森の番人



By 柚佐鏡子様



〈3〉



「とにかく、あなた様…じゃなかった、新一にこれ以上ご厄介をかけるわけにはいかないわ。わたしは歩美ちゃんを連れて町に帰ります」

そんな蘭の申し出に、新一は厳しい視線を向けました。

「早く帰りたいのは分かるけど、あの子は親に捨てられたんじゃないのかよ?連れて帰ったところで、受け入れてもらえるのか?」

そうです、歩美は黒死病を患って、秘密裏にここに連れてこられているはず。
連れて帰ったところで、歩美の家族がすんなり受け入れてくれるはずもありません。
しかし、それが分かっていてもなお、蘭はきっぱりとした口調で言いました。

「でもわたしは歩美ちゃんのそばにいてあげたいの!たとえ歩美ちゃんの家族が受け入れてくれなくても、わたしは…わたしだけでも、歩美ちゃんと最期まで一緒にいてあげたい。あんな小さい子どもが、こんな恐ろしい森の中で、たったひとりで寂しく逝くなんて、そんなことがあっていいとは思わないもの」

蘭はひとりになるのがとても苦手でした。
忙しい父と母に育てられ、子どもの頃からひとりで過ごすことが多かったのもありますし、黒死病や飢饉で徐々に秩序が乱れつつあるこの世の中で、人が人を犠牲にしてでも生き延びようとする風潮が、彼女の優しい心には耐えられなかったのです。
蘭の強い決意を聞いて、押し黙っていた新一は徐に口を開きました。

「なあ、蘭。オレの推理が正しければ、あの子はたぶん黒死病じゃないと思う」

新一の意外な言葉に、蘭は驚いて聞き返しました。

「えっ!どういうこと!?」
「たしかに、あの子は今、熱が高くて呼吸も浅い。関節も腫れ上がって、見るからに黒死病の初期症状とそっくりだ。だけど、だからって本当の黒死病になったと考えるのは早計すぎねーか?あの子の肌はカサカサしてなくて、まだ水分を保っているようだし、例の不気味な斑点も現れてねーしな」

たしかに、先程チラリと垣間見た歩美の様子は、世間で伝え聞く黒死病の断末魔の苦しみようとは、ちょっと違っている気がします。
新一の言うことが真実なら、どんなにいいでしょうか。
とはいえ、すんなりそれを信用するほど、今の蘭は楽観的にはなれませんでした。

「そ、それはそうだけど…でも…」

言い淀む彼女に向かって、新一はこう提案しました。

「じゃあ、こうしたらどうだ?オレはあの子が黒死病じゃないと思うから、しばらくここに匿ってやってもいい。その間オメーもここに留まって、あの子の面倒をみればいいさ。もしあの子が本当に黒死病で、ここで死んでしまうことになっても、最期まで一緒にいてやりたいというオメーの願いは叶うし、もし治って元気になったら、その時はあの子を連れて町に戻ればいい。少なくとも、本当に黒死病なのかどうかも分からない今の状態で、あの子を連れて町に帰るよりは、混乱は少なくて済むと思うけどな」

願ってもない新一の提案に蘭は喜び、すぐさま同意しようとしましたが、

「あ…でも、そんなに何もかもご厄介になっては、新一に悪いし…」

と、少しだけ言葉を濁しました。本当はそれ以上に、よく知らない同じ年頃の男の家に留まるということに躊躇を感じていたのですが、さすがにそのことは口には出せません。
すると新一は、

「気にすんなよ。ここはオレひとりで住んでる森の中の粗末な家だから、町育ちのオメーにはつらい面もあるかもしれねーが、その分、遠慮はいらねーから」

と更に誘います。
そんな新一の顔を見ていると、どうしても悪い人にも思えず、むしろ、しばらくこの人のそばに居てみたいという気持ちが沸いてくるのです。
蘭は自分の直感に従うことにしました。
そうしてついに、

「分かったわ。でもお世話になってばかりでは悪いから、わたしに出来ることがあったら何でもお手伝いさせてね」
という言葉とともに、蘭は新一の家に留まることに決めたのです。

新一の家で過ごす最初の晩は、歩美のことが心配で心配で、歩美のそばに付き添って寝ずの番をしていた蘭でしたが、ふと夜が明けてみると、歩美の顔色が少しだけよくなっているような気がして、ホッと力が抜ける思いでした。
それとともに、もしかしたら新一の言うとおり、この子は黒死病ではないのかもしれないという気がしてきました。
実際に見たことはありませんが、たしか人に聞いたところでは、黒死病にかかった人というのは、一刻ごとに虚空を掻きむしらんが如く悶え苦しむという話だったのに、歩美の場合、多少うなされた様子は見せるものの、概ね静かに入眠している状態だったからです。
蘭は、歩美が黒死病ではないという可能性を少しでも疑ってみなかった自分を恥じました。
結局のところは自分もまた、黒死病の風評に惑わされ、歩美を偏見の目で見ていたひとりに過ぎなかったと悔やみ、そのことを深く反省するとともに、思い込みに囚われず、進んで歩美を保護してくれた新一に対して心から感謝しました。
そうして、偶然出会ったこの不思議な少年のことが、次第に気になってたまらなくなってきたのです。

新一の家の生活は、簡素そのものでした。
1日の食事に必要な鳥や木の実やとったりする以外、新一は家で本を読んで過ごしているそうです。
蘭には、そんな彼の生活ぶりが不思議でなりません。
何故、人々に恐れられている米花の森にひとりきりで住んでいるのか。
生活に必要な道具や本はどこから手に入れているのか。
だいたい、この家自体どうやって建てたのか。
家族はいないのか。
身分は−−−などなど、知りたいことはそれこそ山ほどあります。
けれど、新一は自分のことを語りたがるでもなく、当初言っていたとおり、ただ蘭と歩美を置いてやっているだけという態度を崩しませんでした。



2日目の晩、歩美の看病に一段落ついたこともあり、蘭は自分から申し出て夕食に腕を振るいました。
蘭の母・英理は日頃から代書人業で忙しいことに相俟って、ここだけの話ですが、かなりの味音痴だったので、彼女が料理をすると怖がって(?)徒弟達の食が進まなくなるということから、蘭は以前より毛利家の食事の世話を一手に引き受けていました。
ですから、料理にはちょっぴり自信があったのです。

「あのぉ…お食事できたけど…」
「ああ、サンキュー。何作ってくれたんだ?」

おずおずと蘭に声をかけられて、新一が目を遣ると、テーブルの上には、こんな森の中で手に入れられる材料から作ったとは思えないほどのご馳走が所狭しと並んでいます。

「すげー…これ全部オメーが作ったのかよ?大したもんだな」

驚いたとばかりに目を見張る新一の言葉が嬉しくて、蘭はにっこりと笑いました。

「ありがとう。張りきって作った甲斐があったわ。わたしがここにいる間は、いろいろ美味しい物を作ってあげる。新一は何が好き?」

そのあまりにも可憐な笑顔と可愛らしすぎる質問に、新一は照れたように顔を赤くして、

「べ、別に何でもいいよ…。オレ、干しぶどうが嫌いなだけで、あとの物はだいたい好きだから。それより早く食べようぜ!」

とそっぽを向きましたが、蘭はとても鈍いので、自分が差し出がましいことを言ったから彼が不機嫌になったのかな、などと見当違いなことを考えて、それ以上何も言えなくなってしまいました。

その後、微妙に気まずい雰囲気のまま黙々と食事をとっていると、新一は不意にこんなことを言い出しました。

「蘭は、許嫁がいるのか?」
「へっ!?」

あまりにも突拍子のない質問だったので、蘭の声は裏返ってしまいました。
「だから、結婚したいと思ってる、好きな男はいないのかって聞いてる」
「そ、そんな人いませんっ!!」

蘭が顔を真っ赤にして否定すると、新一は、自分から質問してきたくせに怪訝な表情を浮かべました。

「織物職人の娘なら、オメーは市民階級だろ?17といえばそろそろ適齢期だし、縁談はねーのかよ?」
「よ、余計なお世話でしょ!どうせわたしはモテませんよ!でもいいの、わたしは修道院に入るって、もう決めてるんだから!」

蘭は、自分がモテないということを暗に指摘された気がして、ついつい怒ったような口調になってしまいましたが、

「そうか。んじゃ、オメーは今日からオレと同じベッドで寝よう」

と言われた日には、

「や、やっぱりあなたは、わたしの貞操を狙って…!このエッチ!!」

と、暖炉の火よりも真っ赤な顔になって更に怒り始めました。
恐ろしい勢いで新一の体術を食らわせようとするのをヒラリヒラリと交わしながら、新一は叫びます。

「オイ待て、勘違いすんなって!オレの家にはベッドが2つしかねーんだ。オメーも、看病に精を出すのはいいけど、程々にしとかねえと今度は自分が倒れかねねーぞ?かと言って、黒死病かもしれない歩美ちゃんと一緒のベッドで寝るのは危険過ぎるし、そんなんじゃオメーもゆっくり休めねーだろ。だからオメーはオレと一緒に寝るしかねーんだよ。蘭にはもう許嫁がいて、他の男と一緒に寝るのなんか絶対嫌だと言うんなら、しょうがねーからオレが歩美ちゃんと一緒に寝ようと思ってたんだけど、好きな男もいねー、結婚せずに修道院に入るつもりってんなら、何日かオレと寝ることくらい我慢しろ!状況が状況なんだし」

冷や汗をかきかき新一がそう説明するのを聞いて、蘭はようやく攻撃をやめました。
嫌らしい気持ちからではなく、新一が単純に自分のことを気遣ってくれているのだと分かりましたし、言われてみれば、新一の言うことはどれをとってもいちいち尤もなことです。
それに、自分が新一と同衾するのを拒んだら、新一は、もしかしたら黒死病かも知れない歩美と一緒に寝るしかなくなり、お世話になっている彼を危険に晒してしまいます。

「絶対…変なことしない?」

蘭は小さな声でボソボソと言いました。

「しねえよ。オメーの体術、怖ぇから」
「本当にホント?もし何か変なことしたら…その時は命はないと思ってね!」
「それが怖いってんだよ…」

そんなやりとりをしていても、夜になり、実際に床に就く段となれば、お互いにどうしても緊張してしまいます。
特に蘭は、寝る時には皺になるドレスを脱いで下に着ている薄物だけで過ごさなければなりませんから、そんな姿で男性と一緒のベッドに入るなど、気が気ではありませんでした。
ふたりして強張った体をベッドの端と端に寄せ、背中合わせになって寝たふりを決め込んでいましたが、遠くで獣の遠吠えのような声が聞こえた時には、さすがにビクリと体を震わせた蘭でした。

「あの鳴き声…何?」
「ああ。たぶん狼じゃねーか?」

新一は事も無げに言いますが、町に暮らす蘭にとっては、野生動物が恐ろしくてたまりません。
ビクビクと震えながら、狼が襲ってきたりはしないのかと尋ねると、

「このへんは狼の餌になる小動物もたくさん居るし、わざわざ人を襲ったりはしないんじゃねーのかな。だいたい、狼のテリトリーはここよりずっと山深い所のはずだから、滅多に出会うこともねーし」

と軽く受け流されます。
万事につけて自分とはあまりにも感覚がかけ離れている新一の受け止め方に、蘭はいちいち驚く反面、何故か強く惹かれるものを感じました。

「新一は…怖くはないの?こんな森の中にひとりで住んでいて」
「何が?狼?それとも蘭の言う“死者の魂が取り憑いた魔物”とやらか?」

相変わらず揶揄めいたそぶりをやめない新一に、

「真面目に聞いてるの!」

と蘭が拗ねて言い返すと、

「悪い悪い、からかい過ぎた」

新一は悪びれずに謝り、そして言いました。

「森の動物は、森のルールさえ守っていれば、自分から襲ってくることはない。だから怖がることはないさ。それに、本気で信じてる蘭には悪いけど、死者の魂が魔物となって森に棲み着いてるなんて、オレは信じてねーからな。実際、この森が都合の悪い人間を置き去りにする場所として利用されてきたのは確かだが、オレにしてみれば、オメーのような人間が後を追って助けにいかないための、都合のいい作り話にしか思えねーよ」

いつのまにか、背を向けて寝ていたはずのふたりは向かい合って話をしていました。
薄暗闇の中で新一の蒼い瞳を見つめていると、なんだかそのまま吸い込まれてしまいそうで、蘭の胸は押し潰されるように苦しくなります。
その感情が何なのか、この時に蘭には分かっていませんでしたが、孤独な状況をどこか持て余しているようにも見える新一のことを、もっとよく知りたい、そしてこの人に力になりたいという気持ちが溢れてくるのを感じました。

「新一は…いつからここに住んでいるの?」
「たしか、10歳の頃からかな」
「どうしてここに住むようになったの?」
「どうしてって…そりゃ、あれだ。オレも歩美ちゃんと同じだよ。黒死病と間違われて、ここに捨てられたから」




To be continued…….






〈2〉に戻る。  〈4〉に続く。