恋の種



By ドミ



(36)



 蘭は今、帝丹大学4回生だが、単位は取り終わっているので、講義の受講は殆どない。ただし、大学に通わなくて良いというわけではない。卒論制作で教授の指導を受けたり図書室で調べ物をしたり、ゼミに参加したり、空手部の部活に参加したり、結構忙しいのだ。

 新一は、5月半ば、司法試験予備試験の最初の短答式試験を受験し、6月頭の合格発表で無事合格していた。次の論文式試験は、7月上旬、あと1ケ月ちょっとである。なので、探偵活動の合間に勉強をしている。最近、新一は、時間が空けば帝丹大学を訪れることが多くなった。大学の食堂やカフェテリアで勉強しながら昼食を摂ることも多い。
 蘭は、最初の頃は、大学でも新一と一緒に過ごせるのが嬉しかった。時間が合えば新一と一緒に学食でご飯を食べたりしている。しかし、あまりにも新一が帝丹大学内に居るもので、蘭は最近、段々不安になって来ていた。蘭に都合があり新一と一緒に過ごせない時でも、新一は普通に帝丹大学内に居るのだ。もちろん、事件が起こり警察に呼ばれれば、大学には来ないけれど。

 ある日、学内カフェテリアで、周囲に人が居なくなった時に、蘭は尋ねた。

「ねえ、新一……暇なの?」
「いや。忙しい」
「だったら、何でこんなところで、油を売ってるの?」
「忙しいけど、隙間の時間があるんだよ。勉強はどこででも出来るしな」

 大学というところは、一々出入りをチェックされているわけではないので、基本、よほど怪しくない限りは、部外者でも入り放題である。新一は、蘭たちと同年代、学生のような顔をして入り込んでも、特に問題は無かろうというのが、新一の言い分だ。
 けれど……工藤新一という男、妙に目出つ。大学に来ていると、絶対に学生たちの誰かが気付いて騒ぎ出す。

「あ。探偵の工藤新一だ!」
「きゃあ、工藤君よ〜」
「やっぱカッコイイ!」

 今のところ、新一が大学からつまみ出されることはないが、それも時間の問題ではないかと、蘭は危惧していた。しかし、事態は蘭の想定外の方向に動いた。新一に「客員准教授」にならないかという打診があったのである。蘭はその話を聞いた時、のけ反るくらいに驚いた。

「新一!普通、大学の講師とか准教授とかって、院卒じゃないと、なれないんじゃない?」
「ああ、それは常勤講師の場合だな。客員准教授って、早い話非常勤だから、資格は問われないし、そういうことも有り得る。院どころか大卒じゃなくても非常勤准教授になった例もある。ま、滅多にないけど」
「ふうん……」
「オレの場合、探偵として特化した能力があると認められたから、だろうけどな」
「新一の辞書には、謙遜の文字はないの?」
「あるけど、オレに謙遜なんか必要ねえだろ。っていうか、謙譲の美徳を持つようなヤツが、探偵になんか、なれるワケがねえ」
「……」

 そうだ新一とはこういう人間だったと、改めて蘭は思う。小さい頃から、自信たっぷりで、謙遜する態度なんか、見たことが無い。まあ実際のところ、新一が、自信に見合うだけの実力はあるし努力もしていることは、蘭も認めるけれど。

「で?新一、その話、受けるの?」
「……正直、迷ってる……」
「迷うって……何で?」
「話を受けるメリットとしては、部外者が大学に入り込んでいると睨まれる心配もないし、大学の図書館に自由に出入りできるようになるってのがある」

 新一が大学にとって不審人物であるという自覚はあったのかと、蘭は思う。

「……そうね。工藤邸の蔵書は大したものだけど、大学図書館の蔵書数は桁が違うものね。それに、文献検索が出来るし」
「んなのは、別にメリットじゃねえ。工藤邸の蔵書数は大学に劣るかもしれねえが欲しい分野の本なら大抵揃ってるし、文献検索なら、工藤邸の書斎にあるパソコンで、大学並みに出来るから」
「じゃあ、どこがメリットなの?」
「オメーは、卒論書くために、大学の図書館を利用するだろ?」
「えっ?」
「今のままじゃ、オレは図書館に出入りできねえから」

 その言葉に、蘭は、新一が蘭と一緒に過ごしたいと思ってくれているのかと、ジーンとした。

「新一……もしかしてその話を受けようかと迷ってるのは、やっぱり、わたしと一緒に大学生活送りたいって思ってくれているから、なの?」
「あ、ああ……まあな……」

 そう答えた新一の視線が、微妙に泳いだことに、蘭は気付いた。

「……新一。何かわたしに、隠してること、あるでしょ?」
「い、いや!ないないない!」

 新一の慌てた様子が、怪しい。蘭はズイッと新一に詰め寄った。

「し〜ん〜い〜ち〜?」
「あ、いや、その……隠し事とかじゃなくて!言っても、オメーはゼッテー『そんなの、新一の気の所為よ』って言うに決まってっから!」
「はあ?」

 新一は大きな溜息をついた。そして、突然、蘭のバッグを取り、中から鏡を取り出して、蘭に突き付ける。

「鏡……が、どうかしたの?」
「……何が見える?」
「え……?わたしの、顔……?」
「自分の顔を、よく見てみろよ」
「え?うん……」

 蘭はじーっと鏡を見てみるが、別に変なところもないと思うし、新一が何を気にしているのか、さっぱり分からない。

「そこに映っているのはな……世界一綺麗な女の顔だ」

 蘭は一瞬、新一が何を言っているのか分からず、目が真ん丸になった。次いで真っ赤になる。

「は?新一、いったい何言ってるの!?」
「オメーは、世界一綺麗で可愛い女ってことだ」
「……」

 正直、蘭は困惑してしまったが。新一は真顔で、茶化して返すことも憚られた。夫から真顔で「世界一綺麗で可愛い女」と言われれば、心臓が爆発しそうになる。嬉しくはあるけど、困惑の方が強い。

「……まあ、オレの心が狭いってのは、自分でもよく分かってんだけどよ。オレの目が届かねえところで、オメーが他の男たちに見られているかと思うと……」
「あのねえ!それを言うなら、新一だって!」
「は?オレが?」
「あなた、自分がどれだけもてるのか、分かってないの?」
「いや、そりゃ、別にもててるっていうより……有名人だから目立つってるってだけだろ?」
「……」

 新一はカッコつけのクセに、自分の容姿が良いという自覚はないのかと、蘭は思ったが。蘭自身、並みはずれて容姿が良いという自覚があまりない。案外そこら辺も似た者夫婦なのである。

「新一。わたしが浮気するかもなんて、疑ったりしてるの?」
「オメーを疑うなんて、そんなことは……けど、奥さんがあんまり美人だと、さらって行かれそうで不安になる……」

 蘭は、新一が自分を疑っているのかとちょっと憤慨していたのだが。新一の切なそうな眼差しを見ると、そのちょっとした怒りも落ち着いてきた。新一は長い間自分に対して片想いをしていたのだから、結婚した今でも、自信がないのかもしれないと、蘭は思った。

「バカね。わたしは、どこにも行かない。ずっと新一のモノだよ……」
「うん……」
「新一こそ……もう、わたしを置いて、どこかに行ったりしないでね」
「ああ。約束する」

 そこは、大学内のカフェテリアだったのだが、周囲を見回すと、ちょうど周りに誰も居なかったので、新一は素早く蘭の唇を奪った。そして、微笑み合う。
 実際のところ、新一が心配していたのは、蘭の心変わりの可能性などでは無かったのだが、それを蘭が知ることは、おそらく、ない。


 後日、非常勤准教授の話を受けることにしたと、新一は蘭に語った。

「新一!決めたんだ!」
「ああ……2年契約で受けることにした」
「へえ……どんな講義をするの?」
「犯罪捜査と証拠分析についてが、主なものになるな」
「そっかー。でも、これで一緒に大学に行けるねっ!図書室で一緒に勉強できるし!」
「蘭が卒業した後も、1年は大学に行かなきゃなんねえのが、ちょい、うざったいけど、仕方がない。少しだけど、報酬も入るし……」


   ☆☆☆


 蘭は、卒論テーマについてある程度構想をまとめ、法学部の准教授・高村に相談に行くことにしていた。高村准教授は、次期教授と目されている学生の人気も高い40代後半の男性だ。卒論の指導でも定評があり、蘭は高村准教授のゼミにも入っている。

「何だって?今夜8時に高村准教授の部屋に来い?なんだってそんな時間に……」
「高村先生はお忙しいのですもの。卒論指導を受ける学生も多いし、仕方がないわ」
「そっか……」
「で、今日の夕ご飯は外食にしたいんだけど……ご飯後に高村准教授のところに行こうかと」
「わりぃ、蘭。オレ今からちょっと、警視庁に寄らなきゃなんねえんだ」
「そう?じゃあ、家でご飯を食べてから大学に行くわ。新一の分も作っておくから、帰ってから食べて」
「わりぃな」

 そう言って新一は出かけて行った。蘭は、少し勉強と家の掃除をした後、夕食を作り新一の分にラップをかけて冷蔵庫に入れ、自分の分の夕食を摂って、大学に行った。

 高村准教授の部屋をノックする。中から返事があり、蘭はドアを開けた。

「や」
「新一!何でここに!?」

 蘭は大声を上げかけて、高村准教授が苦虫を噛み潰したような顔をしているのに気づき、声を落とした。新一がふっと笑って言った。

「ああ。警視庁の用事が終わったから、非常勤准教授就任の挨拶も兼ねて、一足先にお邪魔させてもらったんだよ」
「そうだったんだ……わたし今から、卒論テーマについて高村先生にご相談するから、新一は外で……」
「蘭。夜、周囲に人気がない時に女子学生と准教授室で二人きりになったら、あらぬ誤解を招きかねない。蘭の尊敬する高村准教授が、周りから誤解を受けるようなことをさせてはダメだろう?オレは、この部屋で待たせてもらうことにするよ」
「え?そうなんだ……高村先生、工藤がこう言ってますが、大丈夫ですか?」
「あ、ああ……私もそこは少し迂闊だったなと思っていたところだった。君たちは婚約者なんだってね。工藤君、よろしく頼むよ」

 高村准教授の、何となくオドオドした様子と、新一が高村准教授へ向ける底光りのする眼差しが、気になったけれど。卒論のテーマについて高村准教授とやり取りしている間に、蘭は、その違和感を忘れてしまっていた。



 新一は車で来ていたので、蘭は新一の車で一緒に帰宅することにした。

「ったく……オレの見たところ、最低、30人はいるな……」
「新一、何の話?」
「いや。なーんも」
「高村先生と、どんな話してたの?」
「ああ。高村准教授には高校生になる娘さんが居るんだが、今の奥さんと別れて娘さんと4〜5歳しか年の違わない若い女性と再婚したいって悩んでらしてさ……」
「ええっ!?初対面の新一に、そんな悩み事を?」
「いやいや、話の流れでそうなっただけで……で、オレとしては、20年連れ添った奥さんを大切にしなきゃしっぺ返しがありますよって、忠告して差し上げたのさ」
「そう……なーんか、幻滅。高村准教授は人格者だって話だったのに、不倫なんかしてたのね!」
「いや、まだ不倫手前だから、今なら引き返せるって、言ってやったよ」
「そうなんだー」

 新一は、微苦笑しながら、バックミラーに映る、魅力的過ぎる妻の表情を見た。

 仲の良い妻が居た筈の高村准教授が、蘭の魅力に参ってしまい、蘭が高村准教授のゼミ生となったことで舞い上がり、蘭の一挙手一投足を自分の都合の良いように解釈して、すっかりその気になってしまっていた。新一は、高村准教授の背景をつぶさに調べ上げ、それを突き付け、完膚なきまでに叩きのめした。蘭には絶対にちょっかいを掛けないように、けれど、蘭の卒論の相談にはキッチリ乗るように、しっかりと釘を刺したのだった。
 けれど、蘭がその事実を知る日が来ることはない。 



(37)に続く


2022年1月19日脱稿


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