恋の種



By ドミ



(32)



 7年前には、「新一は大好きだけど、この気持ちは恋じゃない」と「ごめんなさい」をした蘭が、新一の妻となった。

 蘭は、この7年間を思い返そうとするが。色々と楽しいことも悲しいことも悔しいことも沢山あった筈なのに、新一と再会するまでの6年余りが、まるでカスミがかかったように実感がない。そして……新一と再会してからの10ヶ月足らずは、ものすごく色鮮やかに蘭の心に刻まれている。


「蘭ちゃん。本当に本当に、ごめんなさい……私が、バカだったわ……」

 アメリカに去る前に、そう言って涙したのは、新一の母親・工藤有希子。どういう意味だろうと首を傾げる蘭に、有希子は言ったのだ。

「日本から絶対離れたくないって言った新一に、私が条件を出したの……蘭ちゃんと首尾よくお付き合いが出来たら、日本に残ってもいいわよって……」
「えっ!?」

 だから、新一はあの日突然、告白して来たのか。蘭は合点が行った。

「わ、わたしがあの時……断らなければ……」
「蘭ちゃん。そんなこと、言わないで……!悪いのは、時期が熟してないことを見誤った、私なの!蘭ちゃんは何も悪くない!」
「で、でも……」
「私があんな条件を出したのが、悪かったの……日本に残りたいって言う新一を、そのまま残してあげてれば……ふたりがこんなに苦労をしなくて済んだのに……」
「おばさま……ううん、おかあさま。わたしは今、とても幸せなんです。きっと、新一も……新一さんも、幸せだって信じてます。離れていた分、今の幸せがとても大きいんです。だから……気に病まないでください」

 たらればは、言っても仕方がない。新一が日本に残っていれば、一緒に高校生活を送っていれば、すんなりと恋人同士になったのかどうかなんて、分からない。その場合には、きっとまた別の苦労があっただろうと、蘭は思った。


   ☆☆☆


 恋人同士ではなく夫婦になったことで、一番変わったのは、やはり生活だ。恋人同士だと、どんなに頻繁に泊まろうが、やはりゲストでしかない。けれど……今は新一と寝食を共にし、一緒に家庭運営を行っていく立場になった。
 毎晩、愛する人と一緒に寝る幸せ。蘭としては、ただ抱きしめ合って眠るだけでも良いのだが、さすがに新一の方はそうは行かないようで、毎晩いくども求められる。それ自体は嫌ではない、むしろ幸せだったりするのだが、疲れるのが難である。ただ、新一は、蘭が本当に調子が悪そうなときは無理強いしない。

 家事については、出来る限り省力化出来るように、新一と蘭と相談して、家電を色々と揃えた。食器洗浄機・お掃除ロボット、その他もろもろ。蘭は家事が得意と言っても、工藤邸は、蘭がたとえ専業主婦であっても管理が大変なくらい、広過ぎるのだ。

 蘭の「実家」の方は、英理が少し前に帰って来た。それと共に、いろは寿司の上に「妃英理法律事務所の引っ越し」が行われた。弁護士である英理は超多忙だが、超有能なので、家庭運営は何とかして行くだろう。蘭は、実家のことを心配することなく、自分自身と新婚家庭のことだけを考えて過ごすことができる。


 大学には、旧姓使用届を出し、蘭は大学卒業まで「毛利」を名乗り続ける。
 大学内では、園子以外には既婚者であることを公にしないことにした。学生であっても、成人男女は、もちろん結婚は本人の自由であるが、新一の知名度がかなり高いため、配慮したのである。

 蘭は真面目に頑張って来て、卒業に必要な単位はしっかり取れたので、基本的に殆ど卒論に専念できる。
 新一の補助や工藤邸の家事なども蘭の仕事となるだろうが、それは実家に居た時と変わらない。

 「法学部には卒論がない」という大学は多いが、帝丹大学は、法学部も卒論必須だ。新一は卒論のないアメリカの大学を出ているため、この点について相談はあまり出来ない。
 英理は東都大法学部出身だが、東都大法学部は卒論が無い。ただし、ゼミで卒論に匹敵する膨大なレポートを書く必要があるとのこと。なので、蘭は卒論について英理に相談しながら進めることとした。
 
 蘭は司法試験を受けないが、司法試験を受ける予定の同期生たちは、司法試験の勉強と卒論とを同時進行で行わなければならないため、阿鼻叫喚状態の人も少なくない。現時点でまだ就職が決まっていない同期生たちも、就職活動と同時進行で卒論を書かなければならないので大変そうである。(だからこそ多くの者が3学年の間に就職先を決めるのだが)

 蘭は、家事や事務仕事があるが、就職活動も司法試験の勉強も必要ないので、ある程度落ち着いて残り一年の学生生活を過ごせそうだ。 

「まあ、蘭が真面目にコツコツと単位を取って来たことも、大きいよな」

 そう言って新一は労った。
 日本の大学……特に文系の学部は、勉強をしなくても卒業できると言われるが、それは大学と学部による。まともに勉強しないとストレートに卒業できないところも少なくない。蘭の同期でも、早々と留年が決まっている学生もそれなりにいる。
 蘭は、1回生の頃から、しっかりと真面目に単位を取っていた。3回生の後期試験では、新一と会うのを外デートに絞って試験に集中した甲斐があり、取りこぼしなくいい成績で単位を取ることが出来た。

 しかし、蘭は知っている。新一が通ったハーバード大学は、死ぬほど勉強しないと卒業できないことを。新一はそこを、探偵活動をしながら、3年間で卒業したのだ。蘭より超多忙な日々を送っていただろうと思う。今の新一はすごく忙しいが、それでも、アメリカで過ごした日々に比べれば、大したことがないと思っているのかもしれない。


 毎晩、甘く熱い時間を過ごし、目が覚めたら同じ寝床に愛する人がいる幸せ。

 新一と再会した時には、新一の眼差しに昏い彩があったのに、蘭と付き合い始めてからは、本来の蒼い目に戻り、優しく甘い眼差しに変わった。心から屈託なく笑う表情も、見ることが出来るようになった。蘭の愛が新一のその眼差しと表情を引き出したのだと思うと、くすぐったくも嬉しい。


「おはよう、蘭」
「おはよう、新一」

 毎朝、欠かされることのない、目覚めのキス。そのまま抱き締められて……場合によっては、また熱く甘い時間に突入することもある。
 しかし、今朝は……。

「ストップ!新一、今日わたしは、バイト先に挨拶して、教授に卒論の相談をして、空手部に顔を出すって、言ったでしょ!?」
「ちぇ〜」

 不貞腐れる新一の姿も、多分、蘭しか見ることがないもので。それにすらキュンとしてしまうというのは、新一には内緒である。もしそんなことが新一に知れたら、それこそ新一をまた「その気」にさせてしまうのは間違いないのだから。
 起き出して、朝ご飯を準備する。トーストにハムエッグ、ホウレンソウのソテー、そして味噌汁。トーストに味噌汁という組み合わせは、新一も蘭も特にこだわりがない。
 ちなみに、朝食は蘭一人で作っているわけではなく、新一と分業だ。新一が作ったハムエッグは、ふたりの好み(黄身が半熟)に反し、黄身にしっかり火が通り過ぎてしまったし、1個は黄身が壊れて少し流れてしまっている。新一は失敗作の方を自分の皿に入れた。

「新一。そんな、気を使わなくて良いのに……」
「いや、そうじゃなくて。料理上達のモチベーションにしようと思ってさ」

 バタバタと日々を過ごすうちに、ゴールデンウィークが近付いてきた。
 ある日の夕食時に、蘭は新一に言った。

「あの。新一」
「ん?」
「お願いがあって……」
「なんだ?」
「5月3日の夜から、5月4日にかけては、仕事を入れないで欲しいの……」
「??5月3日は憲法記念日。5月4日はみどりの日……って、何かあるのか?」

 蘭は、笑いをこらえることが難しかった。相変わらず新一は、自分の誕生日を忘れているのだと思った。

 新一は昔からいつも、本気で自分の誕生日を忘れていて、蘭が教えてあげるのが常だったのである。それは、中学2年まで続いた。
 遊んで帰宅したら、母親の有希子がご馳走とケーキを準備して待っていたが、その日が新一の誕生日であることを伝えるのは、いつも、蘭の役目だった。

 昨年、新一が帰国した時には、もう新一の誕生日は過ぎてしまっていたから、再会して初めての新一の誕生日である。それを夫婦として迎えることになるとは。本当に怒涛の数か月だったなあと、蘭は思う。


 新一は、蘭の誕生日を忘れたことはなかったし、身近な大切な人たちの誕生日も同様で。記念日なども、キッチリ覚えていて。なのに、自分の誕生日だけは器用に忘れるなんて、本当に不思議だと蘭は思った。
 逆に「誕生日いつ?」と聞かれたら、即座に「5月4日」と答えるから、知識として忘れているわけではないのだが。

 多分、新一の中で、「自分の」誕生日の優先順位が低いのだろうなと、蘭は思った。


 ゴールデンウィーク。
 空手部の練習もあるし、大学の図書室に行って調べ物もするので、全く暇なわけではないが、それなりに時間は取りやすい。
 しかし、新一の方は、連休の方が、事件が多発してむしろ忙しくなる傾向にある。

 それでも、「約束」があるから、きっと大丈夫と蘭は思っていたのだが。


 5月3日の夜。新一から連絡があった。

『なかなか事件が解決しそうになくて……今夜は帰れないかもしれない』
「そ、そんな……約束してたのに!」
『……ごめん……』
「新一のバカッ!もう、知らない!」

 そう言って蘭は電話を切り、通知音をオフにした。0時になったらお祝いしようと、色々準備していたものを前に、蘭は突っ伏して、涙を流す。

 せっかく、夫婦になってどころか恋人同士になって初めて迎える新一の誕生日だったのに……。

 けれど、少し経って、蘭は思い直す。

「他ならぬ、『新一』の誕生日なのに。自分が祝いたいって気持ちの方を優先させて、どうするのよ、わたし!?」

 蘭は、取り合えず自分の気持ちを落ち着けるためにお茶を淹れ、スマホを取り出してみると、たったこれだけの間に、新一から数件のメッセージが入っていた。その全てがお詫びの言葉で埋め尽くされている。
 蘭は、通知音を再びオンにし、「もう怒ってないから、事件解決に専念して。帰って来るの、待ってるから」と、メッセージを送った。

 仕方がない。新一は、事件に……いや、事件を解決したい神様に、愛されているのだ。

 蘭がお茶を飲んでいると、電話が鳴った。新一専用の着メロではない。見ると、高木美和子刑事からだった。

「もしもし?」
『蘭ちゃん?工藤君が大変なの!迎えを寄越すから、来て頂戴!』

 蘭の手から、スマホが転がり落ちた。



(33)に続く



2021年12月5日脱稿


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