忘れないで、忘れないで
私の事を忘れないで
私と過ごした日々を
私があなたを愛している事を
どうか忘れないで


忘れはしない
たとえ全てが俺の中から失われても
君の事を
君を求めている事を
君を愛している事を
決して忘れはしない




勿忘草



byドミ(挿絵:まこと様)





プロローグ 私を忘れないで



「え〜?責任取るって、何よそれ〜?」

ここは東京都米花町にある私立帝丹高校二年B組の教室。このクラスに所属する鈴木園子の素っ頓狂な声が響き渡った。

「ん、暫らく私と付き合ってみるって」

クラスメートの中尾裕未がはにかみながら言う。

「須川くんって、そんな真面目なイメージじゃなかったのにねえ」
「でも、今時たまたまそんな関係になった子がバージンだったからって、責任感じたりするもんなの?」
「なんかさー、妙に感激してくれたのよね。私、あいつにバージン捧げられたら本望だって思って軽いノリで誘ったんだけど、気持ちが通じたみたいで、もうサイコー!」

園子や裕未の同級生である毛利蘭は、大きく溜息を吐いた。
クラスメートのこういった体験談を聞くのは、今回が初めてではない。高校生ともなれば、「男性経験あり」の子は多い。ここ帝丹高校の二年B組でも、それなりにいる。
しかし、時代が変わって昔ほど「処女の重み」がなくなったとしても、女にとって「ロストバージン」はやはり特別だ。女同士のおしゃべりでも、ロストバージンの話は他の話より重みを持って語られる。

蘭は、男性経験はまだない。エッチどころか、キスの経験さえない。
何しろ「彼氏いない歴十七年」であったから。
誘いがないわけじゃない、むしろ多い。
蘭はこの帝丹高校でもおそらく一番の美人で、しかも細身でありながら胸とお尻は形良く大きいというナイスバディである。
町を歩けばナンパの嵐、校内でもラブレターや直接の告白は、何度となく受けていた。(もっとも、その方面には鈍い蘭は、誘いを受けていてもそれが分かっていない事の方が多かったが)

ただ、蘭には昔から一途に思い続けている幼馴染の工藤新一という男がいて、それ以外の男性には目もくれないのである。
件の工藤新一はと言えば、頭脳明晰、容姿端麗、スポーツ万能と、絵に描いたような二拍子も三拍子も揃っている男で、しかも高校生探偵として多くの実績を挙げ、マスコミにも取り上げられる有名人。
当然の事ながら大モテであるが、少なくとも蘭の知る限りにおいて彼女が出来た事はまだなかった。
新一と子供の頃からずっと一緒にいる蘭は、高校も同じ所に進学し、登下校も一緒、休日にはよく二人で遊びに出掛けていた。
帝丹高校内でも、「夫婦」と呼ばれ、半ば公認のカップルである。
そうでなければ、新一・蘭双方共に、もっとアプローチが多かっただろうと思われる。

普通高校生ともなれば、「ただの幼馴染」は離れて行くものだ。けれど、新一と蘭は、ずっと親しかった。傍からは「あんた達それで付き合ってない訳?」と不思議がられる仲であった。
けれど――当人たちにしてみれば、お互いの気持ちの確認もなく、二人きりで過ごす事は多くてもせいぜい手を繋ぐのが関の山であれば、やはり「恋人同士」とは言い難かった。
その工藤新一であるが、実はここ半年ほど休学し、殆ど姿を見せていない。

「厄介な事件に関わっている」と言う事であったが、それが何であるかも言ってくれない。

どこでどう過ごしているかも不明だが、ただ蘭には電話やメールでしばしば連絡が入っていた。
たまに姿を見せても、すぐにまた居なくなってしまう。

蘭は、こんなに長い事新一と離れていた事は無く、辛くて堪らなかった。
小学校一年生の少年・江戸川コナンの口を通して、「絶対に死んでも戻って来る」という約束はあったものの、いつまで待てば良いのかも分からない。

それに――、
新一が蘭の事をどういう風に思っているか、それが分からずに待っているのは、とても辛い。
蘭は、幼馴染の関係が居心地良く、それすらも壊れてしまうのが怖くて一歩を踏み出せないでいたが、このままずっと「只の幼馴染」でいるのはもう嫌だった。

「ねえ、蘭、新一君ってさ、案外『責任取る』タイプかもよ」

蘭が物思いに耽っていると、突然、園子が話を振ってきた。

「な、な、な、何が言いたいのよ!?」

蘭は焦りまくり、声が裏返る。

「あやつさ、成り行きでそうなった相手でも、無下に出来そうに無いじゃん?だから、下手するとトンビにあぶらげ、ってな事に成りかねないよ?逆にさ・・・今度新一君が帰って来た時、寝込みを襲ってみたら?それで幼馴染を卒業出来るかもよ〜?」
蘭は真っ赤になり、何も言えなかった。

けれど、心のどこかで園子の言葉が引っ掛かる。

『もしも、もしも、そういう事に成ってしまったら・・・新一は責任を取って私の恋人になってくれるだろうか?』



「蘭姉ちゃん、何か考え事してるの?」
「え?あ・・・」

ぼんやりとしていた蘭を、子供の声が現実に引き戻した。

小学校一年生の男の子、江戸川コナン。訳あって蘭の家で預かっている子供である。
昨日電話が掛かって来て、急だが、コナンの母親が明日コナンを迎えに来ると言う事だった。
以前迎えに来た時は、コナン本人が毛利家にまだ居たいと言った為にそのまま預けていたのだが、今度こそは手元に息子を引き取りたいと言うのだった。
そして今回はコナン自身も親元に戻る事をあっさり承諾した。

今日は別れの前にと、蘭とコナン二人で近くの植物園まで遊びに来ていたのだった。
蘭は、新一が居なくなるのと入れ替わるようにしてやって来たこの少年が、実は新一なのではないかと思っていた。何らかの理由があって子供の姿になり、そして蘭の傍に居てくれているのではないかと・・・。
自分でも馬鹿げた妄想だと思うけれど、どうしてもその考えは何回否定されても、完全に蘭の頭を離れる事がなかったのである。

そのコナンも、明日自分の元を離れて行ってしまう。たとえ新一であってもなくても、弟のように大切な、いつも傍に居てくれた存在。
『新一もいつ帰ってくるのか判らない・・・そしてこの子も行ってしまう』

「蘭姉ちゃん?」

気遣わしげな子供の声。蘭は無理にでも笑顔を作る。

「ごめんね・・・コナンくんとも今日でお別れだと思うと、つい・・・。ね、また、会えるよね?」

コナンはハッとしたような顔をして一瞬顔を伏せた。けれどすぐに顔を上げ、

「きっとまた会えるよ、蘭姉ちゃん!」

と笑顔で言った。

「それに、それにね・・・新一兄ちゃんがすぐに帰って来るから・・・だから、寂しくないから・・・」

コナンの言葉に蘭は目を見張る。

『やっぱりコナンくん、あなたは新一なの?』

その問いは、声に出す事は出来なかった。





植物園は、自然の風景を模しながら、様々な植物を展示している。
小川が流れ込んでいる小さな池は、勿論作られたものなのだろうが、今の日本では滅多に見られない野にある自然の風景のようだった。

「あ、蘭姉ちゃん、見て見て、これ」

水辺の草花が生い茂る中、水色と白の可憐な花が咲いていた。立て札に植物の名前が書いてある。

「勿忘草(わすれなぐさ)?へー、名前はよく聞くけど、この花が・・・小さくて可愛い花だね」
「そうだね。実物見てがっかりしたって人多いけど、ちっちゃくって、結構可愛い花だよね。これってさ、英語の名前が『Forget me not』って言うんだ。意味は『私を忘れないで』・・・日本名の『わすれなぐさ』って、英語名の日本語訳なんだよ」
「私を忘れないで・・・」

蘭は呟く。



『私を忘れないで・・・新一。私を忘れないで・・・コナンくん』



蘭の心の声を聞いたかのように、コナンが言った。

「僕、蘭姉ちゃんの事忘れないよ」

コナンの言葉に、蘭は堪えきれずに涙を零す。コナンは困ったような顔で蘭を見詰める。

「泣かないでよ、蘭姉ちゃん。絶対にまた会えるからさ・・・」
「私・・・も・・・絶対、コナンくんの事、忘れない・・・」

コナンはもうきっと、コナンの姿のままで、蘭に会いに来る事はないのだろう。
蘭はそう確信していた。
蘭はコナンを抱き締めて暫らく泣き続け、コナンは困った顔をしながらも、抱き締められたままにじっとしていた。


次の日、コナンは慌しく両親の元へと去って行った。
蘭は寂しさを感じながらも、精一杯の笑顔でそれを見送った。



そして更に一週間が過ぎたある日、毛利家に掛かって来た電話――そして運命の輪が
回り始める。







(1)新一の帰還 〜side RAN〜



「新一が帰って来た・・・!新一っ!」

私――毛利蘭は、長い髪が風に乱れるのも構わず、息を切らしながら、幼馴染工藤新一の家へと駆けていた。

つい先程、新一の母親である有希子小母様から、電話で連絡があったのだ。
ここ暫らく私の前から姿を消していて、メールや電話で時々連絡をくれるものの、滅多に姿を見せる事の無かった幼馴染が、今日帰って来たというのだった。
私の心は喜びに溢れ、一刻でも早く新一に会いたいと、自然と足が速くなる。

けれど、本人からでなく、小母様から連絡があった事、その声が天真爛漫な有希子小母様にしては切羽詰っており、詳しい話はしてくれず、「とにかく来て欲しい」の一点張りだった事で、私の心の中は大きな不安も渦巻いていた。

「工藤」と表札がかかっている、大きな洋館のこれまた大きな門の前で、私は深呼吸をする。
玄関の呼び鈴を鳴らすと、早速有希子小母様が出迎えて下さった。

「蘭ちゃん。どうぞ中に入って」

いつも快活な有希子小母様なのに、今日はやつれて見える。
一体、新一に何があったと言うのだろう?



私はリビングに通された。有希子小母様が紅茶を運んでくる。
早く新一に会いたい。声を聞きたい。
けれど、有希子小母様が訳もなくこんなに焦らす様な真似をなさる筈が無いので、私は逸る心を抑えながら辛抱強く待った。

「蘭ちゃん。新ちゃんは帰って来たわ。でも・・・」

小母様が目を伏せ、よじり合わせた手が細かく震えている。

「小母様。まさか、新一、大怪我したり・・・」
「ううん。体はなんともないの。けれど、記憶が・・・私たちと過ごした日々の事を、全く覚えていないの」

小母様の思い掛けない言葉に、私は息を呑んだ。

「普通の記憶喪失とちょっと違うのよ。今まで得た知識は全てきちんと残っている。思考力も問題ない。そして、私たちが誰かっていう事も、知識としてはちゃんと判ってる」
「知識として判ってる?」
「ええ。だから、優作が父親だという事も、私が母親だという事も、すぐに判ったわ。でも、共に過ごした日々の記憶が全て失われていて、感情がそこに伴ってこないのよ」
「感情が伴ってこない・・・」



私は、鸚鵡返しのように小母様の言葉を反復するしかなかった。
小母様の言われる事が、今ひとつピンと来ないのだ。

「まあ、優しい子だから、知識として両親と認識している私達に、努めて優しく親しげに振舞おうとはしてくれるわ。でもどうしても、親子としての会話にならなくて、ギクシャクしてしまうの」

私は回らない思考力で考えてみた。
私との歴史を全く持たない新一。
幼馴染の気安さから、お互い憎まれ口を叩きあい、それでも他のどの女の子よりも親しく付き合っていた私の事を、新一がただの「同級生の一人」と認識する?

そんなのって・・・新一が私の事を女として認識せず、只の幼馴染と思っていたとしても、それすらも新一の中から失われてしまっているの?

私は泣きそうになってぎゅっと唇を噛み締めた。
たとえ愛してくれなくても良い、私の事、忘れて欲しくない!



そう・・・新一は幼馴染で、悪友と言うか、親友と言っても良い仲の良い間柄だけど、私にとってはただ一人の男性。誰よりも愛しい人。

新一には今のところ恋人と呼べる存在は居なかった。
いつかは、私がその位置に居られるようになったら、とずっと夢見ていた。
居心地の良い幼馴染という関係さえも壊れてしまうのが怖くて、まだその想いを告げる事は出来なかったけれど。

けれど、記憶を無くした新一とは、その「居心地の良い幼馴染」という関係さえ失われているのかも知れない。
私はぎゅっと唇を噛み、一生懸命覚悟を決めようとしながら、新一の部屋の扉をノックした。



「どうぞ」

紛れもない新一の声が返って来た。
私は震える手でノブを回してドアを開けた。



新一が戸惑ったような目で私を見る。
私は、涙が零れ落ちそうになるのを必死で堪えていた。

「新一・・・」

無意識の内に、名を呼んでいた。

「帝丹高校二年生、同級生で幼馴染の毛利蘭」

新一が言った。

ああ、本当に、私の事も、データとしての記憶しかないんだね。
私は足元が崩れそうになるのを、必死で堪えて踏ん張る。

「ええ、そうよ。あなたの同級生で、幼馴染の毛利蘭よ。覚えて・・・いないの?」
「ああ・・・君の事だけじゃなくて、誰の事も・・・誰かって事はわかるけど、その人とどういう風に過ごしたか、それが思い出せないんだ」

新一は、いつも私の傍にいた。
半年前、あのトロピカルランドで別れるまでは、いつもいつも、傍にいた、誰よりも近くにいた。
だからこそ私は、それが全て失われるのが怖くて、気持ちを告げる事が出来なかったのだ。

けれど今の新一からは、その全てが失われているのだ。
私は堪えきれずに涙を零していた。
自分で泣くまいと思うのに、止める事が出来ない。


新一は戸惑った目をして私を見ていた。
見知らぬ女の子にいきなり泣かれて、新一もさぞや困っている事だろう。

ややあって、新一がおずおずした様子で言った。

「あのさ・・・もしかして、君、俺の恋人・・・なの?」

新一の思い掛けない質問に、私は息を呑み、固まった。

言わなくちゃ。
私はただの幼馴染で、私たちそんな関係じゃないのよって。笑って明るく答えるのよ、蘭!

でも私は――ずるいって事、自分で一番良く解ってる!
私、嘘が大嫌いだった筈なのに。

それなのにいつの間にか、私の口は大きな嘘を吐いていた。

「そうよ。あなたは私と付き合ってたのに、長い事私をほったらかして事件を追っていた。やっと帰って来たと思ったら、そんな大切な事も忘れているなんて、酷いわ、新一!」

私の目から今度こそ止められずに次々と涙が零れ落ちる。
今度の涙は何故流す涙なのか、自分でも良く解らなかったけれど、でも少なくとも、この涙は芝居なんかではなかった。



私はずるい。

私が新一の恋人だなんて、何故新一がそんな勘違いをしたのか解らない。
私の泣いている顔を見て、記憶を失くしてもフェミニストの新一がそう解釈したのかも知れない。
けれど私は、この状況を利用してしまったのだ。


新一が私のところまで来て、私をそっと抱きしめる。
新一の勘違いを良い事に、私は新一にしっかりすがり付いて、声を上げて泣き出した。

「ごめんよ。俺、そんな大切な事も忘れてたなんて。泣くなよ。君に・・・おめーに泣かれると、俺、とても困る・・・」

ああ・・・記憶が無くても、確かに紛れも無く新一だわ。
以前言ったのとおんなじ事言ってる。
私は、後ろめたく思いながらも、新一の胸にしっかりと頭を預けていた。

新一に恋人として扱われるという幸福な出来事への誘惑に、私は、結局負けてしまったのだ。



新一が、私の顎に手を掛けて顔を上向かせる。
私を覗き込む真剣な瞳がとても綺麗で、私はうっとりする。
新一が顔を近付けて来て、私はそっと目を閉じた。私の唇に温かく湿った柔らかいものが触れて、私の体は思わず震える。
あまりの幸福感に、私は気を失いそうになる。

きっと新一は夢にも思っていないだろう。
これが私たちのファーストキスだなんて。
ああ、新一。
私いつかきっと罰を受けるわね。

でも、もう引き返せない。







(2)失われた記憶 〜side SHIN‐ICHI〜



目の前に女が居た。
誰よりも愛しい筈のその女性は、目の前に居ると言うのに、顔が判らない。

風渡る草原で、その女性の長い髪が風に靡く。
草原に咲く小さな花を見詰めて、女が言った。

「ねえ新一。この花の名前を知ってる?」
「Forget me not。和名、勿忘草(わすれなぐさ)。英名と和名が同じ――和名が英名の邦訳であるって言う花だろ」
「そうよ新一。この花の名にかけて――忘れないで。新一、私の事、忘れないでね」
「何を言うんだ、○○。俺がおめーの事、忘れる訳ねーだろ?」
「忘れないで、新一、忘れないで・・・」

その女はどんどん遠くなって行く。
俺は女を捕まえようと手を伸ばすが、届かない。
追いかけようとするが、足が動かない。

「○○、○○〜〜〜〜〜っ!!」



そして俺は自分の叫び声で目を覚ました。


「なんて夢だ・・・」

吐き捨てるように言う俺の目の前には、どういう訳だか子供が居た。

「工藤くん、気分はどう?」

その子供に尋ねられる。
小学一年生位の女の子。
名前は確か・・・。

「帝丹小学校一年生、灰原哀・・・けれど本来の姿は――年齢不詳、大人なのは間違いない、宮野志保という女性」

子供は顔を顰めた。
見た目通りの子供ではないというのは、俺の知識にある。
常識では考えられない話だが、子供の表情からそれが本当らしいと判る。

その子供が呆れたように言った。

「今更何変な事言ってるのよ?」

その言葉には答えず、俺は起き上がった。

頭が重い。
俺は、今の状況に至った経過を思い出そうとして――思い出せない事に気付いた。
今の状況どころの話ではない。
何も思い出せない。
俺はパニックになりそうな頭脳を宥めて、考える。

「逆行健忘?けれど、それにしては・・・」
「え?工藤くん、何言ってるの?」
「灰原さん。いや、宮野さんか?俺、あなたが誰かっていう事は『知識として』解る。多分、他の人物に対してもそうだろう。どういう訳だか、知識には欠落が無い様子だ。けどな・・・俺が何をして来たか、他の人とどう過ごして来たか・・・、過去の経験が一切思い出せないんだよ」

見た目子供の灰原哀は、引き攣った顔をする。
こいつは確かに俺のこの事態に付いて、何らかの心当たりがある様子だった。

「もしかしたら、解毒剤の副作用かも・・・いえ、それ以外に考えられないわ!」

その子供は慌てた様子で部屋を出て行った。

俺は再びベッドに横になり・・・考えても仕方のない記憶の欠落の事ではなく、先程見た夢に付いて考えていた。
その場に阿笠博士という年配の男性が現れた。
人の良さそうな丸っこい阿笠さんは、俺のお隣さんで小さい頃からの友人らしいが、やはり辞典を読むように、俺の中でデータだけの存在だった。
俺の事を心配そうにする様子は、付き合いの長い友人だと言う事を裏付けるものであったが。

「哀君、これは・・・!」
「間違いなくアポトキシンの解毒剤の作用によるものよ。私がまだ飲んでなくて正解だったわね」



阿笠博士と灰原哀、二人がかりで俺に今までの経緯を教えてくれた。

俺は、少し前までは有能な高校生探偵だったらしい。
俺の中にある膨大な知識を考えれば、それはまあ納得がいく。

けれど半年ほど前のある日、俺は、大掛かりな地下組織の取引現場を目撃してしまい、毒薬を飲まされ、死にはしなかったが七歳くらいの子供の姿になってしまった。
それから色々あって何とか組織を倒すのに成功し、薬のデータも手に入れ、元は組織の科学者だった宮野志保が解毒剤を作り、それを飲んで俺は元の姿に戻った。
しかし何らかの作用で、過去の記憶を失ってしまった。

常識では考えられない話だが(尤も今の俺に常識がちゃんと解っているかと問われれば困るが)今の状況を考えれば、辻褄が合う。


不思議なのは、経験した出来事などは何一つ覚えてねーのに知識の欠落はなさそうな事と、関わった人物に関しては、本に書いてある知識のようにデータとして俺の中に辛うじて残っている事だ。



ロスに居た俺の両親が呼ばれて飛んで来た。

「新一!」
「新ちゃん!」

世界的な推理小説家・工藤優作。
結婚と同時に引退した後も世間から忘れられていない、元・世界的な美人大女優・藤峰有希子。

あ、今は工藤有希子か。

その二人の、心配そうに俺を見詰める目。
この目を見ると、やはり俺の親なんだろうなって思う。

ちゃんとデータとして俺の親だって事は判ってる。
けど・・・何と言うか、二人には悪いけど、「懐かしい」とか、「会いたかった」とかいう、親に対してだったら当然湧き起こるはずの感情が全くと言っていい程湧き上がって来ねーんだよな。

「ご心配掛けて、すみません」

俺は二人に頭を下げる。
ま、心配掛けたのは本当の事だろうし、礼儀としてちゃんと挨拶しなきゃって思ったんだけど・・・。
母親である工藤有希子から、驚愕の瞳で見られてしまった。

「大変!新ちゃんがこんな殊勝な事言うなんて、やっぱりおかしいわ!」

おいおいおい!普段の俺ってどんななんだよ?
ああ、何か先行き不安になって来た。

両親が外国に去ってしまった後、俺は何故か両親に付いて行かず、この馬鹿でかい洋館で一人暮らしをしてたらしい。
けど、全く実感が湧かねえ。

俺の部屋ってとこも、見覚えはないが、まあ居心地は悪くなかったから、ここに暮らしてたってのは間違いねーだろう。

今までの事が分からないのだから仕方ないが、今後どうしたら良いかも全く分からない。
過去の記憶は無くても、高校の勉強に付いて行ける知識はあるようだから、とりあえず高校に行く事になるだろう。
半年ほど休学してたから進級に付いては微妙なとこだが、私立だし、父親である工藤優作が、病気だったとか何とかで高校側を丸め込む腹積もりらしい。

医師の診断書までちゃっかり用意しているとこなんかは、流石世界的な推理小説家だなと妙に感心させられてしまった。

「進級させなければ退学するって言えば、多分学校側が折れると思うわ。それでも留年って言えば、潔くやめちゃいなさい」

有希子さん――いや、お母さんはぶっ飛んだ事を言う。
まあ、俺の知識からすれば、いざとなったら大検受けるっていう手もあるもんな。
けど、多分学校側が折れるって・・・お母さんに言わせれば、一流大学進学間違いなしで、しかも高校生探偵として世間的に有名な俺を、留年させたりやめさせたりするのは帝丹高校側にデメリットが大きいので、全然心配は要らないって事だけど。


俺は、何かとても大切な事を忘れているような気がして、それが気になって仕方なかった。
絶対に忘れてはならない大切な事があったのだ。
けれど、思い出せずに俺は頭をかきむしる。


ノックの音がした。お父さんか、お母さんか、それとも・・・。

「どうぞ」

声を掛けるとドアが開いた。

入って来た人物を見て、俺は息を呑む。

俺と同じ年頃の綺麗な人だった。
長いさらさらの黒髪、桜色のぽっちゃりした唇、そして大きな黒曜石の瞳が切なげに揺れている。
その姿を見た途端に、俺の体を電流が走ったような衝撃があった。

『この女性だ!』

直感的にそう思った。
一目惚れ――とか言うのではない。
うまく言えないが、待っていた、探していた、巡り逢えた、そういった感じ。
紛れも無く、俺の人生そのものである唯一人の女性、そして、顔がわからなかったあの夢の女性は間違いなくこの人だと、そう確信していた。

「新一・・・」

その女性が涙を一杯に溜めた目で俺を見詰めて俺の名を呼んだ。
どうしようもなく胸が騒ぐ。
その人が涙を溜めているのを見ると、胸が痛んで仕方がない。

その女性の名前は分かっている。

「帝丹高校二年生、同級生で幼馴染の毛利蘭」

その女性が――蘭が目を見開く。
蘭は俺と話しながら、堪えられない様子で涙を流している。

俺は、データとしては存在しないが自分の中にある確信をぶつけてみた。

「あのさ・・・もしかして、君、俺の恋人・・・なの?」

俺の質問に、蘭が息を呑み、固まった。
もしかしたら、違ってたのか?

俺が一方的に恋焦がれていただけで、彼女にとって俺はただの友人、クラスメートだったのだろうか。
けれど、彼女は泣きそうになりながら答えた。

「そうよ。あなたは私と付き合ってたのに、長い事私をほったらかして事件を追っていた。やっと帰って来たと思ったら、そんな大切な事も忘れているなんて、酷いわ、新一!」

蘭の目から更に涙が零れ落ちる。
ごめんよ、悲しませて。
俺の記憶がない事を聞いて、俺が長い事君の傍を離れていた挙句に、君の事もすっかり忘れてしまってるって思ってたんだね。

確かに、君との過去は忘れてる。
でも、俺の魂の奥底に、君への想いがしっかりと刻み込まれている。
どんな事があったって、君を愛してるって事だけは、俺は決して忘れない。



俺は蘭のところまで行って、そっと抱きしめた。
蘭は俺にしっかりすがり付いて、声を上げて泣き出した。

「ごめんよ。俺、そんな大切な事も忘れてたなんて。泣くなよ。君に・・・おめーに泣かれると、俺、とても困る・・・」

蘭にとって俺は、いきなり姿をくらました不実な恋人。
まあ、姿を消した理由は阿笠博士や灰原さんから聞いたけどさ。
我ながらドジな話だよな。
けど、そんな俺でも君は待っててくれたんだね。



俺は蘭の顎に手を掛け持ち上げると、万感の思いを込めて口付けた。
蘭の体は震えていた。

もう二度と一人にはしない。
絶対にずっと傍に居るから。
絶対にお前を守って見せるから。







(3)恋人宣言 〜side SONOKO〜



蘭から電話があった。
新一くんが帰って来たんだって、そして明日からまた帝丹高校に復学出来るって。

蘭にとってはすっごく嬉しい事の筈。
なのに、電話の蘭の声は重く沈んでいた。
何でだろう?





そして今日、思った通り、新一くんは蘭と連れ立って一緒に登校して来た。
けど新一くん、えらくきょろきょろと物珍しそうに見回している。
半年振りで懐かしいのかしら?
でも、学園祭の時突然姿を現したけど、あの時はこんな落ち着かない様子じゃなかったわ。

何か変ね。
この名探偵・鈴木園子様の目は誤魔化せないわよ。

「は〜い、お二人さん。復帰早々、夫婦揃ってのご登校?熱いわね〜」

声を掛けると二人揃って振り向いたわ。
このタイミングがピッタリなとこも、夫婦してるわよね。
けど、次の瞬間、新一くんの口から思い掛けない言葉が出て、私は石の様に固まった。

「お早う。君は、・・・鈴木さんか。久し振りだね」

「はああああっ!?」

私の声は、思いっ切り跳ね上がってたと思う。
ちょっと止めてよ、「鈴木さん」ですって!?
そんな風に新一くんに呼ばれた日には鳥肌もんよ!


新一くんが蘭の耳に口を付け、何事かを訊いている。
蘭は赤くなってそれを聞いていた後、今度は逆に蘭が新一くんにこっそり何か耳打ちしてる。

ちょっとちょっと何なのよ、そのこそこそした雰囲気は?
私は皮肉混じりに言った。

「なあに、あんたたち。新一くんの復帰早々、夫婦で朝っぱらから内緒話なわけ?妬けるわねー」
「あ、いや、失礼。園子、どうも俺、病気の所為か、頭がボーっとしてるとこあって・・・この先も変な事言うかも知れないけど、勘弁してくれな」
「はあ?病気?って何の事よ」
「俺が休学してた本当の理由は、実は病気療養の為だったんだ」
「へ?手が離せない事件に関わってたんじゃなかったの?」
「そういう事にして誤魔化してたんだよ、蘭やみんなに心配掛けたくなかったからな」

へっ?新一くんが、病気療養!?
殺しても絶対に死にそうに無いこの男が?

でも待てよ、そう言えば新一くん、学園祭の時倒れてたっけ。
そっかあ、あの時、病気が治り切ってなかったのに、蘭の相手役他の男にさせたくなくて、駆け付けた挙句に倒れた訳ね。
そして無理がたたってまた暫らく来れなくなった訳か。
もっとしぶとい奴かと思ってたけど、思いの他病弱だったのね。
一応は納得出来る話だった。
でも、私の心の中に、何となく釈然としない思いも残っていた。

まあ、「新一くんが病気療養」なんて、ちょっとやそっとでは信じられない話だものね。

「よ!工藤、久し振りだな」
「復帰早々、夫婦揃ってご登校かよ」
「熱いね、ヒューヒュー」

クラスメート達が次々と新一くんに声を掛ける。
私とおんなじ事言ってるわ、ま、無理も無いけどね。

そして新一くんの答えも予測出来るわ。

『バーロ。んなんじゃねえよ』

全くもう、どこからどう見ても相思相愛のラブラブカップルにしか見えないのに、蘭も新一くんも、お互い素直じゃ無いんだから。
2人とも「只の幼馴染」と言い張ってきかないのよね。
クラス中どころか帝丹高校中で公認の「夫婦」だって言うのに。
新一くんが口を開いた。

「バーロ。やっかんでんじゃねえよ」

そうそう、やっぱり予想通りの答・・・?え?ええっ!?ええええええっっ!??

ちょっと待って、今、少しばかり予想と違う答が返らなかった?
見回すと、クラスメート達が、皆、呆然として新一くんを見てる。
はあ、やっぱ私の聞き間違いじゃ無かったみたいね。

そして当の新一くんは、蘭の肩に手を掛けて抱き寄せ、敵意に満ちた目で周囲のクラスメート男子達を睨んでる。

新一くん、それはあんまりよ。

皆、蘭は新一くんのものと思ってるからさ、涙をのんで諦めて、新一くんが居ない間もクラス挙げて蘭に虫が付かない様護ってきたって言うのに、そんな目でクラスメート達を見るんじゃないわよ!

ったく、独占欲強いんだから。

「新一くん、クラス挙げて公認夫婦の二人を応援してんだからね、そんな敵愾心に満ちた目で見てんじゃないわよ」

私が釘を刺す為に言ったら、新一くんは戸惑った目をした。
そして頭を下げる。

「ごめん。蘭を巡るライバルかと思っちまって、つい・・・」


変よ!
新一くんったら、絶対おかしいわ!
クラスメート達も皆、戸惑ってる。

けど突然、私はある事に思い至った。
そっか、新一くん、帰って来てから蘭に告白して、恋人同士になったんだ。
で、つい、独占欲が表に出ちゃったのね。
そして、「只の幼馴染」と言い張って誤魔化すのも止めたんだ。
なんだなんだ、そっか、そうだったのか、蘭、おめでとう!

戸惑ってたクラスメート達も、その事に気付いたようだ。
大歓声と拍手が湧き起こる。

「おお、工藤、毛利、お前達とうとう・・・!」
「おめでとう、工藤くん、蘭!」
「あんなに幼馴染と言い張ってたお前達だが、やっと本物の夫婦になったんだな!」
「工藤くん、もう蘭を泣かせんじゃないわよ!」

口々にからかいとも祝福ともつかない言葉が掛けられる。
まるで結婚式のノリね。
この二人、既にクラスの中では夫婦扱いだったから、今更誰も「恋人同士になったんだね」とは言わない。
けど、どう見ても傍からはラブラブにしか見えなかった二人だったけど、これでも今迄は本当に「只の幼馴染」だったのよね。
やっと、やっと、お互いの想いを告げ合ったんだわ。

でも、そうすると、昨夜の電話での蘭の打ち沈んだ様子は何だったんだろう?
込み上げる喜びを押し隠してたのかしら?
う〜ん、どうも釈然としないなあ。
今だって、新一くんに肩を抱かれて真っ赤になりながら、照れとは違う何か怯えたような色が目に浮かんでる。
蘭、一体どうしちゃったの?

そう言えば新一くん、休学した本当の理由は病気療養って言ってたっけ。
って事は・・・まさか!
本人にも知らされてないけど彼、本当は不治の病か何かで、残りの時間を本人の好きなように過ごさせてあげるって昔のドラマとかで良く見かけたアレ?
そして蘭はその事を知ってて・・・って、まさかよね、あの男に限って。
殺しても死にそうに無いどころか、相手を返り討ちにしそうな奴だもん。

けど、それなら蘭の様子がおかしいのは何でだろう?
あれだけ鈍感で、新一くんの気持ちに全く気付いてない様子だったから、告白されても信じられなくて、不安になってるとか?

でもだからって、あそこまでなるかしら?
う〜ん、流石の園子様も、推理に行き詰ってしまったわ。


昼休み、新一くんは職員室に呼ばれていた。
私は蘭を誘って弁当を持って屋上に行く。

「蘭、突然の恋人宣言、一体何があったのよ?その割にあんた、ちっとも幸せそうじゃないし」
「えっとね・・・帰ってきた新一に告白されて、付き合う事になって・・・でもまだ自分でも信じられなくて・・・」

私が予想した内のひとつが答として返って来た。
でも、蘭との付き合いが長い私には判る。
何でだか判んないけど、蘭は・・・嘘吐いてる。

嘘の嫌いな蘭がこんな風に嘘を吐くなんて。
でも、こんな時はどんなに蘭を問い詰めても、意外と頑固な蘭は絶対に何も言ってくれはしない。

悲しいけど、この私、蘭の大親友園子様にも言えないって蘭が決意してしまった事だもの。
これはちょっとやそっとではどうにもならないわ。

仕方がない、様子見て行くしかないか。
その内何か判るかも知れないし、蘭が話をする気になるかも知れない。

でも蘭、私がここに居る事忘れないで。
一人で抱え込まないで。


どうか、蘭がなるべく辛い思いをしませんように。







(4)初めての・・・ 〜side RAN〜



そして日々が過ぎてゆく。
新一は私をとても大切にしてくれた。
私が恋人である事を公言して憚らず、堂々としている。
最初は戸惑っていた友人達も、人前にも拘らず私とベタベタする新一の態度にじき慣れた。
いつの間にか二年B組ではそれを当たり前の事として受け止め、日常が回って行く。

当たり前の事として受け止められないのは私だ。
だって、この関係は嘘偽りなのだもの。
けれど、新一に恋人として大切にされる日々は、本当に幸せで、時々何もかも忘れそうになる。
私は、いつか来るかも知れない終焉にどこかで怯えながらも、その幸せに溺れて行った。



新一のご両親は、とりあえず落ち着いた頃を見計らってロスに帰って行った。
出発の日小母様は「新ちゃんの事、頼むわね」と仰ったけど、私は何だか後ろめたくて、まともに小母様の事を見る事が出来なかった。

「新一、今夜は何食べたい?」
「ん〜、ハンバーグ」
「またあ?もう、本当に子供なんだから」

そう言った私は、自分の言葉で胸の奥がツキンと痛むのを感じた。
これは家で預かってた子供、コナンくんに私が以前言った台詞。
子供に「子供なんだから」と言うなんておかしな事なのだけど、私は何だかコナンくんが新一だという気がしてならなかったのだもの。
人間が縮んだりまた大きくなったりする事、ある訳ないのにね。

でも、新一の記憶喪失とか、病気だったという説明とか、もしかしてそれが原因なんじゃないのかって、馬鹿な妄想が捨て切れない。
・・・そう思いたいのかも知れない。

だって、コナンくんが新一だったのなら、彼はずっと私の傍に居た事になるし、私の傍に居なかった間にもしかして恋人が出来てたのかも知れない等と心配せずに済む。
そう。
私は怖かった。
新一にはひょっとしたら、失われた記憶の中で、恋人が居たのかも知れない、好きな人が居たのかも知れない。
それなのに、はじめに見た物を母親と思い込んでしまうヒヨコよろしく、新一が記憶喪失なのを良い事に、私が新一の恋人だって情報をインプットしてしまったのかも知れない。
もしもそうだったら、記憶を取り戻した時には彼は私から去って行ってしまうかも知れない。

「泣きそうな顔をしている・・・」

ふいに新一が言った。

「え?」
「蘭、笑っててくれよ。おめーさ、俺と居る時いつも泣きそうな顔してるぜ。俺はもうどこにも行かねえから、だから・・・笑っててくれよ、蘭」

新一が困ったような顔で言う。

ゴメンねゴメンね新一、新一の所為じゃないの、私がいつも泣きそうなのは、私の嘘の所為なの。

でも、新一は気にするわよね。
せめて新一が不愉快な思いをしないように、私、いつも笑っているようにしよう。
いつかこの幸せな時間に終わりが来るとしても、それまでは笑顔で居よう。


私が笑顔を作ると、新一も安心したように微笑んだ。

「さ、美味しい御飯作るから待っててね」
「なあ蘭、最近俺の世話してくれるのは嬉しいけどさ、毛利さんは大丈夫なのか?」

「毛利さん」って・・・、と暫らく考え、ああ、お父さんの事か、と思い当たる。新一ったら、いつも小父さんとかおっちゃんって呼んでたんだもの、「毛利さん」だなんて調子狂うわ。
「うん、最近忙しそうなのよ。今夜は帰れないらしいわ」

警察には新一が病気療養中だと説明されている為、今は事件で呼び出しを食らう事もない。
その分、実はお父さん達がかなりオーバーワーク気味である事は新一には内緒の話だ。

それに新一は、学校でも留年せず進級する為にはかなりの課題をこなすのが筋だったらしいけど、優作小父様が「新一はまだ無理は出来ない身」と学校側を丸め込み、学校側は不承不承この次のテストで芸術系科目を除く全科目で95点以上のトップを取る事を条件に妥協した。
普通だったら、テストに備えて勉強が必要なんじゃないかと思うけど、あんなに休学してたのにどうして、と思う位に彼の知識は完璧だ。
それなりにマイペースで大丈夫らしい。

つまり、現在の新一は、以前では考えられない位暇なのだ。部活もやってないし。
けど彼なりに思うところはあるらしく、自宅でトレーニングに励んだり、インターネットで知識を得たりしている。
それでも、私が毎晩訪れて一緒に過ごせる暇はあるのだ。






夕御飯が終わってソファーに座る。

いつもだったらそろそろ新一が私を送ろうと立ち上がる時間。
けれど、今日の彼はゆったりコーヒーを飲んで、立ち上がろうとしない。
私の家にお父さんが居ないって事で、少しぐらい遅くなっても大丈夫って安心してるのかも知れない。

「そろそろ帰らなきゃ」

私の方が落ち着かなくなって立ち上がる。
すると、新一は私の手首を握って引き止めた。

「蘭、帰るなよ」
「え?」

暫らく、時が止まったような感じがした。
新一の眼差しの深い色に囚われて、私の心臓は早鐘を打っていた。
私は何かを言おうとするが、口の中がカラカラに乾いてうまく行かなかった。

新一が私を引き寄せ、私はそのまま新一の膝の上に載るような格好になる。
そしてそのままきつく抱き締められ、激しく口付けられる。
私の唇を割って新一の舌が入り込み、私の舌に絡めてきた。
私の体は震え、全身から力が抜けていく。
ようやく私の唇を解放した新一が、耳元で熱く囁いた。

「今夜は泊まって行けよ」

新一が何を望んでいるのか、何をしようとしているのか。
それは流石に私にもすぐに判った。

新一は多分、私たちが以前から恋人同士なら、当然体の関係もあるものだと思っているのだろう。

ここで私が、「そんな事はまだした事ない」って言えば、彼も焦らず時期を待ってくれるに違いない。

「ま、待って、新一」

私は、彼に時期を待ってくれるよう頼む筈だった。そうする心算だった筈なのに・・・。
私の口からは別の言葉が出て来てしまった。

「ここじゃ嫌。それに、シャワーを浴びたい・・・」

私、何をしようとしているの?
こんなの・・・新一を騙して、恋人同士だと思わせて、今度は新一を騙して契りを結ばせる心算なの?
そう、私は、たとえ新一を騙してでも、結ばれたかったのだと思う。
新一が記憶を無くしている今、新一の気持ちという不確かなものに頼る事は出来ない。
お互いの存在を体に刻み込んで、「新一の恋人」という位置を確かなものにしたかったのかも知れない。





その夜、新一の部屋で、私は過ごした。
初めての体験に、体中が切り裂かれるような痛みを覚える。
けれどそれ以上に、新一を騙しているという事実に、心がどうしようもなく痛む。

それでも、たとえ偽りであっても、新一に愛されて、新一に抱かれて、私はもうこのまま死んでも良いと思う程に幸福だった。

このまま時が止まって朝が来なければいいのにと思った。
新一が記憶を取り戻して私から去って行ってしまうような未来が来る事無く、このままずっと新一の腕の中で過ごせるのなら、そう願った。
新一は、私が初めてだって事に途中で気付いて驚いていたようだったけれど、何も言わず、私を労わり、とても優しかった。

そして私達はひとつになった。







 
(5)転機 〜side SHIN‐ICHI〜



蘭は、つい昨夜までバージンだった。

俺は蘭と――何物にも代え難くこの世で一番愛しい女性と結ばれた事が、凄く幸福で嬉しかったのと同時に、小さくない罪悪感も覚えていた。

おそらく記憶を失う前の俺が、性急に関係を進める事をせず、大切に大切にしていたんであろうに、それを他ならぬ自分自身の手でぶち壊してしまったわけだ。

俺にしてみれば、記憶にはなくとも恋人同士なら当然・・・と勝手に思い込んでたし、蘭が何も言わず拒まなかった為、まさかまだそういう関係になってなかったとは思いもしなかった。

まあ、蘭は嫌がらなかったし、受け入れてくれたし、深く考えずに素直に喜んどきゃ良いのかも知れない。
けど、何かが引っ掛かる。

蘭は、

「新一が帰って来たら・・・って、約束してたのだもの」

と言っていたが、流石に俺も、蘭の目の奥にある怯えたような色に気付き始めていた。

蘭は何に怯えている?
何を・・・隠してる?



「工藤くん、体の調子はどう?」

隣から灰原哀がやって来て尋ねる。

彼女は時々こうして俺の体調を見に来る。
記憶の欠落以外に何らかの副作用が残っていないかをチェックしているらしい。

「まあ今の所特に問題はないぜ。灰原さん、あんたの方はどうだ?無理してねーか?」
「あら・・・優しい事言ってくれるじゃない?無理はしてないわ、あの頃に比べたら・・・って、工藤くんはその記憶がないんだったわね」
「研究、進んでんのか?」
「ぼちぼちよ。でも工藤くん、別に記憶が戻らなくても差し障りないんじゃない?知識だけはちゃんと残ってるんだから」
「まあ、そうなんだけどよ・・・何と言うか、その・・・蘭の様子がおかしいし、過去の事に原因があるんじゃねーかと」

俺がそう言うと、灰原は奇妙な顔をして俺を見た。

「蘭さんが・・・?ふ〜ん、工藤くんって、記憶がなくても蘭さんへの感情だけは残ってたの?」

灰原のからかいとも何とも付かない言葉に、俺は頬が少し熱くなるのを感じていた。

確かに彼女に言われる通り、蘭に関してだけは、冷静に考える事が出来ねえようだ。
もし出来るなら誰かに相談したいと思う事はある。
けどまさか灰原に、蘭がバージンだったので戸惑ったなどと言える訳もない。



灰原がコーヒーを飲みながらとんでもない事を口にした。

「あ、ところで工藤くん、遺伝子に異常が無いか、チェックが必要だから、まだ子作りだけはしないでね?」

灰原の言葉に、俺は飲みかけていたコーヒーを勢い良く吹いた。
俺のその様子に、灰原は驚愕の表情でこちらを見やる。

「え!?何、工藤くん、まさか・・・!」

俺は、多分物凄く真っ赤になっているだろうと思う。

「い、いや・・・ちゃんと避妊はしたから大丈夫だと思うけどよ・・・」
「じゃあまさか蘭さんと・・・その・・・寝たの?」
「他に誰が居るよ?」

灰原は暫らく黙っていた。

ややあっておもむろに口を開く。

「工藤くん。あなたと蘭さんって、どう見ても相思相愛ではあったけれど、まだはっきりと『恋人同士』にはなってなかったのよ?」
「何だって・・・!?」
「蘭さん、バージンだったでしょ?」
「う・・・ま、まあ・・・」
「蘭さんが『恋人同士だった』って、言ったの?」
「い、いや・・・俺が『君は俺の恋人?』って訊いたら、そうだと答えたから・・・」
「そう・・・彼女も『違う』って言えなかったのね・・・」

俺の心を大きな衝撃が貫いた。

ずっと俺が帰るのを待っていてくれた蘭。

今にして思えば、心当たる事はいくつもある。
俺の問いに「違う」と答えられなくて、蘭はどんなに悩んだろう、辛かっただろう。



   ☆☆☆



それからも、俺はそ知らぬ振りをして蘭と「恋人同士」としての生活を続けた。
デートをしたり、家で一緒に御飯を食べて勉強したり、そして時々は俺の部屋で肌を重ね合わせてひとつになる。

けれど一つ変わった事がある。
俺が頻繁に蘭への愛の言葉を口にするようになった事だ。

「愛してるよ、蘭」
「新一・・・私もよ」

俺が愛を囁くと蘭は幸福そうな顔をするが、その瞳の奥に不安と怯えの色がいつも潜んでいる。

今いくら俺が「愛してるよ」と囁いたところで、蘭にとっては気休めにしかならないのだ。

でもたとえ気休めだと判っていても、俺は愛の言葉を繰り返す。


蘭が俺の事を思ってくれているのは、自惚れなどでは無く、確かな事実だろう。
けれど、蘭にとって見れば、記憶をなくす前の俺の気持ちがどこにあったのか、それが不安で堪らないのだろう。

俺が蘭を求めた時は、蘭はいつも決して俺を拒まない。
おそらく蘭は、体の関係を持つ事で不安を埋めようとしているのだろう。

俺としては、記憶を失くす前の俺が間違いなく蘭だけを愛していた事に、確信を持っているのだが、それをどう伝えようもない。

俺は真剣に、早く記憶を取り戻したいと願うようになった。
でないと、蘭の不安を拭う事が出来ない。



   ☆☆☆





「工藤くん。やっと出来たわ。この薬であなたの記憶は全て戻る筈よ」

灰原が待望の薬を持って来たのは、俺が帰還してから二ヶ月程経った日の事だった。

「サンキュー。灰原、手間掛けさせたな」
「礼には及ばないわ。元々私が作った薬が元凶だったのだから、私自身の手で全てを元に返したかっただけ」
「おめーは元に戻んねーのかよ?」

灰原はくすっと笑って言った。

「私は工藤くんが何の副作用もなく完璧に元通りになった事を見極めてからね。でないと・・・欠陥があった時にそれを修正するのは私しか居ないんだから」

俺は早速薬を飲もうとした。すると灰原が慌てたように言った。

「ちょっと待って、工藤くん」
「んだよ、まだ何かあるのかよ?」
「それを飲んだら、以前の記憶を取り戻す代わりに、記憶を失くしていた間の事を全て忘れてしまう恐れがあるのよ」


俺は暫らく考えてから口を開いた。

「わーった、ちゃんと準備をしてからにするよ。その・・・ありがとな」
「礼には及ばないって言ったでしょう?第一、あなたにお礼なんて言われると、体中がむず痒くなって仕方ないのよ」

口では辛辣な事を言いながら、灰原の目は柔らかな微笑をたたえていた。




俺は数日掛けて準備を整えた後、蘭を呼び出し、記憶を取り戻せそうな事、けれどそれと引き換えに、この二ヶ月間の記憶を失ってしまうかも知れない事を話した。

「蘭。今度こそ本当に戻ってくっからな、待っててくれ」
「新一・・・お願い、このままで居て・・・」

蘭が目に涙を溜めて悲痛な声で懇願して来た。

「蘭、どうしたんだ一体?」
「私、私っ・・・!嘘吐いてたの、新一と私はただの幼馴染だったの!もし新一が記憶を取り戻したら・・・!」

俺の胸にすがって泣きじゃくる蘭を俺はしっかり抱き締めた。

「なあ、蘭。おめーが好きなのは今の俺で、記憶を失くす前の昔の俺は違うのか?」
「え!?ううん、そんな事ないよ!記憶があっても無くても、新一は新一だもん!」
「・・・蘭。俺を信じてくれ。俺は・・・たとえ記憶があっても無くても、毛利蘭ただ一人を、愛してる」

蘭はビックリしたような目をして俺を見上げた。

「おめーに会った時、俺には確信があった。この人が俺のただ一人の女性だって。だから・・・俺を信じて、待っててくれ」

蘭は暫らく経ってコクリと頷いた。
まだその目に不安の色はあるが、俺を信じようと決意してくれたようだ。

俺は、涙を流す蘭の顎に手を掛けて上向かせ、万感の思いを込めて唇を重ねた。
蘭、待っててくれ。
俺は絶対にお前の元に戻って来るから。







(六)そして、新一の帰還 〜side RAN〜



新一は、全ての記憶を取り戻して再び帰って来た。
彼が戻って来て一番にした事と言えば、私をあのレストラン「アルセーヌ」へと呼び出し、「ずっと蘭が好きだった!」って告白してくれた事。

すごくすごく嬉しかった。
この二ヶ月間、新一の「恋人」として過ごしながらも、ずっと怯え続けていた私の不安を、新一は見事に取り払ってくれた。

そして新一は全てを話してくれた。
自分がコナンくんだった事、組織の事、戦いの事、何もかもを。
私は、新一がコナンくんとしてずっと傍に居てくれた事がはっきりと判って、嬉しくてたまらなかった。

「蘭、何か様子がおかしかったからずっと心配してたんだよ?元気になったね〜」

園子が私に声を掛けて来る。
ゴメンね園子、私園子にも心配掛けてたんだね、全然気が付いて無かったよ。
お父さん達も、口では何も言わないけど、すごく私の事心配してたみたい。
改めて、みんながどれ程私の事を思ってくれているかに気が付いて、本当に感謝してる。

でも、私の心は本当に新一の事ばかりで占められてるんだなあって、それも改めて認識しちゃった。
新一次第で、私はこんなにも変わってしまうのだもの。


クラスのみんなは、新一が記憶喪失だった事は知らない。
新一は、ご両親や阿笠博士からこの間の事情を詳しく聞いて、見事にそんな事何も無かった様にして過ごしている。
だからクラスメート達も、新一の言動が少しおかしい事に気付いても、まだ病気の後遺症が残っているのか位に思うみたい。

日が経つに連れ、新一の言動から不自然な点は消え、何事も無かったかのようにして過ごしている。
新一は、テストではそれは見事な点を取ったので、留年はちゃっかり免れた。まあ・・・有希子小母様が仰った通り、帝丹高校側でも、一流大学一発合格間違い無しの名探偵・工藤新一を、敢えて留年させる方がデメリットが大きいのだろうけど。
そして今は再び、高校生探偵として活躍している。
けど、忙しい合間を縫って私との時間をとても大切にしてくれる。
私はこんなに幸せで良いのかと思う位に幸福だった。


でも私は、大切な事を忘れていたのだった。



   ☆☆☆



私は買い物を済ませて工藤邸に向かっていた。
今日は御飯を作って新一と一緒に食べるつもりなのだ。

一応新一は一通り自炊も出来るし、新一も私も忙しいから、いつもっていう訳には行かない。
でも、探偵をやっている新一は体が資本だから、私はこうして時々御飯作りに来ていた。
今日はお父さんも留守だし、ゆっくり過ごせる筈なのだ。

玄関を開けると、子供用の靴が一足あり、先客が居る事を告げていた。
中に入ると、リビングから、新一と哀ちゃん――灰原さんの話し声が聞こえた。

灰原哀さんが本当は大人の女性で、元・組織の科学者で、新一の体を小さくした薬を作った人で、今回は解毒剤を作った事、そういったことも私は新一から聞いて知っていた。

「全ての検査で異常無しと出たわ。もう大丈夫よ、工藤くん」
「そっか。サンキュー、灰原」
「遺伝子にも何の異常も見られないわ。もう子作り解禁しても大丈夫だからね」
「なっ、ばっっ!!蘭とはまだそこまで行ってねーよ!」
「え?あら?・・・そう・・・まだなの・・・」

会話を聞いてしまった私の足はガクガクと震えていた。

当たり前の事だけど、新一は私がまだバージンだって思ってる。
今の新一には、私と愛し合った日々の記憶が無いのだから。

いつか新一に求められた時・・・私はバージンの振りをする演技なんかきっと出来ない。
でも、あの日々の事を新一に話す事も・・・出来ない。
私の嘘が、判ってしまうから。

偽りの日々の代償を、私は支払わなければならない。
たった今までの幸福感が全て洗い流されてしまったような気がして、私は震えながら立ち尽くしていた。



   ☆☆☆



夕御飯を終えて、リビングで寛ぐ。
新一がさっきからチラチラと訝しげに私を見ている。
きっと私の様子がおかしいのに気付いているのだろう。

「蘭、何か悩み事でもあるのか?」
「え?ううん、何でもないよ。ちょっと・・・疲れてるだけ」

私は誤魔化すように言ったけれど、きっと新一は変に思っているだろう。
新一が私を手招きで呼ぶ。
私が新一の横に座ると、新一は私を抱き締め、唇を重ねてきた。

角度を変えて繰り返される口付けが、だんだん深いものに変わっていく。
新一が私を抱き締める腕の力が強くなり、息遣いが荒くなる。

「んっ・・・!」

新一の手が、服の上から私の胸の膨らみへ触れてきた。
新一と何度も愛しあった事がある私の体はそれに反応しそうになり、私は慌てて強い力で新一を押し退けた。

「い、嫌・・・!駄目っ、新一」

新一は、私を離すと、暗く沈んだ声で言った。

「ごめん・・・」
「ゴメンよ、蘭・・・俺、つい・・・」

新一の傷ついたような眼差しと声に、私は胸を衝かれる様な想いだった。

「蘭、悪かった。俺、おめーが嫌だって思う事は絶対にしない。その・・・正直、いつかは、って気持ちあるけど・・・おめーがその気になるまで、いつまででも待つから・・・許してくれるか?」
「新一・・・ごめんなさい・・・私・・・」
「蘭が謝る事ねーよ。ゴメンな、怖がらせて」

それから新一は、私を家まで送ってくれた。
私を怖がらせない様気を使いながら、少し離れて歩く。

違うのに・・・私、嫌だったんじゃないの、新一が怖かったんじゃないの。
私・・・自分が怖かったの。

あなたに愛された記憶を持つこの心と体は、もしもそうなった時に、無垢な振りをするなんて絶対に出来ない。
でも、あの日々の事を・・・あなたを騙していた偽りの愛の日々の事を、私はあなたに何と言って説明したらいいの?



〜side SHIN‐ICHI〜



まずった。
蘭の様子がおかしかったんで慰めて話を聞こうとした筈が、つい・・・蘭を抱き締めてキスしている内に歯止めが利かなくなりそうになっちまった。
そして蘭を怖がらせるなんて、全く俺って奴は・・・!

それにしても、一体蘭は何があったんだろう。
俺が記憶を取り戻した後、蘭に告白をした時から今日までは、ずっと幸せそうだったのに。
俺は蘭の事が心配なのと自分の節操の無さが情けないのとで、少しの間どんよりと考え込んでいた。

「そう言えば、俺ってこの二ヶ月間、何してたんだろうな?」

俺は一人ごちる。
蘭にどうだったか訊いた時は

「記憶は欠落してたけど、知識は欠落してなかったから、勉強したりトレーニングしたりしてたわよ。後はネットで情報検索してたりとか・・・」

と答えたっけ。

それにしても、蘭は俺が記憶を取り戻せるかどうかも判らない状態だった事で、不安じゃ無かったんだろうか。
その辺は、こちらも訊きにくいし、蘭からも何も言っては来ないけど。
グダグダ考え込んでいても仕方が無いので、俺はパソコンの中のデータを整理する事にした。
最近警察からの応援要請も多くて、ゆっくりとそういう事する暇も無かったからな。

パソコンを立ち上げる。
俺の記憶にないファイルが結構ある。
日付を見ると、俺が記憶喪失だった間に作ったファイル群のようだ。
探偵の仕事も無く暇こいていた俺が、暇に任せて作ったものらしい。
ふと、あるファイルの名が目に留まった。

「Forget me not」

俺は、コナンの姿で蘭と最後に植物園で過ごした日を思い出した。
吸い寄せられるようにファイルを開く。
そして俺は、そのファイルの中身に驚き・・・尚且つ引き込まれて行った。




〜side RAN〜



私、決して新一とそうなる事が嫌なんじゃないのだけど(だってもう既にそうなってるんだもん)きっと新一は私が嫌がってた、怖がってたって誤解してるわよね。
新一は優しいから、いつまでも待つって言ってくれてるけど、本当に「いつまでも」って言うわけには行かないし、私だって・・・正直、新一に求められたら反応しそうになるし、どこまで拒み通せるか、自信が無い。

今日は新一と顔を合わせづらいけど、会わないのはもっと嫌だな・・・って思っていたら、新一からぜひ来て欲しいって呼び出しがあった。
新一の家に着くなり、私は新一に引っ張られるようにして図書館のような書斎に連れ込まれた。

新一はパソコンを何やら操作している。

「ちょっと、何なのよ」

抗議の声を上げかけた私だったが、次の瞬間、パソコンの画面に釘付けになった。

画面に映っているのは他ならぬ新一の姿。
そして画面の中の彼が正面を(カメラの方を)見て口を開く。

『よお。おめーがこれを見つけたって事は、例の薬で首尾良く記憶を取り戻し、尚且つ記憶喪失だった二ヶ月間の出来事は忘れてしまったって事だな』
「し、新一、これは?」
「ビデオレターだよ。記憶喪失の頃の俺から、記憶を取り戻した後の俺と蘭に向けてのな。パソコンのファイルを整理してたら、『勿忘草』って名前のやつがあって・・・開いたらこれが出てきた」
「わすれなぐさ?」

それを聞いた瞬間、コナンくんとの別れが私の頭をよぎった。

あの時コナンくんとしての別れを私に告げた新一にも、その時の事が思い起こされたのだろうか。
画面の中の新一が、私との愛の日々を語る。
何だか私は嬉しくて、だけどとても恥かしくて、まともに顔を上げていられなかった。

『蘭。俺と仲良くな。愛してるよ。それじゃ』

ビデオ画面の新一は最後にそう言って、ビデオレターは終わった。

「新一・・・」
「おめーの事だからさ、ま〜た色々と一人で悩んでたんだろ?記憶を失くしてた俺を誤魔化して偽りの恋人同士として過ごしたとかって」

新一が優しい目で私を見詰めながら話を続ける。

「ったくよ・・・記憶を無くしてた俺が何でおめーに『君は俺の恋人だったの?』なんて訊いたと思ってんだ?おめーがほかの女性と違うって、俺の大切な女性だって、そう感じたからに決まってんだろ?」
「うっ・・・だって・・・そんなの、判るわけ無いじゃない!」
「蘭、泣くなよ。だからあのな・・・そうじゃなくて・・・俺は・・・たとえ記憶があっても無くても、毛利蘭ただ一人を、愛してる」

記憶喪失だった新一が最後に私に告げてくれたのと同じ言葉を、今の新一が私に告げた。

「え?新一・・・まさか・・・?」
「蘭。俺、思い出したんだよ。俺自身がビデオレターとして残していたファイルを見た時に、記憶喪失だった間の事も、何もかもな」


その時の私の気持ちは、どう言い表したら良いのか判らない。
新一の胸に飛び込んで泣きじゃくる私を、新一は優しく、けれど力強く、抱き締めてくれた。

「新一、新一、新一・・・!」
「蘭、蘭。愛してる、愛してるよ」

新一の唇が私の唇に重ねられる。
何度も繰り返されるキスは、段々と激しく深いものへと変わって行く。


新一、ありがとう。
たとえ記憶が無くても、新一は本当に新一のままだった。
未来の私を救うメッセージを残してくれていたなんて、本当に嬉しい。

そしてどんな時でも私の事を愛してくれて、大切にしてくれて、私、最高に幸せよ。
きっと私も、たとえ記憶があっても無くても、



工藤新一ただ一人だけを、

愛してる。





そしてその夜。




私は新一の腕の中で、眠れない――けれどとても幸せな夜を過ごした。

耳元で幾度も繰り返される愛の言葉。
新一は、熱く、激しく、そして優しかった。

私達は身も心も熱く溶け合い、ひとつになった。








エピローグ 勿忘草をあなたに



「お邪魔しま〜す」
「あ、園子、いらっしゃい。上がってちょっと待っててね」

ある晴れた休日、蘭と遊びに行く約束をしている園子が、蘭の家まで迎えに訪れていた。
まだ出掛ける時間には間があり、蘭は慌てて残りの家事を片付けていた。

洗濯物を干す蘭の姿を、園子は座って暇そうに見詰めている。

ふと、園子の目に、ベランダの端に置いてある鉢植えが映る。
そこには、水色と白の小さな花が咲いていた。

「ら〜ん、この花・・・」
「ああ、それ?勿忘草よ」
「へえ?名前は良く聞くけど、これがそうなの。可愛い事は可愛いけど、何だか貧相な花ねえ・・・それにしても、こんな隅っこに置いてたんじゃ、日当たり悪くて可哀想じゃない?」
「あ、それね・・・もともと水辺の花で、日当たり良すぎると反っていけないらしいから」
「ふ〜ん、そうなんだ。・・・ねえこれって、もしかしてあやつの贈り物?あ、その赤い顔は図星だな」
「・・・ふう、もう・・・園子にはかなわないなあ。この前、新一が持って来たの」

勿忘草は、蘭にとってコナンとの別れの日を象徴する花であり、そして、新一が一時的に失われた蘭との愛の日々の記憶を取り戻す切っ掛けになった花。蘭にも新一にも
大切な思い出の花である。

先日、新一が赤い顔をして蘭に贈って来たのだった。

「花屋で見つけたから、それ、やるよ」

と言って。

園子が悪戯っぽい目をして蘭に言った。

「ねえ、蘭。勿忘草の花言葉って知ってる?」
「知ってるわよ、その位。花の名前と一緒で、『私を忘れないで』って言うんでしょ?」
「うん。でも、花言葉って、いくつか種類があるじゃない?新一くんってさ、妙にそんな事にも詳しいから、判ってて贈ったんだと思うよ」

作業をしている蘭は黙っているが、手の動きがかなり遅くなっている事に、園子は目ざとく気付く。

「別の花言葉ではね――白はやっぱり『私を忘れないで』って言うんだけど、ブルーのやつはね」

園子がちらっと鉢植えの水色の勿忘草に目を向ける。

そして次の言葉を聞いた蘭は、真っ赤になって手に持っていた洗濯物を取り落としてしまった。








青い勿忘草の花言葉は――
「真実の愛」






「勿忘草」完


戻る時はブラウザの「戻る」で。