銀盤の恋人たち



byドミ



(2)ペアへの障害



「なあ、蘭。オレと組んでペアスケートやってみねえか?」

新一の言葉が、いつまでも。
蘭の脳裏に残っていた。


蘭が練習を終えて帰宅したのは、夜の1時頃。
トロピカルランドスケート場から自宅の米花市までは、距離があるので、いつも帰りはその位になるのだった。

今日、蘭は新一に送られて帰って来た。
お互い、思いがけなく自宅が近い事に、驚いたものである。

蘭の朝はいつも5時起きで、簡単にお風呂に入って寝ても、睡眠時間は僅かだ。
そして、トロピカルランドへ行き早朝のリンクで練習し、今度はとんぼ返りでトロピカルランドからは遠い高校へと登校する。
下校して帰宅したら僅かな時間で父親の食事の支度や家事をこなし、その後トロピカルランドへと向かう。
そしてバイトの後に、練習をこなす。

行き帰りの電車の中と、日曜祭日が、僅かでも蘭が休養できる時間だった。
蘭はずっと、そのような生活に耐えて来たのであった。


いつか、新一と一緒に滑る為に。
それだけを夢見て頑張って来たと言うのに。

夢は夢だったから良かったのかも知れない。


蘭が久し振りに消息を知った新一は、スピードスケートの将来有望な選手として脚光を浴びていた。

『私、バカみたい。スケートって、フィギュアとは限らないのに・・・。それにそもそも、新一が私との約束を覚えてくれているのかも分からないし、仮に覚えていても、子供時代の戯言に過ぎないのよね』

蘭は希望が打ち砕かれたような気がしたが、それでも頑張ってスケートを続けていた。


蘭はずっと、忙しい合間を縫って、スピードスケートの記事をチェックし続けていたが。
今年に入り、全日本選手権が終わって間も無く、「惜しくも世界選手権出場を逃した工藤新一がスピードスケートを引退!」というニュースを見て、仰天した。

たまたまそのニュースを見ていた時傍に居た親友の園子が、工藤新一のクラスメートだったと聞いたのも仰天したが。

それから間も無く、つい数時間前に。
園子主催の合コンがトロピカルランドのスケート場で開催され。
蘭は新一と再会し。

そして、新一が、フィギュアに転向を考えている事、ペアをやりたいと思っている事を聞いた。

蘭は嬉しかった。
新一が、蘭との約束を果たす為にそうしてくれるのだなどとは夢にも思わないが。
同じフィギュアの世界に新一が来る、それだけでもとても嬉しかった。


新一がコンパルソリーなどの地道な練習をキチンとやって来ていた事を知ったのも嬉しかったし。

ジャンプの練習中の選手が蘭にぶつかりそうになった時、目にも留まらぬ速さで蘭を抱え上げその場から逃れて助けてくれた事が、すごく嬉しかった。
そして、あのような場合だと言うのに、新一に抱きかかえられている状況と、蘭を抱き上げた逞しい腕と胸板の感触に、ドギマギしていた。

新一の腕の中は、安心出来ると同時に、ドキドキして。
自分の心臓の音が新一に聞こえてしまうのではないかと不安で。
そして夢のように幸福だった。


それにまさか、新一からペアの申し出があるとは。


とてもとても嬉しかった。
けれどそれ以上に、不安も湧き上がる。

私で良いのだろうか、足を引っ張らないだろうか?
もし私が新一の足を引っ張り、為に結果が出せなかっとしたら、スピードスケートを引退してフィギュアに転向した新一が、皆の笑い者になってしまう。
私のせいで。
それだけは、絶対に嫌だ。

蘭の心の中を、不安のループが渦巻く。
だから蘭は、新一に即答しなかった。
自宅まで送ってくれた新一に、別れ際。

「申し出はとても嬉しいけど。いきなり言われてもすぐには・・・ちょっと考えさせて」

と伝えた。


いつもだったら、疲れのあまりすぐに眠りに落ちるのだが、今日はなかなか寝付かれない。
そう思いながらも、横になっていると。
蘭はいつしか夢を見ていた。


夢の中で。
蘭は新一とペアを組み、喝采を浴びていたかと思うと、嘲笑を受けて惨めな思いでうずくまっていた。
突然場面が転換し、今度は新一が他の女性とペアを組んでいる姿を、心引き裂かれる思いで見ていた。

眠りの中でも、蘭の心が休まる事はなかった。


   ☆☆☆


蘭を自宅に送り届けた後、帰宅した新一は、ベッドに寝転がって溜め息をついた。

「ホント、オレって余裕ねえなあ。焦り過ぎだろ」

そう独りごちる。

長年想い続けた蘭と、やっと再会出来たのだ。
蘭が新一の事を覚えていてくれて。
蘭はスケートを続けていて。
とにもかくにも、友達として今後も会える、それで今日は充分過ぎる程だった筈なのに。


事故から守る為の咄嗟の行動であったが、抱き上げて。
事故を回避してホッとした途端に、腕の中に蘭がいる状況と、その柔らかな感触に、急にドギマギし。
その後手を引いて滑りながら、こうやってずっと触れ合っていたいと・・・かなり邪な事を考えていた。


さて、新一自身も、本格的にフィギュアスケートをやって行こうと思うのなら、所属スケートクラブを考えなければならない。
蘭とのペアだけを考えるのなら、蘭と同じトロピカルランドスケートクラブに参加するのが一番の早道だろうが。
新一としては、せっかく米花市に阿笠スケートクラブがあるし、阿笠スケートクラブでコーチをしている阿笠フサエは、ペアの経験者でもあるから、通う時間やその他の事を考えても、そちらにしたかった。

ただ、問題は蘭だ。
そもそも、新一とペアを組む事に乗り気になってくれるかどうかも分からないし、鈴木財閥から奨学金を受けているとなれば、クラブ移籍も簡単には行かないだろう。


   ☆☆☆


蘭は久し振りに少しゆっくりした朝を迎えた。
今日が土曜日だったからだ。
土曜日でも勿論、バイトもあるし練習もある。
学校がある日ほど早朝ではないけれど、リンクが一般向けに開放される9時前でないと練習出来ない。
だから少しゆっくり出来ると言っても、いつもは朝5時起きのところが6時起きになるだけだ。

3階の自宅から階段を下り、歩道に出たところで、蘭は驚いて目を見開いた。

「おはよう、蘭」

そこに、新一が立っていたからである。

「お、おはよう・・・新一・・・」
「今から練習に行くんだろ?送ってくよ」

そう言って新一は先に歩き出した。
蘭は、戸惑いながらも、新一について歩く。

米花駅から電車に乗って。
トロピカルランドスケート場へ、向かう。


「蘭のお父さんって、探偵なんだ?」

いきなり話を振られて、蘭は驚く。

「うん。でもどうして?」
「いや・・・蘭の家の2階、毛利探偵事務所って、窓に書いてあんだろ?だから・・・」
「うん。お世辞にもあんまり腕が良いとは言えないけど、ずっと1人で頑張って・・・正直、台所事情は苦しいけど、それでもお仕事を頑張って、私を育ててくれたから・・・」

蘭はそう言いながら、目を伏せる。
蘭の父親である毛利小五郎は、刑事だったが、10年ほど前に退職して探偵事務所を開いた。

その仕事振りは堅実とも有能とも言いがたく、仕事中はそれなりに一所懸命だが失敗も多く。
競馬や麻雀に夢中になり、僅かな収入もすってしまう事も多く。

蘭は父親の事が大好きで尊敬もしていたが、親ながら呆れる部分も多く。
忙しい中で家事・家計の切り盛りをしている身としては苦労も絶えなかった。

「そっか〜。オレ、将来は探偵になりてえって思ってんだ。蘭の親父さんは探偵か。すげえなあ」

新一に感心したように言われ、蘭は赤くなる。
新一のプロフィールを以前雑誌で見た時、父親が「あの」有名な推理作家「工藤優作」である事を知ったから。
好きだし尊敬もしている父親だが、探偵としては正直へぼだと娘ながらに分かっているので、蘭としては何だか居たたまれなかった。

「あ、あの・・・探偵になりたいって・・・だって、スケートは?」
「ん〜?まあスケートは・・・好きだし、探偵に必要な体力作りにもなるし。・・・スポーツはどうしても、ある程度の歳になったら体力的に限界が来っからよ。だから今はスケートに専念して、いつか一線を退いた後に、探偵を・・・って思ってんだけどさ」
「そうなんだ・・・ちゃんと、将来の事まで考えてんだね」

蘭は何となく惨めな気持ちになって俯いた。
蘭がずっと心の支えにしていた事、将来の夢は。
ただ、新一と一緒に滑る事、それだけだった。

幼い頃の新一との約束。

「ずっとずうっと、一緒に滑ろうね」

蘭はそれだけを頼りに、ただただ滑って来た。

でもその新一は、今蘭の隣に腰掛けているのに。
そして、蘭にペアで滑らないかと申し出もしてくれているのに。

新一の存在が、以前よりもずっと、遠くなってしまったような気がして仕方がない。


「すごいなあ、新一って」
「ん?」
「新一って、スケートの一線で活躍できるのは若い間だけだからって、将来まできっちり見据えてて。でも私は・・・何にもないもん。頑張ってきたスケートだって、それ1つしかないのに、中途半端だし。国際的な大きい試合どころか、国内の大きな大会さえ出場も出来ない程度だもの」
「そうだな、男子も女子も、シングルスは世界に通用する選手が何人も居て、更にジュニアからもどんどん育って来ている。そこに食い込むのも悪かねえが・・・日本がペアスケートの不毛地帯だって事は知ってるだろ?」
「う、うん・・・」
「だったらさ。最初から『そこ』を目指してみるのもいんじゃねえ?日本のペアフィギュアスケートの草分け存在になるのも、面白いと思うけどな、オレは」
「・・・・・・」
「一緒に、やらねえか?」
「そ、そんな!、無理だよ、私なんか!」
「オレは、それを、蘭と一緒にやりたい」

蘭は息を呑んだ。
新一の真剣な眼差しに吸い込まれそうになる。

いつの間にか、新一の手が蘭の手にそっと重ねられていた。
蘭の気持ちが揺れ動く。


出来るものなら、新一とペアスケートをやりたい、そう思っているけれど。
不安の気持ちが、とても大きかった。
正直、今の蘭に「日本で、ペアスケートの草分けに!」という気持ちは殆どない。
けれど、新一の「蘭と一緒にやりたい」という言葉が、蘭の気持ちを大きく揺り動かしていた。


   ☆☆☆


新一と蘭が連れ立ってリンクに姿を現すと、横溝重悟コーチから声をかけられた。

「工藤、また来たのか。トロピカルランドスケートクラブに入る気なのか?」
「それはまだ、決めてないんですが・・・」
「ふん。まあ練習するのは構わんが、他のメンバーに迷惑にはならんようにしてくれ」

今朝は、他のメンバーは殆どいなくて。
新一が飛び入りで練習しても、さほど他の選手の邪魔にはならないようだった。

新一は、昨日は1度も見せなかったジャンプを、いくつか跳んでみた。
横溝コーチが、それをじっと見詰める。

「ふん?全て、トリプル(3回転ジャンプ)、それにアクセルジャンプ(※1)はダブルアクセル(2回転半ジャンプ)までか?今の男子シングルで世界を目指すのなら、クワドラブル(4回転)、せめても最低トリプルアクセル(3回転半)は必要だろう?」
「・・・世界を目指すなら、だけど、今のオレはまだ・・・」
「世界レベルと言われたスピードスケートから、フィギュアに転向しようという男が、何を言う?それにお前のトリプルジャンプは、余裕綽々、安定しているようだ。まさか、『それ以上を跳ばないように』抑えてるとか、言わねえよな?」
「そういう事は・・・ただ、ずっと滑っては来たけど、フィギュアをきちんとやるのは久し振りなんで」
「ふん。まあ良い。スピンは何種類位こなせるんだ?」

新一が何種類かのスピンをするのを、再びコーチはじっと見詰めた。
そして、口笛を吹く。

「レイバックスピン、ドーナツスピン・・・(※2)。ほお。お前は男子にしては体が柔らかいな。・・・もしかしてお前は、女子と組んでやる、ペアスケートに目標を置いてるのか?」

横溝コーチの鋭さに、新一は舌を巻いた。

「流石ですね、分かりますか?オレは、日本ではまだ殆ど居ない、ペアのフィギュアスケートをやりたいんです」
「ふむ。確かに、難しいがそれなりにやりがいはありそうだな。昨今の日本では、アイスダンスは結構盛んになってきたが、ペアはまだまだ不毛地帯だ。かと言って、日本人にペアの選手が皆無な訳ではなく。女子選手が数人、海外の相方に分捕られてしまっているという悔しい現実がある。
と言って、いくら日本のフィギュア選手層が厚くなって来たとは言え、シングルでメダルを狙えるような人材を潰してペアに回す余裕がある訳でもない。
その点、今までフィギュアの実績がないお前などは、良いかも知れんな。但し、せっかくスピードスケートから転向しておいて、ある程度の結果も出せないと、世の笑いものになるのは間違いねえぞ」
「覚悟はしています」
「ところで・・・工藤、お前、身長は170丁度位か?(※3)男子だからまだ多少は伸びるだろうが、ペアをやろうと思うには、ちょっと小柄過ぎるかもな。日本がペアの不毛地帯なのは、ひとつには男女の体格差があまりないという事実もある。パートナーになる女性が身長150そこそこ位であれば、1番良いんだが」
「・・・・・・」

新一の目は無意識にリンクの反対側で練習している蘭へと向けられた。
昨日再会した蘭は、おおよそ身長160cm位で、新一と蘭との身長差は、今現在10cmほどしかない。
フィギュアスケートでペアをやろうと思うには、男女の体格差がもう少しある方が好ましいのは、確かであった。

しかし新一は、もしフィギュアスケートでペアをやるなら相手は蘭しか考えていない。
そもそも新一は、フィギュアスケートをやりたい訳ではなく、「蘭と一緒に滑りたかった」だけなのであるから。

パートナーとあまり身長差がないのなら、アイスダンスという手も、なくはない。
しかし新一も、「蘭と一緒にスケートなら何でも良い」訳では流石になくて。
優雅さが求められるアイスダンスよりも、大技のあるペアスケートに心惹かれるのは確かな事であった。

「まあ、身長差が少なくても、『絶対無理』という訳ではなかろう。男性はそれだけ力を要求されるが、うまくすればダイナミックで評価される技をやるのも、不可能ではない」

横溝コーチは、無意識に蘭の動きを目で追っていた新一の肩をぽんと軽く叩いて、そう言った。

「今日は、本当にレッスン者が少ないな。だったら試してみるか。毛利!ちょっと来い」

横溝コーチに呼ばれ、蘭がリンクの向こう側から滑りながらこちらへやって来る。

「毛利、ちょっとお遊びと思って、工藤と一緒に滑ってみないか?」

横溝コーチの言葉に、蘭だけでなく新一も驚いて、思わずそちらを見た。

「え・・・?あ、あの、でも・・・」
「横溝コーチ?」
「いきなりペアで滑ろと無謀な事は言わん。ただ、ちょっと手を取り合ってリンクを1周するだけで良い」

訳が分からないまま、新一は蘭の背後に立ち、その手を取った。

『うわ。すべすべで柔らかくてちっさい・・・』

昨日は咄嗟に抱き上げたり耳元で囁いたりした癖に、今朝も手を重ねたりした癖に、それでも今改めて蘭の手を取ると、それだけで緊張する。

「蘭、行くぞ」
「うん」

新一は蘭の手を取ったまま、本当に基本のスケーティングでただ滑って、リンクを1周して戻ってきた。
横溝コーチが目を見開いて、2人を見詰める。

「工藤、毛利。今お前達、何をやったか、わかるか?」
「へ?ただ単に、滑って来ただけですけど・・・」

新一としては、邪念を振り払い蘭の体にむやみに触れないようにするのが精一杯だったので、横溝コーチが何を言っているのか、見当もつかなかった。

「2人で、足をぶつけもせず転倒もせず、リンクを1周して戻って来る。たったこれだけの事だが、いきなり2人で滑ったばかりで、普通これは出来ないぞ」
「え・・・?」

思いがけない言葉に、新一も蘭も呆然とした。

「お前達、前から知り合いか?一緒にスケートをやった事があるのか?」
「えっと・・・子供の頃の知り合いで、何度か一緒に滑った事がありますが・・・昨日再会したのって、確か8年ぶりだっけ?」

新一は答えながら、思わず蘭を見やる。

「うん、そうだね。最後に一緒に滑ったのは、小学校2年の時だったから」

横溝コーチが、呆れたとも感心したともつかない妙な顔付きで2人を見ていた。

「それじゃ、知り合いとも言えない程度の関係だな。ただ、少なくともスケーティングの相性は良さそうだ。それに毛利、お前も今のままでは、自分のスケートの限界を感じているんじゃないか?」
「はい・・・」

蘭は俯いて小さな声で答えた。

「お前に才能がないとは言わんし、練習も真面目にやっている。けど、フィギュアスケートのシングルをやるのには必要不可欠とも言える、過剰な程の自己主張がお前にはない。昨日と今日のお前を見ていたら、お前はペア向きかも知れないという気がして来た。で、この工藤新一という男は、自己主張が激しそうな割に、やりたいのはシングルではなくてペアスケートだとよ。一緒にやってみるのも面白いんじゃないか?」

蘭も新一も横溝コーチの言葉に驚いて目を見張った。

「日本に殆ど居ないペアスケートを目指してみるのも良いかも知れんぞ?お前達だったら、練習を積めばおそらくあっという間に全日本チャンピオンだ。ただし、世界に通用するまでになれるかどうかは、全く話が別だが」

横溝コーチの声は、からかう口調になっていたが。
眼差しは意外と真剣だと、新一は思った。

「あ〜、実は。オレの方は蘭・・・毛利さんとペアをやりたいと思って、口説いている最中なんですよ、まだ返事は貰ってませんが」

新一がそう言うと、蘭がおずおずと口を開いた。

「私、新一と・・・工藤君とだったら、ペアをやってみたいって気持ち、あります」

新一が驚いて蘭を見ると、蘭は真っ赤な顔で俯いていた。

「・・・でも、私がパートナーじゃ足引っ張っちゃうんじゃないか、私の所為でスピードスケートから転向した工藤君に恥かかせてしまったらどうしようかって・・・」
「オメー、んな事考えてたのかよ?」
「だって!そりゃ、考えるよ!私よりずっと上手な人がいっぱい居るのに、私なんかをパートナーに選んだ所為で、新一が・・・!」
「蘭・・・オレこそフィギュアに関してはまだ全く実績もない状態で、蘭にパートナーを『お願い』しているんだぜ。足引っ張るとか、んな事考えんなよ」

蘭が何を考えていたかを知り、新一はそれこそ我を忘れて蘭を抱き寄せそうになったのだが。
それを遮ったのが、横溝コーチの咳払いだった。

「工藤、毛利。そろそろリンク一般開放の時間だ。今朝の練習はこれまでだな」

蘭は「バイト」が始まる為、バイト用の控え室に向かい、新一は何となく横溝コーチが「自分に」話があるような気がして、ロッカールームへ向かうコーチの後について行った。

「工藤、お前は本当に真剣に、毛利とペアを組もうとかいう気が、あるのか?」
「?はい」

横溝コーチに改まって言われ、新一はその真意を測りかねながらも即答した。

「毛利はな。元々いいものを持ってるし、練習も真面目で熱心だ。けれど、そこそこのところまでは行っても、その先は伸び悩んでいる。毛利には、重大な欠点があるんだ」
「欠点・・・?」

新一が蘭と一緒に滑った時には、横溝コーチの言うような欠点は感じなかった。
しかし、横溝コーチは長年蘭のレッスンをして来ているし、元々フィギュアスケートの専門家だ。
一応フィギュアも一通りやって来ていたとは言っても、ここ数年はスピードスケートを中心にやって来ていた新一とは、見る目が違うのだろう。
しかし、コーチが「蘭の欠点」と指摘したのは、新一にとって思いがけないものだった。

「毛利はな。シングルスケーターに絶対に必要な、ハングリー精神、自我の強さがないんだ。これが、相手と直接対戦する格闘技とか、同じスケートでも一緒に滑る相手が居るスピードスケートとか、アイスホッケーとかだったら、まだ闘争心も湧いたかも知らんが。フィギュアのシングルは、滑っている間はたった1人。よほど、俺様女王様じゃなければ、難しい所がある。・・・そういう意味で、工藤、お前はシングル向きかも知らんがな」
「けれど・・・最近頭角を現して来ている中森さんなどは、ハングリー精神を感じさせませんが」
「スノーフェアリーと呼ばれている、中森青子か?彼女の場合はむしろ、無欲と無我の境地が強烈な個性となっている。ただ、これからが難しいだろうな。メダル候補と騒がれ始めると、そのプレッシャーがあの子を押し潰す可能性はある。
毛利は中森と似た部分が多いが、際立つ個性となれるまで徹底している訳じゃない。どうしても、奨学金の事があるから、無我の境地にはなり切れんだろうしな」

新一は、黙って頷いた。
自身の欲の為ではなくても、「奨学金を得ている恩義」をどうにかしようと思うのなら、蘭が無我の境地で滑る訳には行かない事は、充分理解出来る事だった。

「けれど、あの素直な性格、ペアの男性がうまくリードしてくれるのなら、毛利はペア向きかも知れん。だから、お前が本気なら、毛利とペアを組むのも悪かないだろうと言う気がする。保障は出来んが、可能性はある。
ただ、日本はペアの不毛地帯、つまり、コーチがやれる者も少ないってのが現状だ。俺自身、ペアのコーチは無理だ。そうなると・・・毛利は移籍しかないが、それが難しいのはお前にも分かるだろう?」
「はい・・・」
「だから、本気なら、毛利を説得するだけじゃなく、条件も整えなければならんぞ。お前は親が金持ちそうだが、毛利はお前の親からの援助なぞ受けんだろうからな」

新一はまたも無言で頷いた。
蘭が、鈴木家からの援助も良しとしなかったように、工藤家や阿笠家からの援助も絶対受けようとしないだろう。

「俺も、教え子として毛利が可愛い。何とか花開かせてやりたい。このままでは、大勢の『ちょっとスケートのうまい子』で終わってしまうからな」


新一は、複雑な思いでロッカールームを後にした。
蘭をどう説得するか、そして、どのように条件を整えて行くか。

新一自身、実は横溝コーチからの話を聞くまで、蘭がどうしてもうんと言わなければ、トロピカルランドスケートクラブで、2人それぞれ、シングルスケーターとしてやって行くのも良いかと考えていたのであるが。
このままでは、蘭はおそらく膨大な奨学金返済を将来背負う事になる。

ペアをやれば万事解決と簡単に行く訳ではないけれど、横溝コーチは、蘭はペアでこそ花開くかも知れないと言った。


新一が一般用のリンクで難しい顔をして考え込んでいると、突然声を掛けられた。

「工藤君、こんなとこで何してるわけ?」
「鈴木。オメーこそ何でここに?部活はサボったのか?」
「テニス部は、今日は休みなのよ。で、蘭の様子を見に来たんだけどさ。まさかアンタ、昨日の今日で、蘭にストーカーしてるわけ?」
「ひ、人聞きの悪りぃ事言うなよ!今日は一緒にここまで来て、早朝練習の見学を・・・」
「ええ!?やっぱ、ストーカーじゃない!」
「いやだから、オレは今どこのスケートクラブに入ろうかって考えててだな・・・」
「は?あんたスケート、やめたんじゃなかった?」
「やめたのは、スピードスケートで、フィギュアスケートに絞ってやって行こうと考えてんだよ!ここには横溝コーチもいるし」
「へ?工藤君がフィギュアスケート!?くるくる回ったり踊ったりする訳?何か、似合わなくない?」
「・・・えらい言われようだな」
「まあ、クラブに入るなら好きにしたら良いわよ。きちんとお金さえ払えば、誰でも入れるんだから」

新一は、1度大きく息を吸うと、核心に迫る事にした。
園子に対して新一は、嫌っている訳ではない(むしろクラスメイトの中では親しみを感じている方である)が、何となく苦手としている部分がある。
けれど、園子は蘭の親友であるようだし、クラブの件を含めても、ある程度腹を割って話す必要があると思われたのだ。


「で、ちょっと鈴木に相談があるんだが、今、時間あるか?」
「ふん、改まった相談なら・・・そうね、喫茶室があるからそこに行かない?」
「OK、靴履き替えてくっから」
「で?勿論、工藤君の奢りなんでしょうね?」

新一は、園子のそういうちゃっかりした部分が嫌いではない。
苦笑しながら頷いた。


   ☆☆☆


「へ!?蘭にペアを申し込んだ!?」

園子が素っ頓狂な声を出して、周囲の客は何事かと新一と園子に視線を向けた。

「でけー声出すなよ」
「あ、ごめん・・・へ〜、でも工藤君って、『女性としての蘭』じゃなくて『スケートのパートナーとしての蘭』に興味がある訳?」
「女性としてのって・・・知り合ってたのはガキの頃、昨日再会したばかりで、そりゃねえだろう」

新一は内心の動揺を押し隠しながら、素っ気なく答えた。

「でもさ〜、それは蘭の気持ち次第でしょ?私は、個人的には別に、蘭にスケートですごい選手になって欲しいとか思ってる訳じゃないし」
「だけど、ある程度の実績なきゃ、奨学金を返さなくちゃなんねえんだろ?」
「ん〜、そうだけど・・・だからと言って、工藤君とペア組んだら結果出せる保障がある訳?」
「保障は、ねえ。だけど、シングルよりも可能性は高い。だから、鈴木からも蘭を説得して欲しいと・・・」
「あのね。蘭はそうやって、外堀埋められるのきっとすごく嫌がると思うよ。私は蘭の友達だから、蘭が望む事だったら協力しても良い。でも、工藤君主導で蘭の気持ちを無視して事を進めるのは、勘弁して欲しいわ」

不機嫌そうに言う園子の言葉も、一理あるとは思ったが。
新一は新一なりに、今ここでペアへの転向を考えないと、蘭の将来が大変なのではと妙に気を回してしまっていたのである。


根本的には、新一と蘭はそれぞれに、「ずっと一緒に滑る」という誓いの為に、スケートを続けてきていたのであるが。
お互いに「相手もそうである」事実を知らない事が、ネックになってしまっていたのだ。


園子にしても、新一が蘭の事を「女性としてずっと想い続けている」事実さえ知れば、喜んで協力しただろうが、今の時点では単に「ペアスケートをやりたい新一が、乗り気じゃない蘭に無理を強いている」ようにしか思えなかったのである。



(3)に続く



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(※1 アクセルジャンプ:前方向で踏み切る唯一のジャンプ。ジャンプは全て後ろ向きに着氷する為、他のジャンプより半回転多くなる)
(※2 レイバックスピン:上体を後ろに反らせるポーズでのスピン。ドーナツスピン:上体を横に傾け、弓なりになって手で足先を捕まえ、ドーナツ型になって回るスピン。いずれも、体の柔らかさが必要な為、女子選手に多い技で、男子選手が行う事は少ない)
(※3 新一の身長170cm位:原作では高校2年現在の身長は174cm設定だが、「銀盤の恋人たち」2話現在では、新一は高校1年なので、それより低めの設定にしている)

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銀盤の恋人たち(2)後書き


(1)の時点ではこれから開催だったトリノオリンピックも、終わってしまいました。
荒川静香選手の金メダル、本当に素晴らしかったですね。感動しました。

さて、こちらのお話では、フィクションと割り切って(笑)、この先素晴らしいメダル級のスケート選手がゴロゴロ出てきます。
「スノーフェアリー」中森青子選手は勿論、「あの」青子ちゃんです。

それにしても、横溝重悟さん、最初はここまで関わる役じゃなかった筈なのに、あれよあれよという間に、新蘭ペア誕生への鍵を握る人物に(笑)。
そして次回では2人、ペアを結成する筈で。
国内では向かうところ敵なし(何せペアの選手が殆ど居ないから)、そして国際大会では苦戦をする、これもセオリー通りに行く事になるかと。

こちらの世界では、2人が高校3年・18歳の時に、オリンピックイヤーとなる予定です。

例によってこの話のお持ち帰りサイトアップは、maaさん、じゅんぱちさん、あけさんの3人のみOkです。



(1)「フィギュアへの転向」に戻る。  (3)「呪縛」に続く。