幸せな時間



by ドミ



鮮やかな若葉が町全体を覆い、空は雲ひとつなく、どこまでも抜けるように青い。
窓を開けると、初夏の眩しい光と共に、さわやかな風が流れ込んでくる。

開けた窓の前にたたずみ、少女が1人、遠くを見つめていた。
年の頃は、17、8といったところか。
明るい茶髪は、肩より上で切りそろえられ、前髪からサイドにかけて、軽くウェーブがかかっている。
くっきりした二重の切れ長の瞳、透き通るような白い肌、ほっそりしたスタイルに、すんなりと伸びた四肢、美しい少女である。

薄い唇は引き結ばれ、瞳は愁いを帯び、実際よりもずい分と大人びた雰囲気を漂わせていた。
この家の主、阿笠博士は、少女の後姿をまじまじとみつめる。
いつも地下室に1人で篭っている事が多かった少女だが、こんな風に、光溢れる中で見ると、本当に綺麗だと思う。

「体の調子はどうじゃね、哀くん、いや、志保くん」

阿笠博士は、少女に声を掛けた。
太りじしの中年の男で、髪も髭も、白いものが混じり、灰色になっている。
頭頂部は禿げ上がっているが、サイドからバックにかけての髪は豊かで、雲のようにふわふわと丸まっていた。
丸っこい顔に、太い眉、口髭、丸眼鏡をかけた姿は、陽気さと人の良さに溢れている。

志保と呼ばれた少女は、声を掛けてきた中年男に向き直り、柔かいアルトの声で言った。

「上々よ、阿笠博士。アポトキシン4869の解毒剤は、完全に成功したようね」
「それにしても、夢のようじゃ。新一くんが薬で子供の姿に―コナンになってから、黒の組織を崩壊させ、君達が元の姿をとり戻すまで、本当に色々な事があったのう。たった半年間の事じゃが、まるで何年もの月日が経った様な気がするわい」

そうね、とそっけなく、志保が答える。

「哀くんがこの家に居たのは、たった4ヶ月。それなのに、わしには、哀くんがこの家に居ない生活など、もう、考えられんのじゃよ」
「博士」

志保の目が強い光を放ち、阿笠博士を真直ぐに見つめる。

「私は宮野志保。灰原哀という7歳の女の子は、最初からどこにもいない。ただの幻に過ぎないのよ。博士も灰原哀の事なんか、早く忘れる事ね」
「わしにとっては、18歳の志保くんも、7歳の哀くんも、全く同じじゃ。どちらもただの可愛い女の子じゃよ」

志保は頬を染め、ぷいと目をそらす。

「馬鹿ね。そんな気障な言い方、工藤くんに感化されたんじゃなくって?」

そうかも知れんのう、と苦笑いする博士の姿に、志保もようやく、微かに笑みを見せた。


  ☆☆☆


「解毒剤、完成したって!?」

勢い良くドアを開けて駆け込んできたのは、顔の半分以上を占める大きな黒縁眼鏡をかけ、くりくりとした大きな目が印象的な、まだ6、7歳の小さな男の子である。
本当の名は別にあるが、今の彼の名は、江戸川コナンという。

可愛い、と言える顔立ちをしているが、今、その双眸は鋭く細められ、とても子供とは思えない剣呑な光を湛えていた。

志保が窓から離れて、子供の方に歩み寄ってくる。

「私がこの姿に戻って1週間、安定した状態が続いているわ。まず、間違いないでしょうね」
「んじゃあ、もっと早くに出来上がってたんじゃねえかよ。何ですぐにくれなかったんだ!」

強い剣幕で詰め寄ってくるコナンに、阿笠博士が宥める様な声をかける。

「まあまあ新一くん、せっかく苦痛をこらえて元の姿に戻っても、前みたいにすぐに逆戻りでは、何もならんじゃないかね。志保くんは、自分自身で、解毒剤が完璧かどうか、テストをしたんじゃよ。新一くんもその辺のところを・・・」
「わあってるよ、だけど、俺は一刻も早く元に戻りてーんだっ!」

志保が目を細め、腕を組み、冷たい声で言う。

「工藤くん、あなたらしくもない。何あせってるの。今まで辛抱したんだもの、数日間待つぐらいの事、何でもない筈よ。いつも冷静なあなたがこんなにあせる原因は、あの人ね」

コナンは、頬を染め、無言で目をそらす。
ばつの悪そうな表情が、何より雄弁に、志保の指摘が図星である事を物語っていた。


「今まで散々泣かせてきた、もうあいつの涙は見たくねえんだよ。今日は、今日だけは、工藤新一の姿で、あいつのそばに居てやりてぇんだ!」
「おお、そうか!」

阿笠博士が手をポンと打って言った。

「確か・・・、新一くんと10日ほど違っていたから、今日が蘭くんの誕生日じゃの!」

新一と呼ばれた子供――コナンは、ますます顔を赤く染める。志保は両手をひろげ、肩をすくめてみせた。

「全くもう、平成のホームズと呼ばれた冷静沈着な筈の頭脳が、たった一人の女の存在によって、簡単に狂わされるんだから」

新一は、そっぽを向いたまま答えた。

「・・・んだよ、わりぃかよ」
「でもその存在が、あなたを支え、絶対あきらめず、前向きにさせる原動力ともなっているんでしょ」

コナンは、目を大きく見開いて、志保の方を向き直った。
志保の目は、いつものような皮肉な冷たさはなく、柔らかな微笑を湛えていた。
けれど、その瞳が僅かながら、切なさに揺れていたことに、阿笠博士だけは気が付いていた。

コナンは、少しの沈黙の後、不敵な笑みを浮かべて言った。

「ああ、あいつが居たから、俺は自暴自棄にもならず、絶対いつか元に戻るって、自分自身を保っていられた。あいつの限りない優しさがあるから、俺は、正義というものを信じてられるんだ。あいつが、俺にとって、世界の全てなんだよ」
「ごちそうさま。今日はとても素直じゃない」
「たまにはな」
「本人に、照れずにそれを聞かせてあげるのね」
「言ってろ」
「じゃあ、私から、毛利蘭さんへ、誕生日のプレゼント」

そう言って、志保はコナンに、薬のカプセルをひとつ渡した。
コナンは、数秒間固まった後、表情を緩めて、志保からそれ――アポトキシン4869の解毒剤――を受け取る。


「サンキュー、はいば・・・宮野!」

くるっと背を向け、駆け出そうとするコナンを、宮野志保は、
「工藤くん!」

とやや大きな声で呼びとめた。
振り返ったコナンは、なんだよ、と目で尋ねてくる。

「工藤くん、私ね、あなたの事が好きよ!」

コナンの表情が一瞬凍りつく。

「好きよ!あなたは、最高の・・・仲間だったわ!」

やがて、コナンの顔に笑みが浮かんだ。

「ああ、俺も、おめーが好きだぜ。阿笠博士や、服部や、歩美ちゃん達と同じ位にな。俺にとってもおめーは、大事な仲間だ!」

満面の笑みで答えると、今度こそコナンは振り返らず、駆けて行った。
愛しい人の元へ、工藤新一として戻るために。








「これで良かったのかのう、志保くん」

志保は俯いていて、その表情は見えない。

「良いも悪いもないでしょ。彼の台詞聞いたら、もう他の誰だって入りこむ余地ないの、判りきってるじゃない」
「志保くん・・・」
「それに博士だって、昔からあの2人見てきてるんだから、2人には幸せになってもらいたいでしょう?」
「新一くんは昔から身内のような存在じゃったが、わしには志保くんの方が心配じゃよ」
「何馬鹿な事を言ってるのよ」
「わしは縁がなくて独身のままこの年まできてしまったが、志保くんを見ていると、神様がわしを哀れんで、娘を与えてくれたんじゃないかと、思ってしまう事があるんじゃ」
「博士・・・」
「志保くん、年寄りの繰り言と笑ってくれても良い、このまま、我が家に居てくれんじゃろうか。そしていつか、この家から花嫁となって旅立ってくれんじゃろうか」

志保は顔をあげ、しばらくまじまじと博士を見つめていたが、やがて視線をそらしてぽつりと言う。

「そんな約束はできないわ」

博士は肩を落としてうなだれた。

「はは、やっぱり無理な望みじゃったのかのう」
「嫁の貰い手がなくて、ずっとこの家に居座る羽目になるかもしれないわよ?」
「し、志保くん、それは」

顔を輝かせる博士に、志保は笑顔で頷いた。



雨が降り続く蒸し暑い夜。
空調の効いた部屋の中で、食後、コーヒーを入れてくつろぐ。
窓ガラスを流れる水滴をみつめながら、他愛もない会話を交わす。
恋人同士とはまた違った幸せな時間。
宮野志保はもうすぐ、博士の養女となって、阿笠志保となる。
最初から実るはずないとわかっていた、恋する相手の事を考えると、今でも胸がうずく。
けれどその痛みも、以前に比べれば、ずい分和らいだ気がする。

「ねえ、博士。私ね、あの二人の絆に憧れてた。工藤くんの、蘭さんを一途にみつめる眼差しが欲しかった。でも、だから、本当はわかっていたの。万に1つも有り得ないけれど、もし工藤くんが私に振り向いてくれたりしたら、その時は・・・、私の愛した工藤くんじゃなくなってしまうんだ、って。蘭さんだけを一途に愛している工藤くんだからこそ、私は愛したの。・・・不毛よね」

阿笠博士は黙って聞いていた。

「振り返ってみると、なんだか私、昔から不毛な恋ばかりしている気がするわ」
「なんの、志保はまだ若い。おまけに美人じゃ。これから、いくらでもいい男が現れるわい」
「そうね。今度は、その気になってくれる男を追いかける事にするわ」

二人はまだ気付いていない。
数年後、現在より更に「父の愛」に目覚めた阿笠博士相手に、志保への求愛者達は大いなる苦労を強いられる事になるのだった。





Fin.



+++++++++++++++++

後書き

これは私にとって初めてのコナン駄文となります。
描写力や文章力不足に、苦労し、玉砕しました。
蘭ちゃんの誕生日は、映画の1作目を参考に、勝手にでっち上げてます。
タイムパラドックスについては、突っ込まないで下さい(笑)
多分、原作の方でも、突っ込まれたら困ると思う(爆)

志保さんや新一くんが、こんなに素直に本音を話すはずがない(笑)ですが、おおむね彼らの心の中はこんなじゃないかなあと思って書きました。

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