森の番人



By 柚佐鏡子様



〈5〉



それからも蘭は、歩美の看病をしながら新一の家で生活していました。
初日、2日目こそ、いろいろとバタバタしてしまいましたが、それから後は特に困ったことも起こりませんでした。
最初はどうなることかと思った森林生活も、既に何の支障もなく何年も暮らしている新一がそばにいて、彼に大丈夫だと言われれば、その言葉はすんなり蘭の耳に入ってきます。
そういうわけで、蘭の不安は早い段階で解消され、彼女は歩美の看病に献身する一方、新一のために食事を作ったり、あまりにも殺風景すぎる家の中を整えたりするようにもなりました。
はじめのうちは、

「そんなことのためにオメーを置いてやってるわけじゃないから、気にしなくていいよ」

とか何とか言っていた新一も、結局は蘭の食事の美味しさや、何より、自分を心配してくれる彼女の優しい心根にほだされたらしく、素直にお礼を言って蘭を頼る部分が出てきました。
そして、その代わりといっては何ですが、寝込んでいる歩美のためにと、わざわざ薬草を採ってきてくれたりするのでした。

夜も同じベッドで休んでいました。
新一に何かされるのではないかという危惧は、今はもうすっかり消えていました。
彼が紳士的なのは十分理解できていましたし、遠くに狼の遠吠えなどが聞こえると、大丈夫だと分かっていてもやっぱり怖くて、もし新一と一緒でなくて独り寝だったとしたら、怖くてかえって眠れないのではないかと思うくらいでした。
床に就いたら、相変わらずお互いにとりとめのない話をしました。
勝手気ままにいろいろなことを話し合って、喋り疲れたら眠るといった具合です。
そして朝起きると、ふたりは何故か必ず抱き合っているのです。
どちらがどちらに抱きついているのかは判然としませんが、この時だけはさすがに若干の気まずさが漂います。
蘭はなるべく早起きをして、自分が先に寝床から抜け出ることで気まずさを回避するという方法を編み出しましたが、本音を言うと、新一の腕に抱かれて彼の体温を感じるのは、暖かくて安心感があって、それでいてちょっぴりドキドキして、心地よかったのです。
まだもう少し…などと粘っているうちに、新一が目覚めてしまい、やっぱり気まずくなってしまった、ということは多々ありました。
と言っても、別にその気まずさを終始引きずるでもなく、ふたりは(寝込んでいる歩美を入れれば3人ですが)概ね良好な共同生活を営んでいました。



それから8日が過ぎ、蘭の懸命な看病が功を奏して、歩美の意識が戻りました。
長い間熱を出していたためか、どこか焦点の定まらないぼんやりとした目で蘭を見上げていた歩美が、

「…蘭お姉さん?」

と自分の名前を呼んだ時、蘭は思わずギュッと歩美を抱きしめていました。

「気がついたのね!よかった!」

黒死病者の目は黄色く濁り、まるで目を見開いたまま亡くなった死人みたいだと聞いたことがありますが、いつもの溌剌とした様子には程遠いとはいえ、歩美の瞳は本来の澄んだ色で自分の姿を映して出しているのです。
その点から判断しても、もう彼女が黒死病ではないことは明らかでした。

「蘭お姉さん、どうして涙ぐんでるの…?歩美、お姉さんに何かひどいことした?」

一方の歩美は、目が覚めたら突然蘭に抱きしめられ、何が何だかサッパリ分からないという顔で不思議がっています。

(いけないいけない…!わたしが歩美ちゃんを不安がらせてどうするの?)

蘭は心の中でそう自分を正し、にっこりと微笑みを浮かべました。

「ううん。そんなことないのよ。歩美ちゃんはね、体の具合が悪くてずっと寝込んでいたの。でも、こうして目を覚ましてくれて本当に安心したわ。ね、気分はどう?」
「…なんだか頭がクラクラするよ。それとね…」
「それと?」
「歩美お腹空いた…」

歩美の唐突な要求に蘭は目を丸くしましたが、よく考えてみればそれはそうだろうと思い直し、再び歩美をベッドに寝かしつけながら、優しく言い聞かせました。

「じゃあわたし、何か食べる物を持ってくるから、それまでゆっくり横になってて。いっぱい食べて、早く元気になろうね?」

言うように歩美が横になり、大人しく目を閉じたので、蘭は何か栄養になるものを思いながらキッチンへ向かおうとしましたが、その前に新一にこのことを報告しておこうと、彼のところに行ってみると、新一はお腹の上に開いた状態の本を乗っけたまま、昼寝していました。

蘭の知る限り、このところの新一はちょっと目を離すと昼寝ばかりしています。理由を聞いてみても、

「しゃーねーだろ、眠いもんは眠いんだから」

と言われるばかりで、まるで赤ちゃんみたいだといつもからかっていました。
まさか、毎晩下着姿の蘭と一緒に寝ているため、思春期の諸事情(?)でよく眠れず、新一が常に寝不足に陥っているなどとは、純情な彼女は露ほども知りませんでした。
けれど、彼女は新一の寝顔が好きでした。赤ちゃんとまでにはいきませんが、眠っている新一の顔はあどけない少年そのもので、その顔を見ていたら、つらい過去や現在の孤独な生活も、彼の健康な精神までは全く侵していないことがよく分かりました。
蘭としては、そんな彼の寝顔をいつまでも眺めていたいところですが、気配に敏感な新一は、蘭がそっと近づくだけでもすぐに目を覚ましてしまうのが常でした。

「ん…どうした?蘭」

目を覚ました新一が尋ねると、

「あのね、いま歩美ちゃんが目を覚ましたの」

と蘭は早速に報告しました。

「そっか。よかったな」

言葉はそっけないですが、新一も安堵の表情を浮かべています。

「ありがとう。これもみんな新一のお陰よ」
「別にオレは何もしてねーよ。看病したのは蘭だろう」
「ううん。その看病だって、新一がいなければ出来なかったんだもの。本当にありがとう」

それでね、と蘭は続けました。

「歩美ちゃん、お腹が空いたんだって。何か病み上がりの胃に負担にならない、栄養のつくものを食べさせてあげたいんだけど、何がいいと思う?」

蘭は料理は得意ですが、ここでは自分の家にいる時のような、使い慣れた食材や道具が揃っているわけではありません。
何かが足りなくても買いに出ることもできないので、まずは新一に相談してみようというわけです。
いや、そうでなくても、新一は実にたくさんのことをよく知っていました。
森での生活のことならいざ知らず、世の中の情勢や政治の動きという大きなことから、日常的な種々の雑学に至るまで、その知識は本当に多岐に亘っていて、こんなに何でも知っている人には、町でも会ったことがありません。
しかも新一は、蘭があれこれ困ったことになる前に、何もかも見通したように、いつも先回りして手を打ってくれているのです。

「これ、滋養になる野草、採っといた。子どもにはかなり苦いだろうから、チーズで味を誤魔化した方が無難かもな。あと、オレの里親が持ってきた猪の脂身の燻製があっから、あれ全部使っていいから。葡萄酒も」

そうやって新一はスラスラと指示を与えてくれますが、
「でも、それじゃ新一が困るんじゃない…?」

と蘭は心配そうに聞き返しました。
それでなくても、自分達が急に転がり込んできたことで大事な食い扶持を減らしているのですから、蘭もなるべく工夫して、新一の家の食糧を徒に消費しないよう、注意しながら料理していました。
毛利家でも台所を預かっていた蘭は、昨今の飢饉で、徐々にいろんな食材が手に入りにくくなってきているのを知っていたからです。
そんな蘭の心配顔を見て、新一は不適な笑みを浮かべました。

「くだらねー遠慮なんかしてんなよ。オレは狩猟も得意だし、この森には食べられる野草や果実がたくさん自生してる。1年中蜂蜜もとれる。別に食うに困りゃしねーよ。その上、里親も時々差し入れてくれるしな」
「でも…」
「ったく、ゴチャゴチャうっせーなー。オメーは歩美ちゃんを助けに来たんじゃねーのかよ?これであの子が回復せずに死にでもしたら、蘭が食い物ケチったからだって、夜な夜な化けて出られるぜ?」
「もう!縁起でもないこと言わないでよね!バカ!」

蘭は怒ったふりをしながらも、新一の減らず口が、本当は自分に遠慮をさせないための優しさだということに気づいていました。
それに、たしかに自分は歩美を助けるためにこの森に入り、新一だってそれを知ったからこそ協力してくれたわけですから、当初の目的を果たせなければ本末転倒もいいところだと思い直し、新一の好意に素直に甘えることにしたのです。

そうやって蘭の作った愛情溢れる食事を、歩美はゆっくりと、しかし美味しそうに食べていました。

「どう?美味しい?歩美ちゃん」
「うん、とっても美味しい。ありがとう、蘭お姉さん」

そうして食べ終わった歩美に、蘭は少量の葡萄酒を勧めました。
そもそも、都市の生活では衛生的な水を確保するのが難しいこともあって、保存の利く葡萄酒やビールは人々に広く親しまれています。
従って、子どもでもアルコールを口にすることは珍しくありませんが、それにしても歩美はまだ幼すぎて、これまで葡萄酒を飲んだことはないようでした。

「なんか変な味がするよ…」

顔をしかめて渋っている歩美を、

「うん。これお薬だから、我慢して飲んでね」

と蘭は宥めすかします。
薬とまでは言いませんが、葡萄酒は失神した人の気付に使われたりもしていましたし、教会で出されるものでもあるので、体に良いと言われていました。
蘭は単純にそれを信じており、それに、少量のアルコールを摂ると入眠しやすいということも知っていたので、しっかり眠って回復を促すためにと歩美に葡萄酒を勧めたのです。
それが後々、どんな事態をもたらすかを考えもせずに。
実際、歩美は食事を終えると早々に眠ってしまい、しばらくそんな歩美の様子を見届けた後、今度は自分と新一の食事にしようと、蘭は静かに部屋を出ました。

歩美が元気に目覚めたことで、食卓での蘭はいつも以上に明るく、口数も増えていました。
新一もいつものように彼女の話に耳を傾けていましたが、いつもなら、そんな彼女の話に意地悪な茶々を入れたり、得意げに関連知識を披露したりするはずの彼が、どういうわけか、今日は相槌の終始するばかりで、自分から一切口を開きません。

新一が無言を貫いていることに気づいた時、蘭は急にしゅんとして彼に謝りました。

「…ごめんね、新一」
「何が?」
「なんだかわたし、はしゃぎすぎだよね。わたしが自分のことばっかり喋ってるから、新一、呆れてるんでしょ?」

そう言ってしょんぼりする蘭に、新一は苦笑しました。

「違うよ。呆れてなんかねーって」
「じゃあどうして黙ってるの?」
「いや、それはだな…」

珍しくゴニョゴニョと言葉を濁す新一を、蘭は大きな瞳で不思議そうに見つめています。
そして、なかなか答えを出してくれない新一に、

「分かった!やっぱり猪の燻製がもったいなかったって思ってるんだ!」

などと更に的はずれなことを言い出すので、新一は思わずガックリと項垂れてしまいました。

「だから、それはもういいって言ってんだろ?」
「じゃあ何?どうしてそんなに黙り込んでるの?言ってくんなきゃ分かんないよ!」

焦れる蘭にいよいよ観念したのか、新一は急に神妙な顔つきになり、言いました。

「…オメーから言い出すかと思って様子を窺ってたんだけどよ。でも、この際だからオレから言う」
「な、何…?」

なんだか意味深な新一の言葉に、蘭も思わず居ずまいを正し、さっきまでの明るい空気はどこへやら、一瞬にして食卓を支配するシリアスな雰囲気。
なんとなく嫌な予感が胸をよぎるのを必死で気づかないふりをしている蘭に向かって、新一は徐に言いました。

「歩美ちゃんももう大丈夫だろ。蘭。夜が明けたら、オメーは朝一番にあの子を連れて町に帰れ」




To be continued…….






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