星空の下で



by槇野知宏様



 車中に流れるのはゆったりとしたクラッシックの音色。
無粋な対向車や追い越し車もなく愛車を走らせるが、唯一の難点は彼のエンジン音がうるさく、ヴォリュームを上げないと心に響くような音楽が聴けないと言うのが難点である。
車を走らせつつ僕は助手席に座っている女性(ひと)に声を掛けた。
本来であれば隣に座る人の姿を視界に収めたいところであるが、運転中なので前を向いたままなのは言うまでもない。

「紅子さん。今日は趣向を変えてドライブにしてみましたが、如何でしたか?」
「ロンドン市内を散策したり、探さんの部屋に閉じ籠もるより良かったですわ」
「それは光栄です」

ロンドン市内だけでなく、一部を除いたイギリス国内全ての観光地に彼女を愛車(一部はフェリー等)に乗せて連れて行っているのだが、今回は最後に残ったイングランド北西部(スコットランドの国境に近い)にある湖水地方に同道した。
児童書「ピーター・ラビット」の舞台となった渓谷沿いに広がる大小の湖が織りなす国定公園内の景色に紅子さんも感激してくれたので、誘った僕もお誘いして良かった、と思ったものだ。
もっとも片道一〇時間近い移動(途中、何度か休憩はしたが)だったため、彼女にはかなり辛い思いをさせ、後悔してしまったのは当然である。
さすがにMINIで長時間移動するのは無理があり過ぎると思いつつ、車のスピードを落としていく。

「あら、どうかなさって?」
「かなりの強行軍でしたからね。ロンドンまで時間的距離が一時間ありますから、最後の休憩をしようと思ったんですよ」

そう言って素早く外に出ると、助手席側に回り込んで紅子さんが外に出るためのエスコートをするが、紳士として当然の行為である。

「お手を患わせて申し訳ありませんわ」
「いや、当然の事をしたまでですので」

いくら着込んでいるとはいえ、車の外は思いのほか寒い。メキシコ湾流の影響で寒くないと言うが、ロンドンの緯度はサハリンと同じなのである。
例え初夏でも室内ではヒーターが必需という場合もあるのだ。背を伸ばし、両手を軽く広げて外気を吸い込むと、冷たい空気が肺の奥まで浸透していく。
その時、視線が空を見たが、星が天空の闇に浮かび上がっている。ロンドン市内では目にする事のない光景に暫しみとれていた。
左隣にいる彼女も僕と同じように星空に目を奪われていたが、よく注意してみると肩の辺りが僅かに震えているのが見えとれる。
とっさに僕は着ていたコートを彼女の肩に掛けてやった。

「寒いなら一言言って頂ければ車に戻ったんですがね」
「ごめんなさい。こうやって空を眺めるのが久しぶりでしたから、つい・・・それにしても探さんは大丈夫ですの?」
「問題ありません。大丈夫・・・」

その言葉を僕は最後まで続ける事が出来なかった。なぜならば、くしゃみを二度続けてしまったからである。
淑女の前で無粋な事をしてしまった事に内心で顔をしかめたが、既に紅子さんの耳目は捉えているだろう。
彼女に目を移すと、街灯の光を浴びた彼女の紅き瞳は僕を見つめていた。

「探さん。さっき私に、問題ありません、と、言ったのではなくって?」
「いや、申し訳ありません。僕らしからぬミスするとは面目ありません」

そう言った時、紅子さんの肩に掛けられていたコートが僕の両肩に掛かり、彼女が僕に飛び込んで来た。

「これなら、お互いに寒くないと思いますが、如何かしら?」

いつもの沈着冷静で僅かに艶のある表情と違い、その顔に浮かんでいるのは夢魔に近いものだった。
思い起こせば今回の旅行で、手を取る、腕を組む以外の身体の接触は行っていない。
ロンドンに到着して僕の部屋で全てを発散させるつもりだったが、この場で少し発散させるのも悪くはない・・・無数の星と愛車が見ているというのは気に入らないが。
そう考えた僕は彼女の身体を引き寄せると、艶やかな唇に自分のそれを落とす。最初は冷え切っていた唇だが、少しずつ温度が上昇して行くのを感じた。





終わり



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