森の番人



By 柚佐鏡子様



〈2〉



それからどのくらいの時間が過ぎたかは分かりません。
パチパチという何かがはじける音に気づき、蘭は目を覚ましました。
ふと起き上がってみると、そこは質素ながらも清潔で居心地良く整えられているベッドの上でした。
もう寒さも感じられません。先程のパチパチという音は、この部屋の暖炉の火が煌々と燃え盛っている音だったからです。
しばらく、自分の置かれている状況が理解できずにボーっとしていた蘭でしたが、歩美を探すために森へ入り、道に迷った上に足を滑らせて崖から滑落したということを俄に思い出しました。

(あれ?…手当てしてある)

更に蘭は、あれほどアチコチ痛んで動けなかった自分の体が、丁寧に手当てされていることにも気づきました。
手や足にはしっかり包帯が巻いてありましたし、小さな擦り傷に至るまで膏薬が塗ってあります。
部屋の中を見回しても、自分が今寝ているベッドと、装飾のない粗末なテーブルと本棚しかありません。
と言っても、紙も高級なら印刷術も未発達、本はまだまだ大変な貴重品です。蘭の場合は母親が代書人をやっている関係上、自分の家で本を読むことも時々ありましたが、よほどの大貴族とか鈴木家のような大富豪でもない限り、本は一般庶民にとって、教会の書物庫でしか手に取ることのできないような代物だったのです。
そんな存在であるはずの本が棚にぎっしりと詰まっていることに蘭は微かな違和感を覚えながら、こう想像してみました。つまり、自分が覚えていないだけで、本当は最後の力を振り絞ってどうにか町へ戻り、親切な近隣の家の人に助けられたのかもしれないという推測です。
しかし、窓の外を眺めてみても、例の不気味な深緑の木々の群生が広がっているだけで、町の風景ではありません。

(…ここはどこなのかしら?)

ようやくそんなことに考え至った、ちょうどその時です。

突然、ドアを開けて誰かが部屋に入ってきたのです。

「よお。目が覚めたか」
(…お、男の子!?)

そう声をかけてきた人物は、年の頃は蘭とちょうど同じくらい、さらさらとした前髪の奥に輝く蒼い瞳が美しい、端正な顔だちの少年でした。
軽装な身なりからして貴族には見えませんでしたが、質素ながらもそれなりにきちんとはしており、山賊や人さらいとも思えません。
とはいえ、場面が場面だけに彼女もさすがに身構えてしまいます。とっさに体術のポーズをとりながら、蘭は鋭い口調で尋ねました。

「あ、あなたは…誰!?」

警戒する蘭とは対照的に、彼は至って冷静な口調で、

「オレは新一。ワケあって米花の森に住んでる者だ。別に危害を加えるつもりはねーから、そんなに警戒しなくてもいいぜ」

と答えます。
その言葉に何の根拠があるわけもでもないのに、蘭は何故かあっさり新一の言うことを信じ、すぐに体術の構えを解きました。
直感で、この人は信頼できると感じたからです。

「…もしかして、わたしを助けて下さったのはあなた様ですか?」
「あー、まあ…そうだけど。でも助けたって言うほどのことは何もしてねーぜ?オレは森で倒れてるオメーを見つけて、ここまで運んだだけだし」
「そんなことないです!本当にありがとうございました、お陰で助かりました。それにご親切に傷の手当てまで…」

そこまでお礼を言いかけた時、蘭は、自分の太股のかなり上の方にまで包帯が巻いてあったことを思い出しました。
よく考えてみると、肌を露にしない服装をしている蘭の傷の手当てをするためには、相当にドレスを捲り上げなければならないはずです。今更ながらにそのことに気づき、慎み深い蘭は真っ赤になりました。

「ご、ご親切には感謝しますけど…ま、ま、まさか、その…わ、わたしの貞操を…」
「バ、バーロ!んなことすっかよ!」

新一は即座に否定しましたが、その頬はほんのり赤くなりました。

「で、でも、見た…ですよね…?」
「しゃーねーだろ?あんな泥だらけの状態で放置してたら、オメー、破傷風になって死んじまうんだからよ!見ずに手当てなんかできるかっつーの!」

そう言って怒ったようにプイッとそっぽを向いた新一の顔が、耳まで真っ赤だったのは、蘭の恥じらいが伝染したためか、はたまたその最中のことを思い出して(?)のことなのか分かりませんが、せっかく命を助けてくれた人に対して失礼な物言いをしてしまったと、蘭は素直に謝罪しました。

「そ、そうですよね…。すみません、変なこと言っちゃって…」

謝罪はしつつも、新一に自分の肌を見られたという事実は、年頃の娘として耐えられないくらいに恥ずかしく、またぞろ真っ赤になってしまいます。
けれど、この時は恥ずかしさが先に立って気づきませんでしたが、蘭には不思議と、体を見られたり触られたこと自体には嫌悪感が全くないのでした。
一方、蘭が完全に警戒を解いたのを見届けるや、新一は急に雰囲気を一変させました。そして真剣な顔つきで、

「…で、オメーは?」

と彼女に問うてきたのです。

「オメーこそ誰だ?なんでこの森に入った?ここは魔物がウヨウヨしてる禁忌の森と言われてるはずだろ。そんなところで若い娘がたったひとりで何してた?」

まるで小さな子どもを叱るような口調です。たしかに、何のよすがもなく森に入ったことは咎められて然るべきですが、蘭にもそれ相応の事情はあります。

「わたしは…友達を探しに…」
「友達?」
「まだ小さな女の子なんです。今もこの森の中で迷っているかもしれない…!わたし、探しに行かなきゃ!」

突然、蘭の脳裏には、森の中で見た子どもの頭蓋骨がフラッシュバックしてきました。
そしてその後には、寂しくて怖くて泣きそうな顔をしている歩美の幻影が浮かんできて、居ても立ってもいられなくなりました。
こんなところで寝ている場合ではないと、蘭はベッドから飛び下り、

「あの、助けていただいてありがとうございました!このお礼はいずれ必ず!」

そう言い残して早速部屋を飛び出そうとすると、咄嗟に新一が蘭の腕をしっかと掴みます。

「ちょっと待て!」
「放して!わたしがこうしてる間にも歩美ちゃんが…!!」
「ふーん。あの子、歩美ちゃんっていうのか…」

何気なく呟かれた新一の言葉に、蘭は驚いて顔を上げました。

「あなた、歩美ちゃんを知ってるの!?」
「まあ、ちょっと来てみな」

そう言って案内されたのは、蘭の寝ていた部屋を出て、すぐ隣の部屋です。
静かにドアを開けてくれた新一に促されて中に入ってみると、なんとその部屋のベッドには、あんなに探し回った歩美が寝ていたのです。

「あ、歩美ちゃんじゃない!どうして!?」

驚いて駆け寄ろうとしていた蘭を押しとどめ、新一は言いました。

「しっ!大声出すなよ、寝てんだから。続きは向こうの部屋で話そうぜ」

それもそうかと部屋を出て、ふたりして移動した先は、歩美の寝ている部屋でも、蘭の寝ていた部屋でもなく、粗末なキッチンと風呂を併設した、居間のような場所でした。
後で知ったところによると、この家は、以上の3部屋が全ての部屋数というごく小さな家で、“居間のような場所”と言っても、ただベッドがないからそう呼ばれるだけであり、調度品ひとつ置いているわけでもない、粗末なテーブルと椅子が3脚あるのみの、相変わらず殺風景極まりない空間でした。

そこで新一と差し向かいに座った蘭は、

「どうして歩美ちゃんがここに?」

と彼に聞きました。

「あの子もオメーと一緒さ。数日前、この森で行き倒れてたのをオレが運んだ」
「…そうだったんですか。本当にありがとうございます」

ホッと一安心してまたもお礼を言う蘭の顔を、新一は真剣な表情で見遣っていました。

「と言っても、あんな幼い子が自分から進んで森に入るはずはねーからな。ってことは、親に捨てられたあの子を探しに、後を追ってオメーも森に入ったってとこか」

どうやら、これまでの会話の断片から、新一は事も無げに真相を辿り着いたようです。そして、それは決して楽しい類の話ではないはずなのですが、新一なりに場を和ませようとしてくれたのでしょう、

「ったく、若い町娘がムチャするよな。それで自分まで行き倒れてちゃ世話ないぜ」

とおどけたように蘭をからかいました。

「ム…失礼ね!わたしは子どもの頃から体術の訓練もやってるし、そんなにヤワじゃありません!ただちょっと道に迷ってコケただけで…!」

見たところ、自分とそんなに大きく年が離れているようにも見えませんが、さっきからどうも彼に子ども扱いにされている気がするのが悔しくて、蘭は少し言い返してやりました。

「怒るなよ。別にバカにしてるわけじゃねーんだぜ?オメー、あの子のこと“友達”って言ったろ?自分の妹でもない子のために、そこまでできるのはすげーなと思っただけだ。これで行き倒れずに自力で森を出られたら、もっとすごかったんだけど、まあ、そこまで望むのは無理だよな」

ウンウンとひとりで納得している新一に向かって、蘭は言います。

「そういうあなた様こそ、こんな恐ろしい森で暮らしていて、危険ではないの?」
「危険?何が危険?」
「この森には死者の魂が取り憑いた魔物が棲んでいるんでしょ?よく魔物に食べられもせず、今までご無事だったですね」

言いながら青くなっている蘭の答えを聞いて、ほんの少しポカンとしていた新一は、次の瞬間、突然大声で笑い始めました。ヒーヒー笑ってお腹を抱えながら、

「オメー、年いくつだよ」

と唐突に蘭に尋ねます。

「え…17ですけど…」
「だよなぁ。オレと同い年だ」
「それが何か…?」
「いや…町の人間は、相変わらずそんなくだらねー与太話を鵜呑みにしてんだなと思ったら、おかしくてよ。実はオメーがものすごく発育のいい10歳くらいの子どもだった…ってことも想定してみたんだけど、やっぱそんなはずはねえしさ」

結局はまたバカにされているということにワンテンポ遅れて気がついた蘭は、

「あ、あなた様という人は〜!」

と俄に怒り始めますが、

「おっと、その前に」

と、新一はすかさず話題を逸らしました。

「その“あなた様”はやめてくれ。オレのことは新一でいいから。それから」
「それから?」
「…オメーの名は?」

ここに来て蘭は、自分がまだ名前も名乗っていなかったことにようやく気づきました。
歩美ともども助けてもらって、これは失礼だったと思い直して蘭は立ち上がり、優美な仕草でドレスの裾を摘み上げて、

「わたしは蘭。織物職人・毛利小五郎の娘、蘭と申します」

と言い、深々とお辞儀をしました。
これは、大切な人にする、蘭の挨拶の方法でした。この初対面で、たいていの人は蘭の虜になってしまうのです。

「蘭…か。分かった」

新一もまた、そんな蘭の所作を眩しそうに眺めていました。




To be continued…….






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