広い河の岸辺



byドミ




「テルテル坊主〜テル坊主〜、あした天気にしておくれ〜」

蘭の澄んだ歌声が、工藤邸のリビングに響き。
蘭は、テルテル坊主を吊るしていた。

「ああ。そういえば、明日は七夕だもんな」
「うん!織姫と彦星が会えなかったら、可哀想でしょ!わたしのテルテル坊主は、絶大な効果があるんだから!」

工藤邸の主の息子で、現在の住人である工藤新一は、幼馴染兼恋人の行動にふっと微笑むと、テーブルの上にコーヒーを置いた。

工藤新一・毛利蘭。
2人共に帝丹高校3年生。

蘭は最近、この工藤邸に来て一緒に勉強することが多くなった。
蘭の父親である毛利小五郎は、蘭が独り暮らしの新一の家に行くことにいい顔はしなかったが、門限を守って帰って来る限りは、うるさい事は言わない。
実際、工藤邸で新一と勉強した方が、受験勉強がはかどるのは確かであった。

帝丹高校では学期末試験の真っ最中で、明日7月7日はその最終日である。
工藤邸のリビングで2人は勉強をしていたのだが、ちょっと息抜きに新一がコーヒーを淹れに立ち、蘭はその間にテルテル坊主を吊るしていたのだった。
ちなみに、蘭のテルテル坊主は、昔、新一の大事な試合の時に、必ず晴れるという実績があった。

「あー!新一、バカにしてるでしょ!」

新一の微笑みを、蘭は、「バカにされた」と感じたようである。

「んあ?オメーのテルテル坊主に効果があるのは実証済みだろ?バカになんかしてねえさ」
「そうじゃなくて!織姫彦星の話よ!」
「ああ……」

蘭は、プンスカむくれながら、新一が淹れたコーヒーに口をつけた。
元々蘭は、自分で飲むなら紅茶派だが、工藤邸のコーヒーは良い豆を使っているので、工藤邸で勉強をする場合には蘭もコーヒーを飲むことがある。

「蘭。オメーさ、オレが非科学的なことには全く見向きもしねえ人間だって、思ってるだろ?」
「え……そういう訳じゃないけど……でも、さすがに、織姫彦星は信じてないよね?」
「はははっ。それはオメーだって一緒だろ?まさかこの年になっても本気で織姫と彦星の話を信じてるわけじゃねえだろ」
「うん……でも……」

蘭は、空を見上げた。
梅雨の真っ最中の今、空はどんよりと曇っている。

「七夕の雨は、色々なことを思い出してしまうから……」
「蘭……」


蘭が7歳の時、蘭の母親・英理が、些細なことで夫の小五郎と喧嘩して家を出て行った。
幼い蘭が短冊にいつも、「お母さんが早く帰ってきますように」と願い事を書いていたのを、新一は知っている。

そして七夕の日に雨が降ると、蘭はいつも泣いていた……。


「……おばさんも、何だかんだで、最近は機嫌を直しそうな感じだし。そろそろ帰って来んじゃねえか?」

新一の言葉に、蘭は目を丸くした。

「もしかして……新一、わたしがお母さんが帰って来るように願掛けしてるって、思った?」
「えっ?違うのか?」
「違うよ。そりゃ、今でも子どもの頃お母さんが出てって寂しかったことを思い出すと切なくなるし、今も、早く帰ってきて欲しいって思ってるけど。でも、今は……」
「蘭?」
「わたしね。織姫と彦星のお話、子どもの頃はちっとも分からなかったの」
「は?」
「だって……男と女の話でしょ?子どもだったわたしに、分かる訳、ないじゃない」
「蘭?」
「そりゃ、恋人に会えないってのは可哀想だなって思ったけど。でも、好きな異性に会えない寂しさなんか、あの頃のわたしには、分からなかったから……」
「そ、そうか……」

新一の胸中に複雑な思いが満ちる。
新一が蘭に「恋をした」のは、物心つくかつかないかの頃で、記憶にある限り、新一は蘭を「女性として」愛していた。
幼い頃から既に、新一にとって蘭はただ一人の女性であり、親より大切な存在だった。

けれど蘭にとって新一は、幼馴染の仲の良い相手に過ぎなくて。
蘭が新一を1人の男性として意識して好きになったのは、割と最近のことであるのを、新一は知っている。

「わたしが、新一のことを1人の男性として好きだって意識したのは、高校になってからだし」
「あ……そ、そうなんだ……」

蘭が新一を恋する相手として意識し始めたのはそう昔の事ではないだろうと予想はついていたが、ハッキリ言われて、新一は結構落ち込んでいた。

「中学生のころまでは、恋する気持ちなんて、分かってなかった」
「はいはい。まあわかってたけどさ。オレが長い間片思いだったってことはな」

新一が自嘲気味に言うと、蘭は首を振った。

「そうじゃないの。そういう事を言いたかったんじゃなくて……」

蘭の言葉が途切れた。
新一はじっと蘭の言葉を待つ。

「去年の七夕の時、新一がいなくて……」
「あ、ああ」

昨年の七夕と言えば、新一がコナンになってしまっていた頃である。
蘭が新一を思って泣くのを、心痛めながら、しかしどこか「蘭に想われている」喜びを持って、コナンになった新一は見ていた。

「もうね。織姫彦星の伝説なんか、信じている訳じゃなかったけど。わたし、あの時初めて、織姫と彦星のつらい気持ちが理解できたの……」
「蘭……」

新一は、目を見開いた。
同時に、蘭にはよほど辛い思いをさせていたのかと、改めて考える。

「勘違いしないで。別に、新一を責めてるんじゃない。新一にはどうしようもない事情だったんだって、今は分かってるし。ただ、あの時……好きな人と離れ離れにならないといけなかった、織姫の気持ちが、初めてわかって……わたし、七夕の時、短冊にいつも自分の願い事を書いていたけど、織姫を思いやったことなんて一度もなかったなって……そんなわたしに、ちょっと自己嫌悪になって」
「蘭?」
「だから、だからね。織姫と彦星なんていないって、もう、分かってるけど……でも、あの2人のために、雨が降らないで欲しいって……無事、会えて欲しいって……だから、テルテル坊主を吊るそうって思ったの」
「そっか……」

恋心が理解できなかった幼い蘭が、織姫たちの気持ちを思いやれなかったからといって、罪の意識を感じることもないだろうに。
他人のことでも我がことのように考えて涙を流すお人好しの蘭らしい話だと、新一は思った。


「明日……晴れるといいな。いや、蘭がテルテル坊主を吊るしたから、きっと、晴れるだろう」
「そうね……」


とりあえずそこで話は終わり、2人は再び勉強を始めた。



   ☆☆☆



そして、学期末試験が終わり。
あとは夏休みが来るのを待つばかり。

とはいえ、受験生の夏は遊んでばかりもいられないのだが。
少し、一息つけるのは確かだった。


「さすがに蘭のテルテル坊主は、威力があるよなあ」

新一は、予報に反して綺麗に晴れ上がった空を見て、独りごちた。
新一にしろ、大阪の服部平次にしろ、探偵なんぞをやっていて、事件に関しては人外の力なんてものを考えもせず、普段理屈ばかりこねている所為か、オカルト的なことについては全く信じていないという風に、周りからは見られがちなのだが。
実は神仏に祈ることもゲン担ぎもするし、人外の不思議な力というものも信じていたりはするのだった。

新一がコナンだった頃、蘭が「晴れてコナンが遠足に行けるように」と吊るしたテルテル坊主を、平次がそっと外していたことがある。
平次も、蘭のテルテル坊主の威力を信じていたのだ。


試験期間は部活が中止だったが、期末試験が終われば、部活は再開される。
蘭は数日ぶりに空手部の活動をやっている筈だ。

新一も用事がなければ図書室で蘭の部活が終わるのを待つ積りだったが、新一の試験終了を手ぐすね引いて待っていた警視庁からの呼び出しで、あっさりと予定変更となった。
帰宅したのは、かなり遅い時刻である。

新一が帰宅したとき、家に灯りがついていた。
玄関を開けると、見覚えのある靴があり、美味しそうな匂いが漂っていた。


「お帰りなさい、新一」
「蘭……」

笑顔で迎えてくれたのは、恋人。
しかも、ご飯を作って待ってくれていたらしい。

「久しぶりの部活で、疲れてたんじゃないか?」
「それでグッタリしてしまうほど、やわじゃないわ」
「あ……その、ありがとな」

新一のために時間を作ってご飯を作りに来てくれた恋人に対して、お礼を言うべきだろうと、新一は考えたので、素直に口にした。

「ありがとうって、何が?」
「や、その……飯、作りに来てくれて」
「ご飯は、ついでなの」
「つ、ついで……って……」
「ありがとうって言うのは、わたしの方よ」
「えっ?」
「とりあえず、いつまでも制服着てないで、着替えて来たら?」
「あ、ああ……」

蘭が新一に「着替えたら?」と勧めるのには、特別な意味はない。
単純に、制服のまま食事をすると制服を汚すかもしれないから、というだけの事だ。

今日は蘭も私服に着替えている。
部活後、一旦帰宅してから、ここに来たのだろう。


とりあえず、新一は、蘭が作ってくれたご飯を食べた。
長いこと毛利邸の主婦をしてきた蘭は、料理上手だと思う。
しかも、新一の母親有希子から料理を教わっているため、新一好みの味だ。

蘭の母親英理は、何でも完璧にこなす人だが、何故か料理の味についてだけは破壊的だ。
蘭が作る料理なら、たとえ英理と同じ味でもありがたく食べられるだろうと新一は思うが、実際の蘭は料理上手で新一好みの味付けをしてくれて。
本当に幸せだと新一は思う。

2人ともまだ高校生だけれど、新一は、将来、蘭と結婚すると、固く心に決めている。
できればそう遠くない将来、そうなりたいと思っている。


そろそろ蘭の門限が近い。
新一は立ち上がった。


「蘭、送って行くよ」
「新一。今夜、泊めてくれない?」
「は?」

新一は、蘭の言葉に目を丸くした。
そして、慌てる。

「いや、まじいだろ、そりゃ!お、オレは嬉しいけど……その、おっちゃんが……」


新一と蘭は、今年、新一の18歳の誕生日に一線を越えた。
それから2か月間、何度か体の関係を持っている。

ただ、お互いに高校生だし、門限は守るようにしていた。
新一の両親が不在である工藤邸に、蘭がお泊りしたことはない。

「大丈夫。お父さんとお母さんは、ちゃんと説得して来たから」
「蘭……」

本当に小五郎たちが納得してくれたのか、半信半疑だったが、蘭がそこまで言うのであれば、新一としては拒む理由は何もなかった。



   ☆☆☆



腕の中にいる恋人の柔らかさ温かさを感じながら、新一は無上の幸せに浸っていた。

梅雨の晴れ間の今夜。
灯りを消した工藤邸の窓からは、信じられないほどの星が見えている。

日本では織女(織姫)星と呼ばれるヴェガ、牽牛(彦星)のアルタイル、そして白鳥座の一等星・デネブ……。
ヴェガとアルタイルは、(当たり前だが)ちっとも近寄っているようには見えないけれど。
この晴れた夜空を見ていると、きっとあの2人は無事会えただろうと、新一には思える。

元々、七夕伝説は旧暦の7月7日だから、今の暦で言えば8月上旬なのだけれど。


蘭が身じろぎして、ふっと目を開ける。
その黒曜石の瞳は、夜空の星より美しいと、新一は思った。

「織姫と彦星は、無事、会えたかしら?」
「ああ。きっとな。蘭のテルテル坊主のお陰だよ」

蘭は、少し目を見張ると、新一の口の端を少し摘まむ。

「な、なひふんだ(何すんだ)?」
「新一ってホント、甘いわよね」
「……は?」
「七夕伝説なんて信じてもいないクセに、サラッとそういう事言っちゃえるんだから」
「や!オレだってな!あの星空見てたら、そういう事だってあるかもって気になることくらい、あるぜ!」
「バカ。責めてるんじゃないわよ」
「ら、蘭?」

蘭の目が潤み、視線を落としたので、新一は慌てまくる。

「新一って本当に……わたしをとことん、甘やかすんだから」
「は?や、そんなことはねえと思うぜ?」
「そんなこと、あるのよ」

蘭が優しく微笑んで、新一を見つめる。

「……新一が、ずっとずっと……わたしのこと……わたしに愛を与え続けてくれてたって、最近、ようやく分かったの、わたし」
「蘭?」
「子どもの時、お母さんが出て行ったあとね。わたしの心に降り積もり続ける寂しさを融かして、凍えるわたしの心をあったかくしてくれたのって……新一だったの」

蘭が新一の首に腕を回し、首筋に顔を埋める。
新一は、蘭をしっかり抱きしめると、その髪を撫でた。

「新一がいっぱい優しさをくれたから。新一がいっぱい、愛をくれたから。だから、お母さんがいない寂しさに、耐えることができたの。でもわたし……新一がわたしにとってどんなに大切な存在なのか……長い事、気付けなかった。ごめんね」
「蘭……」
「……去年の七夕、新一は、わたしの傍にいなかったけれど……」
「あ、ああ。そうだったな……」
「でも、今になって思えば、新一はその頃、大洪水の天の川を、必死に泳ぎ続けてくれてたんだなって……」
「は?」
「まだ恋人にもなっていなかったわたしのところまで戻ってくるために、新一がどれだけ大変な思いをしていたのか。大洪水の天の川を彦星が泳いで渡ろうとするくらいの努力をしてくれたんだって、わかったから……」
「ら、蘭……」
「……子どもの時、今夜は織姫と彦星が会えないねって、わたしが泣いた時、新一が……『大丈夫だ、どんなに広い川でも、彦星は必ず泳いででも渡って織姫のところに行くから!』って、言ったんだよ」
「へっ!?そ、そうだっけ?」
「カササギ伝説を話してくれたり、とにかく『雨が降っても彦星は必ず川を渡るから大丈夫だ』ってことを、いっつも強調してた」
「……ま、まあそうだったかも……」

新一は子供の頃から、蘭を泣かせまいと、辛い気持ちにさせまいと、新一なりに頑張ってきたのは確かだった。
それは決して蘭の歓心を得ようという下心があった訳ではなかったのだが。

「あの頃のわたしに、恋する気持ちとか、恋する相手と引き離される辛さとか、分かってたわけじゃなくて。織姫と彦星が会えないって泣くのは、お母さんが出て行ってしまった寂しさを重ねていたんだと思うの」
「……そうかもな」
「でも、今になって思うのよ。新一は……何があってもきっと、わたしの所まで来てくれるんだって。広い川の岸辺に立つわたしのところに、新一は必ず、どんなことをしてでも、川を渡って辿り着いてくれる」
「蘭……」
「天上の恋人たちは、雨が降っても何とかして会えるのかもしれない。でも、やっぱり、晴れていた方が良いなって思って……」

何となく、新一にもわかった。
蘭は、年に一度しか会えない恋人同士が、少しでも早く会えて長く一緒に過ごせるようにと、テルテル坊主を吊るしたのだ。

「新一はわたしのために、広い河を泳いで渡ってくれた。だから今夜は、新一の傍にいたいって、そう、思ったの……」

新一はそっと蘭の唇に自分の唇を重ねた。
唇を離して、照れながらお互いの目を覗き込み額と額をこつんと合わせ……また、唇を重ねた。


新一はもう一度星空を振り仰ぐと、カーテンを閉めた。
今夜は、天上の恋人たちにも地上の恋人たちにも、最良の夜。




Fin.



2014年7月12日脱稿

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