森の番人
By 柚佐鏡子様
〈7〉
「変な話、しちまったな」
新一は重くなってしまった空気を変えるように、軽い口ぶりで言いました。
そして、からかうように彼女の鼻を摘んで笑います。
「どーせ蘭のことだから、オレの親に会って、オレと一緒に暮らしてやって欲しい、とか何とか言うつもりだったんだろ」
「え?わ、分かってたの、新一…」
「顔に書いてあるっての。ったく、余計なことばっか考えやがって」
「ご、ごめんなさい…」
「別に謝ることじゃねーさ。蘭はオレのことを心配してくれただけだしな。それにその…、まあ…け、結構嬉しいもんぜ?そうやって心配されんのも」
何の事情を知らないくせに、ただ余計なお節介ばかり焼こうとする自分を疎んじられるかと思いきや、思いがけず新一に「嬉しい」と言ってもらったことに感極まった蘭は、思わず涙を浮かべながら、
「うっ…新一ぃ…!」
と、新一にしがみつきました。
「うわっ…!オ、オイ、泣くこたねーだろ…!」
突然蘭に抱きつかれて、新一は焦ったようにひとりアタフタしていましたが、それでも蘭を突き放すことなく、優しく抱き留めてくれます。
そんな優しさが嬉しくて、蘭はますます泣き出しました。
「わ、わたし…新一のこと、もっとちゃんと知りたくて…。少しでも新一の力になりたかったの…。でも新一、自分からは何も話してくれないし…きっと、そういうの迷惑なんだろうってずっと思ってたから…。そんなふうに言ってもらえるなんて、嬉しい…!」
「な、なんだ、嬉し泣きだったのかよ…」
途切れ途切れに涙の理由を説明する蘭の言葉を聞いて、一体何を勘違いしていたのか、心臓に悪いとばかりにハーッと息を吐き出した新一は、優しく彼女の艶やかな黒髪を撫でながら、言うのです。
「蘭がそんなに思いつめてるなら、もっと早く話してやればよかったな。けどよ…オレも、怖かったんだよ」
「……怖かった?」
いつも自信満々で、その強い力で自分を正しい方向に導いてくれる彼に、一体どんな怖いことがあるというのだろう、と、蘭がまだ乾かない瞳で彼をみつめると、新一は少しバツが悪そうに視線を逸らして言いました。
「ホラ、オメーって修道女になるんだろ?」
たしかに、ここへ来たばかりの時に、売り言葉に買い言葉でそんなことを言った覚えはあります。
「ってことは、真面目に教会に通ったりして、結構信心深いはずだよな?オレは両親があんなんだし、里親も進歩主義者だし、正直、教会の言う神なんてヤツは信じてねーけど。信じてるオメーからしてみたら、どう思うかなって考えたらさ…」
そう、新一は怖かったのです。
自分が教会の許しを得ていない両親から生まれた子だということを知られたら、蘭に嫌われるんじゃないかと。
今まで自分の出自のことで誰に何を言われても、「勝手に言わせておけ」くらいにしか考えていなかった新一でしたが、蘭にまで同じことを思われるくらいなら、素性不明の森林生活者のままでいたかった。
言ってみれば、ただそれだけのことでした。
それに対して蘭は、
「そんなことない!」
と強い口調で言い返しました。
まるで自分の新一に対する信頼を軽んじられたと抗議するみたいに、蘭は怒った調子で言います。
「そりゃあ、教会は認めてくれてないかもしれないけど…でも新一のご両親は、ちゃんと愛し合って結婚した、立派な夫婦じゃない!身分が違ってて、難しい問題もいっぱい抱えてるのかもしれないけど、それでもいつもふたりで助け合って、新一を産んで立派に育ててくれた、素敵なご両親じゃない!教会の許しなんて関係ないよ!そんなので判断する方が間違ってるって、わたしは思う」
そのあまりの剣幕には、
「オイオイ、いいのかよ?修道女志望がそんなこと言って」
と新一の方が驚いてしまうくらいでした。
新一は、蘭の頬をつたった涙を拭いてやりながら、
「でも、そうだよな。オメーならきっとそう言うだろうって、分かってたはずなのにな。…オレが悪かったよ、ごめん」
と、彼女に対して詫び、そして言いました。
「それとよ。オメーはさっき、オレの力になりたいって言ってたけど、別にそんな大層なことは考えてくれなくてもいいから。…オレ、オメーと会えだけでも嬉しかったから」
両親と里親からの愛情やサポートには感謝していましたが、これまでの人生、どちらかというと好奇と偏見の眼差しを向けられることの方が多かった新一です。
勿論、世の中に優しさや善意、助け合いというものが存在することは知っていましたが、彼にとってはどれもイマイチ実感に乏しいものでした。
なまじ明晰な頭脳を持っている分、この世の真実を追及しようとすればするほど、厭世的で懐疑的になってしまうきらいが彼にはありましたが、蘭という女性は、新一のそんな懐疑的な心も全て吹き飛ばしてしまうくらいに明るく、一途で、誰かを助けることに一生懸命で、輝いていたのです。
彼女は新一にとって、人間の理想を体現しているような存在−−−常に薄暗い森を彷徨う中に突然差し込んできた、一条の光のような存在でした。
「オメーみたいな人間がこの世に存在するって思うだけで、オレは人を信じて生きていける。オレも自分に出来ることで、誰かの力になりたいと思える。だから、蘭はオレのために特別何かしてくれようとか考えなくてもいいんだよ。蘭がこれからも自分らしさを失わずにいてくれたら、オレはそれだけで十分なんだ」
蘭にとっては、ものすごく嬉しいことを言ってもらっているはずなのに、その内容が、まるで二度と会うことのない人に向けられたメッセージのようになっていることに彼女は愕然とし、そして急に恐怖心を覚えました。
(これっきり新一とお別れなんて…そんなの嫌だよ…!)
「…また、ここへ来てもいい?」
蘭が必死になって言うと、
「それはダメだ!」
と厳しく一喝されました。
「今回オレがオメーと歩美ちゃんを見つけたのは、ラッキーな偶然に過ぎねーんだ。米花の森は広大で、構造もすごく複雑だ。迷ったら生きて出られないってのも嘘じゃねえ。蘭は方向音痴だから、また迷いでもしたら、今度こそ無事に戻れる保証はねーぞ」
「そ、そんな…」
やっと…やっと新一と、少しだけ分かり合えたと思ったのに…。
「もう…会えないの?」
涙ながらに尋ねる蘭に、新一は何も答えてはくれませんでした。
新一には分かっていたのです。
迂闊に町に出ることも許されない身の上の自分と、二度と森に分け入ってはいけない蘭。
こんな自分達が安易な再会を約束したところで、何の慰めにもならないことを。
「蘭…」
泣き続ける蘭の名前を、切なく何度も呼ぶことしかできない新一がそこにはいました。
蘭もまた、帰りたくないなどという本音を口にするわけにはいかず、黙って新一の胸に身を預けて泣いています。
ふたり、ただただきつく抱きしめ合うばかりの夜が、静かに更けてゆきました。
翌朝、夜通し泣いたために少し腫れぼったい目をした蘭は、眠った歩美を背中におんぶし、新一に手を引かれながら森の中を歩いていました。
方向音痴の蘭をひとりで帰したりしたら、またぞろ迷って行き倒れてはいけないと、新一が途中まで送ってくれることになったからです。
しばらく無言で歩き続けたふたりでしたが、ある地点にくると、新一はピタリと足を止めました。
「ここからは一本道だ。もうひとりでも大丈夫だろ」
その言葉は、ここでお別れという意味と等しいものでした。
「体に…気をつけてね。新一」
「ああ、オメーこそな。もう迷うなよ」
離れがたいのを少しでも引き延ばそうとするかのような会話も、すぐに途絶えてしまいます。昨夜あれだけ泣いたのに、また泣きそうになる蘭を、背中におぶった歩美ごと、新一はふわりと抱きしめました。
「もう泣くな。オメーに泣かれると、どうしていいか分からなくなる…」
困りきった新一の声を聞くと、
(ああ、わたしったらまた新一を困らせてる。最後くらい、笑って新一を安心させてあげなきゃ…)
心優しい蘭はそう思い、悲しい気持ちは心の奥に無理やり押し込めて、新一のために飛びっきりの笑顔を浮かべました。
いや、実際には泣き笑いのような表情になっていたのですが、自分ではそんなことには気づかず、蘭は精一杯の微笑みを浮かべながら、心をこめて新一に言いました。
「いろいろお世話になりました。ありがとう、新一。わたし、新一のこと忘れないよ。絶対、一生忘れないから…」
「…オレもだ。いつも蘭の幸せを願ってる」
それから、新一は彼女の頬を両手で優しく包み、ふたりは最後の口づけを交わしたのです。
To be continued…….
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