森の番人



By 柚佐鏡子様



〈プロローグ〉



時は中世、西欧のどこか遠い国に、蘭という町娘がおりました。
お調子者だけれど腕の良い織物職人の父・毛利小五郎と、当代きっての売れっ子代書人である母・英理との間に生まれた蘭は、当年17歳になる美しい娘で、その美貌と気立ての良さが広く町の評判を呼び、貴族・市民の別なく、ぜひ自分の妻にと多くの求婚を受けていました。

しかし、当の蘭はそんな話のあることは全く知りません。
というのも、父・小五郎が娘可愛さのあまり勝手に縁談を断っており、母・英理も、そんな夫の行動に特に異議も唱えないからでした。

この時代、結婚は金銭を介在した家と家との結びつきです。
勿論、小五郎と英理のように好き合って身ひとつで夫婦になる者もいましたが、普通の場合は女性側が多額の持参金を持って嫁いでゆき、より多くの跡継ぎを産むという重責を課されます。
しかも、持参金の額や跡継ぎが産めるかどうかに応じて、婚家で大事にされる度合いが如実に異なってくるというのが実情で、小五郎も英理も、別に持参金が惜しいとか、孫の顔を見たくないというわけではありませんが、娘を愛する親として、そのような身も蓋もない利害関係の世界へ蘭を送り出すのが不憫でなりませんでした。
蘭に求婚する男の中には、身ひとつでただ嫁いでくれればいいとか、自分が逆に毛利家を支援してやろうなどという、一見殊勝げな申し出をする者もありましたが、そういう結婚の仕方では、肝心の蘭が結婚後に“美しい使用人”の扱いを受け、夫の都合不都合によって不幸な結婚生活を送ることにもなりかねないのは火を見るよりも明らかで、そういう男の目先の甘言に騙されて、蘭の一生を託すわけにはいかないという現実がありました。


それならば、もういっそ一生自分達の手元に置いておきたいと、一時は小五郎の徒弟の中から優秀な者を選んで婿養子に迎えようかという話が出たこともありましたが、この話には当の蘭自身が大反対し、結局立ち消えになってしまいました。

「織物の仕事とわたしと結婚するのは別の話でしょ?わたしというお荷物を抱えなきゃいけないのが嫌で、優秀なお弟子さんに逃げられちゃったら、お父さんが困るじゃない!お父さんがそんなに親子で織物工房を続けたいんだったら、わたし、今からでも一生懸命修業して、立派な職人になってみせるから!」

蘭はそう言いますが、この時代、女性が職業を持つというのは並大抵のことではありません。
たしかに、女性の織物職人というのも少なからず存在してはいましたが、彼女らの多くは亡夫の事業を受け継いだ寡婦であり、自ら職人を志して成功したという話は寡黙にして聞きませんし、いくら親方の娘であると言っても、職人の世界がそうそう甘くはないということは、小五郎が一番よく知っていましたから、進んで娘にそんな労苦を背負わせたくはありませんでした。
また、蘭にとっては自分の家の家業ですから、物心ついた時から熱心に工房の仕事を手伝ってくれてはいましたが、それを一生涯の仕事とするほどの情熱を持ち合わせているわけではないということも、親の目から見て分かっていましたから、ただ娘を手放したくないという理由だけで、親と同じ道を強いてしまうのは申し訳ないとも感じていました。


それに、出来のいい徒弟の中から蘭の婿を選ぶという話が知れるや否や、今度はその徒弟達の間にも、良くない影響が広がり始めたのです。

せっかく頑張って修業を積んだところで、親方の娘との強制的な結婚が待ち受けているなんて、そんなの気が重くて逃げ出す弟子がいるんじゃないか、などと的外れな心配をしていたのは蘭だけで、事実はその全く逆。
もともと徒弟達の間でも密かな憧れの的だった彼女ですから、“お荷物”どころか、今までは親方の娘だからという遠慮でセーブがかかっていた彼らに、蘭に近づく格好の口実を与えたに過ぎませんでした。
ひどい者になると、肝心の修業もそこそこに蘭に取り入ることばかりに精を出したりして、ほどなく、小五郎の織物工房は大変な混乱を来してしまいました。
そんなわけで、発案者である小五郎も、早々にこの提案を引っ込めざるを得なくなったわけです。


これはと思い定めた男でないと蘭はやれないという思いの傍ら、肝心の求婚相手といえば、蘭の容貌に目をかけた好色な貴公子や、下心が透けて見える徒弟とくれば、先行きが思いやられるというもの。
もし今後もそうした相手が見つからなければ、最終的には蘭を修道院に預けるのもやむを得ないとまで考え始めていた両親でしたが、一方の蘭本人も、修道院に入る未来を漠然と思い浮かべておりました。


そもそも過保護な父親がついている上に、年頃の娘として自由に世間を出歩く機会も限られている蘭にとっては、外界との主な接点は、週に一度通っている教会だけでした。
その意味でも、修道女はある意味彼女にとって身近な存在でありましたし、第一、この時代に女性が独身のまま一生を終えるという選択肢はないに等しかったのですから、適齢期になっても一向に縁談のひとつも来ないようでは(蘭は本気でそう思い込んでいました)、行き着く先は修道院しかないだろうと考えたのも道理です。


勿論、蘭に幸せな結婚を望む気持ちが少しもなかったわけではありませんが、このころ、農村では飢饉が多発、都市でも黒死病大流行の兆しが見え始め、あまり楽観的なことばかりも想像していられないという社会背景がありましたし、なにより蘭は両親が大好きでしたから、会ったこともない結婚相手に思いを馳せるより、できれば両親の下で一生暮らしたいという、娘らしい気持ちの方が強かったのです。
それが叶わぬ夢であるなら、世の常に倣って神に仕えるのが当然だろうと、素直にそう考えていたのでした。




To be continued…….





 (1)に続く。