君が弾くピアノの音



byドミ



ある夕暮れ時。

「ただいまあ」

毛利探偵事務所の上の階にある毛利家の玄関を、勢い良く開けて駆け込んで来た江戸川コナンは、ふと聞こえて来た音に首を傾げた。

物悲しい、ゆったりとしたピアノの調べ。
低音の分散和音。
黄昏時に似合ったその音は、けれど室内を照らす白い月光をも思わせる。

それは、ベートーベン作曲ピアノソナタ「月光」第一楽章だった。

『蘭・・・』

夕日に赤く染まった室内で、毛利蘭がピアノを弾いていた。
その愁いを帯びた横顔の美しさに、コナンの胸は高鳴ってしまう。



コナンが居候している毛利家の一人娘・蘭は、小学生の頃ピアノを習っていて、結構な腕前だった。
本来の姿は、蘭の幼馴染で同級生の工藤新一である江戸川コナンは、その事を知っている。

『でも、蘭がピアノを弾くなんて、かなり久し振りじゃねえか?』

蘭は長い事ピアノに触りもしなかったのに、何故今急に弾こうと思い立ったのか。



「蘭姉ちゃん・・・ピアノ、持ってたんだ・・・」

コナンが蘭の部屋の入り口から声を掛ける。

「ぞうよ。だって私、中学校に入るまではずっとピアノ習ってたんだもん。まあピアノって言っても、電子ピアノだけどね」

眼鏡を掛けた男の子の姿に気付いた蘭が、ピアノを弾く手を止めて、優しく微笑んで言った。

『知ってるさ。オメーが本物のピアノを弾きたいって言うんで、随分付き合わされたんだからな』

コナンはこっそり胸の内で呟いた。
今時の住宅事情だと、場所を取る事や音が響いて近所迷惑になるなどの理由でピアノが置けず、電子ピアノで代用している事が多い。
しかし、微妙な部分でどうしても本物のピアノとは違う。
新一は、放課後学校の音楽室でピアノを弾く蘭に、いつも付き合わされたものだった。
黄昏時、蘭のピアノを聞きながら過ごした時間を新一・・・コナンは思い返す。

『そう言えば、あの頃の蘭は将来ピアニストになりたいって言ってたな・・・』

「そうか。蘭姉ちゃん、楽譜通りにピアノ弾けてたもんね。僕にはよくわかんないけど、それってきっと凄い腕前なんだろうね。でも、何で今はピアノ弾いてないの?」

コナンの言葉に蘭はちょっと悲しげに微笑み、ポロンポロンと鍵盤を叩いた。

「そうね。色々。昔は将来ピアニストになりたいって夢見てた事もあった。でも、現実にそんな才能はない事を知った。趣味ででも続けたい気持ちもあったけど・・・勉強も忙しくなったし、それに、空手を始めたからね」
「え?空手してたらピアノは弾けないの?」
「だって、ピアノを弾く者は手を大切にしないといけないのに、武道をやってるとそういう訳にはいかないでしょう?」

そう言って蘭は再び月光の調べを奏で始める。
けれど暫らく弾くとまた手を止めて、悲しげな顔で言った。

「ああ・・・やっぱり駄目ね。第一楽章くらいだったらと思ったけど、指がすっかり動かなくなってる」
「そんな事ない、とっても上手だよ、蘭姉ちゃん」
「ふふ・・・ありがと、コナンくん。でもね、弾いてる私が一番良くわかるのよ。ピアノのレッスンは、一日サボれば自分にその違いがわかる。2日サボれば指導者や耳が良い者が気付く。3日サボれば誰にでもわかる位に音が違う・・・。サボった分取り返すには、その倍の時間がかかる。いっつもピアノの先生から言われてた・・・」
「蘭姉ちゃん・・・」
「空手と出会ってピアノを止めた事、後悔してる訳じゃない。でも、時々、ああピアノが弾きたいなあって気持ちになる事があるの」


数ヶ月前、月影島で炎に包まれて逝ってしまった麻生成実の事を、コナンは思い出していた。
きっと蘭もその時の事を思い返しているのだろう。

「この前大阪の事件で、お父さんと服部君で事件を解決して・・・その時、ポットに入れてあったガソリンをあらかじめ抜いて、幸(みゆき)さんの自殺を未然に防いだでしょ?もしかしてあの時新一が居れば、麻生先生は助けられたかも知れないってちょっと思っちゃって」

蘭が悲しげに言う言葉に、コナンは目を伏せた。

『蘭。俺を買い被るな。あの時推理に夢中になって、あの人を殺しちまったのが、他ならぬこの俺、工藤新一なんだからよ』

確かに、月影島事件では非力な子供の姿で居た為に、炎の中から麻生成実を連れ出す事は叶わなかった。
しかし、新一の姿で居たら良かったとか、助けられたとか、そういう問題ではない事を、新一=コナンは知っていた。

『言い訳は出来ない。どう嘆いても麻生先生は帰って来ない。だけど、もう2度と繰り返さない』


「あ、ご、ごめんね、コナンくん。こんな事言って。あの時のコナンくん、とても勇敢だったよね。炎の中に飛び込んで先生を助けようとしたんだもん」
「蘭姉ちゃん。僕、早く大きくなって、2度と誰も死なせたりしないように頑張るからね!」

コナンは子供の無邪気さを装って、自分の本音を告げる。
後悔も反省もする。過去の事は心の中に決して消えない傷として残っている。
コナンの姿になった事も、悲しい殺人を止められなかった事も、月影島で麻生成実を死なせてしまった事も。
けれど新一=コナンは、そこで立ち止まったり堂々巡りをしたりしない。
常に新たな決意を胸に秘めて前を見詰め続けるのだ。


コナンの言葉をどう受け止めたのか・・・蘭は優しく微笑んでコナンを見詰めた。



  ☆☆☆



小五郎の帰りは遅くなるとの事で、蘭とコナンは2人で夕飯を食べ始めた。
ふと蘭が思い出したように言った。

「それにしてもね、新一、歌と楽器の演奏は丸っきり駄目だけど、何でか耳はとても良いんだよね。昔私のピアノの練習に付き合ってくれてたのは良いんだけど、『そこ間違ってるぞ』とかいっつも突っ込んでたもん」
「へ?そうなの?(そうだったっけ?)」

コナンは背中に冷や汗を流しながら言葉を返した。

「それにしても、新一って音痴の癖になんで耳は良いのかしら?それも、間違いなく『絶対音感』があったもんね」
「ははは・・・」

コナンは笑うしかない。内心で突っ込みを入れる。

『バーロ。音感がなくて探偵が務まるかよ』

探偵である新一=コナンの五感は常に人一倍研ぎ澄まされていなければならない。
音の微妙な違いが聞き分けられないようでは、探偵活動に支障を来たすのだ。


そして、コナンは知っていた、気付いていた。
自分の音感を研ぎ澄ませてくれたのが何であるか。
音楽知識がろくにない自分が音符を読めるのは何故なのか。


『オメーのピアノが俺の音感を育ててくれたんだな・・・』

楽器を演奏する者は絶対音感が発達する事が多いが、新一は蘭のピアノ練習に付き合わされる事で生来鋭かった耳が更に発達したのである。
蘭の弾く曲をいつも聞き、蘭の楽譜をいつも見る事で、どの音符がどの音を指し示しているのかは覚えてしまった。
ただ悲しいかな、彼の場合音を「楽しむ」のではなく「データとして見る」傾向にあった為、音符以外の音楽記号は覚えなかった。
更に、苦手意識が先に立って歌や器楽の練習も殆どしなかったし、練習態度も嫌々だったので、歌や演奏の方に耳の良さが生かされる事はなかったのである。


「そう言えばコナンくんも新一と同じで、音痴で音楽知識に乏しいくせに、耳は異常に良いんだよね」

蘭の言葉に、コナンは乾いた笑いを漏らすしかなかった。





Fin.



++++++++++++++++++++++


〈後書き〉


なんて事のないコナンくんの日常生活で、もしかしたらこんな会話が交わされる事があったかも・・・と想像して書きました。


蘭ちゃんはピアノが弾ける事が月影島事件で明らかになりました。
それも、初見で楽譜通りに弾けるのだから、腕前は大したもんです。
でも、毛利家にピアノがある様子はない。
多分、蘭ちゃんの部屋に電子ピアノがあるのだろうと勝手に想像してます。


音痴の筈の新一くんが、実は絶対音感の持ち主だって事は、多くの方が指摘しておられます。
(だって麻生成美さんが最期に弾いた暗号を解読出来たんだからね)
音痴の殆どは「運動性の音痴(音は聞き分けられるが、うまく表現できない)」で、「感覚性の音痴(音の聞き分けが出来ない)」はほんの一握りしか居ません。
感覚性の音痴だと、そもそも何の歌なのかすら聞き分けられないのです。
新一くんは間違いなく運動性の音痴ですね。
運動性音痴の人は、訓練すれば治るらしいですけど、彼の場合訓練する気もなさそうです。
(人気アーティスト誘拐事件の後だけは暫らく練習してたようですが)
そして、新一くんの音痴を助長したのは松本先生ではないかと、私は密かに勘繰っています。
(いや、苛められた所為でますます音楽嫌いになったのではないかと)



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