森の番人



By 柚佐鏡子様



〈18〉



とにかく蘭の身に何か起こる前に間に合って良かったと、新一は彼女をきつく抱きしめながら言うのでした。
予審法廷の場には優作がいたので、本当はそんな心配など全く無用だったわけですが、その時の新一は、その事実を知らなかったのですから、とにかく必死だったのです。
蘭を助けるための証拠を持ってくることまでは辛うじて遂行できたものの、どのような方法で予審法廷の場に乗り込むかなんてことは、実は全く考えてもいませんでした。
そのくらい、彼は平生の冷静さを失っていたのです。

「オレはオメーが修道院に入るっていうから…そりゃ、本音を言やぁ神様と結婚するなんて言われても全然納得できるもんじゃねーけどさ。でも、それだって、現実の男にオメーを触られたり、いいようにされるわけじゃねえから…って、何度も自分に言い聞かせて、無理やり納得したんだぜ?それなのに、蘭をそこいらのスケベなオッサンに弄ばれてたまるかっての!冗談じゃねーぜ、全く」

この男にかかれば、泣く子も黙る異端審問官も“そこいらのスケベなオッサン”呼ばわりです。
そのあまりの視点の違いには、蘭もさすがに苦笑してしまいました。

「でも驚いたなあ。新一の里親さんが阿笠博士だったなんて」

新一も、里親に迷惑がかかってはいけないと、蘭の前でも敢えて「阿笠」という名前は出していませんでした。今更言っても詮無いことですが、それだけでも分かっていたら、事態はまた違ったものになっていたかもしれません。

「でも…本当によかった。志保さんにまで審問所の追及が及ばなくて」
「よくねーよ!オレがどんなに焦ったか、全然分かってねーだろ、オメーは」

子どものように口をとがらせる新一とは対照的に、

「わたしだって、ちょっと焦っちゃったよ?」

と言う蘭は、照れるどころか、その澄んだ瞳を少しだけ曇らせて言いました。

「志保さんと一緒に住むようになんてなったら、新一、絶対に志保さんのこと好きになるもん。彼女美人だし、すごく頭がよくて、新一と話が合うと思うし…」

新一が自分を好きになってくれたこと、そしてプロポーズしてくれたことに対しては無情の喜びを感じるものの、すぐさまそれに飛びつくような勇気を、蘭は未だに持てずにいました。
長く町の生活から隔離されていた彼にとって、平淡な生活に突然現れた自分の存在はとても新鮮で、彼はその物珍しさ、あるいはただの人恋しさを“好き”と勘違いしているだけではないのかと危惧していたのです。
まだ何者かも分からなかった頃の新一は、彼女にとっては行き倒れたところを助けてくれた命の恩人であり、頼りになる森の庇護者。歩美を見守る同志で共同生活者。
何でも知っているようでいて、ごく普通のことを知らなかったりする不思議な人。
すごく気障な反面、変なところで照れるシャイな人。
全てを射貫くような強い視線の持ち主なのに、ふと寂しそうな目をする孤独な人−−−とにかく、その存在だけで蘭の心をいっぱいにしてしまうような、蘭だけの特別な人でした。
だけど、今は違います。あれだけ大勢のギャラリーの前で華々しく社会復帰を果たしてしまったわけですし、両親が正式に結婚して、大諸侯・工藤優作の息子というお墨付きがあれば、もう彼には世を忍ぶ必要もなくなります。そして、人前に出れば出たで、あの端正な顔立ちと比類無き知性で、たちまち人々の心を掴むに違いありません。

そうしているうちに、志保や、志保でなくとも、とにかくもっと魅力的な女の子が世の中にいることを知れば、彼は自分のことなど忘れてそっちの方へ行ってしまうのではないか。そう思うと、蘭は怖くて怖くて、簡単に新一の手をとることができませんでした。
新一と離れた後の、身を引き千切られるようなあのつらさは、二度と会えないと覚悟してでさえ相当なものがありました。もし彼が心変わりして、突然自分の目の前からいなくなったりしたら、悲しくて寂しくて、もう自分は生きていけないのではないかと思うくらい、蘭は彼のことを好きになりすぎていました。
米花の森というふたりだけの秘密の世界は、もうなくなってしまった−−−
その事実に直面するのが怖くて、蘭には、少しだけ後ろ向きな気持ちが芽生えていたのです。

「わたしもね、町に戻ってから、ずっと新一のことばっかり考えてたの。ちゃんと元気でやってるのか、体こわしてないかとか、ひとりで寂しくないかな…とか、いつもいつもそんなことばっかり。でも、もう二度と会えないと思ってたのに、またこうして新一と会えたんだもん。わたしはそれだけで十分だよ。新一だってやっと森から出られて、これから、今までの分まで幸せにならなきゃいけないんだし…」
「−−−蘭」

自分を抱く新一の腕が急に強張ったのに気づいた蘭が、そっと彼の顔を覗き見ると、新一は思いのほか硬い表情をして言いました。

「オメーは…オレが森の中でひとりで暮らしてる寂しそうな奴だからって、気の毒に思って、ただ憐憫の気持ちから、いろいろ心配してくれたのか?オレがいないと米花の森で暮らせないから、それに感謝して、何かと世話を焼いてくれてただけなのか?だけど、オレが普通の生活を送れるようになれば、もう蘭が心配する必要はないから、オレのことなんかどうでもいい。あとはどうなりとも勝手にしろってのかよ」

そのあんまりな言いように、

「違うっ…!新一のこと、どうでもいいなんて思ってるわけないじゃない!なんでそんなこと言うの!?」

蘭は声を荒げて抗議しましたが、新一はそれ以上に険しい声で、

「オメーがオレから離れていこうとするからだろ!」

と言い返すのでした。

「そんなにオレのことが心配なら、そばにいてくれたっていいじゃねーか…」

普段の彼からは想像もつかないほど弱気で、儚い新一の表情に、蘭はハッとしました。
ずっとずっと、ひとりだった彼。
それが快適だと言ってはいたけれど、寄る辺ない身の上から来る孤独を、そうやって無意識に飼い慣らしていただけはなかったのか。そんな彼だからこそ、おそらく初めて抱いたであろう誰かと−−−蘭とともにありたいという思いは本心からのもので、それが偽りや仮初めであるはずがないと。

「ごめん…。ごめんなさい、新一…わたし…」

ただ自分が傷つくのが怖くて、肝心な新一の気持ちを疎かにしていたことを、蘭は涙ながらに詫びました。
けれども、新一はそれを、はっきり断ることのできない蘭が精一杯にした“プロポーズの拒絶”と受け取ったようで、

「いや…蘭がそこまでやだってんなら、しょーがねーよな…。まあ、蘭は修道院に入るらしいし、他の男と結婚するわけじゃねーから、オレも攫ってまで…とか、物騒なことはしねーで済みそうで、助かるよ」

内心激しく傷つきながらも、無残な愛想笑いを浮かべ、そのショックを誤魔化そうとするのでした。
そんな偽りの笑顔を浮かべる新一の他人行儀さが、蘭には寂しくて、

「違う…違うの!」

と自分から彼に縋りつきました。

「わたしも…新一が好きなの。大好きなの!だから…だから、わたしでよければ妻にして下さい、お願い…!」
「蘭…」

それほどまでにキッパリはっきりと告白され、ようやく彼女の気持ちを理解した新一は、さっきまでの険しい表情を嘘のように、だらしないほど頬を緩ませました。
嬉しそうに彼女を抱きしめながら、

「んだよ…それならそうと最初に言やぁいいだろ?オレはオメーにとってみたらただの森の恩人で、男と思われてねーんじゃねーかと…」

一体何度悩んだことか…と、今更ブツブツ言っている彼がなんだか可愛くて、

「ごめんね、新一。でも新一が大諸侯の息子だなんて思ったら、ちょっと気後れしちゃってさ…身分も違い過ぎるし」

と、蘭は素直に謝りました。

「親父が大諸侯っつっても、領地手放したんだから名ばかりじゃねーか」
「それはたまたまでしょ?新一のお父さんが領地を手放すなんて言い出さなかったら、きっと新一、わたしと結婚なんてできないと思うよ」

確かに、そうかもしれません。
たったいま想いを交わし合ったこのふたりにも、昔の優作と有希子のような、身分違いの恋の困難が待ち受けていたかもしれないのです。

「ちぇ…結局、今回は父さん達に助けられたようなもんか。でも、そのお陰で蘭と結婚できるんなら、あのバカップルにも感謝しなきゃなんねーな」

渋々と父の偉大さを認める彼を、

「もう!新一ったらそんなこと言って。本当はご両親のこと大好きなくせに」

と、蘭はからかいました。

「大好きって…んなガキじゃあるめーし…」
「でも新一、かっこよかったよ。“教会が認めようが認めまいが結婚はできる”って。あのセリフ聞いた時、新一のご両親はきっとすごく嬉しかったと思うなぁ…」

彼らは彼らで、自分達の関係に自信をもってはいたでしょうが、けれども、それとは裏腹に、自分達が正式に結婚していないせいで新一に孤独な生活を強いているという罪悪感があったと思います。
でも、その息子が、自分達のことを一番理解し、受け入れてくれていたと知って、どんなに嬉しかったでしょう。

「そんなに照れてないで、これからはたくさんたくさん親孝行しようね、新一。わたしにも手伝わせてよ?」
「わーったよ。オレもオメーの親には親孝行するから。…って、その前に挨拶か」
「そ、そうね…」

てっきり、将来は修道院に入るとばかり思っていた娘が、突然魔女容疑にかけられ、そしたら今度は結婚相手を連れてくるなんて、お父さんビックリするだろうな…と、親馬鹿も行きすぎた感のある小五郎の反応を蘭が内心危惧していると、

「けど、その前に、結婚の儀式だな…」

と、新一は不意に顔を近づけてきます。

「し、新一っ!」
「誓いの口づけってヤツだよ。せっかく蘭からOKの返事もらったんだから、早速」

そう言って唇を重ねてこようとする新一にひどく恥ずかしがりながらも、敢えて逆らおうとはしない蘭でした。
森で別れるときに交わしたサヨナラの接吻を思えば、どんなに恥ずかしくても、なんて幸せなキスなんだろうと嬉しくて、蘭もそっと目を閉じ、その時を待ちます。
そして、今まさに唇が重なろうとする瞬間−−−

「新ちゃ〜ん!お話は終わったかなー?」

と、どこかで見ていたんじゃないかと思うくらいの絶妙なタイミングで優作と有希子が部屋に戻ってきたため、ふたりは真っ赤になって、しばらくの間、固まってしまったそうです。




To be continued…….






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