銀河探偵伝説



By 槇野知宏様



(24)



 それは帝国暦四八九(宇宙暦七九八)年七月七日に起こった。
何者かが“新無憂宮(ノイエ・サンスーシー)”に侵入し、皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世を連れ去ったのである。
宮廷警護責任者であるモルト中将から知らせを受けた憲兵総監ケスラー大将は、宇宙港の閉鎖、市街から郊外へ通じる幹線道路の検問、憲兵隊の出動などを次々と指示し、ラインハルトに“幼帝誘拐”の報を入れた。
ケスラーからの報告を受けたラインハルトは、自分の前に立つオーベルシュタイン上級大将と会話を交わしている。他者が聞けば息を呑むであろう重要な会話は、寧(むし)ろ淡々と交わされた。

「卿も聞いたと思うが、皇帝が誘拐された。候補者について何らかの心当たりがあるだろう」
「恐れ入ります。先々帝ルードヴィヒ三世の第三皇女の孫がおります。父親はペグニッツ子爵ですが、昨年の内乱には参加しておりません。象牙細工のコレクション以外に何の興味も無い男です。母親はボーデンドルフ伯爵夫人の姪にあたります。女児ですが、この際、女帝でも宜しいでしょう」
「年齢は?」
「生後五ヶ月です」

 オーベルシュタインの表情にも声にも、ユーモア感覚を刺激するようなものは欠けていた。無論、ラインハルトも彼にそれを期待していない。
七歳の子供が玉座から逃げ出し、生後五ヶ月の赤ん坊がその後を継ぐ。恐らく片言さえも喋れないであろう全宇宙の支配者、全人類の統治者、そして宇宙を律する全ての法則の擁護者が誕生するのだ。
権力と権威の愚劣さを象徴するのに、これほど相応しい活人画はないであろう。襁褓(おしめ)も取れぬ乳児に、尚書だの提督だのと偉そうな肩書きを持つ大人たちが跪(ひざまず)き、拝礼し、その泣き声を勅語として承らねばならないのだ。

「他の候補者を探す事に致しますか?」

 オーベルシュタインの声は質問ではなく、決断を促すものだった。ラインハルトは口元を僅かにつり上げた。

「良かろう。その赤ん坊に玉座をくれてやる。子供の玩具としては面白味に欠けるが、そういう玩具を持っている赤ん坊が宇宙に一人くらいいても良い。二人は多過ぎるがな」
「畏まりました。ところでペグニッツ子爵ですが、象牙細工の代金が一部未払いのままだそうで、商人から民事訴訟を起こされています。どう対処いたしましょう」
「原告の要求額は?」
「七万五〇〇〇帝国マルクです」
「和解させろ。新帝の父親が借金未払いで牢獄入りでは、さまにならな過ぎる。宮内省の予備費から金銭(かね)を出してやるが良い」
「御意」

 オーベルシュタインが一礼して執務室から退出ると、ラインハルトは元帥府へ向かった。


 同日午前三時三〇分。
ラインハルトが元帥府に到着するのと前後して、ヒルダが駆けつけた。首席秘書官である彼女は、公人としてのラインハルトの身辺にいなければならず、当直士官からの連絡を常に受けるようにしており、同様に首席副官シュトライト少将、次席副官リュッケ大尉、親衛隊長キスリング大佐等の側近も間をおかず到着した。
親衛隊を指揮するギュンター・キスリング大佐は二八歳の青年士官で、硬い光沢のある銅線のような頭髪と、黄玉(トパーズ)のような瞳を持っていた。その瞳と軍靴を履いても何故か殆ど音をたてない独特の歩き方のために、彼に好意を抱く者は“豹”に例え、悪意を持つ者は“猫”呼ばわりするのだった。
無論、ラインハルトは彼の容貌に興味を抱いて身辺警護の任を与えたワケではなく、共に水準から抜きん出ている勇敢さと沈着さの調和を評価したのである。主に地上戦や要塞戦で武勲を立てている点も考慮に入っていたであろう。  
やがてケスラーがモルトを伴ってラインハルトの前にあらわれた。ラインハルトの側近たちの見守る中で、二人は主君の前に跪(ひざまず)き、不逞な侵入者に皇帝を誘拐された事を謝した。

「ケスラー、私に罪を詫びるより、卿の責務を果たす事だ。陛下を帝都よりお出しするな」

 そう主君に言われて、ケスラーは憲兵隊を陣頭指揮すつために退出し、後にはモルトが残った。彼は跪いたまま、罪の重さに頭をたれている。
彼の後頭部を見下ろして、ラインハルトの蒼氷色(アイスブルー)の瞳は無表情だった。その理由は、人々の大部分が予想している事と全く異なっていた。彼は怒るべき資格を持ってはいなかったのである。
その事を彼自身は知っていたが、他人には知られてはならなかった。弦を離れた矢は、飛び続けるしかないのである。無表情のまま、彼は言った。

「モルト中将、明日の―――いや、今日の正午に卿への処分を通知させる。それまで執務室で謹慎し、身辺を整理しておけ。思い残す事がないように・・・」

 モルトは一段と深く頭をたれた。若い主君の暗示を正確に理解した彼は、寧(むし)ろ感謝の色さえ浮かべて静かに退出した。それを見送ったラインハルトは、頬に強い視線を感じた。
彼の秘書官、ヒルダことヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ伯爵令嬢が、恐れを知らないブルーグリーンの瞳を若い帝国宰相に向けていたのだ。他の者を下げて、ラインハルトは美しい秘書官に声をかけた。

「フロイライン、何か私に言いたい事があるようだが?」
「ローエングラム公は、わざと皇帝を誘拐させた、と、私は思います。違いますか?」

 問う側には嘘を許容する気は無く、答える側には嘘を吐く意思はなかった。アンネローゼ、キルヒアイスはともかく、何故かヒルダに嘘が吐けないラインハルトである。

「違わない」

 この時、ヒルダはラインハルトが意図するところを的確に言い当てた。

「それでは、自由惑星同盟に対して、大規模な軍事行動を起こされるつもりですのね」
「あなたの言う通りだ。しかし、それは既に定まっていた事で、時期が多少早まる、と、いうだけの事でしかない。しかも立派な大義名分が出来る事になる」
「モルト中将を犠牲になさるのも、その壮大な戦略の一環ですの?」
「遺族に不自由はさせない」

 それが免罪符になりえない事を承知で、突き放すようにラインハルトは言って会話を打ち切った。


 次席副官のリュッケ大尉が、モルト中将自殺の報をもたらしたのは一時間後の事である。
死者を悼むかのように目を閉じたラインハルトは、中将に対して同情を禁じ得ないらしいリュッケに事後処理を命じ、モルトの名誉と遺族を保護するよう、特に言い添えた。
これは甚(はなは)だしい偽善ではないか、と、ラインハルトは思わないではなかった。だが、やらないよりやった方が良いはずだ。罰せられて然(しか)るべき行為なら、何れ報いがあるだろう・・・誰がそれをなすかは知らないが。更に彼はヒルダを呼んで命じた。

「上級大将と大将の階級を持つ提督たちを集めてくれ」
「畏まりました。ローエングラム公」

 ヒルダの短い微笑を、和解のサインと見て良いか否か、ラインハルトには分からなかった。


 この当時、銀河帝国の上級大将は、ジークフリード・キルヒアイス、パウル・フォン・オーベルシュタイン、ウォルフガング・ミッターマイヤー、オスカー・フォン・ロイエンタールの四名であり、大将はアウグスト・ザムエル・ワーレン、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト、カール・グスタフ・ケンプ、コルネリアス・ルッツ、ナイトハルト・ミュラー、ウルリッヒ・ケスラー、アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト、エルネスト・メックリンガー、カール・ロベルト・シュタインメッツ、ヘルムート・レンネンカンプ、エルンスト・フォンアイゼナッハの一一名である。
このうち、キルヒアイスとミュラーは傷付いた身を、まだベッドに横たえており、ケスラーは極秘裡に皇帝誘拐の捜査を指揮していていたので、命令に応じて参集したのは残りの一二名であった。払暁(ふつぎょう)の見えざる手が闇を払う直前の時間であり、全員、心地良い夢を中断させられたに違いないが、睡魔の誘惑を外見に引き摺った者は一人もいないのが、さすが、と、言うべきであったろう。会議室に集まった提督たちの顔を、蒼氷色の瞳が眺め渡した。

「新無憂宮で今夜、チョットした事件があった。七歳の男の子が何者かに誘拐されたのだ」

 ラインハルトは控えめ過ぎる発言をしたのだが、会議室内は風もないのに空気が揺れた。歴戦の勇将たちが、一斉に息を呑み、吐き出したからである。
攫(さら)われた男の子が何者か特定出来ないような者はラインハルト軍の幹部に名を連ねる事を許されていないのだった。驚いていないのはオーベルシュタインだけであったろうが、他の提督たちは彼の落ち着きを、何時もの無情なる性(さが)の故ゆえ、と、思った事であろう。

「ケスラーに捜索させているが、未だ犯人は捕らわれてはいない。卿等の意見を聞いて、今後の事態の発展に対応したい。遠慮無く発言せよ」
「犯人は門閥貴族の残党、目的は残党を糾合して彼等の勢力の復活を図る事。これは自明でしょう」

 ミッターマイヤーが僚友たちを見回すと、賛同の声が各処から起こった。

「それにしても皇帝陛下を誘拐したてまつるとは、門閥貴族の組織力、行動力も侮れませんな。首謀者は誰でしょうか?」

 ワーレンが言うと、ロイエンタールが皮肉っぽく金銀妖瞳(ヘテロクロミア)を光らせた。

「何れ判明する事だ。犯人が捕まれば、ケスラーが自白させる。捕まなければ、ヤツ等自身が得々として自分たちの功を誇るだろう。皇帝が自分たちの手中にある事を公(おおやけ)にしなければ、そもそも誘拐の目的が達せられないのだからな」
「卿の言う通りだと思うが、そうなれば自(おの)ずとこちらの報復を促す事になるだろう。それをヤツ等は覚悟しているのだろうか?」

 ルッツが疑問を呈すると、ビッテンフェルトが応じた。

「覚悟の上でやったのだろうさ。あるいは皇帝を盾にして、我々の攻撃を躱(かわ)すつもりかも知れん。無益な事だがな」
「そうだな。少なくとも、当面は我々の追及を躱す成算があるのだろう」
「その自信や根拠は何だ?帝国内にいる限り、我等の探索や攻撃をそう何時までも回避出来るワケがないではないか」
「あるいは辺境に人知れず根拠地でも築いているのだろうか?」
「そうなると、第二の自由惑星同盟、と、いう事になるが・・・」

 この時、一段と冷静な声が割って入った。

「第二の、と、言わず、自由惑星同盟の存在を考慮に入れるべきであろう」

 声の主はパウル・フォン・オーベルシュタインであった。

「門閥貴族の残党共と共和主義者では水と油に見えるが、ローエングラム公が覇権を確立するのを妨害する、と、いうただそれだけの目的のために、野合しないとは言い切れまい。犯人共が自由惑星同盟へ逃げ込めば、確かにそう簡単に攻撃は出来ぬ」

 提督たちの視線が宙の一点に集中し、鋭い緊張を帯びて拡散した。
ローエングラム体制が腹背両面に敵を抱えている事は周知の事実であった。門閥貴族勢力の残党、そして自由惑星同盟。その両者が手を結んだというのは、彼等の意表を衝く事であった。反動的な守旧勢力と民主共和勢力との間に、本来あり得ざる盟約が誕生したというのであろうか?

「ロイエンタールの言ったように、遠からず陛下のご所在は明らかになろう。今、性急に結論を出すのは避けたいが、自由惑星同盟、と、称する叛徒共が、この不逞な企てに荷担しているとすれば、ヤツ等には必ず負債を支払わせる。ヤツ等は、一時の欲に駆られて大局を誤った、と、後悔に打ち拉(ひし)がれる事になるだろう」

 鋭気に富んだラインハルトの言葉は、若い主君を見守る提督たちの等しく感応するところになり、彼等は改めて姿勢を正した。

「皇帝ご不在の間は、ご病気、と、いう事で取り繕う。また国璽は宰相府に保管してある故、差し当たって国政に支障はない。卿等には私から二点のみ要求する。一つは、皇帝誘拐の件を口外せぬ事、今一つは、何時でも麾下の艦隊を出撃可能な状態にし、後日の急に備える事、この二点をだ。他の事は必要があり次第、追って指示する。夜も明けぬうちからご苦労だった。解散してよろしい」

 提督たちは起立して、退出するラインハルトを見送り、その後、一時帰宅して平常勤務に戻るため解散した。帰りかけたロイエンタールの肩をミッターマイヤーが叩いた。

「どうだ、オレの家で朝食を摂って行かないか?」

 簡潔にそう勧めた。妻のエヴァンゼリンは料理の名人だ、と、何時も言ってる事なので、今更口にはしない“疾風ウォルフ(ウォルフ・デア・シュトルム)”であった。

「そうだな。では、あつかましいが、そうさせてもらおう」
「素直なのは良い事だ」
「・・・たまにはな」

 二人は肩を並べて歩き、幾度か兵士たちの敬礼に応じた。

「それにしても、ローエングラム公がこの一大事に動じていらっしゃらないのはさすがだな」

 ミッターマイヤーが感嘆を込めた口調で言った。あいづちを打ちはしたが、ロイエンタールの思考回路の弁に引っ掛かるものがあった。
皇帝を権臣の手から救出する、と、いう行為は、幻想的ロマンチシズムの極致ではあるが、裏面に何らの打算もなく、それが実行されたとは信じられない。この誘拐劇によって、利益を得る人間が必ず存在するはずである。
 実は皇帝誘拐によって最大の利益を得るのはローエングラム公ではないか。七歳の幼帝を殺せば残忍さを非難されるであろうが、それが誘拐されたとあれば、ローエングラム公は手を汚さず障害物を排除出来た事になる。
そして自由惑星同盟がこの件に絡んでいるとすれば、それを口実にローエングラム公はこれまでと比較にならないほど大規模で徹底的な対同盟軍攻勢に出るのではないか。
この奇妙な誘拐劇は、人類社会全体を巻き込む激震―――政治的・軍事的変動の前奏曲(プレリュード)に過ぎないのではないだろうか。金銀妖瞳の提督は、体内に血のざわめきを聞いた。

「遠からず、空前の出兵があるかも知れんな」

 ミッターマイヤーの呟きだった。
彼がロイエンタールと同じ思考経路によってその結論に達したのか、それとも単なる直感によるのか、ロイエンタールには咄嗟(とっさ)に判断がつかなかった。だが、何れにせよ、戦乱の時代に実力で高い地位を得た男たちの嗅覚は、人に優れて鋭敏なのである。
それにしても、と、帝国軍の双璧と謳(うた)われる二人の青年提督は、この時、同じ感想を抱いた。同盟領に侵攻するにはイゼルローン回廊を突破せねばならず、必然的にイゼルローン要塞にいる工藤新一を正面から相手取る事になるだろう。
この五月に彼等の僚友カール・グスタフ・ケンプとナイトハルト・ミュラーを敗走させた男だ。彼を倒さねば同盟領への道は開けないが、正面から戦って勝利を得る事は容易ではない。ロイエンタールもミッターマイヤーも偉大な敵将を尊敬する道をわきまえていた。その一方では、いかに明敏な彼等でも、ラインハルトが今までとは異なったルートで同盟領への侵攻作戦を考えている事までは、この段階では洞察できなかったのである。



 銀河帝国の帝都オーディンにおいて皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世が誘拐された頃、自由惑星同盟軍の最前線基地イゼルローン要塞では、駐留機動艦隊副司令官の佐藤美和子少将と第一分艦隊司令の高木渉少将の結婚式が行われ、一時的にはあるが、遅ればせの春眠を貪(むさぼっ)っていた。
しかし、その春眠はすぐに終わりを告げ、要塞司令官兼駐留機動艦隊司令官の工藤新一大将や客員提督(ゲスト・アドミラル)ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ中将を統制官とした実働訓練が、イゼルローン回廊内及び要塞の戦略戦略シミュレーション室で盛んに行われていた。
これは対帝国軍の侵攻に対する訓練の一環であると同時に、着任して間もない将兵及び大小艦艇長に対する訓練でもあったので、将兵全員が目の色を変えて訓練に没頭した。同盟軍きっての戦術家である新一と、帝国軍内で堅実な戦術家であったメルカッツの指揮統率ぶりは見事なものであったので、士気練度は急速に高まっていった。
 演習から離れるとデスクワークが待っている。書類は若手(と、いっても新一たちと同年齢もしくは僅かに年長者)の参謀たちが起案して提出するのだが、チェックが厳し過ぎて、何度も突き返され、修正を求められるのである。
後方支援関係は全て志保の担当だが、そのチェックは厳しい、と、もっぱらの評判である。それ以上に厳しいのが司令部で、三つの関門―――即ち、紅子、探、美和子―――を通過して、漸く新一の元に辿り着くだが、書類の不備があると容赦なく突き返されるのである。
文書を起案・作成する側からすれば胃の痛い話であったが、参謀としてのスキルが上がるため、勉強になる、と、なかなかに好評である。もっとも、その大半が神経性胃炎と望まない友好関係を築き上げていたりするのだが。
 この頃、新一は、来るべき帝国軍の攻勢に関して思考に耽っている事が多かった。国力及び戦力差において同盟は帝国より劣っていた。特にアムリッツァ会戦の惨敗と救国軍事会議によるクーデター以降、その差は広がる一方だった。
特にイゼルローン要塞は対帝国の最前線基地という事もあって、帝国軍の攻撃を受け止める重要な役割を担っていた。当然、帝国軍は全兵力を挙げてイゼルローンに殺到するであろうが、それは要塞が帝国の所有物であった頃、大軍を六度に渡って差し向けながら惨敗を喫した同盟軍と同じ事になるだろう。
戦争の天才であるラインハルト・フォン・ローエングラムはそのような愚に走る事はしない。イゼルローンに耳目を集中させておいて、その隙に別ルートから同盟領へ雪崩れ込むのではないか、と―――そうなれば、別ルート=フェザーン回廊、と、いう事になるのではないか?
フェザーン回廊は、商業国家フェザーンの中立的立場から軍用艦艇による通行を禁じているが、それはフェザーンの人間が決めた事であって、宇宙開闢(かいびゃく)以来の法則ではない。だが、敵の意表を衝く、と、いう点においては、他の方策より勝るのだ。


 その頃、帝都オーディンから救い出された(あくまでも旧門閥貴族の亡命貴族たちの表現であって、実際は誘拐である)幼帝エルウィン・ヨーゼフ二世は、フェザーンを経て、自由惑星同盟領へ入っていた。
後世において「宇宙暦七九八年の捻れた協定」と称されるものが公然と存在を露わにしたのは、八月二〇日の事である―――それはローエングラム独裁体制に対する、銀河帝国旧体制派と自由惑星同盟との協力関係であった。両者の話し合いで決められたのは以下の通りである。

・自由惑星同盟は銀河帝国皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世の亡命を認め、旧体制派の亡命貴族たちの中心的役割を担っているヨッフェン・フォン・レムシャイド伯爵を首班とした亡命政権の樹立をも公認する。
・亡命政権は「銀河帝国正統政府」と、称し、ローエングラム体制を打倒したあかつきには、両国の間に対等な外交関係の成立、相互不可侵条約及び通商条約の締結し、帝国内部においては憲法の制定と議会の開設によって政治的社会的な民主化を促進する。
・自由惑星同盟は、銀河帝国正統政府が本来所有する諸権利を回復するため努力するに際し、最大限の協力を行い、恒久的な平和的秩序の建設に向かって共に進むものとする。

 同盟最高評議会議長トリューニヒト、銀河正統政府首相レムシャイド伯との間で、これらの事項が合意に達したのは八月に入ってからであり、想像を絶する両者の公約を公然化するにあたっては細心の注意を必要とした。そもそも、合意に至るまでの道が決して平坦とは言えなかったのだ。
レムシャイド伯等に伴われて、エルウィン・ヨーゼフ二世が同盟領内に入ったのは七月中の事であり、彼等はトリューニヒト議長から直接指示を受けたドーソン大将の手で、首都防衛司令部内の建物に匿われた。ドーソンは実戦家としての手腕は疑問視されているが、秘密保持が必要なこの種の任務には無能ではなかった。

 
 その日、八月二〇日の午後、イゼルローン要塞では、蘭が幼馴染みの上官に話しかけていた。

「トリューニヒト議長の重大かつ緊急の演説って何かしら?」
「さあな。緊急だったら、重大に決まってるだろ」

 蘭の言葉に新一はそう応じた。言葉から、聞かなくて済むものなら聞きたくない、と、いうのが露骨に表れている。
しかし、特に全将兵が超光速通信を見るように、との指示が首都から伝えられていたのである。これも給料のウチ、と、自分に言い聞かせはしたものの、中央指令室のメインスクリーンに議長の顔が映ると、新一は思わず顔をしかめた。

「同盟の全市民諸君、私、自由惑星同盟最高評議会議長ヨブ・トリューニヒトは、全人類の歴史に巨大な転機が訪れた事をここに宣言します。この宣言を行う立場にある事を、私は深く喜びとし、かつ誇りとするものであります」

 勝手に喜んでいろ、と、新一は心の中で毒づいた。おそらく双方にとって不幸な事であったろうが、同盟軍最年少の大将は、国家元首を全く尊敬しておらず、生理的に嫌悪感すら覚えていたのである。

「先日、一人の亡命者が身の安全を求めて、我が自由の国の客人となりました。我が国は、かつて亡命者の受け入れを拒否した事はありません。多くの人々が専制主義の冷酷な手から逃れ、自由の天地を求めてやって来ました。しかし、彼の名前は特別な響きを持ちます・・・即ち、エルウィン・ヨーゼフ・フォン・ゴールデンバウム」

 彼は自分が発した言葉の効果を楽しむかのように、数秒の沈黙をおいた。
煽動的政治家としてのトリューニヒトは、この時、絶頂を迎えていたのかも知れない自由惑星同盟一三〇億の市民は、光も熱も音も伴わない雷が至近距離に落ちたのを、確かに実感したのだった。
半数は呻き声を上げ、半数は呻き声すら出ない状態で、通信スクリーンの中央に昂然と胸を張る元首の姿を凝視していた。銀河帝国の皇帝が亡命して来た、と、言うのだ。統治する国家を捨て、支配すべき民衆を捨てて。一体、何が起こったのか?

「・・・同盟の市民諸君」

 トリューニヒトの声が白々と流れ続けていた。

「帝国のラインハルト・フォン・ローエングラムは、強大な武力によって反対者を一掃し、今や独裁者として権力を欲しいままにしています。僅か七歳の皇帝を虐待し、自らの欲望のおもむくままに法律を変え、部下を要職に就けて、国家を私物化しつつあります。しかも、これは帝国内部の問題ではありません。彼の邪悪な野心は、我が国に対しても向けられています。全宇宙を専制的に支配し、人類が守り続けた自由と民主主義の灯を消してしまおうというのです。我が同盟は彼の如き人物とは共存出来ません。我々はここで過去の事を捨て、ローエングラムに追われた不幸な人々と手を携えて、全ての人類に迫る巨大な脅威から我々自身で守らねばならないのです。この脅威を排除して初めて人類は恒久平和を現実のものと出来るでしょう」

 宇宙暦六四〇年、帝国暦三三一年のダゴン星域会戦以来、一世紀半に渡って、ゴールデンバウム朝銀河帝国と自由惑星同盟とは互いの存亡を賭けて戦い続けて来たのである。
その間、異なる政治体制を有する両勢力間に、共存関係が成立する余地はないか、と、腐心してきた政治家は、決して少なくない人数ではないが、これらの試みは双方の強硬派・原理派によって、悉く挫折を強いられてきた。
一方は相手を帝威に逆らう叛徒としか見なさず、もう一方は相手を暗黒の専制国家として、共に存在を承認せず、武力によって自己の正義を貫徹し、邪悪な敵を宇宙から抹殺するため、何億という同胞の血を戦場で散らして来たのではなかったのか?それが一転して、共通の目的を達するために手を携える事になった、と、言うのである。驚愕するのが当然であった。
 蘭は中央指令室に集まった人々に、素早く観察の目を走らせた。毒舌家の集団である司令部の面々が、毒気を抜かれた態で沈黙している。新一はというと、何事か得心したかのように頷いて、新しく画面に現れた銀髪の人物を注視していた。

「銀河帝国正統政府首相ヨッフェン・フォン・レムシャイドです。この度、自由惑星同盟政府の人道的なご配慮により、祖国に正義を回復するための機会と根拠地を与えて頂き、感謝に堪えません。次に挙げる同志たちを代表して、お礼を申し上げます」

 そう前置きすると、レムシャイド伯は正統政府を構成する閣僚の名を次々と発表していった。
国務尚書はレムシャイド伯の兼任であり、他の閣僚には亡命貴族の名が並べられていたが、軍務尚書メルカッツ上級大将、と、名前が発せられた時、亡命の客将に視線が集中したのは、やむを得ない事であったろう。だが、人々は、自分たちの注視の対象が、驚愕している事を確認しただけであった。

「閣下、これは・・・」

 呟いたメルカッツの副官シュナイダー大尉が、ハッとしたように周囲の人々を見回し、無言の上司に代わって弁明した。

「どうか誤解しないで頂きたい。閣下も小官も、この件に関しては全くの初耳なのです。何故、レムシャイド伯が閣下の名を出されたのか、此方が知りたい程です」
「分かっています。メルカッツ提督がご自分を売り込まれたなどと、誰も思ってはいません」

 新一はシュナイダーを宥(なだ)めると同時に、メルカッツを不信の目で見守る部下たちの発言を牽制したのだった。
レムシャイド伯はメルカッツの承認など得てはいないだろう。これだけの地位を提供すれば、異存なくそれに応じるもの、と、思い込んで、交渉などしなかったのだ。

「オレがレムシャイド伯とやらでも、メルカッツ提督に軍務尚書の座を提供します。他の候補など考えられませんからね」
「同感ですね」

 良いタイミングで探が言ってくれたので新一は安堵したが、それは瞬間的な事ではなかった。
レムシャイド伯の発表した閣僚は、当然ながら同盟政府が承認済みのものであろうから、近日中にメルカッツはイゼルローンを離れ、正統政府軍とやらを組織する任務に就かされるに違いない。新一としては偉大な顧問を手元から失う事になりそうであった。


「たった七歳の子供が自由意思で亡命するワケがないわ。救出とか脱出とか言葉を飾って言うけど、実際は、忠臣、と、称する人たちによって誘拐されたようなものね」

 志保が発言すると、賛成の声が複数の口から発せられた。

「それにしても、ローエングラム公の出方が気になるわね。皇帝を返せ、と、言ってきたら・・・」

 美和子が形の良い眉をひそめると、渉が不器用に肩をすくめた。

「佐藤さんも議長の名演説を聞いたでしょう。あれだけ大言を吐いたら、内心で返したくとも返せるワケがないですよ」

 美和子は渉と結婚して、戸籍上は“高木美和子”だが、プライヴェート以外では、旧姓の“佐藤”で通している。探が洗練かつ優雅な手つきで、ティーカップを受け皿に戻し、両手の指を組んだ。

「仲良くするなら、一世紀早く手を繋いでおくべきでしたね。相手が実効的な権力を失って逃げ出して来てから仲良くしようなんて、実に無様で間の抜けた話だ」
「分裂した敵の一方と手を結ぶ。マキャベリズムとしてはそれで良い。ただ、それを実行するには時期もあれば実力も必要だが、今回の場合は両方の条件を欠いてるからな」

 新一はコーヒーに口を付けてから、過去の事を思い返していた。
同盟がマキャベリズムに徹して、帝国内のローエングラム派と反ローエングラム派との抗争に乗ずるのであれば、その時期は昨年のリップシュタット戦役に際してであるべきだった。あの時、同盟軍が内乱に介入していれば、充分に漁夫の利をせしめる事が可能だったはずである。
その事を、信じ難いほどの鋭敏さで洞察したからこそ、ローエングラム公ラインハルトは同盟内部の不穏分子を煽動してクーデターを起こさせ、同盟軍が帝国の内乱に介入する事を未然に防いだのである。彼の権力が確立した現在、反対派が失地を回復する可能性は皆無に等しく、探の言葉は正鵠を射たと言うべきだった。
 新一が同盟政府のマキャベリズムを期待するとしたら、それは亡命して来た幼帝をローエングラム公に引き渡し、帝国における彼の覇権を承認し、以後の平和共存を約束させるという形で行われなくてはならなかった。この行為は、あるいは非人道的との非難を免れないかもしれないが、新一の見るところ、ローエングラム公が自らの手で幼年の皇帝を殺す事はない。
あの美貌の独裁者は、それほど残忍でも愚劣でもない。彼であれば生かしたまま幼帝を利用する有効な方法を考え出すに違いない。同盟政府はローエングラム公のために、わざわざジョーカーを引いてやったのではないか?ラインハルトは皇帝の逃亡によって何一つ失わない。それどころか彼にとって得るものが遙かに多いのだ。
一つには皇帝を“奪還”あるいは“救出”する事を目的とした、対同盟軍事行動の正当化。そして更に、皇帝への民衆の敵意を増幅させる事で、国内の団結を図る事も出来る。皇帝を同盟へ亡命させる事によって、若き独裁者はこれらの様々な利益を享受出来るのだ。新一はラインハルトの天才を高く評価していたのだから、彼が旧体制派の残党にむざむざと皇帝を奪われたとは信じていなかったのだ。新一が自分の考えを口にすると、一座は静まり返った。平次が反問するまで、かなりの時間を要した。

「・・・パツ金の兄ちゃんは、わざとに皇帝を逃がしたっちゅう事か?」
「確実にそうだろうな」

 これが彼の推定通りラインハルトの巧緻を極めた謀略であるとすると、華麗なジグソー・パズルが完成する事になる。
演奏者(ラインハルト)の巧みな演奏で、拙劣ながらも踊らされるのは同盟と帝国旧体制派の二者である。そう考える新一の耳に平次と快斗の会話が聞こえた。

「首都じゃ騎士症候群(ナイト・シンドローム)っちゅうのが流行っとるらしいで。暴虐かつ悪辣な簒奪者の手から、幼い皇帝を守って正義のために戦おうってワケや」
「ゴールデンバウム家の専制権力を復活させるのが正義ねえ。ビュコック提督に倣って言えば、新しい辞書が必要だな・・・で、反対する人間っていないワケ?」
「慎重論もないワケじゃあらへんが、口を開いただけで非人道派呼ばわりされとるさかいな。七歳の子供、と、いうだけで、大方は思考停止してしとるようやわ」
「これが絶世の美女だったら、熱狂の度はもっと跳ね上がってただろうぜ。男なら美女、女なら美男子が大好きだからさ」
「昔から童話じゃ、王子や王女が正義で、大臣が悪(わる)っちゅうのが相場や。そやけど童話と同じレヴェルで政治判断されても困るで」

 彼等の会話を聞きながら、新一は再び考え込んだ。
政治、外交もそうだが、軍事面においても、同盟は小さくない危機を迎えようとしている。ローエングラム公は皇帝誘拐の罪を問うために必ず侵攻して来る。彼は平民出身の将兵たちを鼓舞するはずだ。
お前たち平民階級の敵は、ゴールデンバウム王家の皇帝と大貴族である。皇帝をかくまい、専制政治と社会的不平等の復活を企む自由惑星同盟を打倒せよ。彼等は、共和主義者、と、自称しているが、事実が示す通り、ゴールデンバウム王朝の共犯者である。お前たちの権利と正義を守るために同盟を倒せ、と―――その煽動の、何と説得力に富む事か。
旧体制派の残党が皇帝を“救出”したのは、騎士道的ロマンチシズムと政治的野心との、錯覚に満ちた恋愛の結果であろうが、誠に不毛の恋であった、と、言うしかない。
 今回の事件で最大の利益を得た者はローエングラム公ラインハルトであろう。彼はかつて皇帝の権威を背景とする必要があったが、門閥貴族連合を滅ぼし、宮廷における競争者リヒテンラーデ公を粛清して、現在は帝国における独裁権力を手中にしている。
七歳の皇帝など、彼と玉座の間に立ちはだかる色褪せた障害物であるに過ぎない。彼の権力と武力をもってすれば、この障害物を排除するのに、片手の小指一本すら必要としないだろう。
ただし、彼も野獣ではないから、幼帝を廃して自らが至尊(しそん)の冠を戴くには、現在と未来とを等しく満足させる大義名分が必要である。例えば、エルウィン・ヨーゼフ二世が人民を害する悪逆な皇帝であれば、それを廃する事は正義の名に値するが、幼帝は未だ暴君として廃されるだけの罪を犯していない。
また幼帝が死ねば、それが真の自然死であっても、人々は謀殺の可能性を考えるであろうから、ローエングラム公としては“幼児殺し”の汚名を被る事を回避するためには、全力を注いで幼帝の姓名と健康を守らなくてはならない。
 これは相当に皮肉な立場と言うべきであり、いかに明敏なローエングラム公であっても、皇帝の処置に気を煩わせたであろう事は想像がつく。ところが、今回の事件によって、難題が解決されたのだ。皇帝が去り、玉座が残された。主を失った玉座に、新たな主が就いたからといって、旧主の側がそれを非難出来るだろうか。
旧体制の主観的な意図はともかくとして、結果的に彼等はわざわざ敵の抱えた重荷を取り除いてやった事になる。ローエングラム公はさぞ失笑した事だろう―――彼らしく華麗に。彼はどちらに転んでも良いのだ。皇帝が自由意思によって玉座と臣民を捨てて逃亡したのであれば、その無責任さと卑劣さを非難する事が出来る。
また、皇帝が自らの意思とは関係なく暴力によって拉致されたのであれば、誘拐犯人を非難し、皇帝を“救出”する行動を起こす事が出来る。何れにしても、選択権は、あの美貌の若者のポケットに収まっており、皇帝と自称忠臣たちに懐に飛び込まれた自由惑星同盟としては、相手がどのカードを取り出すか、自らの心臓の鼓動を友として待つしかない。こちらの選択の順序は過ぎてしまっているのだから。何れにしても同盟政府は原因ではなく、結果に対して責任を取らなくてはならない。
 自由惑星同盟は、銀河帝国の旧体制派と手を組んだ。彼等は明らかに反動派であって、それ以外の何者でも有り得ない。ゴールデンバウム王朝の正統な権威を再建し、それを背景として自らが権力を振るい、富を独占す、歴史を逆流させる事を望んでいるのだ。その彼等と手を組み、絵に描かれた菓子に等しい“将来の民主化”を信じて、今日(こんにち)実際に政治と社会を改革しているローエングラム公と敵対しようとしている。愚劣な選択の輝かしい極致と言うべきであろう。
ルドルフ大帝以来、ゴールデンバウム王朝は五世紀の歳月を閲(けみ)しており、政治的社会的な不公正を正す機会を無数に持ち得たはずである。それを悉く看過し、腐敗臭に満ちた特権階級の毒によって、王朝の花どころか茎や根に至るまで枯らし尽くした特権階級の残党たちに何が期待出来ると言うのか。
盗賊には三種類ある、とは、誰が言った事であろうか。暴力によって盗む者、知恵によって盗む者、権力と法によって盗む者・・・ローエングラム公によって大貴族支配体制の軛(くびき)から解放された帝国二五〇億の民衆は、最悪の盗賊と手を結んだ同盟を許す事はない。それは当然の事である。新一は銀河帝国の“国民軍”と戦う事になるだろうが、正義はむしろ彼等の側にあるのではないか、と、思わざるを得なかった。

「・・・メルカッツ提督は如何なさるのですか?」

 さして大きくもなく、それでいて冷静な声が、新一の意識をイゼルローンの会議室に呼び戻した。
声の主は参謀長の探である事は容易に特定出来た。他の幕僚たちも困惑はしているのかも知れないが、それを表に出す事はなかった。
銀河帝国正統政府の軍務尚書に擬せられたメルカッツの去就は、恐らく全幕僚の関心が向かうところであったろうが、誰もが正面からそれを質す事を回避していた。その遠慮、その逡巡を、探は一枚の紙片のように突き破ってのけたのである。

「確かレムシャイド伯ですか、亡命政権の首班の方は。あの御仁はメルカッツ提督が就任を拒否なさるとは思っていらっしゃらないでしょう。期待に背くワケにはいかない、と、思いますが?」

 探の声には皮肉な響きはなかった。
しかし“絶対零度のカミソリ”と称される参謀長の口調は、逃避や韜晦(とうかい)を許すだけの寛容さが欠けており、メルカッツは退路を絶たれたかの印象があった。
司令官以上に沈着冷静な探は、正面からのみの攻撃で、亡命の客将の防壁を乗り越えてしまった。メルカッツは眠たげな目を質問者に向けた。

「私はレムシャイド伯と必ずしも一致した見解を持っていません。皇帝陛下に対す忠誠心は彼に劣らぬつもりですが、私としては、陛下に一市民として波乱のない生活を送って頂きたいと思っています」

 老練な提督の声は、この時、重く沈みかけた。

「亡命政権を作ったところで、ローエングラム公の覇権を覆す事は不可能です。彼は民衆を味方にしています。彼等の支持を受けるだけの事をしているからです。私が理解に苦しむのは、幼い陛下を保護すべき人々が、かえって陛下を政争と戦争の渦中に置こうとしているかのように見える事です。亡命政権を作るなら、自分たちだけで作れば良い。未だ判断力も備えておいでではない陛下を巻き込む事はないはずです」

 沈黙したままメルカッツの言葉を聞いている新一を、チラリ、と、見た紅子が口を開いた。

「考えて見れば、需要と供給が見事に一致した、と、いう事ですわ」
「需要と供給・・・?」
「はい、ローエングラム公の権力基盤は民衆にあり、彼はもはや皇帝の権威を必要としません。一方、レムシャイド伯という方は、実体のないものとはいえ、亡命政権において主導権を握るために、廃物利用をしなくてはならない立場です」
「メルカッツ提督のご見識は分かりました。ですが、僕としては、閣下ご自身がどう選択し、どう行動なさるのかを伺いたいのです」
「白馬・・・」

 初めて新一が口を開いた。彼はメルカッツを被告の席に座らせる気はなかった。探の潔癖さと緻密さを新一は高く評価しているが、それも時と場合によっては人を傷付ける刃になるであろう。

「組織の中にいる者が、自分自身の都合だけで身を処する事が出来たらさぞ良い事だと思う。オレだって政府には言いたい事が山ほどある。特に腹立たしいのは、勝手にヤツ等が決めた事を無理矢理押し付けて来る事さ」

 美和子、渉、真、志保等が頷いたのは、新一の論法はともかく、その意図を把握したからであろう。
メルカッツは手順を踏んで正式に亡命政権への参加を求められたワケではなく、言わば事後承諾の強引さの犠牲となっているのだから、この時点で彼に最終的な回答を要求するのは酷というものであった。探が軽く頭を下げて引き下がったのは、彼自身もそれを充分に承知していたからである。
新一が夕食と休憩を命じたあと、メルカッツのプライヴェート・ルームでは、やはり上司と部下の間で、辛口の会話が交わされていた。

「閣下、正統政府の軍務尚書と言えば、外聞(きこえ)は良いですが、実情としては閣下の指揮なさる兵は一兵も存在しないではありませんか」
「一兵も指揮する身分でない事は、現在も同様ではないか」
「それでも、工藤提督の艦隊を一時的ながら預かって指揮なさいました。今度はそれすら望めません。虚名があるのみで、一グラムの実(じつ)も有りはしないのです」

 シュナイダーは舌打ちをするのだった。

「レムシャイド伯はまだしも、他の方々は爵位を持つ貴族以外に何ら特徴もありません。あの面々でローエングラム公への反対者を糾合出来るものやら、小官は危ぶまざるを得ません」
「だが、皇帝陛下がおわす」

 メルカッツの声は、シュナイダーの胸に重く沈み込んできた。大尉は息を呑んで、銀河帝国皇帝の臣下として四〇年以上の歳月を過ごしてきた宿将の、急に老い込んだような肩の線を眺めやった。
シュナイダーにも、皇帝の臣下としての意識は無論存在するが、メルカッツの思いに比較すれば浅く、恐らく代償のきくものだった。言うべき言葉を見出せずに立ちすくむ副官を見やって、メルカッツは微笑した。

「あまり思い煩(わずら)っても仕方ないな。まだ正式に要請を受けたワケでもない。ゆっくり考えるとしよう」


 嵐は予兆どころか、既に尖兵を送り込み始めていたが、新一はそれに対して何の手も打たなかった。正確には打ちようがなかったのである。
現実に帝国の大軍がイゼルローン要塞に殺到して来れば、用兵の芸術家として比類ない手腕を振るう事が出来るのだが、ことに政治の次元に留まっている以上、制服軍人として、成すべき事は何もなかった。だが、事態は新一を何時までも客席の傍観者にはしておかなかった。

「新一くん!通信スクリーンにローエングラム公が表れたわ。全帝国、全同盟に向けて、何か演説するつもりよ!!」

 園子が急報をもたらしたのは、ちょうど夕食が済んだ頃だった。慌ただしく中央指令室に入ると、メイン・スクリーンに獅子のたてがみのような金髪を持つラインハルトの姿が転送された。
黒と銀の華麗な軍服は、帝国軍の伝統的なものだが、幾世紀も昔からこの若者一人ために用意されてきたかのように、その優美な容姿を引き立てている。蒼氷色の瞳が、奥深くに雪嵐(ブリザード)を潜めて正面に向けられると、見る者の心身を戦慄が駆け抜けた。好き嫌いは別として、この若者が尋常ならざる存在である事は、万人が認めざるを得ないところだった。
ラインハルトが口を開くと、音楽的なまでに流麗な声が、聴く者の鼓膜を心地良く刺激したが、その内容は苛烈を極めた。若い美貌の独裁者は、皇帝が誘拐された事実を告げた後、無形の爆弾を投下したのだ。

「私はここに宣言する。不法かつ卑劣な手段によって幼年の皇帝を誘拐し、歴史を逆流させ、ひとたび確立させた門閥貴族の残党共は、その悪業に相応しい報いを受ける事となろう。彼等と野合し、宇宙の平和と秩序に不逞な挑戦を企む自由惑星同盟の野心家たちも同様の運命を免れる事はない。誤った選択は、正しい懲罰によってこそ矯正されるべきである。罪人に必要なものは交渉でも説得でもない。彼等にはそれを理解する能力も意思もないのだ。ただ力のみが彼等の蒙を啓(ひら)かせるだろう。今後、どれほど多量の血が失われる事になろうとも、責任は、あげて愚劣な誘拐犯と共犯者にある事を銘記せよ」

 交渉と説得の拒否。その意味を理解した時、人々は胸郭の奥で心臓が踊り出すのを感じた。帝国旧体制派の亡命政権と、それに与(くみ)した同盟政府は、武力による矯正の対象とされるのだ。これほど迅速で容赦ない反応を矯正される側は、はたして予測しただろうか?ラインハルトの姿がスクリーンから消えると、真が新一に声をかけた。

「つまり、ローエングラム公の宣戦布告、と、いうワケですね。今更という気もしますが」
「形式がこれで整った、と、いう事ですよ」
「またイゼルローンが最前線ですか・・・この要塞があると思うから政治家たちは平気で愚考を犯す。迷惑な話ですね」
「いや、イゼルローン回廊はあくまでも陽動です。ローエングラム公の本命ルートは、もう一つの回廊でしょう」

 幕僚たちが驚愕の目を新一に向けたが、彼は黙ったまま灰白色の平板と化したスクリーンを凝視し続けていた。


 銀河帝国皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世の亡命と、帝国宰相ラインハルト・フォン・ローエングラム公爵の宣戦布告によって、自由惑星同盟は台風の中に放り込まれた。
トリューニヒトを議長とする最高評議会としては、亡命政権の承認という政治的アクションに対して、ラインハルトから然(しか)るべきアクションを受ける事を、当然予測はしていたであろうが、その苛烈さに衝撃を受けずにはいられなかった。
彼等としては亡命政権を外交交渉の要件として用いる方法を考慮しているところへ、いきなり強烈な鉄拳(パンチ)を食らったも同様であった。自分たちの選択が、妥協の余地もないものであった事を敵から教えられたのである。
評議会のメンバーの中からは、ラインハルトに対する怒りと呪詛(じゅそ)の言葉があがったものの、宣戦布告は彼等の軽挙な政治的選択の結果であり、ラインハルトを非難したところで、それに先立つ判断の甘さに対しての批判を免れる事は出来なかった。彼に脅迫する口実を与えたのは彼等自身だった。
だが、不安と後悔を両手に抱え込んだ亡命者たちと彼等を支持する同盟政府は反撃不可能な状態に追い込まれていた。ラインハルトの電撃的な反応が、彼等をリングの中央からロープ際に追い詰めたのである。交渉の余地なし、と、宣告された以上、解決は軍事力に頼るしかなかった。
軍事力の増強と整備は急務となったが、この期に及んで同盟政府がまず着手したのは、人事面であり、軍部に対する遠慮を放り捨てて、政府というより政権の影響をつよめるために、軍首脳をトリューニヒト派の高級士官で固める事だった。
 こうして、統合作戦本部長クブルスリー大将は病気を理由に引退し、その後任には本部長代行を務めた事もあるドーソン大将が継いだのである。ドーソンの忠勤がトリューニヒト政権によって相応に報われたワケではある。
ただ、この人事は、軍首脳が時の政権と癒着する、少なくともそう見えたため反発も多かった。さすがに実戦部隊の長である宇宙艦隊司令長官ビュコック大将には及ばなかったが、新一には間接的に伸びて来た。

「毛利小五郎大佐をフェザーン駐在弁務官事務所首席駐在武官に任命し、服部平次、黒羽快斗両少将を宇宙艦隊司令部付とする。毛利大佐は一〇月一五日までに現地に着任し、服部、黒羽両少将は麾下の幕僚及び部隊を率いてハイネセンへ着任せよ」

 旗艦の艦長と最前線部隊から攻撃の要である最精鋭部隊を引き抜く、と、いう、理不尽極まりない命令が超光速通信によってイゼルローン要塞にもたらされた時、新一は眉を僅かに動かしただけに過ぎなかった。
自分の権限が全能というには程遠いものである事を新一は知悉(ちしつ)していたし、民主共和政体にあってはそれが当然である、と、納得してもいた。だが、この命令を受けた時、昨年のクーデターに際して平次と快斗、そして探が冗談か本気か分からない口調で勧めた事―――いっそ独裁者になってしまえ、と、同期生三人は不穏極まる進言をしたのだ―――を、彼は思い起こさずにはいられなかった。全く世界は此方がおとなしくしていれば際限なく増長する連中で充満しているらしい。

「蘭。服部と黒羽、そして白馬とオッチャンを呼んできてくれ」
「でも、新一・・・」
「人事命令だからしょうがないだろ?恐らくトリューニヒトの差し金だろうがな」

 ハイネセンにいる政治屋を嘲笑しながらも、新一は蘭に四人を呼ぶよう命じた。呼ばれてやって来た四人は命令書を読んで新一に渡した。

「これはあれですね。工藤くんから引き離す手段でしょう」
「つまり軍閥化を防ごうってか・・・おい、オレは新一派じゃねーぞ」

 命令書に隠された背景を冷静に分析した探に噛み付いた小五郎だったが、なるほど、と、一人で頷いた。

「政府中枢から遠く離れた地方の軍隊が司令官の私兵と化し、軍閥化して政府のコントロールを受け付けなくなる、と、いうのは大昔からある事だからな」
「人事権を使うて部隊の中枢メンバーが固定化せんよう配慮する・・・平時はそれでええかも知れんが、今は帝国とドンパチやっとる最中やで?しかもイゼルローンは対帝国の最前線や」
「首都の連中は対帝国より、身内から足下を掬われる、と、いう被害妄想に取り憑かれているんだろうぜ?メルカッツ提督の件も本音は工藤から引き離す事だろうな」

 三人の話を聞き流していた新一は小五郎に視線を向けると表情を改めた。

「毛利大佐。ローエングラム公は一軍をもってイゼルローンを包囲する一方で、他の軍をもってフェザーン回廊を突破する事です。彼にはそれだけの兵力もありますし、そうなればイゼルローン回廊は無用の長物と化すでしょう」
「オレに、帝国弁務官事務所と帝国軍の動向を探れ、と、いうワケか?」
「はい、その通りです。出来るだけバレないように行動して下さい・・・諜報のプロである毛利大佐には簡単な事でしょう」
「まあ、バレない程度にやってやるが、問題はウチ等の方だ。あそこはキツネ野郎(トリューニヒト)閥の巣窟だからな。協力より邪魔な存在でしかならねえ」
「その件については、統合作戦本部から駐在武官団に欠員が出たので、オレに人選の要請が来ました。毛利大佐の助手に世良少佐を派遣するよう人事に要請します」

 人事の件を終えると、新一は次の仕事に取り掛かった。宇宙艦隊司令長官ビュコック大将への親書を書く事である。平次と快斗は宇宙艦隊司令部付となるので、彼等の手で老提督に親書を直接手渡す事も出来る。
親書の中で新一は、今回の皇帝の誘拐劇がローエングラム公ラインハルトの演出した可能性を指摘した。残念な事に証拠としては状況的なものに留まるとはいえ、皇帝の暗殺ならともかく誘拐である限り、ローエングラム公にとって不利な点は何ら存在しない事、亡命政権の成立が宣言された直後、あたかもそれを察知していたような迅速さで宣戦布告が行われた事などは有力な傍証になり得るであろう。
ローエングラム公は武力による懲罰を明言した。おそらく空前の大軍と戦略構想をもって攻勢をかけてくるだろう。イゼルローン要塞を攻略すると見せて大軍を陽動させ、無防備なフェザーン回廊を突破して同盟領へ侵入する。あの神速の用兵家ウォルフガング・ミッターマイヤーなどが指揮していれば、例え新一がイゼルローンを離れて急行しても、それ以前に惑星ハイネセンは帝国軍の占領下にあるのではないか。
更に、イゼルローン方面の帝国軍司令官が名将オスカー・フォン・ロイエンタールでもあれば、新一がイゼルローンから離脱するのを座視して見送るはずはない。最悪の場合イゼルローンから離れた新一は前後から、帝国軍の双璧によって挟撃されかねない。しかも彼等の攻勢を躱したとしても、更に新一は直接的にも間接的にも知る範囲内で最高最大の天才ラインハルト・フォン・ローエングラムが、赤毛の驍将ジークフリード・キルヒアイスと共に待ち受けている公算が高い。
そこまで考えるのは先走り過ぎるとしても、敵国軍がフェザーン回廊を侵攻ルートとして利用する可能性は、いくら危惧してもし過ぎるという事はない。彼等がフェザーン回廊を使えば、同盟軍の虚を衝く事が出来るのは無論の事、フェザーンを巨大な補給基地として利用出来る。更に新一が気付いて慄然としたのは、フェザーンは交易・航宙用の星図を質量共に整備されており、それを入手した帝国軍は、地理的知識におけるハンディキャップを解消出来る、と、いう事実だった。
一五八年前、ダゴン星域会戦に際して、同盟軍総司令官リン・パオと総参謀長ユースフ・トパロウルは、地理に不案内な帝国軍を、迷宮さながらのダゴン星域に引き摺り込み、壮大な包囲殲滅戦のフル・コースを演出してのけたのである。だが、侵略軍が強力なリーダーシップと明確で一貫した戦略構想と、精密な星図を有していたら―――フル・コースを食べる側と食べられる側の立場は逆転しかねないのだ。
 新一は前髪を片手で掻き上げ、一世紀半前の名将たちが現在の彼に比してかなり幸福だったのではないか、と、思った。リン・パオにせよユースフ・トパロウルにせよ、戦場の事だけを考えていれば良かったのだ。彼等の時代、民主共和制は瑞々しい活力に富み、市民の信頼と尊敬は、自らの意思と責任で選んだ彼等の政府の上にあった。政府はその機能を十全に果たしており、辺境の一軍人が政治の行末について案じる必要などなかった。
軍事が政治の不毛を補う事は出来ない。それは歴史上の事実であり、政治の水準において劣悪な国家が最終的な軍事的成功を収めた例は無い。強大な征服者は、その前に必ず有為な政治家だった。政治は軍事上の失敗を償う事が出来るが、その逆は真でありえない。軍事とは政治の一部分、しかも獰猛で最も非文明で最も拙劣な一部分でしかないのだ。その事実を認めず、軍事力を、万能、と、思い込むのは、無能な政治屋、傲慢な軍人、彼らの精神的奴隷となった人々なのである。
過ぎ去りし伝説の歴史に栄光あれ。新一は目に見えないグラスを片手に掲げた。過去を美化する事は、遠ざかる女性の後ろ姿を見て美女と決めつけるのに等しい、と、快斗と探が言っていた。比喩の当否はさて置き、過去にロープを掛けて手元に引き摺って来る事が出来ないのは確かだ。彼が料理を任されているのは、差し当たり、現実のほんの一部分だけなのである。


 メルカッツ、シュナイダー、小五郎、真純が巡航艦「タナトスV」の客となり、平次と快斗がそれぞれの部隊を率いてイゼルローン要塞を離れたのは九月一日正午の事である。
出発前、新一は小五郎を司令官室に呼んで、ビュコック宛の親書を二人の前に差し出した。その親書は、後になって工藤新一という軍人が単なる戦術家に留まらず、最も広い意味での戦略家である事を証明する重要な資料の一つ、と、目(もく)される事になる。この時の小五郎に、そこまで予測する事は無論不可能であったが、中に書いてある事はある程度把握していた。

「分かった。必ず渡してやるから安心しろ」
「お願いします」

 親書をジャンバーのポケットに収めた小五郎が表情を改めた。

「おい、新一・・・オレがいないからって、蘭に変な事をするんじゃねーぞ?」
「変な事、って、何ですか?」
「変な事と言ったら、変な事に決まってるだろーが!そんな事をやったら、オメーを宇宙空間へ放り出すからな!!」
「了解」

 メルカッツたちがハイネセンへ向けて出発した後、蘭が新一の私室を訪ねてみると、幼馴染の司令官は肉視窓の外に広がる星々の大海の一部を眺めていた。

「新一、コーヒーを淹れてあげるけど、飲む?」
「ああ、頼む・・・オッチャンとメルカッツ提督はともかく、服部と黒羽とは戦場で再会するかも知れねえな」
 
 独語めいたそれは、後になって的中する事となるのだが、新一も蘭もそれを知る由もない。




続く





注:「銀河英雄伝説」は田中芳樹先生、「名探偵コナン」「まじっく快斗」は青山剛昌先生の著作物です。


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