森の番人



By 柚佐鏡子様



〈21〉



新一と蘭の結婚に先立ち、優作と有希子の結婚式が執り行われました。
というのは、このふたりが正式に結婚しなければ、新一は優作の嫡男として認められず、爵位も米花の森の領地権も相続できないからです。
現実の親子関係があれば、妾腹の子でも将軍になったりする日本などの風習とは違い、西欧には、正妻の子でなければ一切の相続権が認められないという厳しい掟がありました。
その反面、結婚式さえ挙げれば結婚成立の時期は17年前まで遡れるというアバウトさには奇妙な矛盾を感じながら、新一と蘭は式に列席していました。
普段は万事につけて賑やかなことを好む有希子ではありましたが、こればっかりはさすがに今更感も強いのか、大々的な式にはせず、縁のある内輪の人だけが列席する、ごくごくささやかな式となりました。
と言っても、彼女自身、当代随一の美人女優なのですから、ダンディーな大諸侯と並んでもまるで遜色なく、絵画のように美しいその花嫁姿には、誰もが感嘆の溜め息を漏らしておりました。
そして誓いの言葉の後、婚姻の口づけを交わした有希子が、化粧が台なしになるのも気にとめずハラハラと泣いており、それを一生懸命宥めている優作の狼狽具合を見た時、

「形を整えることも大事なことだ」

という父の言葉が、今更ながら新一の胸に強く迫ってくるのでした。
実質的に夫婦になってから17年、口づけも、愛の言葉も、おそらく幾度交わし合ったか分からないくらいの間柄であろうに、あんなに感激して号泣している母を見てしまっては、女心の複雑さを痛感するばかりです。
そして、これは後になってから分かったことですが、優作は今日のこの日のために、何年もかけて周到な準備を重ねていたのです。
本人は飄々として、さも思いつきで領地を手放したかのような口ぶりを装っていましたが、その実、周辺の有力諸侯と不可侵同盟を結び、皇帝を公平な統治者に据えて、民衆の意見も反映されるような政治体制を整え、自分が領地を手放しても、争いや混乱が起きないような手はずを盤石にして、ようやく領地を手放していたのです。
その功労は、まさに真の統治者の名に相応しいものでしたが、彼は、世の中を統治したいがためにそのようなことに骨身を削ってきたわけではなく、ただ誰憚ることなく有希子を妻とし、新一を普通の生活に戻す手段として、己の責務に邁進していただけなのでした。
有希子と一緒になりたいからと、単に自分の身分も立場も捨てて彼女と一緒になったのでは、かえって彼女を悲しませてしまうことになると、明敏な優作は初めから気づいていたのです。
そんなことをしたって、愛する女性に一生涯の負い目を与えるだけで、彼女のためと言ってみても、結局はただの自己満足になってしまう。それが分かっていたからこそ、彼はひとりの女性を守るために“世界”を変えることを思いついたのでした。
と言っても、いくら有力な諸侯の家柄とはいえ、それは並大抵では為し得ない偉業であることに変わりありません。
貴族社会に身を置きながら、次々と降って湧く結婚話を断り続けるだけでも容易なことではなかったでしょう。
有希子もまた、そんな優作の影の苦労を知っているからこそ感激もひとしおなのです。
感極まる両親の結婚式に臨み、自分も父と同じように、何があっても蘭を守れる強い男になりたいと、決意を新たにした新一でした。


それから数日後、今度は新一と蘭の結婚式の日がやってきました。
新一は大諸侯・工藤優作の嫡男にして森の魔物の正体。しかも愛する女性のために異端審問所にたったひとり乗り込んだ男気溢れる熱い男、ということで、あっという間に町の噂になっていましたし、蘭は蘭で、元々巷で評判の美人だったので、話題のカップルの幸せに与ろうと、ふたりの結婚式には大勢の民衆が祝福に訪れました。
勿論その中には、蘭の親友・園子とその恋人・京極真の姿もありました。
皆に祝福されて幸せの絶頂にあるはずのふたりでしたが、式の直前まで、何かに迷っているような表情を見せている蘭のことが、新一はずっと気になっていました。
何がそんなに気がかりなのかと何度も問い質すと、

「新一…本当によかったの?」

と、蘭は思い切ったように、ポツリと呟きました。

「何がだよ?」
「だって…新一は今まで、教会の教えがあったせいで、いろいろ苦労してきたんでしょ?それなのに教会で結婚式するの、嫌じゃない…?」

彼女はその長い睫毛を伏せ、式の直前になってこんなことを言い出したのです。

「もし新一が嫌なら…無理に式は挙げなくたっていいんだよ…?」

勿論、蘭が土壇場になって新一と結婚するのが嫌になったために、こんなことを言い出したわけではありません。彼女は彼女なりに思うところがありました。
というのは、いくらそうしなければ新一の正式な妻になれないからと言っても、新一のこれまでの複雑な立場に思いを馳せると、安易に教会で式を挙げることに躊躇を感じてしまったのです。
いや、新一と出会ってからずっと、蘭は教会に対して、はっきりと言い表せないモヤモヤした気持ちを抱えていました。
祈ることや奉仕することを教えてくれたのは教会ですが、そんな教会は、自分の知らないところで、新一のような人を排除していた。
この矛盾をどう捉えていいのか、蘭は未だ、その答えにたどり着いてはいませんでした。
しかし、式を目前にして迷い続ける蘭に対して、新一の方の思いは明確でした。

「どーでもいいよ、んなことは」

せいせいとそう言い放ち、

「それより、オレは嬉しいんだよ」

と、蘭が思ってもみなかった言葉を発したのです。

「蘭を皆の前で堂々と自分のものにできるって儀式が。そんな便利な制度をつくってくれた教会に、現金に感謝してるくらいさ」
「新一…」

ぐるぐるといろんなことを考えている自分と違って、彼の答えはあまりにもあっけなく、迷いがなくて、蘭は思わず言葉を失ってしまいました。
どうしてそんなふうに簡単に納得できるのだろう。
新一は頭がいいから、わたしが言葉にできないこのモヤモヤした気持ちの正体をもうちゃんと理解していて、それで済ました顔をしているのだろうかと、蘭は恨めしくさえ思いました。
けれども、新一はそんな彼女の思考を読んだように、

「蘭。“光あれば陰あり”ってよく言うだろ?たしかに、オレは今まで、教会の照らす光とは程遠いところにいたから、そういう意味じゃ陰の生活だったかもしれねーけど」

と言いながら、そっと彼女の手をとりました。

「でも、今は“蘭”という別の光を見つけたから、もう暗闇に迷うことはないんだぜ?」

いつものように小憎らしいまでに自信ありげに口角を上げたかと思いきや、

「方向音痴の蘭を道標にして生きなきゃなんねーのは不安だけどさ」

と、これまたいつものように彼女をからかい。
それから新一は、穏やかな微笑みを浮かべて言いました。

「それにさ、蘭。オレ思うんだけどよ。考えても言葉にできねーことって、この世にたくさんあると思わねーか?」

新一は、ギュッと強く蘭の手を握りしめます。

「オレは蘭を愛してる。世界中の誰よりも。だけど、その気持ちはどうやったって言葉にはできねえ。オレの気持ちはこの世界よりも大きいから、それを全部言葉で表現するなんて、どんなに頑張ってもできやしねーんだよ。たとえオレが世界中の言葉を全部知っていたとしてもな」

さらりと気障なセリフを吐く新一に、

「気障…」

と蘭はつい赤くなりました。
でも、新一の言うことは本当だとも思います。
自分が新一を愛する気持ちは、蘭が生きている限り、いや、たとえこの命が尽きても無限に広がってゆくので、その一部分だけを取り出して言葉にしてみても、全然全てを表現できたことにはなりません。

「だけど、そういう気持ちがあるってことを、オレはオメーに…それに皆に伝えたい。だから今から結婚式を挙げるんだろ?世間の人がそれを教会の神と呼ぶのなら、オレはそれで構わない。ただそれだけの話だよ」
「新一…」

ああ、やっぱり。
新一はいつだって、たった一言でわたしの不安を拭い去り、希望に変えてくれる。
この人こそ、わたしを導く光なんだ。
蘭はそう思い、今度こそ迷わず新一の胸に飛び込みました。

「大好き…愛してるよ、新一。いくら誓っても誓いきれないくらい…」

それは、数日前の有希子にも負けない涙と、輝かんばかりの心からの笑顔でした。

「オイオイ…そんなに泣いたら化粧とれちまうって…」

新一はオロオロしながらも、そんな彼女を強く抱きしめて言いました。

「さあ。行こうぜ、奥さん。オレ達の幸せを羨ましがってる奴らが、たくさん待ってるからよ。見せつけてやろうぜ」
「もう!自意識過剰なんだから!」

軽く憎まれ口を叩きながらも、蘭はしっかりと新一に寄り添います。
結ばれたばかり若い夫婦の、あまりにも仲睦まじく幸せそうなその様子は、新一の意図したとおり、後生にまで長く語り継がれるほどだったということです。


新一と蘭の結婚式からしばらく後、新一の両親は、領地を手放して得たお金で、17年越しの新婚旅行へと旅立ちました。
今までのこともあり、当分は夫婦水入らずで楽しみたいという考えのようで、バイタリティ溢れるこの夫婦らしく、できれば世界一周したいと言って張りきっていました。

「旅の途中で黒死病なんかにかかるなよ?」

洒落にもならないからかいの言葉を口にしながら、終始ニコニコと両親の出発を見送っていた新一の心中は、

(やれやれ…これで蘭と静かな新婚生活が送れる)

ということだったのは、ここだけの秘密です。
彼としては、ただでさえ米花の森の開発などという厄介な任務を命ぜられ、以前と比べるととんでもなく忙しくなってしまったというのに、その上、どうやったって敵わないあの両親にちょくちょく訪ねてこられたのでは、せっかくの蘭との新婚生活も落ち着いて楽しめやしない、ということで頭がいっぱいだったので、正直助かった…などと考えていました。
そんな息子の心中を知ってか知らずか、優作夫妻は何年もかけて世界各地を旅して回り、ついでに優作は、その土地土地のことを旅行記に書き記しました。
それらの旅行記は、著者の幅広い知見・独自の見識に裏打ちされたエンターテイメント性に富んでいて、人々の評判になりました。
ちょうど印刷術の発達という追い風もあって、次々とベストセラーになるそれらの手記のおかげで、新一はいつでも、両親の居所と、ふたりが健在なことを知ることができたそうです。




To be continued…….






〈20〉に戻る。  〈エピローグ〉に続く。