恋のファンタジスタ



byドミ



「ねえねえ、新一。今回なでしこ入りしたこの子、帝丹中学で新一の後輩だった子じゃない?」

工藤新一、毛利蘭、共に二〇歳の大学三年生。
高校卒業後、一緒に暮らしている。近々、入籍挙式の予定だ。

今日はお互いに大学の講義がない土曜日で。珍しく新一が事件で呼び出される事もなく。
少し寝坊して、ブランチを取って。
午後、二人でぶらりと出かけるのも良いなと、蘭は考えていた。

食後、コーヒーを飲みながら新一が新聞を開いていて。
蘭の目に、新一が開いている新聞の記事が入って来たのだった。

蘭に言われて、新一もそちらの記事に目を通す。
高校卒業後、全日本女子サッカー入りした女性は、確かに、帝丹中学の後輩だった。
新一達が中学三年の大会後、引退する前に、女子で初めて、選手として、帝丹中学サッカー部に入部して来た子である。
しかも、一年にしてレギュラーの座を獲得したのであった。

「おー、沢村かぁ。やっぱ、スゲーな、あの子」
「うん、すごい頑張り屋だったよねー」
「水島も、沢村と付き合い始めて、随分刺激になったみてえでさ。今は全日本入りしてんだもんなあ。あいつら、お互い、良い影響を与え合ってるって感じだよな」
 
水島は、新一の一つ後輩で、沢村菜穂美の入部の時は随分難色を示したものだったが。
その後、二人は仲良くなり、やがて付き合いだしたのだと言う。
新一の言葉に、蘭の胸に、何かが引っかかった。

「新一は?それで良かったの?」
「は?良かったって、何がだよ?」
「あ、あれ?」

蘭自身、自分の引っ掛かりが何なのか判らず、戸惑う。
そう言えば、中学三年のあの時、新一と、沢村菜穂美の話をしていた筈なのに、何か途中で誤魔化された気が、する。

「あーっ!新一、あの時、わたしの……!見たでしょ!」
「は?あ……!……み、見えてねえっつっただろ!」

新一が蹴り損なって蘭の方に向かって来た、頭位の高さにあったボールを、蘭は見事に新一に蹴り返してみせたのだが。
何しろ下校中で、制服のスカートだった為に、もろ、スカートの中身を新一に見られてしまったのである。

「嘘!」
「オメーなあ!大体、オメー、スカート履いてんのに、ボールを蹴り上げたりするからだろうが!」
「何よ、新一がボールを蹴り損なったのが、そもそもの始まりじゃない!わざとやったんじゃないの!?」
「バーロ!オレにもプライドがある、わざと蹴り損なうなんてするか!あの時、オメーが変な事言ったからだっ!」
「え……?」

そこまで言い合ったとき、蘭の胸に、先程と同じ塊がつかえたのを、感じた。
あの時、何を話していたのだったか?
大切な事だったような気もするのに、考えても、思い出せない。

「覚えてない……」
「そういうヤツだよ、オメーはよ!」
「あーん、そんな事言わないで、教えてよー」

どうしても思い出せないもどかしさに、蘭が焦れると、新一は大きな溜息をついた。

「……教えたくない」
「え……?」

新一がプイッとそっぽを向いた。
こうなったら新一は、宥めすかそうが押そうが引こうが、取り付く島がない。

新一は、滅多に蘭を拒絶する事はないけれども、今回、久し振りに、蘭をシャットアウトする空気を纏ってしまった。
蘭は、あの時、何か新一を怒らせるような事があったのだろうかと、ますます気になる。

「……出かけて来る」
「え?新一?」

コーヒーを飲み終わり、食器を片づけると、新一は立ち上がり、蘭にそう告げて、出て行こうとした。

今日は久しぶりに、新一と二人でゆっくり過ごせると思ったのに。
事件なら、仕方がない。
でも、そういう訳でもなさそうで。
先ほどの話の流れから、新一は蘭と一緒にいたくないのじゃないかと、蘭は勘繰ってしまったのだった。

「新一!帰りは、何時位になりそう?」
「……わかんね。夕飯は支度しなくて良いからな」

そう言い捨てて、新一は出て行ってしまった。

中学時代の話から、どうして、こういう事になってしまったのだろう?
蘭の目から涙が零れて落ちる。

新一が機嫌を損ねたのは、きっと自分が無意識の内に何かやらかしたのだろうと、蘭は思う。
でも、せめて、怒った理由位教えてくれても良いではないかと、蘭は新一を恨めしく思ってしまう。

ゆったりと幸せな筈の休日は、まだ昼にもならないのに、萎んで終わってしまった。

「そう言えば。ずっと昔、似たような事があったような気がする……」

蘭は必死で記憶を手繰り寄せた。
新一が先ほどのような表情で蘭を拒絶した事は、数えるほどしかないけれど。
そこに、何らかのヒントがあるような気がする。

中学時代に的を絞って、蘭は考えてみた。



   ☆☆☆



「キャー!男子が覗いてるわよ!」
「ええっ!?」

中学一年の、体育の授業前。
女子更衣室が上級生の着替えで塞がっていた為、蘭達は、教室のドアを閉め鍵をかけて、着替えをしていた。

教室と廊下の間の窓はすりガラスだが、上の方の窓は透明ガラスだったりする。
その時、男子の一部が、窓によじ登り、上の透明ガラスの所から覗きこもうとしていたのに、女子の一部が気付いたのだ。

蘭は急いで体操服を羽織ると、教室から飛び出した。
そして、廊下にいた新一を見つけ、失望し呆れ激昂して、蹴り技を放った。

「違う!オレは覗きなんかしてねえ!」

必死で言い募りながら蘭の蹴り技を交わして行く新一。
新一は昔から身のこなしは軽い。
蘭の自慢の蹴りを軽く交わされる事で、蘭は余計頭に血が上っていた。

けれど。
覗こうとしていたのは他の男子で、新一は覗きをしていた男子を止めていたのだという事実を後から知り。
蘭はさすがに申し訳なく、新一に平謝りに謝ったのだが。

それから数日間、新一は蘭と口を利こうとせず、近寄ろうともせず、取り付く島もなかった。

数日後、新一の背中に向かって

「新一。怒ってるよね。許して欲しいなんてワガママだよね」

と言う蘭に、新一は驚いた表情で振り返った。

「オレは、怒ってる訳じゃねーし、オメーを許してない訳でもねーよ」
「え……?」
「蘭は、そういう風に思ってたのか。違うよ、オレはただ……」

新一は、その後を続けようとせず、苦笑した。

「冤罪者の気持ちが、少しだけ分かったような気がする」
「え……?」
「たかだか覗き程度でも、冤罪は、結構堪えた。これが、殺人とかなら、かなり来るだろうな」
「新一?」
「他人の罪を暴くのに、慎重過ぎるって事はねえなって、つくづく思ったよ」
「……」

新一は、どこか晴れ晴れとした表情で空を仰いだ。
蘭は、その時、新一の言っている事が分からず、首を傾げるしかなかったのだが。
新一が探偵になった今なら、分かる。
その頃から新一は、真剣に探偵になる事を考えていたのだ。

そして、新一が数日間、蘭を無視していたのは、怒っていたからではなく、「傷ついていた」からだったと、今なら、分かる。


そこまで思い起こして、蘭はハタと思い当たった。

(もしかして、新一は今回も、怒った訳じゃなかったのかしら?わたし、あの時、無意識の内に、新一を傷つけるような事を言ってた?)

怒らせたのではないにしても、その時蘭が新一に言ってしまった事は、思い出したい。

(それに。怒ったのじゃないとしたら、新一はどうしていきなり、出かけるなんて……)

その時、蘭の携帯が鳴った。
送信者は、新一。
蘭は慌てて電話に出る。

「もしもし、新一!?」
『ああ。蘭、わりぃ。今夜、飯要らねえって言ってたけどさ。お客さんが二人来るから、蘭とオレと合わせて四人分の飯、頼めねえか?』
「えっ!?」
『……急過ぎて、無理か?』
「う、ううん。そんな事、ないけど!でも、珍しいね。もしかして、服部君と和葉ちゃん?」
『いや、今日は、探偵がらみの相手じゃねえんだ』
「わかった。ビールか何か、いる?」
『奴らは未成年だから、やめといた方が無難だろう』

未成年という事は、蘭や新一にとっては後輩に当たる人物なのだろうけれど。
新一が家に呼ぶような親しい後輩関係の人は、誰がいるだろうかと、蘭は少し考える。
それにしても、新一が怒って家を出た訳ではなかったようで、蘭は心からホッとした。

(ホント、この早トチリは、何とかしなきゃ……)

さすがに二〇歳になった蘭は、自分の思考の悪いクセを、理解するようになって来ていた。

「それにしても、新一。今日は後輩と会う予定があったのなら、前もって教えてくれたら良かったのに」
『あん?オレ、家出る時に、水島からメールが来たから出かけるって、言わなかったっけ?』
「え?聞いてないと思うけど?」
『あ……そうだっけ、ごめん!』

ここまでの話の流れで、新一は不機嫌ですらなかった事に、蘭は気付く。
いや、あの会話の時は、多少不機嫌になったかもしれないが、それを引きずっていた訳では、ないのだろう。

『蘭、ごめんな。せっかくの久し振りの休日、デートも出来なくてよ』
「ううん、それは大丈夫だよ。デートはまた機会があるし。で、新一、水島って……中学のサッカー部で後輩だった、今朝話に出てた、あの水島君?」
『ああ』
「じゃあ、今日連れて来るお客さんって……」
『水島と沢村だよ』

一瞬、蘭の胸に、また、塊がつかえてしまう。
一体、何が引っかかっているのだろう?蘭は自分でもよく分からなかった。



   ☆☆☆



「毛利先輩、お久し振りです!」
「こんにちは、お邪魔します」
「いらっしゃい、水島君、沢村さん」

蘭の記憶よりずっと大人びた二人が、玄関から入って来た。

水島のクセっ毛は相変わらずだが、精悍な男性になっているし。
沢村菜穂美は、随分綺麗になっていた。
なでしこジャパンの中でも綺麗どころで、雑誌の表紙を飾ったりもしているのだ。

二人はリビングに通され、蘭がお茶を出す。

「工藤先輩、綺麗な奥様ですね!」
「まだ、違うけどな。近々、奥さんになる予定」
「毛利蘭です、よろしく」
「っていうか、菜穂美、覚えてないのか?毛利先輩だよ」
「えっ?」
「沢村が入部したのは、オレの引退直前だから、蘭と顔を合わせた事は、殆どないんじゃねえか?」
「そうね。わたしは、新一達三年が水島君達二年と練習試合をした時に、沢村さんが三年チームの中に入って活躍したのを、見たんだけど」
「えっ?そうだったんですか?」
「毛利先輩、見に来てましたっけ?あの時は、試合に夢中で、気付いてなかったですよ」
「ははは、水島は、沢村への対抗意識で、いっぱいいっぱいだったからなあ」
「工藤先輩は、毛利先輩が見に来た事、気付いてたんですか?」
「ああ、そりゃまあ。確かあの時、園子と一緒に見に来たんじゃなかったっけ?」
「うん。園子に強引に連れて来られた気がするなあ」

そこまで会話して、蘭は、何か引っかかっていた事があった気がすると、また首をかしげた。

「工藤先輩、毛利先輩と一緒に住んでらっしゃるんですか?」
「ああ。この夏に挙式予定なんだ」
「帝丹中サッカー部で、工藤先輩のマドンナ・毛利先輩の事を、知らない者はいなかったですけど。二人のお付き合いは、長いですよね」
「……いや。付き合い歴なら、水島と沢村、オメー達の方が長いぜ。中学の頃からの付き合いだろ?あの頃の蘭とオレは、ただの幼馴染だったからな」
「マジっすか?いや、てっきり、もう既にラブラブなんだとばかり、思い込んでましたよ」
「あの頃はオレの片思いだったからなあ」
「えっ!?」

蘭は、新一の言葉に声を上げ、思わず立ち上がった。

「……何だよ?」
「片思いって……だって……あの頃……」
「オレはガキの頃からずっと、蘭の事が好きだったけど。蘭は、そうでもなかっただろ?」

蘭は返事が出来ず、逃げるように台所に去った。
蘭の胸は、今更ながらにドキドキしていた。

蘭が新一を本当の意味で一人の男性として意識し出したのは、蘭が高校一年になったばかりの時。
では、中学生の頃は、どうだっただろうか?

あの頃、蘭は、新一の事を、大切だと思っていたけれど、男女関係ない友達、幼馴染だという認識だった。

でも、本当にそうだっただろうか?
であれば、内田麻美先輩が、新一の好物はレモンパイだと言った時、新一へ片思いだったという告白を聞いた時、あそこまで動揺する事もなかった筈だ。

蘭と新一とは、高校二年の時にお互い告白して、恋人同士になった仲だが。
新一がいつから蘭の事を好きでいてくれたのか、改めて聞いた事はなかった。

(子どもの頃から、ずっと?新一が、わたしの事を?)

新一が蘭に対して、いつもいつもさり気なく優しさをくれていた事は、少し思い起こせば沢山、心当たりがある。
ずっと後になって、母親の英理や他の人から聞いた、蘭の知らない所で助けてくれていた例も、少なくない。

新一が蘭の傍にいなかった、高校二年のあの頃。
蘭は、新一の不在以上に、新一の気持ちが見えなくて、切なく辛い思いをしていた。

(もしかしたらわたし……新一に、ずっと、あの頃のわたしみたいな思いを、させていたの?)

蘭は新一の傍にずっといて、離れる事はなかったけれど。
傍にいながら、残酷な事を言ったりしたりして来たように思う。

「あ……!」

沢村菜穂美の件で、蘭が新一に何を言ったのか。
蘭は唐突に思い出してしまった。

(今日の新一の表情は……拗ねた顔、だったんだ……!)

 蘭の胸に温かな思いが満ち。
あの頃の新一の切なさを想うと、涙が滲んで来た。

「どうした、蘭!?」

新一に突然声をかけられて、蘭は慌てる。

「ど、どうもしないわ。玉葱がちょっと目に沁みちゃって……新一こそ、どうしたの?」
「いや、蘭がいきなり引っ込んで、出て来ねえから……」
「うん、ご飯の支度しなきゃって思って」
「そ、そうか。ごめんな、急に四人分の夕飯、頼んで。何か手伝おうか?」
「今日は、お客さんだから良いよ。新一は、水島君と沢村さんの相手をしてて」

新一は、納得した様子ではなかったが、蘭に言われて踵を返す。
蘭は、その後ろ姿に呼びかけた。

「新一!」
「ん?」

振り返る新一の胸に蘭が飛び込み、新一は驚いた様子で蘭を受け止めた。

「わたしは、わたしはね。中学生だったあの頃、まだ、恋心に目覚めていなかったかも、しれないけど」
「……」
「新一以外の男の人が、わたしの一番に座った事は、ないよ?あの時だって、新一はわたしの一番だった」
「……うん。ありがとう」

新一は、蘭の顔を上げさせると、その額に軽い口付けを落として、リビングへと向かった。



   ☆☆☆


 
「……今から考えたら、あの頃からすでに工藤先輩は、探偵してましたけどね。高校生探偵としてデビューした時は、驚きましたよ」
「でも、サッカーを止めたって聞いた時は、正直、ガッカリして腹が立った。工藤先輩は、わたしの……わたし達の憧れだったのに。サッカーを目指す人達が望んでも簡単に手に入らない技術を持ってるのに、工藤先輩にとってサッカーって、そんなにあっさり捨てられる程度のものだったのかって」
「都大会決勝試合を見た比護選手に、工藤先輩一人だけが、一緒にやらないかって、声をかけられた程だったのに、オレも正直、ガックリしましたよ。工藤先輩なら絶対、国立でその雄姿を見せて、Jリーグ入りするって信じてたのになあ」
「……わりいな。子どもの頃から、オレの目標は探偵だったんだ。サッカーは、そりゃ出来る事なら、続けたい気持ちもあったけど、いつ事件に駆り出されて練習や試合に穴を開けるかもわからない。個人競技じゃねえんだから、チームに迷惑をかけちまうなら、止めるしかねえって、思ったんだよ」

蘭は、新一の言葉に、少し驚いていた。
以前、新一は、「サッカーは探偵に必要な体力作りの為にやってただけ」と聞いた事があったけれど。
昔も今も、あんなにサッカーが好きだった新一が、「体作りの為だけ」と割り切ってやっていた筈、ないのに。

都合の良い時だけ練習に出て、試合に出て、では、部活として示しがつかない。
だから、新一は自ら、チームメートに迷惑をかけない為に、身を引いたのだ。

「探偵としてのオレは、沢村がオレに足りないって言ったマリーシアを、思いっきり発揮してる」
「まあ、工藤先輩が真っ直ぐなのは、サッカーに関して、でしたからね」
「何だよ、それ?」
「あはは、そうかもしれないですね」

会話を聞きながら。蘭は、ふと考える。
新一はいつも、何にでも真っ直ぐで、結構熱い人間だ。
けれど、探偵という場では、必要に応じて、自分のそういう部分を抑えて駆け引きする術も身につけている。
新一がサッカーで身につけたのは、体力だけではなかったのかもしれない。

「ところで、水島、沢村。今日呼び出された肝心の用事を、オレは聞いてねえんだけど」
「……工藤先輩。オレ、菜穂美と結婚しようって、考えてんです」
「そっか。それは、おめでとう」
「けど、共に全日本で活躍する二人が結婚とかってなったら、浮ついてるとか、言われそうで。オレはまだともかく、菜穂美が……」
「いや。むしろ、ハッキリさせないでズルズル付き合う方が、下手にスクープされたりすっと、色々言われちまうと思うぜ。キチンと婚約発表して、挙式してしまった方が、良いんじゃねえか?」
「そうですかねえ」
「結婚で何のかんの言う奴は、試合でキチンと結果を出す事で、自然と黙るさ」

新一の言葉に、二人は大きく頷いた。

「何なら、結婚式、オレ達と合同でやるか?」
「もう、新一!何言ってるのよ!?」
「ははは、そりゃ、冗談だけどな。沢村が入部した当初、あんなに反発し合っていた二人が、結婚するまでになったなんて、先輩のオレとしちゃスゲー嬉しいよ」

蘭の胸に、何かがまた引っかかる。

新一は、中学生の頃もずっと蘭の事が好きだったと言ってくれたから、あの頃蘭が勘繰ったように、新一が菜穂美の事を好きだったとか、そういう事はなかったのだと、今はわかるけれど。

(沢村さんは、新一の事、好きだったとか、そういう事はなかったのかな……?)

蘭の胸につかえていたものの正体が、ようやく見えて来た。

今、菜穂美が水島の事を好きで、真剣に結婚を考えているのは、疑いない事だろう。
ただ、あの頃、菜穂美はもしかして、最初は新一の事が好きだったのでは?

蘭の胸につかえていたのは、何となく後ろめたい罪悪感だったようだ。


食後、蘭と新一が、食器を台所に下げていると、菜穂美が台所にひょいと顔を出した。

「お手伝いしましょうか?」
「沢村さんは、お客さんだし、座ってて」
「水島さんが、工藤先輩と二人だけで話したいみたいだから……ダメですか?」
「そう?じゃあ、お願いしようかな。新一」
「ああ、分かった。じゃあオレ、あっちに行くから」

そう言って、新一は二人分のコーヒーを持ち、リビングの方に去って行った。
菜穂美は、蘭と並んで、皿洗いを手伝う。

「ねえ、沢村さん」
「はい、毛利先輩?」
「水島君って……沢村さんの初恋?」

さすがに、「昔新一の事好きだったんじゃない?」とは言いだせずに、蘭は持って回った言い方をした。

「多分、そうですね」
「……多分?」
「まあ、憧れとか、そんなのは色々ありましたから。でも、ちゃんと、一人の男の人として好きになったのは、水島さんが初めてだと思います」
「何か、あの試合の時は、随分意地悪もされてたみたいだけど?」
「意地悪なんかじゃないです。試合の時、敵側の弱いとこつくのは、正当な事だし。あの時、真剣にわたしに向き合ってくれた事、嬉しかった」
「……新一の事は……?」
「あはは。やっぱり」
「え?やっぱりって?」

蘭は、洗い物の手を止めて、菜穂美を見やった。

「何となく、わたしに何か言いたそうだなって感じたんで、毛利先輩と二人でお話したかったんです」

そう言って、菜穂美は屈託なく笑った。

「そうですね。工藤先輩は、憧れでした。でも、それって、工藤先輩が女性であっても、同じだったと思うんですよ。あの時、わたしを入部させてくれた工藤先輩には、ホント、感謝してますけど。わたしと対等に向き合ってるんじゃなくて、すごく力を持っている先輩としての余裕だったって、わたしは思うんです」
「沢村さん……」
「わたし、工藤先輩がサッカーを止めた時、本当にガッカリして、失望したんですけど。それってやっぱり、一人の男の人として好きってより、すごいサッカー選手としての憧れの気持ちだったって、思うんですよね」
「そういうものなの?」
「毛利先輩は?さっき、空手をされてるってお聞きしましたけど、空手の先達で、恋をした相手とか、いらっしゃったんですか?」

蘭は静かに首を横に振った。

「ううん。わたしは、新一が初恋だもの」

蘭は、自分が空手を始めるきっかけになった、前田選手の事を思い出す。
確かに、すごく憧れた。
けれど、それは恋とは違う。

そうか、菜穂美の新一への気持ちも、それと同じだったのかと、ようやく蘭の中で全てがストンと落ちた。

「……幸せになってね」
「はい!お互いに!」
「それと。サッカー、頑張って!」
「はい!工藤先輩の分も、頑張ります!」


二人はようやく、心の底から笑い合った。そして、二人でお茶を入れ、お互いの愛しい相手がいるリビングへと向かったのだった。




Fin.


++++++++++++++++++++++


<同人誌版後書きより>

今回の本は、映画のスピンオフ「ファンタジスタの花」本です。まあ、多分、あれを見てなくても支障なく読めるかな?
今年は、映画本編が好きになれず、むしろスピンオフの「ファンタジスタの花」で萌えた私。

とは言え、あの作品の中での中学時代の蘭ちゃん。
まだ恋心に目覚めてなかったとしても、もうちょっと位、悶々としても良いんじゃないかなと、思ったのが、このお話を書いた切っ掛けですが。
自分でも、キチンと消化できたのか、よく分かりません。

そして、「ファンタジスタの花」の中での、オリキャラ同士を、勝手にくっつけちゃいました。
菜穂美ちゃんって、新一君の事好きなのかなってちょっと思ったんですけど、「恋心はなかった」って事で処理しちゃいました。



<サイトアップに際しての後書き>

当日朝に印刷製本といういつにも増しての突貫工事だったため、自分で書いておきながら、こんなお話だったのかと妙に新鮮に感じているドミです。
蘭ちゃんが新一君のことを男性として好きになったのは大分遅いとは思いますけど、それでも、中学生の頃、もうちょっとくらいは悶々としていて欲しいなと思う。
最近の、どこかでの御大の言葉で、もしかして蘭ちゃんには新一君以外に初恋の人がいる可能性がありそうな……もしそうだとしたら、多分私は、すごくガッカリするだろうなと思います。


初出:2012年5月3日
サイトアップ用脱稿:2018年7月1日
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