レジスタ!



By 泉智様



(1)



「移籍?!僕がですか?」
「ああ。」
「・・・。」
「いいか、工藤。今の状態はまさに“飼い殺し”以外の何者でもないんだ。今我がチームのレギュラーにはヒデがいる。それに、お前より年長のリザーブが既に数人ベンチを暖めている。お前をトップ下から他のポジション・・例えばボランチへコンバートさせて・・・というのは考えたし、実に魅力的なプランなんだが、お前ほどの得点力のある選手を後ろへ下げ、守備の仕事を増やすのも・・・人には向き不向きがあるし、それが必ずしも上手く行くとは限らんしな。・・・勿論、お前の若さと実力なら、今すぐには無理でも数年のうちには、間違いなくヒデと互角にポジションを争えるだろう。だがまあ、我がチームの現状では、色々難しい面もあってね。・・・まあ、お前はまだ高校2年生だ。そう焦ってトップのピッチに出す必要はないのかもしれない。だが実は“ノワール東京”と“ビッグ大阪”がお前に興味を示し、照会をかけてきていてね。期限付きならば、とフロントも了解している。となれば、折角の機会だからな。余所のチームのではあっても、トップでプレーして経験を積む機会が廻ってきたなら、ソレを活かさないのは勿体無いと思ってな。」
「・・・ノワールとビッグ・・ですか?」
「ああ、そうだ。ビッグはうちより少々力は劣るが、つい先日、新監督を迎えて新しい息吹に溢れている。ノワールは・・・あそこはオーナーが変わってから3年経つというのに未だにゴタゴタしているし、うち以上にトップの事情は複雑だ。」
「・・・・・。」
「・・・まあ、どちらも、トップチームでのポジションをお前に約束してくれている。だが私としては、どちらかといえば、ビッグの方がお前の為には良いと思っている。・・・どうだね、工藤。考えてみてはくれないか?」
「・・・。」

高校2年、冬。シーズン前。
東京スピリッツ・トップチームの監督は、俺に「移籍話」を持ちかけてきた。
しかも、「期限付き」移籍。

「(移籍かぁ・・・。)」

溜息をつき、ボンヤリと歩いていた俺の背に、明るい声と衝撃が掛かった。

「新一!今、帰り?」
「蘭。」

声の主は“毛利蘭”。俺の物心付くか付かないころからの幼馴染で、しかも、俺の・・・想い人だ。

背中の中ほどから腰に届くかというくらいの綺麗なサラサラの黒髪。黒曜石色の大きな、つぶらな瞳。透き通るような乳白色の肌。甘やかな唇。すらりとした足。空手で鍛えられ、引き締まった体。でも胸も腰もしっかりあって、いわゆる理想的な体つき。しかも(タイプは違うけど)美人な母親に似たのか、その辺の女優なんかメじゃねえぞ、って言う位の美しい顔立ち。(俺は美人女優と謳われた俺の母さんよりもコイツの方が、ず〜っと遥かに、綺麗だと思っている/////。)「美人」なんていうと、大抵高飛車で性格が悪いと決め付けられがちだが、コイツは全然そんなところが無い。気立ては上々。とんでもなくお人よしで、涙もろくて。なんていうか・・・放っとけない。いつの間にか、落ちてた、というか。俺の、まだたった17年の人生ではあるけれど、思い出の全てにコイツが居て。もう、コイツが居ないと落ち着かないというか、しっくりこないと言うか。はぁ〜っ。なんか、俺って、蘭にメロメロだよなあ〜。うん。

そう自覚したのは、中1の時。周りの奴等から評判の、中3の先輩に告白された時だ。俺は先輩の気持ちにカケラも気付いてなかったけど、先輩が余りに真剣だったから、真剣には真剣で返すのが筋だよな、そう思って。
一拍置いたその瞬間。

もし目の前に居るのが、そう告白してくれたのが「コイツ(蘭)」だったら?

そういう気持ちが一瞬よぎって。瞬間、胸がとんでもなく高鳴って。

オレ、アイツがこんなにもトクベツにスキだったんだ・・・。

そう気付かされた。
以来、俺の「好き」は幼馴染の・・・子どものそれではなく、所謂、大人の「好き」になった。俺の中はもう、幼馴染を卒業したいという気持ちで溢れかえっている。でも、自覚して5年近く経つというのに勇気が出せなくて、いまだに告白してないんだけど。

「どうしたの?何だか、ぼんやりしちゃって。そっちも練習終わったの?」

怪訝そうに小首をかしげる彼女の手には、鞄と空手の胴着がある。

「あ?・・・ああ。」
「ご飯は?」
「まだ、これからだけど。・・・何?作ってくれんの?」
「うっ・・・。まあ、お父さんとお母さんは、今日は仕事で遅くなるから外で食べてくるって言ってたし。新一のご両親からは宜しくって頼まれてるし。・・・それに、サッカー選手は体が資本でしょ?新一はプロなんだから、ちゃんと食べなくっちゃ。」

内心の照れと嬉しさを押し隠して、にっこり笑って訊ねた俺に、蘭は、僅かに顔を赤くしながら優しい言葉をくれた。

「・・・プロ、か。」

『プロ』
その単語に、監督の話が頭に甦ってくる。

「そうよ?・・・で、冷蔵庫の中は大丈夫なの?」

考え込みそうになった俺を蘭は訝しそうに見つめながらも、問い詰めることはせずに会話を続けてくれた。

「・・・大丈夫じゃねえかも。」
「じゃあ、まずはスーパーね。・・・行くわよ、荷物持ちさん?」
「・・・。(空きっ腹じゃ、碌に考えらんねえよな。まずは、蘭が作ってくれる美味いメシ。飯!)」
「新一?」

俺は、蘭の無意識の気遣いに気を取り直して、監督の話はさっさと頭から追い払った。

「へいへい。」
「返事は1回!」
「はい、かしこまりました。参りましょうか、お嬢さん。」
「/////!・・・ったく、もう。どうしてそう、何気に気障な台詞がスラスラ出てくるの?新一って。」
「・・・気障だったか?今の。」
「自覚無いの?・・・はぁ〜っ。もぉ、良い。」

それから俺は、蘭と仲良く並んで買出しに行き、俺の家で仲良く一緒に夕飯を食った。そして蘭をちゃんと家まで送り届けると、一人、家に戻った。

数十分前まで蘭がいた広い家の中も、今は俺一人。考え事がある所為か、はたまた別の理由かは不明だが、今日は特に我が家を広く感じて。部屋に入った俺はベッドにボスッと身体をうずめ、ごろりと寝返りを打って、一人、天井を仰いだ。しばしそのまま、そうしていたら、監督から持ち掛けられた話が脳裏に甦ってきた。蘭の何気ない言葉も。

『新一はプロなんだから』

「・・・プロ・・か。」

プロチームに所属するサッカー選手なら誰だって、トップのレギュラーでピッチに立ちたい、そう思う。プロはトップでピッチに立って「なんぼ」の世界だからだ。

「でもなあ・・・。」

“ノワール東京”か“ビッグ大阪”へ移籍してピッチに立つか。それともこのままリザーブでベンチを暖めるか。
正直言って、俺自身、これがチャンスだと言うことは言われなくても分かっている。でも、極めてプライベートな事情で、俺は迷っていた。

「ビッグに行ったら、蘭と離れ離れになるんだよなあ。・・・かといってノワールは、なあ・・・。」

昔。中3の俺にプロへの引きをかけてくれた遠藤選手と比護選手が、所属していた“ノワール東京”で受けた仕打ちを(裏事情込みで)知っている分、どうもノワールには食指が働かない。かといって、片思いのこの状況で蘭に会えなくなるのは「堪える」なんて生易しいもんじゃない。何故なら、容姿も性格も極上の幼馴染は、半端じゃなくモテルから。今は俺の存在をこれでもか!としつこく主張し、番犬の如く直ぐ傍で目を光らせて虫除けに励んでるから良いようなものの、移籍、しかも大阪に行ったら、蘭に虫が付き放題だ。いや、俺が離れた途端にオトコが出来るかも知れない!そんなの、冗談じゃねえ!

「・・・。」

想像しただけでムカッ腹が立って。イライラして。八つ当たりされた枕は部屋の反対側の壁に打ち付けられて、床に沈んだ。

「ハハッ。・・・何やってんだろ、オレ。」

自嘲の笑みを浮べて哀れな枕に自分を重ねる。・・・そう。イラつく位なら、さっさと告白すれば済む話なんだ。・・・でも、そう思うたびに、臆病なオレが顔を出す。
もしも振られたら?「幼馴染」としてであっても、誰よりも傍に居られる「場所」を無くすことになるじゃねーか。そうなったら、とてもじゃないけど耐えられないし、立ち直れねえよ。・・でも・・やっぱり、「幼馴染」の壁を突破してえ・・・。
そんな切実な願いを、臨界点ギリギリの思いを抱えてもう5年近くなるってのに。いつも肝心なところで勇気が出せない自分自身が情けなくて、苛ただしくて。

「だあ〜っ!」

ベッドに顔を埋めると、俺は頭を掻き毟った。そんな、うだうだしてる俺に、運命の神様は、容赦なく決定打を送り込んできた。

『2−Bの工藤君、職員室まで来てください。』

「何々?新一君が呼び出し?珍しいことがあるモンねえ。」
「本当ね。・・・新一君。あなた、何かしでかしたの?」

蘭と同じく俺の幼馴染で“悪友?”の園子と志保が吹っかけてきた。

「あのなあ、園子、志保。俺が何しでかすってんだよ。」

ジト目で切り返した俺に、園子はにやけた笑みを浮かべ、とんでもないことを言ってきた。

「何って。んなもん、煩悩と倒錯の末についにアンタが蘭を押し倒して。で、その美味っし〜い劇的瞬間を先生に押さえられた♪コレに決まってんじゃな〜いv。」
「なっ/////?!(それじゃあオレは犯罪者じゃねえか!)」
「なっ!/////もうっ!何言ってんのよ、園子!」

一方、志保は、といえば。園子とは実に対照的にその言い草に呆れたような顔つきをしつつも、クールに、でも、思わずぎょっとするようなことを言ってきた。

「バカね。新一君にそんな甲斐性なんてあるわけ無いでしょう?まあせいぜいあるとすれば、例えば、どこかのチームからスカウトでも来た・・とかぐらいじゃないかしら?」
「ばっ?!なっ、志保?!」
「・・・新一?」
「フフッ。新一君。そんなにのんびりしてて良いのかしら?呼び出されてるんでしょう?さっさと行ってらっしゃいな。」
「あ・・・お、おう。」

その言葉に焦った俺は、志保の意味深な笑みと蘭と園子の訝し気な視線に見送られ、職員室へ向かった。

「工藤です。先生、何か僕に用ですか?」
「おお、工藤。実は、お前に来客があってな。」
「僕にお客さん・・ですか?」

そう言って担任は校長室に俺を連れて行った。




「失礼します。」

そこには、かつてノワール東京、現在はビッグ大阪のエース・ストライカーで得点王の比護隆祐選手と、彼の兄でビッグ大阪のDFで、キャプテンの遠藤陸夫選手がいた。実は、遠藤選手は志保の姉さんの・・明美さんの旦那さんでもある。俺は、志保の意味深な笑みの意味に気付き、内心で『あんにゃろ・・・』と毒づいた。

「こんにちは。3年ぶり、かな。工藤君。ビッグ大阪の遠藤です。」
「よっ!久しぶりだな、工藤。元気そうだな!」
「遠藤さん。比護さん。」

それから、遠藤さんと比護さんの熱心な「引き」が始まった。

「俺たちと一緒にJ1の頂点を取ろう!お前と一緒なら、絶対、間違いなく取れるんだ!お前は将来、日本のサッカー界を背負って立つ存在なんだ!こう言っちゃあ何だけどよ。お前んとこはタレント取りが激しい。それで力があってもピッチに立てねえ連中が多いんだ。げんにお前がそうじゃねえか。お前はこのまま埋もれて腐っちまって良いヤツじゃねえ!そう思ったから、監督に言ったんだ。スピリッツのトップに将来有望な凄いヤツが居る。新しいチーム作りの核になりうるヤツだ。このままスピリッツのベンチ漬けにしとくのは、まさに宝の持ち腐れなヤツだって。工藤!お前だって、これがチャンスな事ぐらい分かってる筈だ!ビッグに来い!」
「遠藤さん、比護さん。」

熱心さのあまり、比護さんは立ち上がって身を乗り出し、激しく俺に迫ってくる。

「工藤!俺はお前と一緒にプレーがしたいんだ!3年前は身を引いたが、今度は諦めねえからな!工藤っ!!」

流石はFW。得点王だけのことはあって、ここ一番の攻めは凄いものがある。比護さんの攻勢のあまりの激しさに、それを見かねた遠藤さんが、比護さんを抑えた。

「おい、隆祐。落ち着け。お前がそれじゃあ、工藤君は言いたいことがあっても言えないじゃないか。」
「だってよぉ、兄さん。」
「遠藤さん。」
「良いから、俺に任せろ。・・・工藤君、何か気がかりな事でもあるのかい?」
「えっ?」

興奮気味の比護さんの肩を抑えた遠藤さんは、穏やかな微笑を浮べ、俺の迷いを見透かすように問いかけてきた。

「まあ、これはあくまで僕の“勘”なんだけどね。君は僕たちと一緒にプレーすることに異存は無いし、きっと受けてくれると思っている。でも、君にはサッカー以外のことで気がかりがあってためらっている、そう感じるんだ。・・・違うかい?」
「遠藤さん/////。」

何で分かったんだ?そう思った俺は、反射的に真っ赤になって、俯いた。

「やっぱりそうか。・・・彼女、とか?」

ズバリ核心を突くその言葉に耳まで真っ赤になった俺に、遠藤さんは苦笑し、比護さんは目を瞠った。

「なんだ、工藤。それで迷ってたのか?」
「え・・・あ、はい/////。」

照れから上手く話せない俺に比護さんは呆れたようにそう言うと手を伸ばし、俺の頭をクシャクシャと撫で回した。

「・・・ったく。だったら、尚更、ビッグに来い。」
「比護さん。」

驚いて顔を上げた俺に、比護さんは弟を見るように親身に語りかけた。

「片思いか両思いかは分かんねえけどさ。お前が自分の人生を懸けて大事にしたい相手なら、一日も早く仕事で身を立てて、迎えに行ってやりゃ良いじゃねえか。それにだ。お前は今はベンチを暖めていることがが多いとは言え、トップチームの一員なんだ。プロなら常に上を目指すもんだぜ。・・・それに、お前がそこまで想ってる相手なら、ちゃんと話せばわかってくれると俺は思うぜ。工藤。」
「比護さん。」
「まあ、期限付きとはいえ、遠恋にさせちまうのは悪いと思うけどよ。でも、悪いことばかりじゃねえと思うぜ。・・・会えなくなって初めて、それまで分からなかったことや気付かなかったことが分かるし。待ってってくれるあいつのために頑張ろうって思いも、愛しさも深まるしな。・・・忙しいスケジュールの合間に会えると決まった日にはもう、嬉しくてたまんねえしよぉ〜/////。」
「・・・比護さん?」

語るにつれて、どんどんドリームに入っていって、これまでとは違い、何か夢見心地にうっとりと語る比護さんの豹変振りに、俺の頭の中には「?」が飛び交い。そんな弟の姿に、兄の遠藤さんは、押し殺していた笑いが堪えきれなくなったのか、声を立てて笑い出した。

「ハハハッ。隆祐。何、自分の体験談を話してんだ?」
「体験談?」
「なっ。ば、ばらすなよ、兄さんっ/////。」
「ククッ。俺はばらしてないぞ。お前が勝手に喋ってんだろ?」
「へえ〜っ。比護さんに遠恋の彼女が居るんですか?」
「そうなんだよ。これがまた、コイツには勿体無い位、凄く可愛い子でねえ〜。」
「へ〜っ。どんな人なんですか?」
「ああ、それはねえ・・・。」

身を乗り出して興味津々という風に遠藤さんと話す俺に、耳どころか首まで真っ赤になった比護さんは、大慌てで焦ったように大声を出して俺たちの間に割って入り、話を遮った。

「だぁ〜っ/////!兄さん、工藤っ!」
「ん?どうした、隆祐?」
「比護さん?」
「五月蝿えっ!オレの事はどうでも良いだろ!それより、工藤!大阪に来るのか?来ねえのか?!」
「「・・・。」」

そんな比護さんの慌てぶりが楽しくて、俺と遠藤さんは腹を抱えて爆笑した。
暫くして、照れてムスッとした様子の比護さんの見た俺は、何とか笑いを納めると、二人に数日の猶予を求めて、校長室を後にした。



放課後。チームが休みで練習が無かった俺は、久しぶりに蘭と二人きりで下校した。こういう時、大抵の場合、志保と園子も一緒に下校する事が多いのだが。今日はどういう風の吹き回しか運命の悪戯か、俺たち二人きりだった。

「新一。どうかしたの?難しい顔しちゃって。職員室に呼び出されてから、何か変だよ。」

昨夜、告白したいとアタマを抱えていた俺だったが。折角の二人きりという美味しいシチュエーションを意識するよりも、この時は遠藤さんと比護さんとの話を思い返していた所為か、話の回想に意識がいってしまっていて。

「そうか?」
「そうだよ。・・・もしかして、志保が言ったことと関係あるの?」
「志保の?」
「ほら、スカウトがどうのって。あの時の新一の反応、おかしかったから。・・・それで。」

気遣わしげに蘭がそう言うまで、シッカリと物思いにふけっていた。

「・・・・・。(相変わらずこういう時の勘は妙に鋭いよな〜。)」

この時俺は間抜けにも、そう言った蘭の、気遣わしげな表情の裏に巧みに隠された微妙な気持ちに気づく事もなく、溜息を一つ吐いて口を開いた。

「いや・・実はさ。期限付きだけど、移籍話があってさ。さっき職員室に呼び出されたのも、その話で相手先の人が来てくれたからなんだ。」
「・・・スピリッツから移籍?他所に?そうなんだ。・・・で、どこになの?」

ここにきてようやく、努めて明るく返す蘭の瞳と声が震えていることに、俺は気が付いた。でも、ここまできたら、もう話さないわけにはいかない。俺は思い切って口を開いた。

「大阪から。・・・ビッグ大阪から話があるんだ。」

この言葉に、隣を歩いていた蘭の足は、ピタリと止まった。

「ら・・・。」

俺も直ぐに足を止めて振り返り、蘭と向かい合った。俯いてしまった蘭の表情は、直ぐには伺えなかった。

「・・・大阪、か。」
「蘭?」

声を震わせる蘭の顔が見たくて。触れたくて。そっと肩に手を置こうと手を伸ばして。触れる直前で、そうして良いのかと、暫しためらって。空中をさまよった俺の手は、結局、蘭に触れることはなく、下ろされた。そんな蘭を見ているのが何故か辛くなった俺は、無意識に目を逸らした。

「・・・呼ばれたんだ。大阪に。即戦力として、でしょう?・・・凄いじゃない、新一。おめでとう。」

しばしの沈黙の後。そんな蘭の台詞に驚いて視線を戻した俺の目に、涙を目にいっぱいためながらも、笑顔を見せようと頑張っている蘭の顔が映った。

「蘭。」
「私、応援するよ。試合も絶対、見に行くよ。・・・・・だから、元気で・・頑張ってね。新一は、大事な・・大事な・・私の・・・お、幼馴染・・・なんだから。」
「!」

涙を流すまいと必死にこらえて。“にこっ”と本人はしてるつもりの、ぎこちない微笑を必死に作った、そんな蘭の顔を見た時。俺の中で何かがはじけた。

「じゃ、また明日ね。バイバ・・・。」

そう言って走り去ろうとした蘭の腕を俺は反射的に掴み、蘭を腕の中に収めていた。

「・・・し、新一/////!」

驚いて身じろぎする蘭を閉じ込める様に、俺は蘭を抱きしめる腕を強くして言った。

「蘭。俺は・・・俺は幼馴染だなんて思ってねえ。俺は・・・蘭、お前のことが好きだ。ずっと、ずっと昔から。・・・お前は俺にとってかけがえの無い、たった一人の大事な人なんだ。」

無我夢中で告白してしまったことに、想いを口にしてから気がついて。いきおい俺の鼓動は高鳴って、顔は真っ赤に染まった。でも、腕を緩めようとはしなかったし、思いもしなかった。

「しんいちぃ・・・。」

なぜなら、俺の言葉に一度だけびくっと震え、大人しくなった蘭の手が俺の背に回されて。俺の胸に大人しく身体を預け、すすり泣きだしたからだ。

「蘭。」

初めて感じる甘い柔らかさを離したくなくて。俺は蘭の背中に回していた手の片方で蘭の頭を抱え込むと、蘭の耳元に頬を寄せた。

「俺、プロとして身を立てて、必ずお前を迎えにいく。だから、待っててくれ。・・・いや、待ってて欲しい。俺はお前以外の人と、なんて考えたことねえんだ。・・・ダメか?」
「・・・・・。」
「蘭。」

身じろぎもせず腕の中でじっと俺の言葉を聞いていた蘭の、背に回された腕の力が強くなる。その行動に、俺の鼓動は早金を打ったようにますます高まりを増していった。俺の胸元に顔を埋めている蘭には、そんな俺の胸の高まりが丸分かりの筈だ。恥ずかしさの余り、頭を抱え込む腕の力を強くした、そんな俺の耳に、いたずらっぽい蘭の声が聞こえた。

「どのくらい待ってればいいの?・・・5年?10年?」

その言葉に、俺は思わず蘭の頭を抱え込んだ腕を外し、蘭の肩に手を置くと、顔を覗き込んだ。その顔は、もう泣いていない。頬を紅潮させ、いたずらっぽい表情を浮べ、俺を伺っていた。

「ねえ、新一。」

それにしても、10年とはあんまりじゃねえか。俺は、そこまで甲斐性なしだって言うのかよ。そう思った俺はつい、ムキになって返してしまった。

「なっ!バッ、バーロ!そんなに待たせっかよ!だいいち、そんなに掛かってたら、俺の方が我慢できねえよ!」
「・・・そっか/////。じゃあ、どの位?」

ムキになった俺に、蘭は何故か嬉しそうな笑顔を見せる。その笑顔につられて、俺は最長目標を告げた。(まあ、石の上にも3年、って言うしな。)

「・・・最高、20(はたち)頃。」

そう告げたら、今度はちょっと“ん〜っ”といったフクザツな笑顔になる。

「・・・3年、か。・・・長いなあ。」

その顔に焦った俺は、アッサリ白状してしまった。・・・本音を。

「最高で、って言ったろ?・・・本当は・・・高校卒業までに何とかしたい/////。」

すると、流石に蘭は驚いて。焦って問いかけてきた。

「ちょっ、新一。それじゃあと1年しかないじゃない!・・・そんなに短くて大丈夫なの?」
「大丈夫、にしてみせる。蘭を待たせるんだから、頑張んねえとな。」

こんな風に気にしてくれる蘭の言葉が嬉しくて、俺は自然に満面の笑みを浮かべ、ウインクまでつけてしまった。そんな俺に、蘭はいたずらっぽく、とんでもない言葉を返してきた。

「あれ?私、“待ってる”なんて言ったかなあ?」
「おいっ、テメー/////。だったら、何で“どのくらい”なんて訊くんだよ!」

その言葉にマジで焦った俺に、蘭は甘えた風に返してくる。

「だって・・・聞きたかったんだもん。新一がどの位本気なのかって。」

その言葉に脱力した俺は、ムッとして突っ込んだ。

「お前なあ〜。俺が冗談でこんなことを言う奴だと思ってんのか?」
「全然。」
「だったらなんで・・・。」

そう訊いた俺を、蘭は頬を染めて甘えたように上目遣いで見上げると、そっと言った。

「だって・・。ホントは私もずっと新一の事、好きだったから。新一からそう言ってもらえて、本当に嬉しかったから。」
「蘭/////。」
「だから・・・少しでも新一と離れるのは、一人で待ってるのは、辛いなあって思ったの。だって、今まで顔を見ないで暮らしたことなんて、あっても1ヶ月位。新一がユースの代表に呼ばれたときくらいだもん。・・・だから、新一がどのくらい本気なのか知りたかったの。・・・試すようなことを言ってごめんね。」

蘭の気持ちが嬉しくて。俺の中は蘭への愛おしさで溢れんばかりに満たされて。こいつの為にも、俺は絶対“ビッグ大阪”で結果を出してみせる!そう固く決意した。

「・・・蘭。」

俺は蘭の頬に手をかけ、そっと顎を持ち上げた。

「新一・・・。」

俺と蘭の視線が絡み合う。気持ちが通じ合った幸福感で、自然と幸せな笑みが浮かんで。お互いを熱い思いで見つめあう瞳は、そっと、瞼の裏に隠れていった。頬を寄せて。感じあう温かで柔らかで優しい感触に、胸が熱くときめいた。

「好きだ・・。」

何度も触れて離れて。交わす視線と触れる唇から気持ちを伝え合う。

「私も・・。」

俺たちは、初めてのキスを交わした。大いなる愛情と、誓いを込めて。







  ☆☆☆







蘭と晴れて両思いになった俺は、移籍する意志を監督に伝え、数日後には“ビッグ大阪”と期限付き移籍の契約を交わした。事後報告でその事をアメリカに居る両親に伝えたら、

『まあっ。蘭ちゃんと離れて大丈夫なの?新ちゃん。のんびりしてたら、蘭ちゃん、“トンビにアブラゲ”されちゃうわよ?』

実にズレた言葉が返ってきた。・・・まあ、予想通りというか。母さん“らしい”反応なのだが。

「・・・おい。俺がサッカーで大丈夫かっていう心配はしねえのかよ。」

それでも、一応、ズレてんぞ!という気持ちを込めて突っ込んでみた俺は。

『あらぁ、そんなもの、するわけ無いじゃない。新ちゃんがサッカーで“外す”なんて、私も優作も、“これっぽっちも!”思ってませんからね。・・・それより、蘭ちゃんと上手く行くかどうかの方が心配よ。こうしてる間にも、だれかに横取りされやしないかって思ったら、気が気じゃないって言うのに。・・・んもう!こうなったらいっその事、告白できるように“私が”セッティングでもしちゃおうかしら!』

あっけらかんとした声で、先ほど以上に恐ろしい、突っ込んだことを激しく後悔したくなる台詞を耳にする破目になった。

「(じ、冗談じゃねえ!母さんが仕出かす事は、俺に取っちゃあ、余計なお節介以外の何者でもねえんだからな!)」

焦った俺は、実現されては堪んねえとばかりに、肩で息をするぐらいの勢いを込めて、顔を真っ赤にして怒鳴り返した。

「/////!だぁ〜っ!余計なことを考えんじゃねえっ!もう、そんな必要は無えんだよ!」

そうしたら。・・・(珍しく)暫し間があいて。その間のあまりの長さに俺は恐ろしさを感じて。恐怖のあまり、母さんにそっと呼びかけようとした時。

『・・・新ちゃん?』

母さんが(これまた恐ろしい位に)静か〜に訊いてきた。

「・・・な、何だよ/////。」
『“もう”必要は無い。・・そう言ったわよね?』
「・・・あ、ああ/////。・・・だから?」

そう言った途端。受話器からゴット〜ン!と派手な音がした。その直後。母さんのすさまじい絶叫と、興奮してまくし立てる声が聞こえてきた。

『(優作〜っ!大変よ〜っ!んもうっ!原稿どころじゃないわよ〜っ!新ちゃんが、新ちゃんがねっ!やっと蘭ちゃんと上手く行ったのよ〜っ!・・・蘭ちゃんがうちの娘になってくれるのよ〜っ!結婚よっ!!お祝いよお〜っ!!!急いで帰国しなくっちゃ〜っ!!!!)。』
「・・・。な、なっ、か、母さんっ???!!!(ななな、何で分かったんだ/////?俺、何か口を滑らせたか?!・・・いや、一寸待て。け、“結婚?!”な、何言ってんだぁっ?!)」

受話器を持ったまま、母さんの絶叫に滝のように汗を流し、耳まで真っ赤になって呆然としていた俺に、興奮した母さんを制しながら、書斎から引きずり出された父さんが、話しかけてきた。

『・・・もしもし。大丈夫かね?新一君。私だ。電話を代わったよ。・・・何やら有希子が物凄く興奮しているようだが。結婚を決めたのかね?・・・私の記憶に間違いが無ければ、君は確かまだ、17の筈だが?』

父さんの声は至って冷静だった。だが、その内容のぶっ飛びぶりに激しく動揺した俺は、思いっきり口を滑らせてしまった。

「・・・なっ、なななっ!・・・け、けけけ、“結婚”って何の話だよ、父さん!アレは母さんの早とちりだ!まだ、蘭に告白して上手くいっただけなんだぞ!〜〜〜それに!今はまだ“仕事”でメシが食ってけねえってのに、何で結婚になるんだよ!」

しかし、父さんはそれでも至って冷静だった。

『・・・ほほう、そうか。では、有希子の言ったこともあながち嘘ではないな。』
「はあっ/////?!」
『君のことだから、“俺は、お前以外に考えていない。必ず迎えに行くから待っててくれ。”なんて、無意識のうちにプロポーズくらいはしてるだろうからね。』

いや、俺が口を滑らせたことを楽しんでいた。

「・・・・・/////(バレてやがる)。」
『やはりな。』
「・・・何が言いたいんだよ/////。」
『いや。・・・良かったな、新一。蘭君は待っててくれるって約束してくれたんだろう?』
「あ、ああ/////。」
『そうか。・・・もう分かっているだろうが。新一。“プロ”として食べていくのは半端なことじゃないぞ。 “花の命”は短い。しっかりな。』

楽しんではいたが、でも、父親として、励ましてくれた。

「・・・サンキュ。」

俺も、素直にお礼の言葉が出る。それを聞いた父さんは、(電話だから見えねーけど)フッと笑みを零した後、真面目な顔になって、口調を改めた。

『新一。』
「何だよ。」
『これから暫く、蘭君と離れ離れになる。・・・それは、分かってるな?』
「ああ。」

俺には、何となく、父さんの言おうとしてることが分かった。

『14の時、蘭君と離れられなくて日本に残った君だ。・・・将来の約束をしたとはいえ、これから先、暫く、蘭君と話したくても話せない、会いたくても会えない生活になる。果たして君は、耐えられるのかな?』

予想通りだ。告白して、契約して。覚悟は決めた筈なんだけれど。改めて訊かれると、何かがこう、胸に痞える思いがする。

「・・・・・・・・・耐えるしかねえだろ。」

そんな俺の心情などお見通しなのだろう。

『・・・・・新一。』
「・・・・・・・・・何だよ。」

父さんの口調だけでなく、声色も、明らかに変わった。自然と、俺の背筋が伸びる。

『“言葉一つ・気持ち一つ”というのは、自分の中では確かな様でも、相手にとっては不安で脆いものだ。・・・分かるかな?』
「・・・・・・・・・ああ。」

相槌を返すまでの俺の“間”に、何かを感じているのだろう。父さんは、諭すように話しかけてきた。

『蘭君と・・・何よりおまえ自身が不安に苛まれて、“仕事”が疎かにならない様に、工夫しなさい。』
「工夫?」
『そのための、生活費也・小遣いだよ。新一。』
「父さん。」

怪訝そうな俺に、何事かを示唆するように、父さんは言葉を繋いだ。

『・・・良いかい?新一。告白すれば、それで終わりじゃない。むしろ、二人にとっての“始まり”なんだ。君たちが望む“未来”へと繋げていきたいのなら、今お前が、お前と蘭君のために出来る最善の工夫をしなさい。・・・良いね?』

“告白は終わりじゃなくて始まり”

父さんのその言葉は、俺の胸にズシンと響いて。受話器のこちら側で、俺はそっと一人、目を閉じた。何かが胸にストンと落ちて。胸の痞えが取れていく気がした。

「・・・・・・・・・父さん。」
『何だい?』

お見通し、と言う感じの父さんの声。敵わねえな、と思いつつも、悔しさは無くて。素直な言葉が口をついて出た。

「・・・・・・・・・俺。正直言って、本当は不安だったんだ。・・・でもやっと、蘭と離れても頑張っていける方法を見つけられた気がする。・・・ありがとう、父さん。」

受話器の向こうの父さんが、安心して、フッと笑ったように感じた。

『そうか。・・・しっかりな、新一。』
「ああ。・・・サンキュ。じゃな。」

俺は受話器を置くと早速、“俺たちのために、俺が今できる最善の工夫”をすべく、行動を起こした。



数日後。大阪出発の前日。俺は蘭の家に向かった。

「こんにちは。おじさん。蘭は居ますか?」
「新一か。・・・蘭なら上だ。」
「分かりました。ありがとうございます。」
「ん。」

いつもは、俺が行くとあまり好い顔をしないおっちゃんだが、流石に明日は俺が此処を離れる日だということもあってか、あっさりと通してくれた。

「蘭、俺だけど。・・・一寸、出れるか?」
「新一。・・・・・うん。一寸、待ってて。」

玄関先で少し待って。出てきた蘭とそっと、手を繋ぐと、子どものころ二人だけで一緒に遊んだ公園に向かった。

「・・・懐かしい。」
「ああ。」

小さな子どもだった昔。はるか遠くに感じたその場所も、高校生となった今では、あっという間に着く距離にあって。否が応でも時の流れを感じてしまう。“世界”が広がって、子どもの頃のようには傍には居られないという現実さえも。

二人並んで、ベンチに腰掛けて。目に映る景色の一つ一つに思い出を辿らせていった。

「・・・明日だね。」
「ああ。」

小春日和の温かな日差しが俺たちを照らし出しているなか。繋いだ手の指をそっと絡めて。簡単に離れないように、繋いだ手にそっと力を込めて。俺は口を開いた。

「・・・あのさ。」
「ん?」
「この間、さ。・・・その。・・・・・待っててくれるって、言ったよな。」
「・・・うん。」

ここで一息ついて、俺は、繋いでないもう片方の手をコートのポケットの中に入れた。ぎゅっとポケットの中で出番を待つその存在を握り締めて、また一息つく。
一旦、目を閉じて意を決めると、俺は “それ”をポケットから取り出し、そっと蘭の前に差し出した。

「何これ?・・・私に?・・・・・開けていいの?」

蘭はうっすらと頬を染めて“それ”を見つめると、“何か”を感じたのか、目を潤ませて訊いてきた。俺が肯くと繋いだ手を放し、両手で“それ”を大事そうに受け取って、そっと開けた。

「/////!」

途端に蘭の頬が赤く染まり。言葉も無く、目を見開き。動くことも話すことも忘れてしまったかのように、“それ”をじっと見つめていた蘭の手が震え。その手に、見開いたままの目から綺麗な大粒の涙が、ぽたりぽたりと零れ落ちた。それに気付いた俺は、蘭の手に俺の手をそっと包み込むようにして重ねた。俺の手に気付いて顔を上げた蘭の瞳の中に俺が映ったのを確かめると、俺は口を開いた。俺たちの想いを“未来”へつなぐ為に。

「・・・まだ、早いかもしんねえけど。・・・俺の“気持ち”だ。」
「・・・しんいち。」
「蘭。俺、絶対、卒業までに、おっちゃんに認めて貰える位の結果をだして、お前を迎えにいく。だからその時は・・・俺の嫁さんになってくれねえか?」

蘭から瞳を逸らさずに、じっと真剣な眼差しで問いかけた。蘭の潤んだ瞳が見開かれ、新たな涙が盛り上がってきた。

「私で・・・良いの?」

驚きと喜びが混じった声で問いかけてくる蘭に、俺は、自信たっぷりの笑顔を返した。

「“蘭が”良いんだ。“蘭じゃなきゃ”ダメなんだ。俺はこれからもずっと蘭の傍に居たいし、“蘭に”傍に居て欲しいんだ。」
「新一。」
「あん時も言ったろ?・・・“蘭以外、考えたことねえ”って。」
「新一/////。」

ここまで言ったところで俺は“気持ちのしるし”を取り出すと、蘭の右手を取り、薬指に“それ”を嵌めた。蘭は右手をかざしてそれを確かめると、嬉しそうに微笑んで俺を見つめた。俺が微笑を深くして肯くと、蘭は俺の右手薬指に“蘭の対になるしるし”を嵌めた。そして俺は、俺の右手を取っている蘭の左手をそのまま取り直すと、左手薬指にそっと口付けた。

「・・・これで、コッチの指も、俺の予約済み、ってことで。・・・良いだろ?」

そう言ってニヤッと笑ったら、蘭の顔はユデダコのように真っ赤になった。そんな蘭が何だか可愛くって、

「おい、タコみたいだぞ?蘭。」

そう言って苦笑したら。

「じゃあ、新一のこの指は、私の予約済みってことで良いのよね?」
「/////!」

蘭は可愛らしく睨んで俺の左手を取ると、俺の左手薬指に、優しいキスを落としてくれた。そんな可愛い仕種に、俺が(多分、蘭以上に)真っ赤になったのだろう。蘭は楽しそうに笑い出した。やられた・・・・・。とは思うものの、そんな蘭が愛しくて仕方なくて。俺もつられるようにして笑った。ひとしきり笑ったところで、蘭の手を取り直した俺は、真剣な顔で蘭を見つめた。

「蘭。」

俺の真剣な表情に蘭は笑いを収めると、俺を見つめ返した。

「新一?」

怪訝そうに小首をかしげるその仕種も愛らしく、愛おしい。俺が笑みを零すと、うっすらと頬が染まった。片手を蘭の頤に当てる。

「これで・・・“予約”したからな。」

そう言うと、俺は、そっと唇を重ねた。







大阪出発当日。俺の見送りに、蘭・園子・志保・阿笠夫妻が来てくれた。帝丹高校で過ごす最後の週末、『壮行会よ!』と銘打って、園子は張り切って2−Bだけの送別会を取り仕切った。その時、『貰えるうちに貰っとかなくっちゃねぇ〜。出発する時までで良いわよ〜。』などとぬかして、園子はサイン色紙を『とりあえず』50枚程、俺の目の前に置いてくれた。出発の今日。それをきちんと園子に渡した俺は、改めて、

「・・・こんなに沢山、どーすんだ?」

と、呆れ返って零したが、園子は、

「クラスの皆に配るのよ!これから簡単には貰えなくなるかも知れないでしょ?」

そう言ってニ〜ッコリと笑った。志保は、

「お義兄さんとお姉ちゃん、比護さんに宜しくね。」

そう言って、相変わらずシニカルに笑った。阿笠夫妻は、

「元気での。」
「身体に気をつけてね。」

と、優しく言葉をかけてくれた。今、4人は蘭を俺の傍に残し、俺たちの声が聞こえない程度に離れて談笑している。どうも、俺たちを気遣ってくれたようだ。俺は苦笑すると、その厚意をありがたく受け取ることにした。
俺と蘭の右手薬指には、昨日交わした指輪が光っている。蘭はそれを左手で撫でながら俯いていた。恐らく、顔を上げて俺の顔を見たら最後、泣きそうだと思っているのだろう。俺はそんな蘭に苦笑すると、

「蘭。」

鞄から小さな紙袋を取り出し、それを蘭に持たせた。

「手ぇ出して。」

それから懐をさぐり、あるものを掴むと、蘭に手渡した。そして、もう片方の手でポケットを探ってあるものを取り出すと、こちらは俺が持ったまま、蘭に示した。
蘭の手に収まっているものと、俺の手にあるもの。双方を見比べた蘭の目が驚きで見開かれ。俺は、悪戯が成功した子どものようにニッコリ笑うと、言った。

「これは、今日、渡そうと思ったんだ。」

俺たちが持っているのは、お互いが好きな色の(色違いの)おそろいの携帯電話。

「俺と蘭“専用の”電話。お前のには俺の、俺のにはお前の番号を登録しといたからさ。電話でも、メールでも。いつでもかけてこいよ。・・・俺も必ずかけるからさ。」
「新一/////。」

涙で目を瞬かせる蘭の目元を俺は指でそっと拭うと、微笑んだ。

「俺さ、蘭の声を聞くと、それだけでスッゲー元気が湧いてくるんだ。・・・いつでもな。」

その言葉に蘭は驚いて、新一を見上げた。

「うそ・・・。」
「ホント。」

笑みを深くした俺を見上げる蘭の頬が染まったのを、俺は眩しそうに見つめた。

「・・・ま、本当は会える方が良いんだけど、そうも言ってられねえしな。だから、蘭と心置きなく話せるように、ってことで/////。これなら蘭も、おっちゃんやおばさんの目を気にしなくて済むだろ?」
「新一/////。」
「電話でなら、声だけでもお前の傍に帰れるし、お前も傍に来れるからさ。・・・だからさ、絶対!掛けろよ。」

蘭の瞳が切なげに揺れる。

「バカ。・・・切れなくなっちゃうかもよ?」
「全然オッケー。でなきゃ、俺、元気パワー・充電できねーし。」
「もう。・・・通話中、なんてならないよね?」
「バーロ。そん時は、俺が同じタイミングでお前に掛けちまったってことだろ?」
「新一/////。」

そう言ったら。何だか可笑しくなってきて。俺たちは声を上げて笑った。ひとしきり笑った後、泣き笑いの顔で蘭が今更な事を訊いてきた。

「新一のは、私専用だよね?」
「そう。お前のは俺専用。だから、他のヤツの電番なんか登録すんじゃねえぞ?」

あったりめーだろ!そういう気持ちを込めて。自信満々に、でもいたずらっぽく答えたら、蘭は真っ赤になって。軽く俺を睨むと、上目遣いで、いたずらっぽく切り返してきた。

「バカ/////!そんな事、しないわよ!・・・それより新一こそ、私以外の人のナンバーなんか登録しないでよ?」

蘭が(初めてか?)見せた独占欲。それが何だかくすぐったくて。心地よくて。

「し・ね・え・よ!」

そう言ってまた笑った時、新幹線の発車を告げるベルが鳴り響いた。

「時間だな。」
「・・・だね。」

二人、ホームの時計を見上げてそう言うと、お互いに視線を戻した。俺はポケットに携帯を納めると、蘭の顔にそっと手を差し伸べ、唇にそっと優しくキスを落とした。それから、おでこ・瞼・頬、そしてもう一度唇に戻ってキスを落とし、蘭をぎゅっと抱きしめた。

「新一。」
「・・・ああ。」

つかの間の抱擁。俺は、名残を惜しい気持ちを必死に振り切ると、そっと蘭を離した。

「じゃ、蘭。行ってくる。・・・元気でな。」
「行ってらっしゃい、新一。・・・元気でね。」

微笑んでそう言った蘭に俺は笑顔で肯き返すと、鞄を取って、新幹線に乗り込んだ。
ドアが閉まり、新幹線が動き出した。新幹線が動き出しても俺はデッキに立ったまま動かなかった。ギリギリまで、蘭を見ていたかったから。

“新一。”

ふと、心に蘭の声が聞こえた気がした。俺の目に、加速する新幹線を必死に走って追って来る蘭の姿が映って。

“蘭・・・・・・蘭・・・蘭!!!”

俺は駅が見えなくなるまで、蘭の姿を、面影を追った。

“しんいちー!”

そう叫ぶ蘭の心の声が、俺には、はっきりと聞こえた。

「蘭。」

俺は目を閉じると、ためらう事無く先ほど仕舞った携帯を取り出し、ボタンを押した。



線路の彼方に消えた新幹線を、肩で息をしながら、蘭はホームの端で見送った。

「しんいちぃ・・・。」

線路の彼方を見つめながら、ついさっきまで一緒に居た“彼”の名前を呟いた途端。

「しんいち・・・・・・ふ、うっ・・・えっ・・・。」

我慢して堪えていた涙が一気に溢れて、頬を伝って。ホームにいくつも染みを作った。一人きりで肩を震わせ、立ちつくして泣き続ける蘭の傍に、そっと園子と志保が近づき、そっと抱きしめた。

「「蘭。」」

抱きしめてくれる園子と志保の温かさに、蘭の涙が更に溢れそうになった時。携帯電話の音が鳴り響いた。

「「えっ?電話?!」」

耳慣れない着信音に怪訝そうにした園子と志保は、つい今しがたまで泣いていた蘭がぴたりと泣き止んで見慣れない携帯電話を見つめ、笑顔になったことに気が付いた。

「「蘭?」」

園子と志保は顔を見合わせ、蘭の手元を覗き込むと、納得したように微笑んだ。見慣れない蘭の携帯電話の着信メールの相手は、さっき分かれたばかりの新一だったから。二人はそっと蘭から離れると、数歩離れたところに立ち、その様子を見守った。

「やるわねえ、新一君。・・・さっきも、し〜っかりキスしてるしさ。」
「そうね。何か、約束でもしてるのかもね。二人でお揃いの指輪をしてるから。」
「へっ?!指輪?!・・・あら、ホントだ。嵌めてるわ。しかも薬指に(まあ、右手だけど)。・・・んー。でも、確か一昨日の壮行会の時は、してなかったような。・・・まさか、アヤツ。出発直前に、告白を通り越して一足飛びにプロポーズしちゃったとか?!」
「・・・かもね。まあ、少なくとも、指輪は今日渡したわけでは無さそうだけど。」
「はぁ〜っ。流石は“語る男”よね。卒業したら迎えに行く、位のことは言ってそうよね。」
「(苦笑)そうね。でも、良い“虫除け”になるんじゃない?あれってペア・リングの筈だから。」
「ペア・リング?」
「ええ。しかも国内数箇所のの各店舗それぞれ“限定12組・シリアル・ナンバー付”。」
「えええっ?!・・・って、何で志保がそんな事知ってんの?」
「だって、あれ。母のデザイン・リングだもの。“12組”は、1年間、つまり“12ヶ月”を表してるの。新一君も蘭も5月生まれだから、多分“5”が付いてるんじゃないかしら。・・・でも、おかしいわね。確か、発売は来週の筈じゃ・・・。」
「大正解。流石は、志保ね。」
「お母さん。」
「おば様。」
「新一君に頼まれてね。特別に東京店で発売分の“5”を渡したのよ。」
「「・・・・・。」」
「は〜っ。やるわね〜。・・・それに、あの電話。」
「あれは多分、今日渡したのね。蘭が外箱(マニュアル)入りの袋を持ってるから。」
「は〜っ、“二人だけの電話”ねえ。・・・ハハハ。これまたアヤツらしいわ。」
「そうね。・・・でも、良かったんじゃない?」
「えっ?」
「蘭が笑ってるもの。・・・(期限付きとは言っても)新一君の移籍が決まってからずっと、元気なかったじゃない?こう・・無理して笑ってるって言うか・・・。ねえ?」
「・・・それはそうね。」

そう語り合うと、二人は微笑んで蘭を見やった。蘭は電話を見たまま、幸せそうに笑っていた。

「((・・・あの分じゃ、一生、あのまま立ってるわね。))」

そう思って苦笑した二人は、顔を見合わせると肯きあって、蘭に声をかけた。

「蘭。そろそろ帰らない?もう直ぐ次の電車が入ってくるし。行くわよ?」
「そうよ〜。いつまでも浸ってると、おいてっちゃうわよ。蘭〜?」

その声にやっと我に返った蘭は慌てて“二人だけの電話”をしまうと、園子と志保、阿笠夫妻と一緒にホームを後にした。

蘭の携帯に届いた最初のメールは、

“蘭。今日は笑顔で送ってくれてありがとう。行ってくる。
次会う時も、笑顔で会おう。それまで、お互い、目標に向かって頑張ろう。
元気でな。

愛を込めて  新一。”




to be countinued…….




 (2)に続く。