Birthday Present


byドミ


5月1日、初夏の良く晴れ渡った日のこと。
(ちなみにメーデーであるが、「労働者の祭典の日」は、取りあえず高校が舞台であるこのお話には全く関係がない)
ここは都内でも有数の進学校、帝丹高校の、3年B組の教室。
二人の少女が、休み時間におしゃべりをしている。

1人は、毛利蘭という。
長くさらさらの黒髪、白い肌、大きな黒曜石の瞳、桜色のぽっちゃりした唇、細身なのに制服の上からもわかるくらい、出るべきところは出ているナイスバディ、学校内でも1、2を争う美少女である。

もう1人は鈴木園子。
真直ぐな茶髪を肩の上で切りそろえ、前髪を上げてカチューシャで止めている。
気の強そうな、明るい色の大きな瞳、プロポーションも良く、こちらもなかなかの美少女である。
(作者の声:蘭ちゃん以外アウトオブ眼中の新一くんはそう思っていないだろうが、園子ちゃんだってなかなかだと思います)


園子は椅子に座って机にもたれかかり、盛大に溜め息をついていた。

「ったく、もう。かったるいわねえ。学校も、ゴールデンウィークまるまる連続してお休みしてくれれば良いのにさあ」
「園子ったら。私達、今年は受験生なんだよ?それに、もう少し待てば夏休みもあるんだし」
「はあ、蘭ってば、真面目ねえ。あたしはこーんな天気のいい連休の合間に、勉強しようなんていう気にはなれないわね」
「私だって勉強が好きなわけじゃないけど・・・」
そういった蘭の視線が、チラッと黒板の方に向いたのを、園子は目ざとく見つけ、顔をあげ、ニヤリと笑う。
黒板の向こうはA組、蘭の彼氏、工藤新一が居るクラスである。
「ははーん、旦那と少しでも会っていたいからか」
「バ、馬鹿、そんなんじゃ・・・」

園子のからかいに、蘭は見る間に真っ赤になる。
以前だったら、「旦那じゃない!」と否定するところだが、幼馴染の工藤新一と、晴れて全校公認の恋人同士となった今は、否定の言葉も言い難くなってしまった。
(もっとも、以前から、2人の仲は全校公認のようなものだった。そう思ってなかったのは、当人達だけである)

「残念ねえ、今年はクラスが別々になって」
「そんなことないよ。すぐ近くにいるんだから、会おうと思えばいつでも会えるし」

そう言いながらも、蘭は少し寂しそうにしている。
新一とは幼馴染の腐れ縁で、小学校、中学校とずっと一緒で、高校も同じ帝丹高校に入り、何故かクラスまで一緒になる事が多かった。
しかし昨年、せっかく同じクラスだったのに、新一は「厄介な事件」のせいで、半年ほど学校を休み、蘭ともほとんど会うことがなかった。
やっと帰って来たと思ったら、出席日数の不足を補うために、山のような課題と補習に追われ、とても忙しそうだった。
今年何とか一緒に進級出来たわけだが(学校側としても、一流大学合格間違いなしの新一を落第させたくなかったと言う事情がある)、クラスが別々になってしまった。

「それに新一くん、今日はお休みなんでしょ。事件があって、出かけているのよね」
「うん」

蘭は少し寂しそうに微笑む。
結局、4月末の連休も、新一は事件にかかりきりで、会えず終いだった。
工藤新一は、未だ高校生の身でありながら、「日本警察の救世主」と呼ばれる名探偵。
2年前、ロサンゼルスに向かう飛行機の中で殺人事件を解決してから、様々な事件を解決へと導き、忙しい日々を送っている。
休日なんてあってないようなものだし、今日のように、学校を休んで事件現場に駆けつけることも少なくない。
それでいて、成績は常にトップを保ち、全国模試でも、上位の常連である。
学校側も、帝丹高校の名を全国に知らしめた工藤新一の探偵活動を公認している。
(警察からの正式な依頼があった場合には、欠席扱いにしない)

昨年、新一は「厄介な事件」に関わって、半年もの間帰って来ず、時々電話をかけてきたり、メールを送ってきたりはするものの、居場所さえ教えてくれなかった。
その後、突然帰って来たかと思うと、涙を流して詰る蘭を抱きしめ、「ずっと蘭が好きだった」と告白した。
そして2人は幼馴染を卒業し、晴れて恋人同士となったわけだが・・・。

とにかく新一は帰ってきてからもめちゃくちゃ忙しかった。
補習、課題、そして容赦なく事件は起こり、警察から応援要請がくる。
蘭だって暇なわけじゃない。
空手部の活動もあれば、家では家事全般をこなしている。

蘭と新一は家も近く、歩いて5分とかからない距離に住んでいながら、何日も会えない事も珍しくなかった。

「でも、半年も会えなかったあの時の事を考えれば・・・、それに、京極さんと遠距離恋愛してる園子の事とか考えたら・・・、これぐらいで寂しいって思うの、贅沢よね」

園子の恋人、京極真は、空手の修行のため外国に居る事が多いのだ。

「馬鹿ね、蘭。好きな人とは、いつでも会っていたいって思うの、当たり前でしょ。贅沢でも何でもないわよ。蘭はもうちょっと我儘言ってもいいんじゃない?」
「でも、新一を困らせたくないもの」

そう言った蘭の瞳は微かに揺れていた。
園子は立ち上がると、蘭にガバッと抱きつく。

「そ、園子?」
「んー、蘭ってば、かわいいっ。あーんな薄情な推理オタクはやめて、あたしに乗り換えない?」
「園子ったら」

蘭は思わず微笑んで言った。

「新一は推理オタクなんかじゃないよ」
「へっ?」
「だって、趣味の場合はオタクっていうけど、新一のは仕事だもん」

園子が蘭の顔を覗きこむと、蘭は視線を宙に向け、目を輝かせている。
少女漫画に出てきそうな、目の中に星がたくさんあるんじゃないかと思わせるような、きらきらと夢見る瞳・・・園子は、蘭の肩にもたれて脱力してしまった。
蘭にはこれでも、惚気ているという自覚が全くないのである。

「はあ、あたしゃ、やっぱ蘭には敵わないわ」

そういう園子だって、京極真の事を思い浮かべるときは似た様なものなのだが、当人には全く自覚がなかった。


  ☆☆☆


「ねえ、園子。今日買い物に付き合ってくれない?」

放課後、蘭が園子を誘う。

「いいけど・・・何を買うの?」

蘭は口ごもり、赤くなって視線をさまよわす。

「ははぁ。新一くんの誕生日プレゼントか」
「えぇっ!?園子、どうして判ったの?」
「どうしてって、・・・確か国民の休日の5月4日でしょ、新一くんの誕生日。まあ、普通だったら、あたしが新一くんの誕生日なんか覚えている筈ないけどさあ・・・去年、蘭の買い物に付き合ったでしょ。あの後、爆破事件があったなんて、あたしその時全然知らなくってさ。映画館のある米花シティービルが爆破されて、蘭が危なかったって事、後から知って、どんなに肝を冷やしたか。あの時蘭は、本当だったら新一くんとオールナイトの映画観て、『誕生日おめでとう』って言う筈だったのよね」
「うん。結局、声聞いただけで、直接には会えないままだったんだけどね。『おめでとう』だけは言ったけど。あの時園子に付き合ってもらって買ったポロシャツは、後から新一に贈ったんだけど、今年はちゃんと誕生日にプレゼント渡したいし」
「ふ―ん。蘭、誕生日のプレゼントだったら、わざわざ買い物になんか行かなくっても、とっておきのものがあるじゃない。絶対、新一くんが跳び上がって喜ぶもの」

園子は蘭の耳に口を寄せ、何事かを囁いた。
蘭の顔が見る間に真っ赤になる。

「ななな何て事言うのよ、園子!」
「ふふーんvvv、その反応から察するに、新一くんとは、ま・だ・みたいね」

園子は半目で、からかうように蘭を見た。
蘭は目を白黒させ、顔が赤くなったり青くなったりしている。
園子は軽い(?)冗談で言ったのだろうが、蘭の心に思いがけず、大きな波紋を投げかける事になった。
園子の言葉は、賢明なる読者諸氏には容易に想像がついている事と思うが、

「首にリボンを巻いて、『私のバージンをプレゼントするわvvv』って、一晩お泊まりしてきたら?」

というものだった・・・。


  ☆☆☆


結局蘭は、園子に付き合ってもらって、青いポロシャツを買った。

「夏だから、手編みのセーターってわけにもいかないしね」
「ふふーん、蘭、今年の冬も手編みのセーターを贈るの?」
「それは・・・わかんないよ、今年は受験だしね」

去年の新一の誕生日には、自分の好きな赤い色のポロシャツを買った。
帰ってきて、蘭から半年遅れの誕生日プレゼントを受け取った新一は、それを喜んで着てくれたけれど、気の毒なほどに似合っていなかった。

「新一に似合う色っていったら、やっぱり黒か青よね」

というわけで、今年は青にした。


買い物の後、お茶を飲んで園子と別れ、家に向かう。

「2年続けてポロシャツなんて、芸がないかな。今年は一応、こ、恋人同士なんだし、もうちょっと気の利いたものが良かったかな」

そう思っても、適当なものが思い浮かばない。
つい、園子の言葉を思い浮かべてしまって、ぶんぶんと首を振る。

「な、何考えてるのよ、私の馬鹿!」

考えながら歩いていると、後から声がかかった。

「らん!」

聞き慣れた、優しいテノールの声。
たった今考えていた相手の声が突然自分を呼んだ事で、蘭は思わず、文字通りとびあがって声をあげる。

「きゃあああああああああっ」
「・・・んだよ、失礼なやつ。まるで化け物にでも遭ったみてーな声出して」

振り返ると、仏頂面にあきれたような目つきで、蘭の幼馴染兼恋人、工藤新一が立っていた。

「し、し、し、新一っ、・・・どうしてここに?」
「どうしてって、・・・ここ、俺んちの前なんだけど」

考え事をしている内に、蘭は何時の間にか工藤邸の前を通り過ぎようとしていたのだった。
近所から「お化け屋敷」と呼ばれているどでかい洋館。
新一の父親・工藤優作が、自分が活動する本拠地を米国と決め、夫婦でロサンゼルスに発ってから、新一はここで1人暮らしをしていた。

「おめ―こそ、何でここに?」
「園子と買い物に行って、・・・その帰りなの」
「ふーん。でも、駅からこの道は遠回りじゃねーか?」

言われてみればその通りで、蘭は無意識のうちに、通い慣れたこの道をたどっていたのだった。
新一に深く追及されたら、何と答えよう、とドキドキしながら考える。
別に言い訳しなければならない事が有るわけではないのだが、さっきの考え事で、なんとなく後ろめたいような気持ちになっていたのだ。

しかし新一は、それ以上追及してこようとはしなかった。

「まあ、いいや。せっかくだから、ちょっと家に寄って行かねえ?帰り、送るからさ」
「うん」

まだ心臓はドキドキしていたが、数日振りに偶然会った思い人と、せっかくだからもうしばらく一緒にいたかった。

「・・・新一、晩御飯は?」
「まだだけど」
「材料ある?私、何か作ろうか?」
「まじ?でも、おっちゃんの夕飯も作んなきゃなんねーだろ」
「・・・今夜は泊まって来るって言ってたから」
「そうか?事件は解決したんだけどな」
「新一、お父さんと一緒だったの?」
「まあな。同じ事件で呼ばれてたから」
「はっきりとは言ってなかったけど・・・今夜はお母さんの所みたいよ」
「へ?おばさんの方が帰ってくんじゃねーのか?」
「時には娘抜きで過ごしたいみたい」
「そうか。最近いい雰囲気だもんな。良かったじゃん」

話しながらも、二人は工藤邸の門を通り、玄関を開け、台所の方に移動していた。

蘭は冷蔵庫を開けて覗きこむ。
「へえ、一通り食材は揃ってるのね」
「ったりめーだ。これでも一応、自炊してんだかんな」
「でも忙しいと、食べなかったりするんでしょ」
「・・・時々な」
「しょっちゅうのくせに。駄目よ。探偵は体が資本なんでしょう」

ったく、かなわねーな、と新一は苦笑する。

食材の準備をしながら、蘭は新一の視線を背後に感じ、息苦しくなってきていた。

「新一、気が散るから、向こうで待ってて」
「蘭だけに任せるとわりぃから、手伝うよ」
「いいわよ。却って邪魔だから」

そう言って蘭は新一を台所から追い出す。
そして大きく息を吐いた。
新一は一通りの家事が出来るので、本当は邪魔ということはない。
今までだって、この家で何回か新一と一緒にご飯を作った事がある。

「今日の私、絶対変よね。新一、どう思ったかな」

手早く料理を作りながら、考えをめぐらす。
新一が帰ってきて、告白を受け、初めてのキスをされた。それから今まで、軽いキスを何回か交わした事はある。
けれど、今日みたいに新一の家に遊びに来ても、それ以上の関係になる事はまだなかった。
今時は、中学生でも結構「えっち経験ずみ」の子は多い。
蘭のクラスメートでも、確かめた事はないが、それなりにいるようだ。
高校生で、恋人同士であれば、そう言った関係になるのが常識と言うものだろうか。
この年頃の男は、やりたい盛りで、恋人とそうなるのは当然と思っているとよく聞くが、新一も(そういう風には見えないけど)そうなのだろうか。
いつか新一と・・・そうなるのが当然なのだろうか。
決してそれが嫌、というのではないけれど。

「私はまだ、そんな事は考えられないよ。でも・・・」

チラッと新一がいるリビングの方に視線を走らせて思う。

「でも・・・新一はどう思っているんだろう」

男の人の気持ちとか欲望とかが、どんなものなのか、それがわからないために不安になる事はある。
情報過多の現代ではあるが、その手の事で、女子高生の耳に入ってくる中で、きちんと真面目で信頼できる情報は、殆どないと言えるのだ。

「こんなこと、相談できる人もいないし」

蘭の親友園子は、なにぶん耳年増なところがあり、イケイケな格好をいつもしているが、本当はウブで、男の人との付き合いだって京極真が初めてなのである。
まだキスだって済ませているのか疑わしいほどだ。
こういった相談相手にはあまり向いていない。
もう1人の親友、大阪にいる遠山和葉は、工藤新一と並び称される「西の高校生探偵」服部平次の幼馴染であり、一昔前の蘭と同じ立場。
まだ平次との仲が恋人未満であり、尚更相談できる相手ではない。


  ☆☆☆


「ウン、うめー。蘭の料理はいつもうめーな」

あり合わせのもので手早く作ったものだが、こういう事が得意な蘭は、新一の好物のハンバーグを始め、スープ、サラダなど、きっちり栄養バランスを考え、ボリュームもある夕御飯を作り上げた。
新一はニコニコして食事を口に運ぶ。
それなりに料理ができるとはいえ、いつもはもっと簡単に済ませてしまっているのだろう。

『ご飯食べてる時の新一って、ほんと、子供みたい』

新一は、ハンサムな父親、推理小説家の優作と、元アイドル女優だった母親、有希子の双方に似て、男には勿体無いくらい綺麗な顔立ちをしている。
普段は子供っぽくかわいい雰囲気の事もあるが、探偵モードの時や、サッカーをしている時の姿などは、滅茶苦茶かっこいい。
半年間の行方不明(?)の後、帰って来たときは、大人びた雰囲気が加わり、背も高くなって、学校中の女生徒達が色めき立ったほどだ。
(もっとも、すぐに蘭と恋人宣言してしまったので、表立って新一にアプローチする女生徒は居なくなったが)
しかし何故か、お坊ちゃまのくせに、食べ方が超下手くそである。
口の周りをしっかり汚す新一を見て、蘭は笑ってしまう。

『ファンの子たちには見せられない姿よね』

蘭は、子供っぽい新一も、ホームズオタクの新一も、拗ねてる姿や、欠伸してる姿、こんな風に食べ方が下手くそな姿、全てを知っていて、そういった所を全部含めて、新一が好きだと思う。
ファンの知らない格好悪い新一を知っていて、受け入れている。
その事実が、新一がどれ程もてようと、蘭が比較的平静を保っていられる一因なのだ。

新一が食べる様子を見ていた蘭は、新一が居なかった半年間、同居していた男の子――江戸川コナンの事を思い出していた。

「そういう所も、ほんと、コナンくんそっくりよね」

エッ、と顔をあげた新一は、慌てた様に僅かに視線を泳がせる。

「ほら、ついてるわよ!」

と、蘭はタオルを新一に差し出した。

サンキュー、と言いながら、新一は口の周りを拭う。

蘭が密かに思っている事がある。
いつも蘭を気遣い、守ってくれていた、辛いときには傍にいて、慰めてくれた男の子。
無邪気かと思えば、大人顔負けの頭の回転をみせる。
いざという時の判断力、行動力は、ものすごいものがあった。
ふとした時に見せるしぐさや口調、そして推理力が、誰かとそっくりだった。
何よりも、誰かの子供の時と同じ顔をしていた・・・。

ものすごく、荒唐無稽な話である。
同時に2人、目の前に現れた事もある。
それでも、蘭は、小学校1年生だった眼鏡の男の子、江戸川コナン=工藤新一だと確信していた。
証拠は何もない。強いて言うなら・・・。

『女の勘、よね』

そう考えた時、脳裏にある女の子の声が甦った。

『コナンくんは、蘭お姉さんの事が好きなのよ』

と言って真直ぐ蘭を見た、小さな女の子。
どうしてそう思うの、と尋ねる蘭に、揺ぎ無い瞳で

『女の勘よ!』

と告げた・・・。

江戸川コナンの同級生だった、そして、コナンに心を寄せていた女の子、吉田歩美。
小さいからといって侮れない。
幼いながらもその恋は真剣で、本物だったと思う。

『歩美ちゃん、ごめんね。でもこれだけは、誰にも譲れないの』

蘭は心の中で、小さな友に謝っていた。
ずっと大切で、大好きだった幼馴染。
それが本気の、真剣な「恋」に変わったのは、高校1年の時の事。
それまでだって、他の女の子には譲れないと思うくらいに、好きだったとは思う。いつも当然の様に傍にいて、一緒にいると安心できる相手。
幼馴染の延長の、淡い想い。

高1の春、丁度2年前、新一の両親に招待されて旅行に行った先のニューヨークで、新一は通り魔から身をもって蘭を庇い、「殺人事件が起こった原因は自分にある」と落ち込んで苦しんでいた蘭に、1番欲しい言葉をくれたのだ。
新一は、自分の事を何もかもわかってくれて、受け止めてくれている。
そうわかったあの時を境に、新一は、「幼馴染のボーイフレンド」から「ただ1人の男性」になった。
蘭の想いは、「生涯ただ一度の恋」と思える程に、激しいものに変わったのだった。


夕食後、二人はリビングに移ってソファーに向かい合って座り、新一が淹れたコーヒーを飲んでいた。
蘭は思い切って訊いてみる。

「ねえ新一。3日の夜、予定ある?」
「あー?別にねーけどよ。なんで?」

蘭は上目遣いで新一をみつめながら言った。

「あ、あのね、一緒に・・・、オールナイトの映画、見に行かない?」
「オールナイトの映画あ?」

何故か新一はうっすらと頬を染め、蘭から目をそらす。
それを否定の意味に受け取り、蘭は悲しくなった。

「あ、・・・駄目ならいいんだけど・・・」
「だ、駄目とか、言ってねーだろ!ただ、おめー、去年ひでー目に遭ったろ?だから、・・・大丈夫なのかと思ってよ」
「新一、気遣ってくれたんだ」
「ったりめーだろ。3日の夜からで良いのか?昼間は?」
「んー、園子と遊びに行く約束してるの」

新一が仏頂面になる。

「園子と?今日も一緒に買い物行ったばっかだろ。大体なあ、休日は恋人のために優先して空けておくのが、常識ってもんなんじゃねーか?」

新一の「常識」という言葉にカチンとくる。

「常識なんて、そんなの、わかんないよ。私、新一が初めての彼氏なんだもん。それに、新一だって、休みの日も事件ばっかで、いっつも私の事、置いてきぼりじゃない!私の為にどれだけ空けてくれたっていうのよ!」
「ちょっ、お、おい、蘭!」

新一は妙に慌てた声で叫んで、あたふたし始めた。

「な、何も泣く事ねーだろっ!」

言われて初めて、蘭は自分が涙を流していることに気付く。

「あ?ほんとだ・・・。なんで泣いてんだろう、私。情緒不安定なのかな」

慌てて目を擦り、えへへ、と笑ってみせる。

「俺だって!付き合うの、蘭が初めてだし!あーもうっ。わりぃ、常識なんて言って。俺自身が常識外れだっていうのによ」

・・・新一にも、一応、自覚はあるらしい。

新一は立って蘭の隣に移動して来た。
そっと蘭を抱きしめる。

「俺、蘭に泣かれるのが1番困るんだよ」

蘭は、新一の肩に顔を埋めて言った。

「新一、前にも、そう言ったよね」
「ああ、好きな女に泣かれるほど、男にとってつれー事はねーからな」
「なんか、すっごい殺し文句よ、それって」
「そっか?」

蘭がそっと顔を上げて新一を窺うと、新一は赤くなって、あせったような顔をしている。

『ああ、なんだ。言葉はいつもの様にとっても気障だけど・・・、新一、今は必死なんだ。余裕なんてないんだ。私相手にこんなに必死になってくれている。私を・・・本当に大切に思ってくれている。ど、どうしよう。なんだかとっても、嬉しい!』

蘭は素直に新一に体を預けた。
この世で1番安心できる場所。
幸福感が蘭を満たす。
新一は蘭の背中をそっと撫で、髪に頬ずりしながら、ゆっくりと言葉を選ぶようにして言う。

「蘭。俺、人間出来てねーから。どうしたら蘭を悲しませずに済むか、傷つけずに済むか、いっつも手探りなんだ。蘭には笑顔で居て欲しい、幸せで居て欲しい。なのにしょっちゅう蘭を置いて行っちまって、また悲しませてしまう。だからなあ、蘭。何でも言ってくんねーか。おめー、色々と考えちまって、いっつも言いたい事、飲み込んじまってんだろ。言ってくれねーと、わかんねーんだよ」
「ん。大丈夫だよ。ちゃんと、考えてる事、言うようにするから」

『新一が、私の事、真剣に考えてくれてる事がわかったから。だから、この先どういう風になっていっても、大丈夫。私達は、私達なりの付き合い方をしていけばいい。二人で、手探りで作り上げていけばいい』

「取りあえず、明後日からの連休は、蘭のために空けてあっけど?まるまる、ずーっと一緒で構わねーんだぜ」
「どうせ、事件が入らなければ、でしょ」
「それを言うなよなあ」

新一が顔をしかめて言う。
蘭は思わずくすくすと笑った。

「蘭」

新一が低い声で蘭を呼んだ。
えっ、と笑いやめて新一を見ると・・・、真剣に蘭をみつめる眼差しがあった。
蘭を抱きしめる腕に力がこもる。
ぐいと引き寄せられ、唇が蘭のそれに重ねられる。
いつもよりずっと深く、長い口付け。
蘭の体は思わず強張っていく。

『え〜〜〜っ、ちょ、ちょっと待って〜〜〜〜っ、新一、まさかっ。そりゃあ、たった今、この先どういう風になっても良いと思ったけどっ。こ、心の準備があっ』

蘭はすっかりパニック状態になっていた。
しかし。

やがて長い口付けが終わると、新一は蘭の頭を胸に抱きこみ、蘭の髪に頬をつけて、長く息を吐き出した。
そして、蘭から離れると立ち上がり、

「遅くなったな。送って行くよ」

と言ったのだった。


  ☆☆☆


新一に送ってもらっての帰り道。
蘭は、ほっとしたような、肩透かしを食らったような、複雑な心境だった。
それにしても、あの時の新一は・・・。

『ただ単に、キスしたかっただけ?それを、変な風に勝手に解釈して、私ったら・・・』

自然と顔が赤くなってしまう。
そっと新一を窺うと、何事もなかったように、涼しい顔をしている。

『そりゃそうよね。私が勝手に勘違いしただけだもん』

でも、自分が悩んだりパニクったりしてたというのに、新一の方は全く何とも思っていなかったらしいというのが、なんか悔しい。

『大体、お父さんいないって知ってるのに、引きとめもせず律儀に送ってくるし』

そういう事はまだ・・・と思っていたくせに、乙女心は複雑である。

考え事をしている内に、家の前まで着いてしまった。
三階建ての小さなビル。
1階が喫茶店「ポアロ」、2階が蘭の父親、毛利小五郎の仕事場「毛利探偵事務所」、そして3階が毛利家の自宅であった。今はどの窓にも灯が点っておらず、真っ暗である。

『変なの。誰も居ない自宅で1人でいる事、慣れっこになってた筈なのに。お父さん、仕事や麻雀で家空ける事多かったし。今は、1人だとすごく寂しい。どうしてかな』

大切な人がそばに居る心地良さを知ってしまったから。
愛しい人と逢えない切なさを知ってしまったから。
コナン=新一とわかったからといって、あの時感じた切なさ、寂しさが消えてなくなってしまうわけではない。
それに、コナンが居た半年間は、家に居ても1人きりになる事はまず殆んどなかった。
新一とは別の意味で、蘭にとって大切であり、蘭の心を支えてくれていた。

『変なの。同一人物とわかっていても、やっぱり別の存在なんだよね』

「コナンくん、どうしてるかな」
「あー?どうって・・・、親と一緒に外国に居んだろ」
「元気かな。住所も電話番号も、何も教えてくれなかったし、連絡も来ないのよね」
「元気にしてるさ、きっと。それに子供だかんな。忘れたりはしてねーと思うけど、向こうの新しい友達と遊ぶのに、忙しいんじゃねーか?」

新一はそわそわして、なんとなくその話題に触れたくなさそうな感じだった。
蘭はくすりと笑う。

「んー、私ね、本当はコナンくんがどこで何をしてるか、知ってるんだ」

新一が驚いたように目を見開いて、蘭を見る。

「し、知ってるって、蘭!?」
「知ってるよ?でも、今はね、何も聞かないの。いつか教えてくれる時まではね」
「蘭・・・」
「秘密は、秘密のままの方がいい時もあるんだよね、真実を追及する探偵さん」

新一は視線を下に向け、くしゃくしゃと髪をかきまわした。
頬が僅かに赤くなっている。

「いつか、話してくれる時が来るよね」

直接答えはなく、やっぱ敵わねーよな、と小さくボソリと呟く声が聞こえた。


  ☆☆☆


新一は、3階の玄関の前まで、蘭を送り届けてくれた。

「新一、明日は学校に行けるの?」
「取りあえず、今日で一応事件は解決したから、新たな呼び出しが無ければな」

そう言って、蘭の唇に、軽く掠めるようなキスを落とす。

「蘭。明後日は、何時にどこに行けばいいんだ?」
「んーとね。新一の家に行って良い?6時頃行くから、夕御飯食べて出かけようよ」
「またおめーが作ってくれんのか?」
「うん」
「んじゃあ、楽しみに待ってっからな」

そう言って蘭を抱きしめ、今度は深く長いキス。
陶然となった蘭の手足から、力が抜けてゆく。
このまま、離れたくない、と思う。

しかしやがて、新一は体を離し、蘭に中へ入るよう促す。

「おっちゃんいねーんだかんな。きちんと戸締りはすんだぞ」

わかってるわよ、とむくれた声で言って、蘭は中に入った。


  ☆☆☆


自分の部屋に入って、灯りをつける。
さして広くもない家の中が、なんだか寒々しい。
今夜は父・小五郎もいない、ずっと側に居てくれた、コナンくんもいない。

「新一っ」

自分で自分の体を抱きしめる。
たった今別れた人と、また会いたい。
ずっと一緒に居たい。
どうして自分はこんなに我儘なんだろう。
今日思いがけず出会えて嬉しかった。
でも、別れる時はこんなに辛い。
新一がコナンから戻り、帰って来た時は、傍に居るという事だけで嬉しかった。
想いが通じ合ったときは、それだけで嬉しかった。
でも今は・・・いつでも会っていたい。
離れたくない。

突然、携帯が鳴った。
新一から贈られた、専用の携帯。
蘭は慌てて電話に出る。

「よぉ」

耳に馴染む、大好きな人の声。

「新一っ。どうしたのよ、たった今別れたばかりじゃない」
「はは、わりぃ。なんだか、おめーの声が聞きたくってよ。今さっきまで会ってたっていうのに、俺も変だよな」

蘭の胸が、じんわりと温かくなる。
新一がそう言う風に思ってくれた事が、とても嬉しい。

「ううん。私も、新一の声が聞きたかった。今別れたばかりなのに、もう新一に会いたいよ」
「・・・窓を開けて外を見てみな」

えっ、まさか、と思い、窓に駆け寄り急いで開ける。
向かい側の歩道に、携帯を手にした新一が立っていて、よう、と言うように空いてる方の手を挙げた。

「今夜は寂しいだろうけど、泣くんじゃねーぞ」
「ばっ、泣いてなんかないわよ!」

そう言いながらも、涙が滲んでいる。
新一の気遣いが嬉しくて。
新一も、自分の傍に居たいと思っていてくれた事が感じられて、嬉しくて。
蘭は、もう平気だよ、と心の中で呟く。

「じゃあ、また明日、学校でな。お休み」
「うん、お休みなさい」

今度こそ新一は、踵を返し、暗闇の中へと消えて行った。
蘭はそれを、いつまでも見送っていた。