森の番人



By 柚佐鏡子様



〈6〉



新一の言葉に、蘭はたいへんなショックを受けました。
考えてもみれば当たり前のことです。最初からそういう話で、蘭はここに滞在していたのですから。
ですが、新一の家で何日か暮らすうち、いつのまにか彼が近くにいるのが、彼と話し合って日々を過ごすのが、蘭にとっては当たり前のことのように思えていたのです。
そして何の根拠もなく、彼も同じように思っていてくれるものと期待していました。
それが自分の独りよがりに過ぎなかったと、蘭は頭から冷や水を被せられたような気持ちになりました。

「そ、そうだよね…。いつまでもここに居ちゃ、新一の迷惑になるもんね…」

辛うじてこの場に応じた返事はしたものの、軽い感じで言いたかったのに、動揺のあまり蘭の声はつい震えてしまいます。
新一はそれを見逃さず、

「オレはそんなこと言ってるつもりはねーよ。ただ、ここにはちゃんとした薬もねーし、医者もいねえ。やっぱり町の方が何かと便利だろ」

と、冷静な口調で言い聞かせました。

「…新一が採ってきてくれる薬草があるじゃない。新一は何でも知ってるから、きっと大丈夫だよ。歩美ちゃんだって、まだもうちょっとここで養生した方が…」
「蘭」

まるで聞き分けのない子どもを叱るように、新一は彼女の目をしっかり覗き込みながら、こう語りかけました。

「歩美ちゃんは、自分が黒死病を疑われて親に捨てられたこと、まだ気づいてねえんじゃねーのか?いつまでもここに居たら、オレもあの子と顔を合わさねーわけにはいかなくなる。そしたら、ここがどこで、オレが誰なのか、あの子にも説明しなきゃならなくなるんだぞ?オレは、まだ小さいあの子に真実を知らせることはしたくねーけど、オメーにはそれができるのかよ」

言われて蘭は唇を噛みしめました。たしかに新一の言うとおりです。
歩美に本当のことを説明するなんて、そんな残酷なことは、とてもできそうにありません。
けれど、ここで自分達が町に帰ったら、新一はまたひとりになってしまいます。
この薄暗い米花の森で、たったひとりの孤独な生活が再開されるのです。
新一をまたひとりにしてしまう。
蘭にはそれが耐えられませんでした。だから、無駄だと知りつつ、こう申し出ました。

「新一も…一緒に来ない?」

そして無理して明るく話しかけます。

「ねえ、ウチにおいでよ。わたしの家は織物工房で、お弟子さんがいっぱい住み込んでるから、新一ひとりくらい増えたって全然平気よ?お仕事だって、新一くらい何でも知ってれば、きっと町でなんだってできると思うし、なければウチの織物の仕事を手伝ってくれてもいいし、それから…」
「蘭。気持ちは嬉しいけど」

蘭の懸命な言葉を遮って、新一は言いました。

「オレは世間じゃ死んだことになってんだぜ?身分も何もねえ、身元もはっきりしねえオレのこと、オメーはどうやって説明する気だよ」
「だから、森で迷った時に助けてもらったって、ちゃんと…」
「んで、オレとひとつ屋根の下で8日間一緒に暮らしてましたって、説明するか?夜も一緒に寝てましたって」

揶揄するような新一の言葉に、蘭はカッと赤くなります。
女性の貞操が重んじられる世の中で、たとえ何もなかったにしても、結婚前の蘭にそんなことが言えるはずもありません。
分かっていてそんな言い方をする新一を、蘭は恨めしげに見つめました。
どうして…どうして新一は、わたしがこんなに心配してるのに…一緒にいたいと思っているのに、そんな突き放すようなことばかり言うんだろう。
やっぱりわたしが邪魔なんだ、わたしでは新一の支えにはなってあげられないんだと思うと、悲しくて涙が滲んで来ましたが、そんなことで泣いて彼を困らせるわけにはいかないと、蘭は必死に我慢しました。

新一は、黙って涙を浮かべる蘭のそばに来て、しばらく困ったように彼女の様子を見つめていましたが、突然、思いつめたような顔つきで強く彼女を抱きしめました。
寝ぼけているのではない、初めてのはっきりとした抱擁でした。

「ごめん、蘭。嫌なこと言って悪かった。オメーを泣かせたかったわけじゃねーんだ…」

新一の声はとてもつらそうです。
その切ない響きに、今まで自分の気持ちばかりに囚われていた蘭はハッとしました。

「蘭はオレがまたひとりになっちまうって、心配してくれてるんだろ?それは分かってる。だけど、蘭のことを心配して帰りを待ってる人が、町にはたくさんいるんじゃねーか?」

問われてようやく、蘭は自分の両親や園子、志保のことを思い出しました。
いつまでも帰らない自分を心配して、彼らが今どんな思いでいるか、想像するだけでも申し訳なくて胸が張り裂けそうです。
父の小五郎なんて、もしかすると寝込んでいるのではないでしょうか。

「蘭には蘭の居るべき場所があるだろ?それは、ここじゃないはずだよな」

そう言われると、蘭にはもう何も言えなくなってしまいました。
何より、新一だってただ自分を邪険にして帰れと言っているのではない、蘭のことを慮ってくれているのだということがよく分かったので、それ以上のワガママも言えず、結局、彼の言うことに従うしかなくなってしまったのです。

夜の帳がおり、寝る時間がやってきました。
新一と過ごす最後の晩です。
いつものように楽しくお喋りに花を咲かせるような雰囲気ではありませんでしたが、これが最後だというのに無言で過ごすのももったいないと、蘭の方からポツリと話しかけました。

「ねえ新一。新一のご両親って何してる人?」

思い返してみると、蘭はこれまで新一の両親のことを詳しく聞いたことはありません。
生まれた時から他家に預けられていた新一の記憶は、当然ながら里親の下での思い出が圧倒的に多いらしく、今まで彼の口から実の両親の話を聞くことはありませんでした。
本人が特段話したがらないものを、敢えて根掘り葉掘り尋ねることなんて、これまでは全く思いつきもしなかった蘭でしたが、今日になって急に新一の両親の話を持ち出したのには訳があります。
というのは、町へ戻ったら新一の両親を探して会いに行き、彼と一緒に住んでくれるように頼もうと思っていたからです。
自分に直接してあげられることがないなら、せめてそのくらいは彼のために行動したかったのです。
その思いを知ってか知らずか、新一は、

「それを知ってどうする?」

と斜に構えた言い方をしました。

「会いに行くの。新一に助けてもらったお礼が言いたいもの」

本当の目的は隠しておいて蘭がそう答えると、

「別にいいよ、んなこと気にしなくて。それに、蘭がオレの親に会うのは無理だと思うし」

と新一は言います。

「どうして無理なのよ」
「オレの親父、貴族だから。っていうか大諸侯ってヤツだな。こんな言い方したかねーけど、ただの市民の蘭が会えるような身分じゃないし」
「えっ!そうだったの!?」

蘭は驚きの声を上げました。
大諸侯と言えば、何人もの領主を束ねる諸侯の、更にそのまた上の立場で実質的に領地を支配している人。
貴族の中でも相当に高貴な身分で、中央権力にも近く、皇帝にも匹敵するほどの権力をもっていました。
いや、自分の領地の政治に関しては、皇帝の干渉を受けずに独自に行うことが出来るのですから、ある意味、皇帝と同じようなものです。
元々皇帝というのは、大諸侯のひとりであるという側面が大きいのですから。
そうだとすれば、新一の教養が深いのも頷けますが、では何故その大諸侯の息子である彼が、こんな恐ろしい森の奥でひとりで暮らしているのか、謎は深まるばかりです。
そんな疑問に答えるように、新一は初めて、自分の両親のことを話し始めました。

「オレの両親な、正式に結婚してねーんだ」
「えっ…!?」

その後の新一の告白は、蘭にとっては意外なものでした。

新一の母親はかつての人気女優・藤峰有希子です。蘭もその名は聞いたことがありました。
それはそれは美しい女性で、歌も踊りも城下一、そのうえ才気溢れて機転も利くとの評判とあって、若い頃から毎夜毎夜貴族の館で開かれるパーティーに引っ張りだこという噂でした(注・この時代には今のような「劇場」はなく、女優さんは呼ばれた館に出張して即興劇を披露するような形式をとっていたようです)。
後に新一の父親となる工藤優作とも、そのようなパーティーの場で出会い、彼女に一目惚れした優作の求愛を受け、たちまちのうちに恋仲になりました。
それから時を待たずして優作の子を妊娠。
その電光石火の熱愛ぶりは、当時の上流階級でたいそう話題になったそうです。
しかし、このふたりの間には大きな障害が横たわっていました。
そう、身分の差です。
女優というのもなかなか因果な商売で、貴族や富豪のパーティに招かれているうちはいいのですが、需要がなくなればジプシーになってテントを張りながら、旅から旅へと巡業に繰り出さなければなりません。
それが嫌なら有力者の愛人になるか、あるいは街娼に身を落とすしかないという、一種、流転の激しい職業でした。
はっきり言って、貴族、それも名ばかりの貧乏貴族ならまだしも、大諸侯と結婚するには身分が違いすぎるのです。
それでなくとも、貴族社会はいわゆる政略結婚が主流ですから、貴族の男性はそれ相応のお姫様と結婚すると最初から決まっています。
そこで、婚外恋愛自由、浮気し放題という貴族の風習(一夫一妻の教会の建前から言えば許されないはずですが、現実はそうなっていました)にかこつけて、愛人という形で収まるというパターンが往々にして見られるわけですが、お互いを唯一の伴侶と決めて正式な結婚を望んだ優作と有希子は、そんな形式を潔しとはしませんでした。
周囲の説得という面倒な(不可能な、とも言えるでしょう)ステップは脇におき、とりあえずさっさと結婚してしまおうと教会に駆け込んだふたりでしたが、なまじ優作が大諸侯という立場にあるだけ、既に手配が回っており、どこの教会でも式を挙げさせてはもらえませんでした。
愛し合う男女には平等に結婚の祝福を与えるはずの教会ですが、その実、上層部へいけばいくほど複雑に世俗の利害とも関係しており、貴族の結婚に干渉するケースも多々あったのです。
彼らは、大諸侯たる優作が女優風情と結婚したのでは、その権威と信頼に翳りが生じ、今ある主従関係が脆弱になると考えたのでした。
そして、結婚や出産などの戸籍の管理は教会がしていますから、教会が認めてくれない限り、結婚は公的なものにはなりません。
そんなわけで、優作と有希子が真正な夫婦であるということは動かしようもない事実なのに、その完璧な証明たる新一もいるというのに、17年が過ぎた今になってもなお、彼の両親は未だに正式に結婚していない状態だというのです。

「こんなこと、市民の蘭に言ってもピンとこねーかな?」

新一が苦笑しながら呟くとおり、新一の話は蘭の理解を大きく超えていました。
対等な立場で毎日のように大ゲンカを繰り広げている自分の両親。
そして、そんなふたりの間に当たり前のように存在する自分。
そうやって家族一緒にいられることがどんなに幸せなことか。
新一が毎晩あんなにも蘭の話を聞きたがったのは、もしかするとそういう家庭環境に対する憧れがあったからではないかと、蘭は初めてそんなことを思いました。
しかし、新一の話はそれで終わったわけではありません。
両親が結婚していないということで、新一には生まれた時から謂われなき災難が降りかかる運命だったのです。
正式な結婚が許されていない男女の間に生まれた新一は、形式的には母である有希子の私生児ということになりますが、教会の影響が遍く行き届いているこの世の中で、婚外子の存在は、差別と偏見の対象でしかありませんでした。
そもそも性愛などというものは人間を曇らせる害毒で、子どもを為す時のみ許される。そして、教会に祝福された正式な夫婦の間でしか子どもはつくってはいけない−−−
そういった価値観の下で、いくら優作の厚い庇護を受けているとはいえ、有希子は行く先々で悪意の目に晒され、それはもう大変な苦労をしたようです。

「結婚もしていないのに子どもを産むなんて、ふしだらだ」
「優作侯のご落胤だと言うが、本当かどうか分かったもんじゃない」
「これだから女優は」

どこへ行ってもこんな口さがない悪口を囁かれ、彼女はいつもプンプン怒っていました。

「全く、失礼しちゃう!新ちゃんは間違いなく私と優作の子よ!それを何なの、この扱い!」

とはいえ、産後疲れも未だ癒えない妻が世間の好奇な目に晒されるのを見るに見かねた優作は、妻でさえこうなのだから、息子の新一もいずれこうした目線に晒されることになるだろうと危惧しました。
そして、息子の将来をいろいろと考えた末、信頼できる友人に新一の養育を託すことに決めたのです。
この人は優作の従者でも何でもない一市民で、少々風変わりな人物でしたが、人間味に溢れ、子どもが好きで、自由進歩主義的な工学博士でした。
父親として子どもの行く末を案じた結果、新一の置かれた特殊な立場を考えれば、無理に旧態依然とした貴族社会の慣習の中に置いておくよりも、こういった人物の下で世の中の実態を学ばせた方がよいと判断したのです。
勿論、だからといって愛息の成長に関心がないわけでは決してなく、優作も有希子も、頻々に里親宅を訪れては新一に会っていました。
それは、黒死病騒動を経て米花の森に住むようになった今でも変わることはありません(新一の家にベッドが2つあるのも、居間に椅子が3脚あるのもそのためです)。
新一も、自分達家族はそれだけで十分だと思っています。
彼にとっては両親とは、“たまに会って元気なことを確認し合えばそれでいい人達”という認識であって、たとえ一緒に暮らしていなくても、両親からの溢れんばかり愛情は、息子として十分に感じとっていたのです。




To be continued…….






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