があるんだなあ、って。

「もうちょっとイイ顔しろよなー。ホラ、こっち向けって!愛してるぜ、蘭!」

そう言ってお酒臭い息を吐きかけながら、普段ならそんなことしないくせに、何を思ったか無理やりキスしようとしてくる新一。

「も…やぁだ!そんなお酒臭い愛なんか要らないっ!」
「逃げんじゃねーよ、傷つくじゃねーか!」

すれ違った女の人が、わたし達のやりとりを見てクスクス笑ってた。は、恥ずかしい…。

でも次の瞬間、背後から聞こえてきた2人組の女の子の声で、わたしの恥ずかしさなんかすっかり吹き飛んでしまった。

「ねえねえ、あの人なんとなく工藤新一に似てない?」
「えー?あれはただの酔っぱらいでしょー?お酒飲んで彼女に絡んでる、ただのダメ男って感じだよ!」
「それもそーねー!あれが工藤君なわけないか!」
「全くもー。あんたねぇ、いくら工藤新一のファンだからって、なんでもかんでも彼に結びつけて考えるの、やめなよ〜?」

アハハハハ…と笑いながら締め括られるそのやりとりを聞いて、わたしは青くなる。

そう、新一は世間では有名人。もしも誰かに気づかれたら…。

『高校生探偵、飲酒で補導!警察関係者も関与か?』なんて見出しの号外記事が、わたしの頭の中で増刷に増刷を重ねていく。

ヤバイ…。でも、タクシーなんか乗るお金は持ってきてないし、一刻も早く家に帰るには、もうあの手段しかない。

「…新一、行くわよ」

わたしは覚悟を決めて、重たい新一をエイッとおんぶした。

「お願いだから、わたしの背中に吐かないでよね!」

それから全速力で新一の家まで猛ダッシュ!ああ、空手で体鍛えといて本当に良かった!
そんなわたし達は、往来でかなりの注目を浴びていたようだけど、幸いなことに、グニャグニャに酔って、されるがままにわたしにおんぶされている新一が“あの”工藤新一だとは、誰も気づいていないみたいだった。


                                    ***


ようやく新一の家に着いて、わたしは背中の大荷物さんをエントランスに下ろす。
痺れた腕を自分で軽く揉みながら、やっぱり新一は男の子だ…と実感する。そんなにマッチョには見えない彼だけど、それなりに筋肉つけてるから、こんなに重たいんだろう。
そんなことを考えながら、ちょっと目を離している隙に、玄関エントランスでそのまま眠り込もうとしている新一を発見。

「コラーッ!こんなとこで寝ないで、ちゃんと部屋に行く!」

いつもお父さんに言っているのとおんなじように叱り飛ばすと、彼は、近年見たこともないようなうるうるとした瞳で、じっとわたしを見上げた。か、かわいいかも…なんて。

(ダ、ダメよ、蘭!酔っぱらいに優しさは禁物よ!)
こんな場面でまでキュンとしてしまいそうな自分に渇を入れるために、精一杯怒った顔をしてみせるわたし。

「新一!部屋に行ってちゃんと着替えなさいってば!」

迫力は全然ないだろうけど、一応口だけではもう一度叱る。すると、

「ダメだ、もう動けない…蘭が連れてってくれよ…」

と、新一は甘ったれた口調でそう言って、その場に丸くなってしまった。これにはわたしも唖然とする。

(ダ、ダメだわ…。新一、コナン君に退化しちゃってる…)

カッコつけな新一は、わたしの前でも滅多にみっともない姿を見せようとはしないけど、コナン君だった時だけは別だった。正体を気づかれないようにするためか、妙に子どもっぽく甘えてきたりして、わたしも何度も騙されてた。そしてわたしも、それが嬉しかったりしたんだ。
だけど、新一の体が元に戻ってからは、また性格も元のカッコつけな新一に戻ってしまって、これほどあけすけにだらけた姿を見せることはなかったのに。
その後、もう何を言っても、「うん」とか「わーってるよ」としか言わなくなってしまった新一を(一体何が分かってるのかしら)、仕方なくもう一度背負って、わたしは2階にある彼の自室へと連れて行くため、階段を登っていった。


                                    ***


新一の部屋に入るのは、本当に久しぶり。
中学にあがったあたりから、彼はなんとなく部屋に入られるのを嫌がるそぶりを見せ始めたので、わたしも、それを無視してまで無理やり部屋に入ろうとはしなかった。
あのときは、新一に距離を置かれたような気がして少し寂しく感じたものだけど、今にして思えば、彼は彼なりに、別に付き合ってもいない、未だ幼なじみのわたしとの関係を変な形に変化させてしまわないために、ちゃんと配慮してくれていたんだと思う。
わたし達はあの頃から、夫婦だの何だのと変なからかいを受けていたものだけど、周囲の好色な目に晒されても、新一のことが大好きだという幼い頃からの気持ちは何も変わらないまま、いつも一緒にいて堂々としていられたのは新一のおかげ。その後、少しだけ大人になったわたしが、ニューヨーク旅行の狭間で改めて恋に落ちたのも、あの頃の新一の配慮があるおかげなんだって、今は感謝してる。
でもまあ、だからって…その何年か後に、こうして酔っぱらった彼をおぶってベッドに運ぶような関係になってるなんて思いもしなかったけど…。

「お水持ってきてあげるから、着替えてて!」

呆れ半分、それだけ気を許してくれているという嬉しさ半分で、新一をとりあえずベッドに横にして、手近にあったパジャマを放り投げ、お水をとりにキッチンへ下りた。
戻って来てみたら、いきなり新一が下着1枚の姿になっていて、

「蘭、寒い…」

なんて言ってるから、わたしはビックリしてしまった。

「バ、バカ!当たり前じゃない!!誰が全部脱げって言ったのよ!?」

見るのも恥ずかしくて、このまま布団をかけて寝かせてしまおうと思ってベッドに近づくと、さっきまでグニャグニャしてたのが嘘みたいに突然わたしを抱き上げて、

「もー寝る…」

と呟きながら、新一は自分から布団の中になだれ込んだ。

「し、新一!?寝るんならひとりで寝てよぉ!離してー!」

必然的に新一と一緒にベッドに入ってしまう形になったわたしは、唐突な場面展開に驚いて思わず絶叫するけど、

「やだ。一緒に寝よーぜ?なんかさみぃさー…」

とか言いながら、新一は湯たんぽよろしく、思いっきりわたしに抱きついてくる。

「寒いのはパジャマ着てないからでしょ!ちょっ、やだってば、新一!」
「うっせーなー…じゃあオメーも脱げよ…それでちょうどいいだろ…」
舌っ足らずな話し方でワケの分からない平等性を主張し、そのわりには妙に迅速にわたしの服に手を伸ばしてくる新一。

そ、そんなっ、まさか…!そりゃ、いつかは新一とそうなるだろうって思ってたけど、こ、こんな酔っぱらった勢いでなんて…それも、いつもと全然違う酔っぱらいの新一とだなんて…!
やだーーー!ちょっと待ってぇぇぇぇ!!




                                   ***



Side Shinichi



閉じた瞼になんとなく光を感じた。…朝日だろうか。

(あれ?ここはどこだ…?オレは…)

徐々に覚醒する意識の中で目を開けようとしたら、突然こめかみに激痛が走り、反射的に思わず目を閉じてしまった。
オレは正しく、自分が二日酔いであることを悟る。…頭が痛い。
おそるおそる、でも今度はゆっくりと瞼をこじ開けると、なんだか見慣れない、そのわりにはどこかで見たことのあるような構図が現れた。

(いや、待てよ?あれは確か…)

オレは大して苦労もせずに、それが何だったかを思い出すことができた。
目の前にあるのは、オレがコナンだった時に園子からメールで送られてきた蘭の水着写真だ。あれはたったの一晩で灰原に消されちまったけど、ほっそりとした首に、綺麗に浮き出た鎖骨、それから胸の谷間の翳り具合まで、あの時の写メールにそっくりだった。
違うところと言えば、水着ぐらいだな。あの時は淡い花柄の水着だったけど、今回のは白くて、素材も綿とレースみたいだし…っていうか、まさかこれって…。

(ブ、ブラジャー!?)
いきなり目が覚めてしまった、その時−−−

「新一サン、お目覚めですか」

急に頭上から降ってきた、これ以上ない不機嫌な声は、普段なら絶対に聞くはずもない慇懃無礼な言葉遣いだったけど、まごうことなくオレの愛するひとのものだった。
ってことは、今目の前にあったものは、写真じゃなくて…。

「ら、ら、ら…」
日頃から呼び慣れた『蘭』という短い名前も、動揺のあまりまともに呼ぶことが出来ず、咄嗟に顔を上げて確認しようとする前に、すごい勢いで布団を頭からバサッとかけられて、オレの視界は真っ暗になる。
払いのけようとする前に、

「そのまま動かないで!」

と、蘭に焦った声で制止された。

「いいって言う前に出てきたら絶交だからね!」

そう言われてしまっては、真っ暗な布団の中でじっとしているよりほかはない。
外ではゴソゴソとした衣擦れのような音がわずかに聞こえている…いや、服を身につけているのか…?
この時間を利用して、今のこの混乱した状況を精査してみようと思い立った瞬間、オレは自分が服を着ていないことに気づき、自分でも分かるくらいに一気に血の気が引いて真っ青になった。


<これより、新一の妄想再現ドラマです>


“大丈夫?新一、こんなにお酒飲んじゃって…。ホラ、もう着替えて寝た方がいいよ。…え?なあに?自分じゃ着替えられない?しょうがないなー、もう。じゃあわたしが着替えさせてあげるから…”
−−−ガバッ
“やっと捕まえたぜ、蘭!”
“きゃっ!急に抱きついてこないでよ!騙したわねっ!?”
“先に手ェ出して来たのはオメーだろ?よし、今度はオレが脱がしてやるよ!”
“ちょっと…いやぁ!やめて!わたし、そんなつもりは…”
“今更そんなこと言うなよな。オレはそのつもり満々だっつーの。ったく、一体いつまで待たせれば気が済むわけ?”
“お願い、やめてぇ!やだったら…新一ぃ…!”
“泣いたって無駄だぜ?もう我慢の限界!諦めてオレのものになりな!だいたい、なんでそんなに嫌がるんだ?オレはこんなに好きなのに…”
“そんなぁ…。だってわたし、恥ずかしい…”
“恥ずかしくなんかねーって…。ほら、もうこんなになってる…”
“あんっ…新一っ…やぁ…”
“嫌?気持ちよくねーか?”
“あ……いい…”


<再現ドラマ、以下エンドレス>



(オレ、マジか…?こっ、殺される…)

まるで思春期の入り口に度々見ていた、いやらしい夢のダイジェスト版のようだ。けれども、そのステロタイプな妄想が、実は自分の中にある密かな願望を如実に描写する一面であることを、オレは薄々知っている。
嫌がる蘭を騙し討ちにして無理やり手を出し、最初は拒んでいるものの、最終的には自然とオレに身を委ねてくれるというご都合主義なストーリー展開の夢を、あの頃は何度も見ていた。目が覚めると強い罪悪感に苛まれるくせに、眠りにつくとまた同じ夢を見て。
あの頃の蘭は、同い年のオレから見てもまだ子どもで、オレのことは好きなんだろうけど、そういう方面の『好き』ではないことは明らかだったし、仮に恋人と呼べる間柄だったとしても、あのときのオレ達は、夢の中の行動を現実にできるほど大人ではなかった。まさか現実世界でそれを実行しようものなら、最後に身を委ねてくれるどころか修復不能なまでに嫌われ、傷つけ、二度と蘭のそばには近寄れなくなることくらい、オレにはよく分かっていたから、蘭との適切な距離を保つのにひどく苦労した憶えがある。
しばらくして、急激な体の変化に心の成長が追いついてバランスがとれると、そういう夢もあまりみなくなった。

だけど、今はあの頃とは状況が違う。
あれからオレは探偵になり、ならなくてもいいのにコナンになったり、そのために大きな組織犯罪にまで巻き込まれ、なんだかんだの経験を重ねて、多少なりとも大人になった。
蘭もまた、オレの知らないところで大人になっていて、いつしかオレを愛するようになってくれた。
そんな蘭と恋人になり、昔に比べれば夢のような毎日には違いないが、欲深いオレは、その先を望んで焦っていて。
長かった幼なじみ気分をなかなか抜け出せないオレ達は、肝心なところになると必ず照れてしまい、ステップアップもままならない−−−おかけで最近じゃあ、俗に言う欲求不満ってヤツになってしまったらしく、例の夢まで復活しつつあるくらいだ。
昨夜、事件解決の慰労会で、目暮警部達にしたたかに飲まされたのは覚えている(しかし、なんだって現役警察官が高校生に酒飲ませるかね…)。
なんでだか知らないけど、蘭が迎えに来てくれたのも覚えている。

その後の記憶は、あまり鮮明じゃない。ただぼんやりと思い出せるのは、

『やだーーー!ちょっと待ってぇぇぇぇ!!』

という、蘭の叫び声。

(ってことは…やっぱりオレは…)

違っていてほしいけど…そうでないと蘭の胸に顔を埋めて眠っていた説明がつかない。ましてや裸だった理由も…。
恐ろしさのあまり布団の中でブルブル震えていたオレは、

「…新一?もう出てきていいよ?」

と声をかけられても、情けないことに一歩も動けず、だからどうなるってわけでもないのに、息を殺してじっとしていた。
「…新一?…わたし、キッチンに行ってるからね」

返事をしないオレを訝りながらも、蘭はポツンとそう言い残して部屋を出て行った。

(で、オレはこれからどうしたらいいんだ…?)

取り残させたオレは、今後の展開を推理してみる…が、明るい展望は一切見えてこない。
空手でボコボコにされるくらいは別にどうってはことない。この際、殺されても文句は言えないと思う。
だけど、おもむろに別れを切り出されたりしたら…。元々オレが悪いとはいえ、オレはこれからどうやって生きていけばいいんだ?
こんなにも後悔し、時間を元に戻したいと思ったのは、コナンになった時以来だ。
考えても考えても解決策が見つからないのも。
そうしている間にもずいぶんと時間が過ぎていたようで、いつまでも部屋から出てこないオレの様子を見に、蘭がまた部屋まで戻ってきた。

「新一?いつまでそうやってるつもり?もしかして、気持ち悪くて起きれないの?」

ああそうだ。オレ二日酔いだったっけ…すっかり忘れてたぜ。
無言で虚しい物思いに浸っていると、

「もうっ!いいかげんに起きなさーい!」

と、少し怒った声で、蘭が突如、勢いよく布団を剥ぎ取った。

(ゲッ…!ちょっと待てって、まだ心の準備が…!!)
焦ったオレは素直に覚悟を決めて、こうなったら謝るしかないとばかりに手をついて叫ぶ。

「ごめん、蘭!ホントにごめん!!オレが悪かった!!もうこんなことしねーから!許してくれ!」

一度謝罪の言葉を口に出すと、意外とスラスラ謝れるもんだな。

「蘭っ!言い訳にしかならねーけど、オレは本当にオメーのことが大事なんだ!だから…」
「ちょっ…新一、やめてよ急に…!そ、そんなことしなくていいから…わたし、別に怒ってないから!」
「だけど蘭−−−!」

不毛な言い争いに発展しかかったかと思いきや、蘭の顔を見てみると、彼女は真っ赤な顔をしていて、オレの昨日着ていた服をすごい勢いで投げつけてきた。

「バ、バカぁ!いいからとにかく服着てよー!!」

再び部屋を出た蘭が、バタバタと階段を下りていく音を聞きながら、オレは、下着1枚でベッドの上で土下座しているという、客観的にみればかなり情けない自分の姿を再認識する。

(これじゃあ、まるでヘンタイだな…)

しばらく本気でヘコんだ後、のろのろと服を身につけて、仕方がないので蘭のいる1階へ下りることにした。


                                    ***


キッチンへ行ってみると、お粥やりんごという、胃にやさしそうな朝食メニューが並んでいた。
蘭はエプロン姿で皿を並べながら、オレの方を見もせずに俯いたまま、

「気持ち悪くても、朝はちゃんと食べた方がいいよ?」

と、言葉だけは優しいことを言ってくれる。

「あのさ…蘭。オレ…」
「どーせ何も覚えてないんでしょ?」

遮るように早口で言った、蘭の耳は赤かった。

「スミマセン…」

もはや謝る以外の術をもたないオレは、何の解決にもならないことが分かっていても、謝るしかなかった。

「もういいったら。別に怒ってないから…」
「怒ってないっつってもさ…」

そう、さっきから注意深く様子を窺っていると分かる。とても恥ずかしがっているし、オレの顔もまともに見ようとはしてくれないけど、蘭は本当に怒っていないのだ。傷ついている風でもない。
だけど、女にとっては、そういうのって結構大事なことだったりするんじゃねーのか?
オレには不思議で仕方がなかった。もっと怒ったり悲しんだりしていてくれた方が、こっちとしても精神的に楽なくらいだ。

「なんで怒らねーの…?」
蘭が怒ってないと言ってるんだから、このままうやむやにしておけば、とりあえず『蘭の恋人』という立場は安泰なのかもしれないのに、疑問に思ったことを口に出さずにはいられないのはオレのさが。
蘭に関することでは、言いたくても言えない状態が長く続いたから、余計にそうだ。
けれど、オレの決死の質問に対する蘭の返事ときたら、

「どーせ酔っぱらいに何言っても無駄だし?」

という、斜に構えたものだった。

「…んな理由で納得できるのかよ、オメーは」
「だって、そうやって納得するほかないじゃない。他に何を思えって…」
「蘭!」

オレは思わず、バシンとテーブルに強く手をついた。
ハッとした顔で蘭がこっちを見る。今日はじめて目が合った。

「蘭。こーゆーのってスゲー大事なことなんじゃねーのか?なかったことにするわけにはいかねーんだぞ?なんで正直に言ってくれねーんだ、『新一、最低。幻滅した』って。変に許したふりをされるより、その方がオレはよっぽど嬉しい」
「……」

黙り込む蘭は、なんだかすごく驚いたような顔で目を見開いているが、何を考えているかまでは分からない。日頃コイツにどういう目で見られてるんだろうな、オレは…。
だけど今は謝るしかない。

「蘭。昨日は本当に悪かったよ…。謝って済む問題じゃないけど…でもオレは、オメーを失うことなんて考えられねーんだ。お願いだから別れるとか言わないでくれよな…」
「そんなこと…言うわけないじゃない…」

蘭は恥ずかしそうな顔をして、今日はじめて小さく微笑んだ。そのあまりにもかわいすぎる微笑みに、オレはクラッとする、が…。

「最初はすごくビックリしたし、ちょっと恥ずかしかったけど…わたし、嬉しかったんだよ?久しぶりにコナン君に会えたみたいな気がして…」
「ん?コナン?」

どこかズレた感のある蘭のコメントに、オレは引っ掛かる。

「だって、あんなに甘えん坊な新一見るの、ホントに久しぶりだったもん。幻滅なんかしないよ?カッコイイ新一もいいけど、ああいう新一も、す、す、好きだし…」
「は…?」

どうも自分の推理した事態とは全く違う方向に話が進んでいるようなので、オレは猛スピードで事件(?)を洗い直し…そこでハタと、唯一残されたひとつの選択肢に思い当たった。

「…あのさー、蘭?」
「なあに?」
「もしかして昨日、オレ達−−−ヤってないのか…?」

この推理が正しかったらどんなに助かるかという気持ちが強すぎて、オレは蘭の言うところの『デリカシー』にまで配慮する余裕がなかったのだ。
あんまりと言えばあまりにも直接的過ぎるその一言は、ついさっきまで、かわいくオレのことを「好き」だなんて言ってくれていた蘭を、一瞬で怒らせてしまったらしい。
彼女はユデダコのように顔を真っ赤にして、ぷるぷる震えていたかと思うと、

「サ、サイテーッ!!」

と叫び、空手技を炸裂させ。
数十分前に『空手でボコボコにさせても構わない』と思っていたオレの願いは、図らずも叶えられることになったのだった。


                                    ***


結局のところオレは、服を脱がすだけ脱がして散々蘭に甘えた挙げ句、すやすやと子どものように眠ってしまったらしいのだ。そういえば全裸じゃなかったもんな…。

「…ったく。脅かすなよ、バーロ」

首の皮一枚で命が繋がったオレは、一安心した途端、これまでの反動でつい偉そうな態度をとってしまう。我ながらガキだな、ホント…。

「脅かしたのは新一でしょ?全くもう…一体何を想像してたのよ、えっち!」

蘭はまだ怒っている。唐突に怪しい行動をとった上、オレは蘭が身動きできないほどきつく抱きしめていたらしく、全然眠れなかったと言っていた。道理で朝、不機嫌だったわけだ。

「とにかく、これから新一はお酒飲むの禁止だからね!あんなに酒癖悪いとは思ってなかった!」
「うーん、それがおかしいんだよなぁ…。この2週間ほとんど徹夜に近かったし、やっぱ疲れてたのかな?」
「もう!そーゆー問題じゃないでしょ?あんたまだ未成年なんだから、バレたら探偵できなくなっちゃうよ?」

自分が大変なめに遭ったから、じゃなくて、オレが探偵をできなくなることを心配して禁酒を言い渡す蘭。そう、コイツはそういうヤツなんだ。

「そうだな。20歳になるまではやめとくよ。…蘭に嫌われたくないし」

オレは素直にその提案を受け入れた。
酔った勢いで、記憶もないまま蘭を傷つけるなんて最低だもんな。
それに、蘭と恋人同士になって身も心も結ばれるっていうのは、オレにとって長年の夢だったから。
今ようやく、その夢の入り口に立った段階だってのに、そう一足飛びに夢が叶うわけがない。初めてホームズに憧れた時から今まで、探偵になるためにいろいろな努力と経験が必要だったように。
どさくさ紛れにそんな関係になるんじゃ、オレが一番納得できねーんだ。そんなことなら欲求不満の方が何倍もマシだ。
だけど、蘭もオレとの夜(意味はだいぶ違うけど)を真っ平御免だと思っているわけではなさそうだし、それは案外近い未来だと期待してもいいのかもしれない。夜見る夢は同じでも、昔と違って、蘭はオレを受け入れてくれているのだから。

「蘭。これからはいつでも好きな時にオレの部屋に入ってもいいぜ?」
「…『入ってもいい』?なーによ、偉そうに!前はあんなに嫌がってたくせにさー」
「あ…いや、入って下さい。どうぞご遠慮なく…」

ともかく小さな一歩から、だな。
それもふたりのプレリュード。



(終)




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