恋の種



By ドミ



(17)



 蘭が目覚めたとき。状況を理解するまでに、時間を要した。

 蘭は、見知らぬ部屋のベッドの中で、寝間着を着て、寝ていた。外はすっかり明るくて、日の短い今の時期、朝遅い時刻になっていると思われた。枕元に蘭の携帯があり、時刻を確認すると、8時を過ぎていた。
 幸い、今日の午前中は講義がない。(だからこそ、昨夜安心して飲んでしまったのだが)

 蘭は昨夜、したたか酔っぱらってはいたが、その時のことを忘れているわけではない。新一の車に乗って少し経ってからの記憶がないのは、寝落ちしてしまったからであろう。
 ここが新一の家であることは、間違いないように思える。この部屋は、客間だろうか?それにしては、部屋の中に生活感があるように感じる。ふと、布団から、かすかに新一のにおいがして……蘭はここが新一のベッドであることに気付いた。

 目覚めたのが、新一のベッドで。いつの間にか寝間着に着替えていて……。「まさか」という思いに、蘭は思わずわが身をかき抱いた。

 ドアが外からノックされた。「蘭、入っても良いか?」と新一の声がした。蘭は上ずった声で「ど、どうぞ」と答えた。新一がドアを開けて入ってくる。蘭は、わが身を守るようにかき抱いて新一を迎えた。

「し、新一……まさか……その……ゆうべ……わたしと……?」

 新一は、大きく息を吸い込み、顔を抑えて俯いて言った。

「すまん。責任は取る……」

 蘭はぶちっと切れた。枕だのなんだの、手当たり次第に新一に投げつける。

「いやーっ!ひどい、ひどい!信じてたのに〜〜っ!新一のバカ〜〜〜〜っ!!!」
「ちょ、ちょっと待て蘭、落ち着けっ!」
「何が落ち着けよ、ひどい〜!わたしのバージン、返せ〜〜っ!!」

 憎らしいことに、新一は、枕などの柔らかいものは受け止めたが、固いものはひょいひょいと避けていた。
 と、そこへ。

「こら!蘭ちゃんがパニクってるでしょ!悪ふざけしないの、新ちゃん!」
「って〜〜〜〜っ!」

 新一の背後から現れて、新一の頭に鉄拳を落としたのは、新一の母親・工藤有希子だった。

「え?有希子おばさま?」
「大丈夫よ、蘭ちゃん。昨日、蘭ちゃんを部屋まで運んで寝せたのは新一だけど、そのあと着替えさせたのは私だから。新ちゃんは蘭ちゃんに指一本触れてないわ!蘭ちゃんの下着姿も見てないからね!」
「まさか、蘭が真に受けるとは思わなかったんだよ。いくら寝つきの良い蘭でも、そういうことされて気付かない筈ねえと思うし……」
「そんなこと言われたって!経験ないんだから、分かるわけないじゃない!新一のバカっ!」


   ☆☆☆


 蘭が着替えて洗面を済ませ、2階の新一の部屋から1階のダイニングに降りて来た時には、新一は「仕事」に出かけており、有希子が蘭の朝食を準備して待っていてくれた。

「有希子おばさま……お世話かけます。先ほどは……取り乱してしまって、すみません」
「いいええ。あれは、悪ふざけした新ちゃんが悪いんだから、気にしないで」
「……は、はい……」
「蘭ちゃんにちゃんと意識があって、2人の意思でっていうことなら、構わないと思うけど……さすがに、眠っている蘭ちゃんに何かするのは、私が許さないわ」
「いえ……その前に、新一は絶対にそんなことしないです……今朝はその、パニクってしまったんで、疑っちゃったけど……」

 朝食は、手作りパンケーキにベーコンエッグとサラダ、パンケーキにはホイップクリームとフルーツが添えてある。久しぶりの有希子の料理に、蘭は舌鼓をうった。

「おいしー、おばさまの作るお料理、最高です!……お世話かけてすみません……」
「蘭ちゃん、ありがとう。でも、蘭ちゃんはいっつも、新ちゃんにご飯作ってくれるんでしょう?ありがとうって言わなきゃいけないのは、こっちの方よ!もう新ちゃんったら、あれだけ特訓したのに、なかなか身につかなくて……」
「でも、新一……新一君は、最近、ちょっと手際が良くなってきましたよ」
「……そう。それはやっぱり、蘭ちゃんに負担をかけるのは申し訳なくなって、真剣に頑張ってるからでしょうね。たぶん、自分の分だけなら、面倒な料理をするより出来合いを買う方が良い、って感覚なのよね〜」

 蘭の食後、有希子は、紅茶を2人分淹れた。

「新ちゃんと優作はどっちかといえばコーヒー派なんだけどね」
「わたしは、紅茶の方が好きで……今、ここで淹れるのは、紅茶とコーヒーと半々くらいですね……」

 有希子が蘭の向かい側に座り、紅茶に口をつける。

「蘭ちゃん……新ちゃんとお付き合いを始めたんですって?」
「あ……えっと……はい」

 敢えてわざわざ、「予約」なんて言わなくて良いだろうなと蘭は判断し、頷いた。

「もう、新ちゃんったら……そんなうれしいことを、全く報告してくれなくて!英理から聞く羽目になっちゃったのよ、ったくもう!」
「え?あ……すみません……」
「やだあ、なんで蘭ちゃんが謝るの!?悪いのは、あの愚息だから!蘭ちゃんが、新ちゃんの彼女になってくれて、こんな嬉しいことはないわ!」
「おばさま……」
「いつか遠からず、蘭ちゃんから、お母さんって呼ばれる日が来ると思うと……もう、もう……ああ、待ち遠しいわ!実は今回、優作も来たがってたんだけどね、今締め切りの追い込みで……日本でも原稿は書けるけど、移動に時間ロスするわけには行かなくって……」

 有希子が、両頬に手を当てて身をくねらせた。蘭は驚いたが、有希子が心から喜んでくれているのは、よく分かった。

「わたし……新一にも、有希子おばさまにも、こんなに大切にしてもらえて……本当に幸せです……」

 蘭は、今朝の新一の悪ふざけを思い出していた。あの時は、腹立たしいばかりだったが……よく考えたらちょっと前までの新一は、そんな悪ふざけすら出来ない状況だったのだ。蘭がほかの男のものになることはないということで、心の余裕が出来てきたのだろう。

 有希子が、テーブルの上で蘭の手をぎゅっと握った。

「おばさま?」
「蘭ちゃん……実を言うと、私と優作は、新ちゃんをアメリカに連れて行ったこと、ずっと後悔してたわ……」
「え!?ええっ!?」
「まだ、中学2年、14歳だったあの子を、親と一緒にいることが当然だからって、半ば強引にアメリカに連れて行って……とは言っても、蘭ちゃんと連絡とったり、時々日本に帰ったり、すれば良いかなって思ってたのよ。状況によっては、日本の大学に行っても良いしって。でもね、あちらで……詳しいことは言えないんだけど、大きな事件に巻き込まれてねえ……まだ中学生だった新ちゃんも、無関係では居られなかったのよ」
「おばさま……」
「あの子は、愚痴ひとつ零さずにその状況に耐えて。元から能力はある子だと思ってたけど、知識・資格・技術を身に着けるために、相当頑張ってたわ……でも、時々、遠い目をしているあの子を見ていると、日本に置いて来れば良かったって、どれだけ後悔したことか……」

 有希子の手が蘭の手を握る力が、強くなった。

「あの子が頑張れたのは、蘭ちゃんの存在があったからよ。事件が解決して、上級探偵資格を取って大学を卒業したら、そしたら蘭ちゃんの居る日本に帰るんだって目標を持っていたから、だからあの子は頑張れたの……ありがとう……」
「おばさま……」

 蘭の目からぶわっと涙が溢れる。新一がそこまで蘭のことを思い続けてくれていたことが嬉しくて切なくて申し訳なくて。

「新ちゃんは、一生片想いでも耐える覚悟をしていたみたいだけど……蘭ちゃんが新ちゃんの想いに応えてくれて、すごく生気に溢れた穏やかな顔になったわ……蘭ちゃん、本当にありがとう……そして、新一のこと、よろしくね……」
「お、おばさま……わたしこそ……新一にそこまで想ってもらえて……本当に幸せ者だと思います……」
「あと、問題は小五郎君ね……まあ、時間をかけるしかないんじゃないかなあ」

 蘭は俯いた。

「蘭ちゃん、どうする?しばらくここに泊まるなら、客間の準備をするけど。昨夜は準備が間に合わなくて、新ちゃんのベッドに寝てもらっちゃったけどね」
「そういえば……新一は昨夜、どこで寝たんですか?」
「リビングのソファの上よ」
「……」

 蘭は、考え込む。たとえ蘭が工藤邸で暮らしても、新一は、蘭がゴーサインを出さない限り、手を出してくることはないだろう。
 工藤邸に有希子がいることで、父親の態度も、多少は軟化するかもしれない。

 けれど……蘭は、考え込む。このままで良いのかと。
 今回のことは、冷静に考えたら、蘭の失態だと思う。小五郎に事前にきちんと説明しておくべきだった。それで小五郎が「ゆるさ〜ん!」と言ったとしても、蘭が「どうしても行く」と言い張れば良かっただけだ。

 小五郎は町内会の旅行に出ていたが、2泊3日の最終日、朝の内に帰って来るもので。そこで小五郎は、家の中の様子に、蘭が泊りがけで出かけてしまっていたことに気付いたのだろう。小五郎は、家族に関してなら、探偵としての能力を遺憾なく発揮できるのだ。
 蘭が小五郎に黙って出かけたことで、母親はともかく、新一にも有希子にも、迷惑をかけてしまったと、蘭は思った。


「おばさま。わたし……1回、家に戻ります」
「蘭ちゃん?」
「まあ、また喧嘩したら、家出して来るかもしれませんけど……」
「蘭ちゃん……」
「お父さんが何と言おうが、わたしは……新一とのお付き合いを辞める気はないですし、いずれはきっと……新一に全てをあげて……新一と結婚する日が来ると思います」
「……ら、蘭ちゃん……」
「別に、軟禁されているわけじゃないんだから、わたしはわたしで、好きに過ごします!まあ、時間を掛けて、お父さんが納得してくれるように、頑張りますよ!」
「そっか……」
「でも。このまま家に帰ったんじゃ、新一を心配させると思うんで、今日は、大学の講義が終わったら、おば様と一緒にご飯を作って、みんなで夕ご飯を食べてから、家に帰ります」
「分かったわ、蘭ちゃん。まあ、私達には息子しか居ないし、小五郎君の感傷はどうしても分からないけど……彼が一人娘の蘭ちゃんをとても大切に思っていて、その幸せを願っていることは間違いないんだから……いずれは折れてくれる筈だって思っているわ」


 蘭は、有希子に送られて(例のジャガー車は家に残してあり、新一はどうしたのか聞いたら、パトカーで送迎されているとのことだった)大学に行き、そして有希子に迎えに来てもらって買い物して工藤邸に帰り。有希子と一緒に夕ご飯を作った。
 夕ご飯を作り終わった頃、家の前に覆面パトカーが到着した。蘭は、玄関を開けて出迎える。

「新一、お帰りなさい……えっ!?」

 新一と一緒に覆面パトカーから降りて来たのは、小五郎だったのだ。



   ☆☆☆



 小五郎と新一は、同じ事件の解決のために警察に呼ばれ、ようやくひと段落させて来たということだった。
 やや気まずい雰囲気の中、4人で食卓を囲む。

「蘭ちゃん、昔よりずっと料理の腕が上がっちゃってえ。お嫁に来てくれたら、新ちゃんの食生活が潤うわねえ」
「ふん!結婚はまだ許さん!」
「……お父さんに許してもらわなくても、わたしはもう成人してるんだから、いつでも結婚出来るんだけど」
「お、おい、蘭!そ、それは……」

 その場に、やや険悪な空気が流れた。

「おい!探偵坊主……実は最近、オレの食生活は、随分乾いて来てる!」
「えっ!?蘭が家出したからですか!?」
「バーロ。もう何か月も前からだ!オメーが帰国してから、蘭は家ではいつもうわの空で、毛利家の食生活はどれだけ手抜きで貧しくなったことか……!」
「ええっ!?そ、そうだっけ……!?」

 蘭自身にも、毛利家での食事が手抜きになっているという自覚がなかった。でも、よくよく考えてみると、そうだったかもしれないと思う。

「まあ、それは良い。普通だったら遊びたい盛りの娘が、文句ひとつ言わず、勉強を頑張るかたわら、毛利家の家事一切を取り仕切って来たんだからな。それは、俺と英理が蘭に申し訳なく思わなけりゃいかんところだ」
「お父さん……」
「蘭も、もう20代、恋愛の一つや二つ経験していても当たり前だということは、頭では分かってる。だがな……親の欲目抜きに、素晴らしい娘に育った蘭を、簡単にさらって行かれたら、たまったもんじゃねえ!」

 小五郎は、大きな溜息を一つ付いた。

「今日、新一の野郎に聞いたが……この前の旅行は、大阪の服部本部長の息子に呼ばれて、泊まる家も別々、何もやましいことはなかったそうだな……」
「う、うん……」
「オメーがちゃんと説明して行かねえからだろうが!」
「だって!お父さん、説明したって、絶対ダメだって言ってたでしょ!?」
「そ、そりゃまあ、そうかもしれんが……さすがに、新一の野郎を投げ飛ばそうとはしなかっただろうよ!」
「……どうだか……」

 蘭がジト目で小五郎を見る。小五郎が大きく息を吐いた。

「で?その旅行の時から、オメーたちは、正式に付き合うことになったんだよな?」

 新一と蘭は同時に頷いた。その動きがあまりにも息が合っていたので、有希子は笑い顔になり小五郎は渋面を作った。

「まあ、オメーも成人してるんだ、恋人の一人や二人作ってもどうこう言わん!」
「ほんとにぃ?」
「あ……まあ、色々言うかもしらんが、いきなり投げ技かけたりはしない!ただ、これからは……きちんと事前に報告してくれ!」
「わ、分かった……」
「あ、だからって、キスしたとかエッチしたとかの報告は要らんからな!」

 蘭が涙ぐんだので、新一も小五郎も、ぎょっとする。

「お父さん……わたし、わたし……お父さんのこと、大好きなんだから!だから、だから……お父さんを嫌いになるようなことは、もう、絶対にしないで!」
「お、おう……分かった……」

 有希子が黙って立って行って、4人分の紅茶を淹れて戻って来た。

「あ!結婚はまだ許さんからな、まだ!」
「……もう、先走り過ぎよ、お父さん!」

 蘭が、笑顔になって言った。


 新一と蘭が食器を片付けに立ち。
 有希子を前にして、小五郎が述懐した。

「蘭のヤツにはまだ自覚がねえようだが……もう、あいつの中の一番は、あの探偵坊主になっちまってんだよ……親として感傷的になっちまっても、仕方ねえだろうが!」
「あらあらあら。うちはねえ……新ちゃんの中の一番は、とっくの昔に、蘭ちゃんだったわよ……親の感傷なんて、はるか昔のことだったわ」

 そう言って有希子が笑い、小五郎はふんと鼻を鳴らした。

 小五郎にとって、癪だったのは、蘭の気持ちの変化だけではない。新一が小五郎に負けないくらいの愛情を蘭に注いでいる、それを認めないわけには行かないことだった。もちろん、それは、父親の矜持にかけて、絶対に口に出来ないことではあったけれど。



(18)に続く


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<後書き>

ん〜?あれ?おかしいな……小五郎さんはもう少し先までごねる筈だったのに、最後、何故こうなった?ん〜私の書く小五郎さんは、ちょっと甘いかもしれないなと思います。


2021年10月9日脱稿
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