森の番人



By 柚佐鏡子様



〈1〉



週に一度礼拝に通う教会で、蘭には何人かの友達ができていました。
中でも一番親しいのは園子です。彼女は、鉱山開発やそれを元手にした金融業で巨万の富を築いた大富豪・鈴木家の令嬢で、いくら腕が良いとはいえ、一介の職人の娘である蘭とは、家柄も立場も大きく違っていましたが、

「富豪って言ったって、ウチは成金の市民階級よ。別に貴族じゃないんだし、気にすることないって!それに、ここは教会。神の御前じゃ人間はみんな平等なんでしょ?」

という明るさと気取らなさで、お互いの立場の垣根など易々と壊してくれました。

蘭と園子は、今では無二の親友同士なのです。

そして、その園子もまた、有力者の令嬢として最近では数え切れないほどの縁談が持ち込まれているようでした。

最初のうちこそ、次々と運び込まれてくる貴公子達の肖像画を楽しみにして、

「この中に私の王子様がいるかもしれないわ!待っててね、私の王子様〜♪」

などと言って張り切っていた園子でしたが、実際のところ、お見合いの結果はどれもはかばかしくないようでした。
というのは、良家の令嬢達の適齢期がだいたい17、8歳なのに対して、その相手となる男性の年齢は、家族や使用人達も十分に賄える年齢である40歳前後、という縁組が、上流階級では専らの相場となっており、園子のお見合い相手も、必然的にそのあたりの年齢層の男性が多かったのです。
案外とミーハーで面食い、なおかつ、未だに恋に恋しているような園子にとって、そのような“おじさま”との結婚生活など考えられないことでした。


最近では、まるでこの世の終わりかと思うような深い溜め息を吐きながら、

「ねえ蘭。世の中にいい男って、そうそういないもんなのねぇ。このままじゃ身分か財産だけが取り柄の、変な男と結婚することになっちゃいそうだわ…」

とか何とか零すようになっていました。

「大丈夫だよ。園子なら素敵なお見合い相手はたくさんいるんだし、まだそういう人に出会えていないだけだよ」

そう言って、いつも優しく慰める蘭でしたが、園子の立場を考えれば、気に入った相手がいないからという理由で、彼女が伴侶を選ばないまま修道院に入ることなど許されません。
おそらく修道院に入ることになる自分とは、そこで道を分かってしまうでしょう。


近い将来訪れる、親友との別れの予感は、本当はたいそう蘭を寂しがらせていたのですが、心優しい蘭はそれを口に出すこともできず、ただただ園子に立派な伴侶が見つかるように、自分と離れてしまった後も、園子が幸せに暮らしていけるようにと願うばかりでした。


さて、今日は週に一度の礼拝の日。


礼拝後も教会に残って、蘭と園子がお見合いの話などをしていると、いつも近くにいるはずの見慣れた顔が見えません。

「ねえ、歩美ちゃんは今日どうしたのかしら」
「そう言えば、いないわね」

吉田歩美は蘭と同じ織物職人の娘で、最近ようやく教会へ通うようになったばかりの幼い少女です。
人なつっこく、ちょっぴりおしゃまな女の子で、幼いながらも恋に対する憧れが強いらしく、いつも大きな瞳を輝かせながらお姉さん達のお見合い話に耳を傾けているのに、今日はその姿がどこにも見あたらないのです。
彼女の消息を尋ねてみても、それを知る者は誰もいませんでした。


「このところ寒いし、風邪でもひいたのかしらね」
「今度お見舞いに行ってみようか?」

蘭と園子がそのように結論づけようとしていると、ひとりの少女が背後から近寄ってきました。そうして、

「黒死病…」

という不吉な一言を呟いたのです。

この少女の名前は宮野志保。
蘭達と同じ年の頃ですが、その素性ははっきりせず、周りからすればどうにも謎の多い少女でした。
分かっていることと言えば、彼女には天才的な学才があり、聞き及ぶところによれば、身元を偽って僅か13歳で大学の医学部に入学したものの、女性であることがバレ、大学を放逐されたということ(中世の大学は教会が運営している関係上、教義上神学者になれない女性には入学すら許されていませんでした)。
それでも医学の道を諦めてはおらず、現在は旧知の工学博士・阿笠の下に身を寄せて、個人的に勉強を続けているということくらいでした。


同時代の同じ年頃の女性達と比べると、あまりにも異質な経歴の持ち主なので、初めのうちは胡散くさい目で見られがちな彼女でしたが、実際、彼女の作る家庭用常備薬はよく効くと評判で、最近では近所の人達も喜んで買っていました。

大学という公的な場で勉強することはできなくても、そのようにして地域社会に溶け込んでいる、一風変わった職業婦人である志保のことを、蘭は純粋にすごいなと思い、尊敬していました。
それに、いつも皮肉めいた語り口で、一見すると自分のことが嫌いなのかと思わせる志保の態度も、本当はただの照れ隠しだということが分かり始めていたので、失礼ながらも、それがなんだか可愛く感じられて、最近では単に尊敬というだけでなく、人間的にも志保のことが好きになっていたのです。


志保もまた、蘭のことが好きでした。
ただ、どちらかと言えば世間に疎まれることの多い自分に、何の衒いもなく笑顔を向けてくれ、ほかの立派な人に対するのと何ひとつ違わない態度で接してくれる蘭が眩しくて、くすぐったくて、素直に親しくすることができないので、彼女と話す時にはつい平淡な口調になってしまうだけです。


しかし、いくら淡々とした口調であっても、

「吉田さんの館の近くでは、最近黒死病が発生しているのよ。特に小さな子ども達の間でね」

という言葉を志保の口から聞いたときには、蘭はサッと顔色を変えました。

黒死病というのは、その名のとおり体中に不気味な黒い斑点ができ、激しい熱と苦しみの末ただ死に至るほかはないという、とても恐ろしい病気です。
その病に取り憑かれたが最後、健康な頃が見る影もないほど変わり果てる外見と、その断末魔の苦しみようから、業病だの悪魔の病だのと噂され、人々に大変恐れられていました。


原因も治療方法も分からないのに、伝染病ということだけは判明していて、自らも感染することを恐れた家族からはロクな看病も施してもらえないことがままありましたし、どのみち一族から黒死病者の出たことを知られれば、差別と偏見でその地域には住んでいられなくなるので、病人を置き去りにして一家で逃亡、などという残酷な噂さえ度々耳にする始末でした。

しかし、もっと残酷なことには、病人が子どもである場合、世間に黒死病だと知られる前に、人目につかない夜中にこっそりと家から連れ出し、眠った子どもを森の奥深くに置き去りしてくる、といった方法がとられることもありました。
勿論、親は「あの子は奉公へ出した」などと尤もらしい言い訳をするのですが、何度季節が巡っても、その子が休暇で戻ってくることはないという具合です。


人々も、事の真相に薄々気づいてはいましたが、誰も本当のことを口にはしません。
黒死病に取り憑かれては、もう手を尽くしても助からないことは分かっていますし、こんな不安定な社会情勢では、明日は我が身の話にもなりかねませんから、とにかく残酷な事実には蓋をして、表向きの平穏を守ることに一生懸命だったのです。


歩美の家の近くで、歩美の遊び友達である子ども達の間で黒死病が流行している。そして、歩美が突然教会に来なくなった。

その意味するところを悟った蘭は、一瞬真っ青になったかと思えば、その次の瞬間にはスカートの裾を翻し、全力でその場を駆け出そうとしていました。

「待って!どこへ行くの、蘭!!

尋ねる園子の顔色も真っ青です。
なぜなら、彼女には蘭が何をしようとしているか分かっていたからです。


「わたし、歩美ちゃんを探してくる!」

蘭の答えは、やはり園子の想像したとおりでした。

蘭は姿形も美しい娘ですが、それ以上に美しく真っ直ぐな精神を持っていました。
とても正義感が強く、困っている人がいると知って、保身のために見て見ぬふりをするなんて絶対にできない性格です。
たとえ相手が今日初めて会った人でも、皆に忌み嫌われているような人であっても、蘭ならば、自分の持てる力を惜しみなく出し切って、精一杯にその人を助けようとするでしょう。
ましてや、相手がよく知る歩美とあっては、黙っていられる蘭ではないのです。

けれど、そんな性格の蘭だからこそ、自らの危険を顧みることはしばしば忘れてしまうことを、園子はよく知っていました。

「探すって言ったって…ダメよ、蘭!気持ちは分かるけど、お願いだからムチャしないで!まずはパパ達に相談して…」

園子は懸命に説得を試みますが、一度思い立った蘭には親友の忠言も耳に入らず、

「大丈夫よ。すぐに戻るから心配しないで?園子」

彼女は親友にそう言い残し、一目散に走り抜けてゆきました。その行き先が米花の森であることは、あえて一言も告げずに。



鬱蒼と茂る米花の森を、蘭は歩美の名を呼びながら探し回っていました。

町はずれに位置する米花の森は広大で奥深く、木々の深緑が積み重なって一年中真夜中のような暗闇です。
一度迷うと二度と生きては森を出られないと言われており、黒死病が流行する以前から、都合の悪い人間(間引きなど)を黙って置き去りにする場所として、密かに利用されていました。


また、ごく稀にではありますが、置き去りにされながら、どうやってかフラリと帰還する者もいました。
ところが奇妙なことに、彼らの誰一人として森の中での出来事を覚えていない。
皆、記憶喪失にかかっているのです。
人々はそれを、“森の魔物”の祟りだと考えていました。


誰にも知られず、迷い、苦しみながら死んでいった人々の魂は、恐ろしい魔物に姿を変えて森に棲みついているから、ひとりで森に入ってはいけない、米花の森に近寄ってはだめだと、蘭も幼い頃から何度も言い聞かせられていたのに、今は歩美のことで頭がいっぱいで、そんな言い伝えはすっかりどこかへ飛んでいってしまっています。

「歩美ちゃーん!どこにいるのー!?聞こえたら返事してーー!!

蘭は喉を嗄らして叫び続けましたが、呼べど暮らせど歩美からの返事はなく、ホーホーというフクロウの鳴き声だけが不気味にこだましていました。

そうして何時間が過ぎたでしょうか。日は傾き夜になり、森はいよいよ漆黒の闇と化しました。
背の高い木々が邪魔して月の光ひとつ差し込まず、蘭は元来た道が分からなくなってしまいました。


「おっかしーなー?さっきから同じ所をぐるぐる歩いてる気がする…」

気温も下がり肌寒さがぐっと増してくると、勇ましい蘭も、さすがに少しばかり不安になってきます。

「早く歩美ちゃんを見つけて町へ帰らなきゃ…」

怖い気持ちに蓋をして自分自身にそう言い聞かせながら、なんとか気持ちを奮い立たせ、新たな一歩を踏み出したその時です。

蘭は足元に出っ張っていた何かに躓きました。
育ちすぎた木の根か何かだろうと思い、暗闇の中でよく目を凝らしてみると、それは人間の骨だったのです。
人間の子どもの、小さな頭蓋骨でした。


「イヤアァァァ!!

蘭の悲鳴が森中に響き渡りました。
それに呼応するように、森の鴉がギャアギャアうるさく鳴きながら我先に闇夜を飛び去っていき、更なる恐怖を演出します。


蘭は悲鳴を上げながら、森の中をメチャクチャに走りました。
走って、走って、それからしばらくしてからでした。


「あっ…!!

興奮していたのと辺りがとても暗かったのとで、蘭は注意力散漫になり、足元のぬかるみに気づけなかったのです。

次の瞬間、ほんの僅かなぬかるみに足を取られ、蘭は目前の崖から滑り落ちてしまいました。
しかも、思った以上に崖は急斜面で、体術の心得のある蘭であっても為す術はなく、強かに体を地面に叩きつけられてしまいました。


(誰か…!)

傷だらけになった蘭は、人気のない森の冷たい土の上で力なく横たわっていました。
もう立ち上がることも、声を出す余力さえも残されてはいません。
いや、仮に声が出せたとしても、それを聞いて助けに来る人がいないことくらい、この森に入った時から重々分かっていたはずでした。
この際、山賊でも何でもいいから通りがかってほしいと切に願いますが、そんな不埒な輩ですらも近づこうとしないほど恐ろしい場所であるこの米花の森を通りすがる者といえば、森の動物か、もしくは件の恐ろしい魔物くらいしかいないでしょう。


(ああ、わたしったらバカみたい…)

蘭の瞳に、自然と涙が滲みます。

(歩美ちゃんを助けるどころか、勝手に森に入って、勝手にコケて…)

こうなってみて蘭の心にあるのは、怖さよりも情けなさの方でした。
園子の忠告を振り切ってまで森に入ったのだから、自分だけのことならもう仕方がないと諦めもつきますが、幼い歩美のことを思えば、こんなところで行き倒れるわけにはいきません。


しかし、そんなことを考えている間にも、寒いような眠いような、体中が痺れていくような感じで、だんだん気が遠くなってきました。

今までこの森に置き去りにされた人々も、もしかしたら歩美も、こんな絶望的な気持ちの中で意識を失っていったのでしょうか。
そう思ったら、蘭の瞳からは次から次へと新しい涙が溢れてくるのでした。


(お父さんとお母さん、わたしがいつまでも帰られないから、きっとすごく心配してるだろうな…。それに園子も…。勝手してごめんね…)

心の中で親しい人達に詫びながら、ついに蘭は気を失ったのです。



To be continued…….






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