森の番人



By 柚佐鏡子様



〈10〉



しばらく自宅での療養に努めていた歩美と蘭が顔を合わせるのは、米花の森の新一の家にいた時以来でしたが、蘭の顔を見るや否や、歩美は満面の笑みを浮かべて、

「蘭お姉さん、このあいだはどうもありがとう!蘭お姉さんのお陰で、歩美、だいぶん元気になったんだよ」

と言いました。

(やっぱりか…)

という納得の空気をこの場を支配しかかりましたが、相変わらず権威ぶった様子の議長は、懐柔でもしようという意図か、それともさすがに幼子を問いつめるような真似はしたくないのか、どちらなのかは分かりませんが、

「それはどういう意味か、皆にも分かるように説明してもくれないかな」

と、案外柔らかい口調で歩美に尋ねました。
何も事情を知らない歩美は、ハキハキとした口調で屈託なく答えます。

「うん。この前まで、歩美、ものすごく具合が悪くてずっと寝込んでたの。それを蘭お姉さんが一生懸命看病してくれたんだよ」
「それは、いつの話かな」
「たぶん3週間くらい前かな?歩美ね、その頃9日間くらい家にいなかったんだって。皆はご奉公先で病気になってたんだって言うんだけど、実はあんまりよく覚えてないの。だって、ご奉公に出る話なんてそれまで全然聞いてなかったし、病気になってる間も、蘭お姉さん以外には誰とも会わなかったんだもん。なんだか暗くて怖い感じの家だったよ?ご奉公先って、お弟子さんとかお手伝いさんがいっぱい立ち働いてて、すごく賑やかなものだって聞いてたけど、あんな静かなご奉公先もあるのかな?あれって何屋さんだろう?」

そんな歩美の話からは、寝込んでいる間の記憶がない彼女が、両親の用意した建前を心底信じ切っているのが見てとれます。

蘭は、こんな場ではありましたが、歩美が元気を取り戻したこと、真実を知ってつらい思いをしているわけではないことを確認して、本当に安心しました。これでホッと一安心、というのが思わず彼女の顔に顕れましたが、猜疑心の強い議長からすると、それを蘭の優しさとは思わず、

「話にボロが出なくて助かった」

と思っているからだという悪意の解釈で受け取ったようです。

「…ほかに何か覚えていることはないかな」

議長は更に猫撫で声で歩美に尋ねました。
話の矛盾をあげつらって蘭に矛先を向けようとしているのがありありと分かりましたが、その期待に応えられない歩美は、

「歩美、ずっと寝てたから…」

と、恐縮して小さくなっていました。

「どんなことでもいいんだよ?どんな小さなことでもいいんだ」

しつこく食い下がる議長に、蘭は、

「もういいじゃないですか!歩美ちゃんは覚えてないって言ってるんですから…」

と思わず牽制を入れました。
せっかく歩美が元どおりの生活をしているのに、あまりに深く追及されて、何か余計なことまで思い出してはいけないと思ったからです。

「おや。君はあの子に思い出されては困ることでもあるのかな。私にはそう聞こえるが?」
「…それは議長様の考えすぎです。わたしは何も疚しいことはありません」
査問の内容は知らされていないながらも、子どもながらに議長と蘭の間に流れる険悪な空気を敏感に感じ取った歩美には、それを“蘭が怖いおじさんにいじめられている”構図として読み取ったらしく、
「やめて!怒るんなら何も覚えてない歩美を怒って!蘭お姉さんは本当に優しいんだよ?お料理だって上手だし…歩美が病気で寝込んでる時も、とっても美味しいごはんを作ってくれたんだから!」

と健気にも蘭を庇おうとしました。

「食事?」
「そうよ!それから、お薬もくれたの!歩美が元気になったのは蘭お姉さんのお陰なんだから!」
「…薬?」

議長はそこでハッと何かに気づいたようです。
目の前にいる歩美が、あまりにもぷくぷくした健康そうなほっぺをしているので、ついつい失念してしまっていましたが、彼女はあの悪名高き黒死病だったはず。
あれを治せる薬など、この世には存在しないはずなのです。

「それはどんな薬だったか、覚えているかね?」

何気なさを装った議長の質問に、歩美はちょっと思い出すふうにしながら、こう答えました。

「えっとね…すごく真っ赤でね。苦いようなすっぱいような、ヘンな味がするの。それで、飲んだら舌が痺れたみたいになって…その後、急にすごく眠くなっちゃって。気がついたら、歩美、おうちのベッドで寝てたんだよねぇ」

歩美なりに自分の言葉で説明しようとしてくれたのが、かえって裏目に出てしまったのでしょうか。職人の中のひとりが大声で、

「それは人間の血じゃないのか!?」

と騒ぎ立てたのです。

「ち、違います!あれは葡萄酒です!」

蘭は慌てて否定しました。

「いいや、人間の血に違いない!あの女は魔女だ!きっと悪魔と契約して、人知を離れた魔術を用いたから病気も治せたんだ!」

いきなり突拍子もないことを騒いでいるやにも思えるこの職人ですが、実は、彼の身のまわりではこのところ不幸な出来事ばかり続いており、少しノイローゼのようになっている節がありました。
最近では妖術的なものに関心を抱いて、何かと言えば悪魔だの魔女だのと言い立てるのですが、本当のところ、病気で亡くなった子どもを甦らせたいのだろうと噂されています。
彼にしてみれば、自分の子どもはあっけなく死んだのに、黒死病にかかったはずの歩美がピンピンしているのが納得できず、そこに無理やりでも何らかの理由を求めたかったのでしょう。
そして今、蘭がその悲しい狂気の餌食になろうとしていたのです。

「魔女だ!魔女に制裁を!!」

「おお〜!!」

彼に引きずられて、だんだんと集団催眠的な空気が発生する中、

皆の者、静粛に!」

と一同を押しとどめたのは、誰あろう、さっきまで一番蘭を責めていたはずの議長でした。

「この娘が葡萄酒だと言っているのだから、言い分を検討してやるがよかろう。なに、この子にもう一度葡萄酒を飲ませてみれば、すぐに分かることだ」

と言っても、議長が心を入れ替えて蘭を庇ったわけでは決してありません。
ただ粛々と、形式に則って蘭を追いつめようとしただけです。彼は冷酷な目をして、口の端に不気味な笑みを浮かべていました。
議長の言葉を受けて急遽運ばれてきた葡萄酒が、歩美の目の前に置かれました。

どうかな。これは、君がもらったという『薬』かな?」
「似てるとは思うけど…」

歩美は自信がなさそうに答えました。

「飲んでみて、味を確かめてみなさい」
一同の注目を浴びる中、議長に促されてほんの少しだけ葡萄酒を口に含み、思い切ってコクリと飲み込んだ歩美は…少しの間黙り込み、その後、なんとも申し訳なさそうな、泣きそうな顔をして、
「なんだか…ちょっと違うみたい…」

と答えたのです。
歩美は賢い子どもでした。
それ故、目の前にある飲み物が、蘭に飲ませてもらったものと“全く同じ味”でなければいけないと思い込み、一口飲んでみてそうではないと感じたので、正直にそれを言葉にしてしまったのです。

「歩美!よく考えてみなさい!お前のもらった『薬』は、これと同じものだったろう?ホラ、もう一度飲んで、よーく確かめてみなさい!」

蘭を助ける意図で歩美を呼んだのに、事態がますます悪い方へ転がっていくのを見ていられなくなった歩美の父は、そう言って娘を叱りましたが、彼女はますます泣きそうな顔をして蘭の方を見るのです。
その表情は、

(蘭お姉さんごめんなさい、助けてあげられなくって。でも歩美、やっぱり嘘はつけないよ…)

とでも言っているかのようでした。
このままでは歩美が板挟みになってしまうし、仮に無理やり同じ味だと証言させたところで、幼い歩美に「都合に応じて嘘をついてもいい」という間違った価値観を植えつけることにもなりかねない。
そんなことはさせらないと、蘭は歩美に向かって笑顔を向けました。

「いいのよ。歩美ちゃんは思ったことを正直に言えばいいの。わたしのことは気にしないでいいから」

そんな蘭からのアドバイスを得て、歩美はもう一度だけ葡萄酒を飲んでみましたが、結果はやはり同じ、「なにか違う気がする」というものでした。
歩美が退席を命じられた後、彼女の証言を受けて、議長より、

「君が飲ませたという『薬』は何だったのかね」

という問いが改めて発せられました。

「…葡萄酒です」
「いいかげんにしたまえ!君は何をそんなに隠しているんだ!」

議長がこんなに怒るのにも、彼なりの理由があります。
教会で授けられるもののほか、町には葡萄酒の醸造職人達で組織されるギルドがあり、品質にも細かい規定を設けていたために、市場に出回っている葡萄酒はどれもだいたい同じ味・同じ匂いに仕上がっていました。
但し、歩美に飲ませたものは新一が森の葡萄で作った自家製ですから、味が違っていたのです。
ギルドの規約を命より大事にしている議長にとって、自分達・織物職人の規約でないにしろ、蘭がギルドの規約に反した製品(葡萄酒)に関わっていることが許せなかったのでした。

「このままでは、君はギルドの規約違反どころか、魔女裁判にかけられることになるが、それでもいいのかね?さっさと己の罪を認めた方が身のためだと思うが?」

怒りのあまり唇をわなわなと震わせながら、議長が最後通告を発しました。
議長の際限ない嗜虐心を満足させるには、もう彼の誘導に従った証言をしてひれ伏すのが一番手っ取り早いのかもしれないと、蘭も心のどこかでは気づいていましたが、彼女にはどうしても、そんな自己保身の嘘をつくことができませんでした。
大人達の視線に晒され、ものすごいプレッシャーの中、それでも自分の意見を通した歩美のことを思えば、自分が簡単に嘘をつくことなんてできないと思っていたからです。

「わたしはただ歩美ちゃんを連れて帰ってきただけで、妖術で病気を治したわけじゃありません。実際に治療してくれたのは志保さんです」
「志保…?ああ、あの宮野志保とかいう偽医者か」

議長は渋い顔をして言いました。
形式主義者の議長は、はっきり言って、大学を中退している志保を偏見の目線で見ていました。いや、そもそも志保をひとりの医者として認めるつもりは毛頭ないようです。

「だいたい彼女は、きちんと大学も出ていない、怪しげな民間治療者に過ぎない。そんな彼女に、黒死病を治すような腕があるとは思えんが?」
「そんなことはありません。志保さんは本当に勉強熱心だし、腕も確かなお医者様です。それに、歩美ちゃんは最初から黒死病なんかじゃなかったんです。初期症状がよく似てる別の病気で…」
「それこそ、そんなことがどうして君に分かる?」
「そ、それは…」

歩美と同じ境遇の新一に聞いたから、とは言えない蘭は、口を噤んで俯きました。

「やはり君は何か重大な事実を隠しているとしか思えんな。もしかして、宮野志保も君の悪事の片棒を担いでいるんじゃないのかね」
「し、志保さんは関係ないです!!」

これ以上関係ない人を巻き込んではならないと、蘭は顔を上げてきっと議長を睨みました。

「わたしは、皆さんにご迷惑をかけるようなことは誓ってしておりません。歩美ちゃんに飲ませたのはただの葡萄酒です。これ以上は何も申し上げることはありません」

前を見据えてきっぱりとそう言い切った蘭の姿は、凛としていて美しく、むしろ神々しくさえありました。
しかし、圧倒的に不利なこの状況下でも、ひるむことなく自分の意見を言えるその態度が、かえってふてぶてしく、魔女的行動に受け取られてしまった面も否めません。

「…異端審問所に連絡しろ。ここに魔女容疑者がいるとな!」

議長は硬く目をつぶり、低い声でそう命じました。




To be continued…….






〈9〉に戻る。  〈11〉に続く。