<エースヘブン移転2周年記念プレゼント小説>





あなたの元へ行く為だったら、
あなたと共に居る為だったら、
私はどこまでも――、
海だって空だって、時間と空間だって超えて、駆けて行くわ。





Sky high



byドミ



「毛利、他の応募者は皆2年生だぞ。3年生になって留学と言ったら、こっちの大学受験は大変だ。良いのか?」
「大学も、あちらに行こうと思っているので」
「アメリカの大学は日本より入り易いとは言え、言葉の壁がある。それにあちらでは、入学後の厳しさは日本と比較にならないぞ。それでも良いのか?」
「はい。覚悟は出来ています」
「そうか。毛利がそこまで決意しているのなら、何も言うまい。選考に残れるかどうかはわからないが、毛利なら大丈夫だろう。頑張れよ」
「ありがとうございます」

春休みに入っている帝丹高校の進路指導室で、毛利蘭と、蘭の2年時の担任教師との間に、このような会話が交わされていた。

普通、帝丹高校からアメリカの姉妹校に派遣される留学生は、2年生から若干名が選ばれる事が多い。
今年3年に進級する毛利蘭が留学に応募した事は、職員会議でも議論された。
けれど、大学進学もアメリカを考えている本人の意向も伝えられ、成績・素行など検討されて、毛利蘭は最終選考に残った。



  ☆☆☆



「蘭、アメリカ留学なんて、俺は許さんぞ!」
「お父さんが許そうが許すまいが関係ないわ。私の人生だもの、私がそう決めたの」
「蘭!!」

毛利家の居間では、蘭の父親である小五郎と蘭が対峙していた。
今日帝丹高校から正式に蘭が留学生と決定した旨連絡があったが、小五郎にとってそれは晴天の霹靂であったのだ。

「学校側も親に断りなく勝手な事しやがって!怒鳴り込んでやる!そしたらオメーの留学は取り消しだろう、まず大体保護者の同意は必要だろうからな」
「お父さん。そんな事したら、私きっとお父さんを一生軽蔑するよ。それに私、どんな事があっても、アメリカに行くんだって決めてるんだから。お父さんがどうあっても私の留学を取り止めさせようとするのなら、別の手を考えるまでよ」
「オメー、そんなにあの小僧が良いのかよ・・・」

小五郎が絞り出すような声で言った。
もし蘭がただ勉学の為だけにアメリカに行きたいと言うのであれば、小五郎は色々心配しても、頭ごなしに反対はしなかったであろう。
彼は父親として、蘭が何故アメリカに行きたいのか、わかっていたのである。

毛利蘭の幼馴染である工藤新一が、長い休学から数ヶ月ぶりに帰って来たかと思ったら今度は慌しくアメリカに発ってしまったのは、春休みが始まったばかりの頃だった。
小五郎がその話を聞いたのは、新一がアメリカに発った後のことである。
新一が行ってしまったというのに、新一を憎からず想っていた筈の蘭があまり辛そうでないのが、小五郎は逆に気になっては居た。
けれどまさか新一を追ってアメリカに行く心算だったとは。
父親としては到底許す事など出来なかった。

「長い事帰りを待ってたオメーを捨てて行っちまった奴の事なんか、忘れちまえ。追っかけたってオメーが辛い思いをするだけだろうが」
「・・・新一は私を捨ててなんかいないよ。いつか迎えに来てくれるって約束したもん。それに、それに・・・私もう、新一のお嫁さんになってるんだから!」

小五郎は驚愕して娘を見た。
蘭の言葉の意味を瞬時に理解したのである。

そう言えば春休み直前から、蘭は親友の鈴木園子の所に泊まりこみ、一緒に旅行に行った筈だった。
今迄園子と旅行に行くのはよくある事だったからその時は気にも留めていなかったが、蘭はその時生まれて初めて親に嘘を吐いてまで、幼馴染の男のものになってしまっていたのだろう。

小五郎は初めて娘に手を上げようとした。
しかし、蘭が澄んだ瞳で真っ直ぐに小五郎を見詰める眼差しに、上げた手を振り下ろす事はついに出来なかった。

「とにかく・・・俺は許さん!」

小五郎は娘から目を逸らし、畳の上にどっかりと座り込むと絞り出すような声でそれだけ言った。



  ☆☆☆



小五郎は暫らく座り込んでいた。
蘭はいつの間にか部屋を出て行っている。
小五郎は敗北感で一杯だった。
自分がどんなに「許さん!」と喚いたところで一緒なのはわかっていて、けれど許す事など出来なかった。
目の前にあの男が居れば1発と言わず殴りつけ投げ飛ばしてやる所だが、娘を攫ってしまった憎い男は遠い空の下である。
外国に行く前に新一がちゃっかり蘭を我がものにしていたとは・・・小五郎は腸が煮えくり返る思いだった。


妻の英理が出て行ってから10年間、男手ひとつで育てて来た娘。
いつかこんな日が来るのはわかっていたし、相手があのクソ生意気な探偵坊主になるのかも知れないとも思っていた。
けれど、蘭はまだ高校生。
覚悟を決めてしまうには早過ぎた。



  ☆☆☆



その夜遅く、毛利邸の電話が鳴った。
小五郎は留守だったので、蘭が出る。

「ハイ、毛利で・・・あ、お母さん?何があったの?」
『何があったのじゃないでしょう。訊きたいのはこっちの方よ。蘭、あなた新一くんを追ってアメリカに行くんですって?』

電話の向こうから溜息交じりの英理の声が聞こえた。

「・・・お父さんから聞いたの?」
『きちんと話してくれた訳じゃないけど。あの人、飲んだくれて私のアパートに来て、ずっとグダグダ言ってるのよ。断片的な言葉を繋ぎ合わせるとそういう事らしいと思ったの』
「そっか。お父さん、酔っ払ってお母さんのとこに行ったんだ。なら、安心だね。お母さん、お父さんの事、頼むわね」
『蘭・・・?』
「お母さん。私ね、すっごい親不孝だって思う。今迄私を育ててくれたお父さんに、酷い事言ったって思ってる」
『蘭・・・』
「お父さんもお母さんも、大好きよ。でも、駄目なの。新一が居ないと私、私じゃなくなってしまうんだもの」
『蘭。私は怒ったり止めたりする積りはないけど・・・なんでそんな事になってしまったかだけ、きちんと教えてくれる?このままだと私も、新一くんが蘭を捨てて行ったとしか思えないし。蘭がそこまで愛した相手がそんな人じゃないって思いたいけど、私、彼がまだ子供の頃しか知らないでしょう?このままでは縛り付けてでもあなたを行かせたくないって思うだけよ』
「・・・わかったわ。ちゃんと話すから」







次の朝、蘭は英理のアパートに向かった。
英理がドアを開け、蘭を招き入れる。
小五郎はリビングのソファーに顔を背けて座っていた。

「お父さん、お母さん。色々とごめんね。あのね・・・」

小五郎はこちらを見ようとはしないが、聞き耳を立てている事は蘭にはわかっていた。
そして蘭は話し始める。
新一と自分との事、結ばれるに至った時の事を。


黒の組織との戦いが終わり、コナンから元の姿に戻り、新一は帰って来た。
けれど新一の体は、長い間子供の姿になっていた事と、数回に渡り不完全な解毒剤を使った事で、見た目ではわからないが実はボロボロになっていた。
日本では打つ手がないが、アメリカでは治療法がある。
新一は蘭に何も告げず、ただ留学するとのみ高校でクラスの皆に伝えて去ろうとした。


けれど、思い余って工藤邸に飛び込んで来た蘭に、新一は全てを語り・・・そして、自分の想いを告げてくれた。
そして、たとえどれだけ掛かろうとも必ず蘭を迎えに来ると約束してくれた。
蘭は約束の証に新一との契りを望み・・・そして2人は結ばれた。


いつか必ず迎えに来るという新一の誓いを決して疑ってはいない。
けれど、蘭はただ座して待つのでなく、新一と共にありたいと望んだ。
だから、新一を追って行く決意をしたのだ。



蘭は――新一がコナンだった事は伏せ、ただ新一が表ざたに出来ない大きな事件に関わり、解決したものの犯罪に使われた薬剤の為に新一の体がボロボロになってしまったという風に誤魔化して、後の事は包み隠さず、両親に全てを告げた。

「・・・薬か。表ざたに出来ねえ事件っていやあ、麻薬シンジケート絡みか?ったく、高校生探偵なんぞ持ち上げられていい気になって、変な事に首突っ込んじまったんだろ。人生経験足りねえ若造がやべえ事に手ぇ出すからそんな目に遭うんだ」

小五郎が吐き捨てるように呟いた。
自分も若い頃には無鉄砲な事をやっていたのは、この際棚の上に放り上げている。

「ったく、そんな奴相手に好き好んで傷物になるたあ・・・ケッ!情けなさ過ぎて涙が出らあ」
「お父さん・・・」

小五郎の言葉は相変わらずだが、怒りは随分和らいでいる事に蘭は気付いた。

「お父さん、ごめんね」
「フン。決心を変える気もねえくせに、謝るんじゃねえよ」
「うん。ごめんね」
「謝んなって言ってんのに、ったく」



  ☆☆☆



その夜蘭は久し振りに母親の英理と一緒に寝た。
布団の中で久し振りに母としみじみ語り合う。

「蘭。あなたも苦労性ね。でも、平凡な幸せよりも、愛を貫きたいと決意しているのなら、私は同じ女として反対はしないわ。それにしても、黙って何もかも自分で決めてしまうその潔さと頑固さは誰に似たのやら」
「お母さん・・・」
「蘭が誰にも相談しないようになっちゃったのは、私のせいね。本当は母親が娘の相談相手になるべきなのに、私が傍に居なかったから・・・」
「ううん、そうじゃない。お母さんのせいなんかじゃ・・・それにね、お母さんさっき私が『平凡な幸せ』より新一を取ったような事言ったけど・・・確かに平凡じゃないけど、私、すごく幸せだよ」
「そうね、蘭。幸せになりなさい。蘭は昨夜自分の事を親不孝だって言ったけど、それはちょっと違うわよ。1番の親孝行はね、子供が幸せになる事だもの。蘭が幸せになれないんだったら、あの人はきっと、新一くんの事も蘭の事も許さないと思うわ。勿論、私もよ」
「お母さん・・・」
「新一くんの病状が落ち着いたら、1回日本に帰って来てちゃんと挨拶するのよ」
「うん、わかってる。ありがとう、お母さん。私ね、お父さんとお母さんの子供で本当に良かったって思う」
「お礼なんて・・・私は親として何も出来なかったのだし。ところで蘭、行く事、新一くんにも有希子達にも知らせてないんでしょう?」
「うん。いきなりで迷惑かって思うけど、新一も・・・小父様と小母様もきっと受け入れてくれると思うの」
「そりゃあまあ、きっと手放しで喜んでくれるとは思うわ。でも、やっぱり有希子たちには知らせておいた方が良いでしょう」









蘭の旅立ちの日。
蘭は探偵事務所で父親に挨拶をした。

「じゃあ、お父さん、元気で。行って来るね」
「ああ、行け行け。どこへでも好きな所に行っちまえ。泣きついて帰って来ても、俺は知らんからな」

小五郎は何でもないかのような顔をして、スポーツ新聞に目を落としたまま言った。
事務所のテレビもつけっ放しである。
新聞のページは小五郎が興味ない筈のプロサッカーの記事の所だったし、テレビで放映されているのは小五郎が普段見ないようなドキュメンタリー番組であった。
何でもないかのように装っているが、そうではない事はすぐに見て取れる。

小五郎は最後まで素直な言葉が吐けないけれど、彼なりに蘭の決意を認め、許してくれたのだと言う事は蘭にはわかっている。
けれど小五郎は、まだ新一の事は完全に赦していない。
小五郎が新一を赦すかどうか、それはこれからの2人次第である事も、蘭にはわかっていた。



  ☆☆☆



蘭は英理の運転する車で空港へと向かった。

「蘭。元気でね。・・・そして・・・これは親の身勝手だってわかってるけど、私達みたいに意地を張り合ったりしないで、新一くんと仲良くね」
「お母さん」
「この前も言ったけど、幸せになるのよ。それだけが、親としての願い」
「ねえお母さん。お母さんは、幸せじゃなかったの?」

英理は虚を突かれた様にうろたえた顔をし、赤くなった。

「また何を言い出すのよ?・・・そうね。別に不幸じゃなかったわ。あの人と結婚したからこそあなたという娘が出来たのだし」
「お母さん。誤魔化さないで。お父さんの事が本当にどうでも良いのなら、むしろ逆にお母さんは家を出て行ったりしなかったでしょう?」

英理が僅かに息を呑む気配がした。
蘭は、新一と愛し合った事で、両親の事についても今までわからなかった事が少し見えるようになって来たのである。

小五郎と英理は、いつまでもお互い「家族」ではなく、「男と女」であったのだ。
多くの家庭のようにお互いが「子供の父親と母親」というだけの関係になり果ててしまわなかったのだ。
小五郎と英理が別居したのは、表面上の理由はいくつもあるが、根底では「男と女」で居られるギリギリの距離を保つ為だったのだと、今の蘭には朧気ながら解る様になっていた。

工藤夫妻もいつまでも恋人同士のような雰囲気を保った夫婦であるが、この2人の場合はわざわざ距離を置かなくても、「男と女」で居られた。
それはかなりアクが強い2人の性格の為もあるだろうし、何かと外部からの刺激が多いその生活スタイルの為もあるだろう。

「ねえお母さん。無理に一緒に住めとは言わないけれど・・・私が言うのも変だけど、お父さんの事よろしくね」
「・・・あなたにそんな風に言わせてしまうなんて、本当に母親としても妻としても失格ね。蘭は長い間、毛利家の主婦代わりだったものね。でも、今はそんな心配しないで、新一くんの事だけを考えるのよ。あの人だって、遅かれ早かれいずれは子離れしなきゃいけないんだし。でもまあ、心配だろうから、時々様子位は見て報告してあげても良くってよ」

小五郎の事ではどうしても素直になれない英理に、蘭はクスリと笑いを漏らした。
結局、父と母は似た者同士なのである。
小五郎の事は母に任せておけば大丈夫そうだった。











「なあ母さん。ここ、俺1人には広過ぎねえか?脛齧りの身分には分不相応だろ?」
「何言ってるのよ、新ちゃん。そんな殊勝な事言うなんて気持ち悪いわね。どうせすぐに本と資料の山で部屋を埋め尽くすに決まってるんだから、この位の広さで丁度良いの」
「・・・わりぃな。母さん達に面倒掛けちまって」
「止めてよ新ちゃん、あなたにそんな事言われたら本当に気持ち悪いじゃない。あ、鳥肌が」

新一は今日から入居するアパートに、有希子と2人で来ていた。
父親の優作は、ホテルで原稿執筆の缶詰中である。

新一が治療の為に滞在するのはニューヨーク。
同じアメリカ合衆国内とは言っても、新一の両親が拠点にしているロサンゼルスとは大陸の東と西に遠く隔たっている。
優作と有希子は、新一の為にアパートを借りた。
そして新一は今日、今まで泊まっていたホテルを引き払い、このアパートへと越して来た。
この先はそこから病院と学校に通うのである。

借りてもらったアパートは、単身者用としては充分以上に広いものであった。
優作と有希子は、それ位痛くも痒くもない経済力を持っているが、その両親の所為で経済観念が普通でない新一も、流石に分不相応だと感じた位だった。
両親も時々様子を見に来るだろうが、これからニューヨークでの1人暮らしが始まるのである。

有希子は新一をアパートまで連れて来ると、「この後大事な用があるから」と言ってさっさと出て行ってしまった。
新一は一通りアパートの中を見て回る。
アパートの中は日本と違い、元々備え付けや作り付けの家具がある。

「クローゼット・・・母さんなら衣装持ちだから足りねえだろうけど、俺1人だと余って仕方ねえな。本棚だけは流石に買い足さねえと・・・ゲッ!ベッドがやたらと大きいぜ。平均的アメリカ人は体格も大きいから・・・って言うより、どうもダブルベッドだな、こりゃ」

雑貨や服などは日本から送って来ているので、取り敢えず生活に不自由はしない。
新一は荷物をほどき、整理し始めた。


何年かかるか判らないニューヨークでの生活。
新一はアポトキシン4869の影響でボロボロになった体の治療を行う一方で、学校に通い、探偵としての修行を積む心算でいた。
早く健康を取り戻したいが、同時に早く1人前の探偵になって生計を立てられるようになりたい。
勿論、無理はしないように医師や優作からは厳しく言い渡されているし、新一自身も将来の事を考えて治療を第一に専念する積りでいる。

「うっ・・・ぐううっ!」

長旅の影響か、このところ治まっていた発作が新一を襲い、新一は胸を押さえてうずくまった。

「蘭、蘭・・・!」

脳裏に浮かぶのは、誰よりも何よりも愛しい存在。

「待ってろ・・・こんなの、すぐに治して、絶対オメーの元に戻ってみせっから!」

蘭が居る限り、絶対に死んだりなどしない。
絶対に蘭の元に帰り、2人で幸せになるのだ、と新一は苦しい息の下で決意を新たにする。
増してや、この先何年も置いて行くというのに、蘭をこの腕にかき抱き、わがものとしてしまったのだから、尚更だ。

「ちゃっかりオメーのバージンだけ頂いておいて、あの世にバイバイじゃ、それこそおっちゃんに殺されちまうよな・・・」

蘭と結ばれた時、蘭自身が新一に抱かれるのを望んだのは確かだが、新一の方こそが蘭を欲しいと、自分のものにしたいと、ずっと願っていたのは紛れも無い事実であった。
蘭の為を思うのなら、一時の感情に流されて抱くべきではなかったのかも知れない。
しかし、新一は蘭を誰にも渡したくなかった、蘭を奪って蘭の中に自分の存在を刻み付けたかった。


本当なら、蘭を置いて行きたくなどなかった。
あのまま蘭を攫って連れて行きたかった。
蘭と離れてまだいくらも経っている訳ではない。
それでも、新一の心と体は悲鳴を上げそうになっていた。

「蘭。オメーの元に絶対戻るってのは、俺自身がオメーを必要としてるからだ、オメーを誰にも渡したくねえからだ。でも、少しは・・・オメーの為でもあるって、そう都合良く思ってても良いか?」

新一は脳裏の蘭に語りかけた。
その時、聞き間違いようのない優しい綺麗な声が聞こえた。


「新一・・・!」


空耳などではない、自分を呼ぶ、誰よりも何よりも愛しい声。
次いで足音が響き、長い黒髪を靡かせて、至高の存在が駆けて来る。
新一は呆然として突っ立っていた。
羽根が生えているかのように軽やかに、蘭は新一の元へと飛んで来た。

「蘭っ!」

新一は柔らかく暖かな存在を力いっぱい抱き締める。
蘭の唇に自らのそれを重ね、夢中で貪った。
そして蘭が紛れもなくそこに存在している事を実感する。



  ☆☆☆



新一は自分の腕を枕にして寝息を立てている蘭の顔を飽かず見詰めていた。
蘭はアメリカに着いたばかりでまだ疲れているだろうに、休む余裕も与えず、すぐにベッドに運び込んで体を重ね合わせたのである。
そのあまりのやりように自分でも呆れてしまうが、蘭は新一の我侭を受け止めてくれた。
まだ蘭と離れてからひと月と経っている訳ではない。
それでも、蘭が傍に居なかった事で、自分で自覚している以上に飢えていたのだなと新一は苦笑する。

「ん・・・新一・・・?」

蘭が目を開け、新一の姿を認めるとにっこりと笑う。

「良かった・・・幻じゃない、新一はここに居るね?」

蘭が新一の頬に手を当て、瞳を見つめてそう言った。

「蘭・・・」

新一の方こそ、蘭が幻などでなくここに居る事を実感し、無上の喜びを感じているのだ。
出切る事なら離れたくない、離したくない。
新一は強い力で蘭を抱き締めると、唇を重ねた。

「なあ、蘭。もう学校始まってんだろ?いつまでこっちに居るんだ?」

新一は、直視したくなかった現実を思い出して訊いてみた。
本当だったら、蘭が今新一に会いに来る事はかなり無理があったのだろうと思う。
しかし、蘭は思い掛けない事実を口にした。

「学校は明日から行くわ。新一と同じハイスクールだから、宜しく」

新一はニューヨークで別にどの学校に行っても構わなかったのだが、帝丹高校側でも一応の体裁を整える為に、正式に姉妹校であるハイスクールに留学の手続きを取ってくれた。
帝丹高校は毎年2学年の生徒を若干名、ハイスクールに短期間の留学をさせているのだが、3学年時に長期に渡る留学をさせたのはあまり例がなかった。
実は帝丹高校では、2学年の学年末試験さえ受けていない新一を留年させるかどうか、苦渋の選択を迫られていた。
常識的に言えば、出席日数も足りず試験を受けていない新一は即留年決定である。
しかし、現役で一流大学合格間違いなしの成績優秀な生徒であり、高名な高校生探偵であり帝丹高校の誇りでもある工藤新一が留年となれば、はっきり言って世間体が悪い。
しかも、そうなれば新一はあっさり帝丹高校を退学し、大検を受けるなり他の高校に行くなりの方法を取る事が出来る。
新一の方から「アメリカに行く」との意思が示された事は、高校としては渡りに船であった。
中退すると言った新一を押し留め、「帝丹高校からの正式留学」という形を提案したのは、実は帝丹高校側であったのだ。

今回の毛利蘭の留学も、新一の前例があった為比較的あっさり受け入れられた。
蘭は駄目元で「留学生の資格試験を受けたい」と言い、もし無理なら他の方法を探す積りであったが、高校側でも蘭の意思を酌んでくれ、試験を受けさせてくれた。
そして蘭はそれに合格し、今ここに居るのである。

「大学もこっちで進学する心算だから」

蘭はそうあっさりと言った。

「蘭・・・でも、おっちゃん達は・・・?」

新一は、何を言ったら良いかわからず、やっとそれだけを口にした。

「お父さんにはやっぱり随分反対されたけど、でもわかってくれたよ。だって、私の居場所は新一の所なんだもん」

蘭が真っ直ぐに新一を見てそう言う。
簡単だったわけはない、日本に置いてくるものは決して小さくなどなかった筈だ。
それでも、蘭が諸々を乗り越えて新一の傍に居る事を選んでくれた事実に、新一は言葉もなく、ただただ蘭を抱き締めるしかなかった。

「新一。でも・・・急に来たりして迷惑じゃなかった?」
「そんな事ある訳ねえだろ。・・・きっと帰るって誓ったけど、本音を言えば、蘭をあのまま攫って連れて行きたかった。蘭を離したくなかった。けどそこまで我侭は言えないと・・・思ってた」

新一は蘭の髪に頬擦りしながらそう言った。

「新一。だって私、もう新一のものでしょ?」

蘭が柔らかな甘い声で囁く。

「蘭?」
「もう離さないで。私を1人にしないで・・・」
「蘭っ・・・!」

新一は蘭をきつく抱き締め、そしてまた唇を重ねた。

「もう2度と、絶対にオメーを離したりしねえ!」



サイドテーブルに置いてある携帯電話が鳴り、新一が取る。

「Hello・・・あ、母さん?」
『ハ〜イ、新ちゃん。そろそろ感動のご対面はひと段落したかしら?』
「母さん。知ってたんだな?」

新一は溜息混じりにそう言った。
そう考えれば、単身者には分不相応と思えたアパートの広さも、ダブルベッドの存在も納得がいく。
新一は具体的に何の事かは言わなかったが、勿論有希子にはすぐ意味が通じたようだ。

『英理から連絡受けてたからね。蘭ちゃんが既に新ちゃんにお嫁入りしちゃってる事も、ちゃあんと聞いてるわよ、うっふふふ』

お嫁入り、という言葉に新一は赤くなる。

『でね、あんまり邪魔はしたくないのだけど、この先の事とか電話越しじゃなくて話し合いたいから、10分後位にそっちに着くけど、良いかしら?』
「わーった」

新一が電話を切ると、蘭が新一を覗き込んで言った。

「電話、有希子小母様から?何て仰ってたの?」
「ああ・・・後10分位でこっちに着くとさ」
「あ、そう言えば、後でまた来るからって仰ってたわ」
「へっ?」
「空港で出迎えてここに連れて来て下さったの、小母様だもの」
「・・・・・・」

考えてみれば、方向音痴の蘭が真っ直ぐにここにたどり着くのは、そう簡単ではなかった筈だ。
第一、アパートが決まって引っ越したばかりだったので、新一はまだ蘭にここの住所も知らせていない。
そういった事さえ疑問に思わない程に、新一は蘭と会えた事で頭が一杯だったのだ。



  ☆☆☆



「事情が事情だから、2人が一緒に暮らす事は私達4人皆が認めたのよ。小五郎くんはほんっと〜に、不本意だったと思うけどね」

有希子はアパートに来ると、新一と蘭の向かい側に腰掛けて話をした。

「で、新ちゃん、わかっていると思うけど、皆から寄ってたかってここまで甘やかされたんだから、1日でも早く健康になるのよ。でないと許されないんだから」
「ああ。わーってる」

新一は真剣な目をして頷いた。
今の新一は、蘭にも、蘭を慈しみ育てた両親にも、大きな負債を抱えているのだ。
新一もその事はよく自覚している。

「まあ元気になったら、小五郎くんから数発殴り飛ばされて一本背負いを掛けられる位の事は覚悟しときなさいね」
「ああ、そうだな」

新一は苦笑混じりに答えた。
小五郎に対してした仕打ちを思えば、それ位で済めば安い方である。

「優作と私にしてみれば、蘭ちゃんが居てくれるなら安心して新ちゃんを任せられるから、本当に心強くて渡りに船だったわ。だから小五郎くんや英理には申し訳ないと思ったけど、今回のお話喜んで乗らせてもらったの。蘭ちゃん、新ちゃんの事、お願いね」

有希子が蘭に向き直り、柔らかな微笑を見せて言った。

「小母様、そんな・・・私こそ、新一の傍に居たいって我侭を許して頂いて・・・」

それまで黙っていた蘭が、涙ぐみながら答えた。

「蘭ちゃん、それは我侭なんかじゃないわ。私は嬉しいの。新ちゃんの事をそこまで想ってくれて、本当にありがとう。新ちゃん・・・新一も幸せ者だと思うわ。蘭ちゃんが居るからこそ、新一は新一で居られるの。それをどうか、忘れないでね」

そう言った有希子の顔は、母としての慈愛に満ちたものだった。

「小母様・・・」
「母さん・・・」

新一も、有希子の(滅多に表立って見せる事のない)母親としての大きな愛情を感じ取ってかしこまる。
けれど次の瞬間、有希子の表情は悪戯っぽいものに変化した。

「でもね新ちゃん。いくら親公認の同棲でも、けじめはつけるのよ。ちゃんと避妊はしなさいね」

母親の刺した釘に、新一も蘭も真っ赤になって言葉もなかった。







ニューヨークでの、新一と蘭の新しい生活が始まった。
日々が忙しく過ぎて行くが、希望に燃える2人には大して苦でもない。
新一は未来の為に、療養と勉学に専念し、体に無理が掛からないよう心掛けていた。
まあそれでも時々は事件が寄って来て、新一の探偵魂に火が点いてしまう時もあったが。
何年掛かるかわからないと言われた治療も、滑り出しは順調である。
これから紆余曲折はあるだろうが、蘭が傍に居るのなら、どんな事でもきっと耐えられると新一は感じていた。








蘭がニューヨークに来て瞬く間にひと月が過ぎた。
5月初旬、日本ではゴールデンウィークであるが、祭日が日本とは異なる為、ニューヨークでは普通に日々が過ぎていたある日の事。
毛利夫妻から新一と蘭宛に郵便が届いた。

新一と蘭は寄り添ってソファーに座り、小五郎と英理から届いたエアメイルの封を開けた。
英理の几帳面な字で綴られた手紙が入っている。

『蘭、元気にしていますか?私は元気です。蘭に頼まれたから週に5、6回はあの人の様子を見に行ってるけれど、まあまあ元気そうだから、心配しないで』

「週に5、6回様子見るって事は、殆ど『帰った』と言っても良い状況なんじゃねえか?」

新一が思わず突っ込む。

「たとえ週に7回でも、お母さんは『様子見に行ってるだけよ』って意地張って言い続けるだろうけどね」

蘭が笑いを堪えながら言った。
父と母のあり様は、少し前の新一と蘭の関係にちょっと似ている。
新一と蘭はお互いの気持ちを告白して以来、お互い素直に気持ちを表現するようになったし、今の新一は蘭に歯が浮くような甘い言葉を囁いてくれる。
それには黒の組織との戦いや、新一がコナンになってしまったという特殊な事情が大きく物を言っているのだろう。
そうでなければ、長く傍に居た分お互い意地を張り合って中々素直になれず、今頃はまだ「ただの幼馴染」だったかも知れないのだ。
お互いに辛い体験をして、今もその後遺症があるわけだが、それが2人の愛を更に強く育てたのも間違いない事実だった。

小五郎と英理はそうした体験がない所為か、お互いがとても大切な癖に、素直にそれを言えない。
よくもまあ無事(でもないが)結婚にこぎ着ける事が出来たものだと蘭は思う。

『蘭、もうすぐ誕生日ね。プレゼントには何が良いかと、随分考えました。新一くんは確か蘭よりちょっとだけ誕生日が早かったわよね。今回、あの人と私から蘭への誕生日プレゼントを同封してます。きっと気に入って貰えるって自信があるわ。あの人は反対するかと思ったけど、意外とあっさり同意してくれたのよ。あの人にも蘭へ手紙を書くよう言ったのだけれど、面倒臭いって嫌がったわ。本当は照れてるだけだから、許してあげてね。夏休み、ちょっとは日本に帰って来なさい。状況が許すなら新一くんも一緒に。それじゃあ、元気で』

封筒の中に別の封筒が同封されており、蘭はそれを開けた。
中には折り畳まれた紙が入っていた。
広げてみて、蘭も新一も息を呑む。


それは――、

未成年であり法的な手続きを踏む為には親の同意が必要な2人の為に、小五郎と英理が保護者の欄に署名・捺印を済ませた、婚姻届の用紙であった。









間もなく新一と蘭は、2人だけの結婚式を挙げた。

いずれ新一が完全に健康を取り戻した暁には、一旦日本に戻り、親しい人たちを招いて改めて披露を行う予定だ。
新一は探偵への道を進み、蘭はそのマネージメントをして探偵・工藤新一を支えて行く。

それはきっと、そう遠くない未来の話である。







Fin.



++++++++++++++++++++++



(後書き)


う〜ん、何だか尻切れトンボのような終わり方だ。
でも一応書きたかった事は全部書いたのですよね。
むしろ蛇足が多かったから纏まらなかったのかしら?

新一くんの体にアポトキシン4869の副作用で何らかの異変が起き、その治療で何年も外国で過ごさないといけない、という(同人誌ではよく見る、けど原作では絶対に有り得ないだろう)ネタは、自分では絶対書くまいと思っていた筈なのに、今回何故敢えて書いたのかと言えば、早い話、蘭ちゃんの一途な愛を描きたかったから。
だから新一くんサイドは付け足しのようになってしまいました。
何だか消化不良で、いずれはリベンジしたいです!

留学の件については、話の都合上嘘八百を並べています。
リアリティを求めて突っ込んだりしないようにお願いします。

これの前段に当たる新一くんと蘭ちゃんが結ばれる話がラブ天の方に同時アップされています。
興味がおありの方は是非そちらへどうぞ。



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