冬の一日



by槇野知宏様



「・・・さん、高木さん。高木美和子さんはいらっしゃいませんか?」

 自分が呼ばれている事に気づいて、暇つぶしに読んでいたプロレス雑誌から顔を上げると、女性看護士が診察室から顔を出していた。

「あっ、はい」
「お待たせしました。二番診察室へお入り下さい」

 読みかけの雑誌をバッグにしまい、看護士さんに促されるまま診察室へ入る。
中に入ると胸にネームプレートをつけた中年の女性が椅子に座っており、彼女の脇にある机の上には私のカルテが置いてあった。
互いに挨拶を交わして、先生の勧めるまま椅子に腰掛ける。

『見た目は四〇代後半もしくは五〇代前半―――たぶん目暮警部の奥様と同年齢ってとこね』
 
 そんな事を考えていたら、先生が言葉を発する。

「高木さん、どうかなさいました?」
「えっ?な、何でもありません。チョット考え事を」

 何でこう言う時も仕事モードになるんだろ?刑事という職業の性(さが)なのかしら?
そんな事より先生の問診をマジメに聞かなくちゃいけない、と思った私は椅子に座り直して先生を直視する。



 何故、私が病院にいるかというと、ここ数日、微熱や身体の疲労感といった状態が続いていたからである。
当初は風邪だろうと思って、風邪薬だけ飲んで仕事に行き、多忙や自分の考えもあって病院にも行こうとしなかった。

『都民の平和と安全を守る警察官が風邪ごときで休むワケにはいかないの』

 そういう理由で体調不良を家族に隠してたんだけど、渉と母さんにバレちゃったのよねえ。

「自分の身体を大事にしてこそ、都民の平和と安全が守れるんですっ」
「いい歳して渉さんに迷惑を掛けて、恥ずかしくないのっ」

 朝からいろいろあって、私は渉に病院に半ば強制的に連れて行かれたのである。
出かける前に口論をして車中では黙っていた渉だったけど、病院に着いて私が車から降りる時にこんな会話を交わした。

「目暮警部にはオレが言っておきます。診察が終わったら迎えに行きますから電話して下さい」

 何か言おうとした私を制して、彼はそのまま職場へ向かった・・・そして現在に至っている。



 雑談を交えながら先生の問診を受けていた時、彼女の口からある言葉が飛び出す。

「高木さん。つかぬ事をお聞きしますけど、月のものは正常ですか?」

 はい?月のもの?えーと、アレの事よね?私って遅れる質(たち)なのよねえ。今月は二週間遅れてるし。
あれ?今までは四、五日遅れがザラだったのに今月はまだ来てない。その件を先生に言うと、こういう答えが返ってきた。

「妊娠している可能性がありますから、検査をしてみましょう」

 妊娠?検査?単なる風邪が何で妊娠に繋がるの?
先生の言った事を完全に理解するまで私は三〇分を要したのだった―――検査終了後、診察室で、私と先生は対峙(たいじ)していた。

「高木美和子さん。えーと・・・」

 先生がカルテを見ながら何かを言おうとするのを私は緊張した面もちで聞いていた。

「おめでとうございます、妊娠二ヶ月ですよ。母子ともに健康ですから、この調子で行くと予定日は来年の九月頃ですね」

 に、妊娠?えーと、それって子供が出来たって事よね?性別はどっちなのかしら?
この直後、先生に赤ちゃんの性別を聞いてしまった私・・・考えてみれば、妊娠二ヶ月で性別が分かるハズがないんだけど、あの時は妊娠って聞いて動転してたのよね。
それから先生の話を聞いていくうちに“自分が母親になった”という認識が、心の奥底から沸き上がってきた事を自覚した。支払いを終えて病院を出ると、冬の季節には不釣り合いなほどの温かい日差しが私に降り注いでいる。
妊娠が分かって気分がスッキリしたのもあるけど、外の気温が冬には程遠いほど温かかったので鼻歌を歌いながら帰路に就く。そこへ後ろから車のクラクションを鳴らされたので振り返ると、運転席から片手を上げている渉の姿があった。

「迎えに来てくれたんだ。ごめんね、連絡しないで」
「そろそろ診察が終わったかな、と思って来たんですよ・・・で、どうでした?」
「うん。妊娠二ヶ月だって」

 ホントは焦らそうかなって思ったんだけど、渉って心配性なところがあるから、ここはど真ん中ストレート勝負しかない。
そしたら彼の反応が見物だったわ。最初は驚愕した顔になって嬉しそうな顔になったかと思ったら急に涙ぐんじゃって。

「ほ、ホントですか?工藤くんの言ったとおりだ」
「何それ?工藤くんって私が妊娠してるのを知ってんの?」

 つい渉のネクタイを思いっきり引っ張って首締めちゃった。あ、思いっきり咳き込んでるし。

「せ、説明しますから、ネクタイから手を離して下さいっ・・・ゲホゲホ」

 慌てて手を離すと、渉は息を整えてから説明を始めた。



 (渉の回想)

「佐藤刑事が風邪?」
(作者的蛇足:佐藤さんは高木くんと結婚して名字が変わりましたが、職場では旧姓で通してます)
「うん。ここ一週間ほど体調を崩しているんだ」

 本庁庁舎内にある自動販売機コーナーで、紙コップ入りのコーヒー片手に工藤くんと談笑する。
オレが美和子さんと結婚してから半年が経過したのだが、未だに本庁及び近隣警察署管内の男性警察官から羨望と嫉妬のマナザシを受ける身分だ。
まあ“取調室へ直行・取り調べ”という有り難くもない行事が無くなっただけでもマシかも知れない。

「症状はどうなんですか?」
「美和子さんに聞いたら、微熱そして全身がだるいって言うんだ」

 工藤くんに彼女の症状を話していた時、彼がこんな事を言った。

「高木刑事、それホントに風邪ですか?」
「どういう意味だい、工藤くん?」
「佐藤刑事の症状を聞いていたら、蘭と似てるんですよ」

 蘭さんと同じ症状?はて、蘭さんが風邪をひいたって聞いてないぞ。
確か蘭さん、妊娠六ヶ月目に入ったって工藤くんが嬉しそうに言ってたし・・・まさか美和子さんが妊娠してるって工藤くんは言いたいのかな?

「工藤くんは美和子さんが妊娠してると思ってるかい?」
「妊娠の初期症状は風邪と似てますから誤認しやすいんですよ」

 工藤くんの話によると、蘭さんの場合も最初は風邪かと思ったらしい。
でも月のものが来ないという話を奥さんから聞いて病院へ行ったら妊娠していたそうだ。

「ま、今年は妊娠と出産って夫婦が多いとオレは思ってるんです」

 そうだよなあ・・・工藤くん夫婦が六ヶ月。服部くん夫婦と黒羽くん夫婦が五ヶ月、鈴木くん夫婦と白馬くん夫婦が三ヶ月・・・って、白馬くん夫婦は“結婚が決まって油断したら、出来ちゃった”だったっけな。

「何となく思ったんですけど、もし高木刑事と佐藤刑事が“出来婚”だったら、どうなってたんでしょうね?」
「結婚した今でも睨まれてるからね。もし“出来婚”だったら取調室をスルーして留置所行きになってたんじゃないかな。それもスマキにされてね」
「無事、ご懐妊してる事を祈ってますよ。高木刑事」
「それは神様が決める事だよ。工藤くん」

 互いの顔を見て笑うと、オレと工藤くんはは冷え切ったコーヒーを喉の奥に流し込んだ。
その後、オレは目暮警部に断って美和子さんの迎えに向かう。彼女からの連絡は無いが“そろそろ診察も終わる頃かな”という自分の直感に従っただけだ。

 (以上、渉の回想終了)



「そうよね。蘭さんも妊娠してたのよねえ」
「あ、工藤くんから伝言ですけど、分からない事があったら蘭さんに聞いてくれ、だそうです」

 そう言う渉だが、工藤くんには“妊娠中の妻への接し方”を学ぶんだそうだ。
彼って私に対して優しいから、子供に対しても優しくなるんだろうなあ。ふと運転席のダンナ様を見れば、子供はどっちかな、出来れば女の子が良いなあ、と呟いている。

『それは神様の領分よ。最も男の子、女の子のどちらかが生まれても可愛がるんだろうけどね』

 苦笑しながらカーステレオのボリュームを上げると、流れてきたのはプロレスラーの入場テーマ。渉、自分用のマイCDを作ってCDチェンジャーに入れてるんだけど、殆どがプロレスラーの入場テーマなのよねえ。
さっき病院で先生に聞いたんだけどクラシックなどの静かな音楽が胎教に良いらしい。入場テーマってのは選手の闘争心などを高めるために結構激しい曲が多いから胎教に良いワケない。ま、渉と私の子供だから問題ないかな。

「どうしたんですか?」
「えっ?」

 声をかけられて運転席の方を見ると、渉は正面を向いたまま信号待ち。音楽に合わせてハンドルを手で叩いてるのは当然と言うべきか。

「さっきから何事かを呟いてましたけど?胎教がどうだのと・・・」
「大した事じゃないわよ。チョット考え事をしてただけ。お母さんに電話するわ」

 携帯電話のボタンをプッシュして呼び出し音が三回コールした時、お母さんが応対に出た。

「はい。佐藤でございます」
「あ、お母さん?美和子だけど」
「美和子?あなた、渉さんに迎えに来てもらうんじゃなかった?」
「今、病院の帰りで渉の車から掛けてるの」

 それから妊娠している事をお母さんに言った途端、電話の向こう側の声が途切れ、何度話しかけても応答がなかった。
十中八九、仏間に立て篭もってお父さんの遺影の前でハンカチ片手に泣いてるわね。

「お義母さんは何と仰いました?」
「妊娠したって言ったら、仏間に籠城したみたい」

 状況を想像して僅かに口元を上げた渉だったけど、何事かを思い出して私に尋ねた。

「お義母さんに報告したという事は、目暮警部にも妊娠の事をご報告するんですよね?」
「あら、よく分かってるじゃない」

 当然です、と呟いた彼はアクセルをゆっくりと踏んだ。
この後、本庁で私が妊娠している旨を目暮警部に報告して課内で披露があった。
その時に狼の遠吠えみたいな鳴き声が一課全体を覆い、渉に注がれる視線は嫉妬と凶悪犯のそれに近いものだったのは言うまでもない。



                                                    
 終わり




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