森の番人



By 柚佐鏡子様



〈8〉



森を出た蘭は、真っ先に志保のところへ行きました。

「蘭さんじゃないの!あなた、一体どこへ行ってたのよ!?」

9日間も行方不明になっていた蘭が、突然、それも居なくなっていた歩美を連れて現れたのですから、驚かないわけにはいきません。
しかし、免許はなくとも志保はやはりれっきとした医者。

「歩美ちゃんを看てあげてほしいの」

という蘭の一言で冷静さを取り戻し、事情を察してテキパキと歩美の体を調べ始めました。
そして、いろいろと歩美の様子を観察した結果、

「ずいぶんと体力を消耗してるようだけど…特に病気ではなさそうね」

という診断を下しました。
やはり新一の判断は間違っていなかったのです。

それから、蘭は志保を伴って歩美の家へと向かいました。
蘭の背中で眠っている娘の顔を見るなり、歩美の母親は、

「ど、どうして…」

と真っ青になって震え出します。
それはそうでしょう、歩美は数日前に森の中に置き去りにしてきたはずなのですから。

「歩美ちゃんは今、体力的にとても弱っているけれど、何の病気もない健康な体だそうです。それは、ここにいる志保さんが証明してくれました。今後の詳しい対処法は志保さんから聞いて下さい」
「ま、まさか、そんな…!!でも、どうしてあなたがそんなことを…。だってあそこは…」

死者の怨霊が蠢く禁忌の森なのに…と言われるよりも先に、蘭はその言葉に被せるように、一方的にこう宣言しました。

「わたしは、ひとりで迷子になっている歩美ちゃんを見つけたので、ここまで連れて帰ってきたんです。ただそれだけです」

蘭はそれ以上何も言わず、何も追及しません。
ああ、彼女は私達が歩美を捨てたことを知っている。
それなのに、何も言わずに歩美を私達の元へ返してくれようとしてくれているんだと、蘭が全く責めないことがかえって良心にこたえたらしく、歩美の母親は力無く泣き崩れました。
その様子を見て、いくら黒死病とはいえ、幼い娘を捨てることには相当な葛藤があったに違いない、やっぱり歩美ちゃんは、ちゃんと親から愛されていたんだなあと、蘭は心からホッとしました。
そんな彼女が、歩美の母親を責めることなどするはずもありませんでした。

「よかったですね、歩美ちゃんが無事で…。それじゃ志保さん、後のことお願いね」

穏やかな微笑みとともにそう言い残して、蘭はようやく、小五郎と英理の待つ自宅への帰路についたのです。

「ただいまぁ…」

いつものように工房の皆に声をかけ、蘭が自宅へ入ろうとすると、それまで機織りの音で騒々しかったのがしんと静まりかえり、次の瞬間、

「ら、蘭お嬢さん!ご無事だったんですか!?」

と、驚いた徒弟達が駆け寄ってきました。婿養子云々の話は別にしても、彼らは皆、心優しい蘭のことが大好きだったので、ここ数日は彼女の身を案じて生きた心地がしなかったのです。我も我もと蘭のそばに集まってきて、中には涙ぐんでいる者もいるようでした。

「オイ!すぐに親方とおかみさんに知らせろ!蘭お嬢さんのお帰りだ!!」

そんな呼び声が聞こえるや否や、10軒先にも届いているのではないかというほどの小五郎の叫び声が響き渡りました。

「なにーぃ!?蘭が帰ってきただとーーー!!」

その後、光の速さでご本人の登場。

「蘭〜〜!!このバカ娘が!!テメェどこほっつき歩いてやがった!?」

言葉は厳しいですが、小五郎は滝のような涙を流しています。

「心配かけてごめんね、お父さん…」

そんな感動の親子の再会の傍らでは、

「親方もさっきまでずっと寝込んでて、“オレの命はもう長くないかもしれん…。せめて死ぬ前に一目だけでも蘭に会いたい…”とか何とか言ってたわりには、ものすごい大声だな」
「とても明日死ぬ人間とは思えないね」
「仮病だろ、あんなの。死ぬとか言って大騒ぎしてれば、噂を聞きつけたお嬢さんが心配して帰ってきてくれると思っていたんだよ」
「はー、なるほどねえ…」

徒弟達の身も蓋もない会話が交わされていました。

「蘭!あなた無事だったのね!?」

少し遅れて母の英理もその場に駆けつけます。

「全くもう!あなたのことだから、きっと何か理由があるんでしょうけど…それにしたってあんまりだわ!親に何の連絡もなしに、今までどこで何してたの!?」

英理というと、母親の厳しさからか、どうやらお説教の方向に向かっていく気配で、

「ま、まあ英理。蘭もたった今帰ったばかりだし、そういう話は後からでいいじゃねえか。久しぶりの我が家だ、まずは風呂にでも入れて、ゆっくりさせてやろうや」

と何故か小五郎が慌ててとりなしていました。

「全く…結局あなたは蘭に甘いんだから…」

怒ったふりをしながらも、蘭に人心地つけてあげたいという気持ちは小五郎と同じです。

「じゃあ、今日の夕食は蘭のために私が張りきって腕を振るうわ!ねえ蘭、何が食べたい?」

と英理は腕捲りなどしてみせると、周囲の空気が一瞬にして凍りつきました。

「ちょ、ちょっと待て!何もこんなめでてえ時に、オメーがメシ作るこたぁねえだろ!?」
「あらあなた。それはどういう意味かしら?」
「それでなくても、蘭がいねえ間ずっとオメーの料理続きだったせいで、みんな胃の具合が…。い、いや、そうじゃなくて!オメーも代書人が忙しいのに、ここんとこずっとオレ達のメシの支度までさせちまったから、悪くてこれ以上頼めねえしよぉ!それに、せっかくだから久しぶりに蘭のメシが食いたいな〜、なーんて…」
(頑張れ、親方!)

背後から発せられる弟子達の哀願オーラに突き動かさせるように、最悪の事態を回避すべく奔走する小五郎でしたが、

「何言ってるの!蘭は帰ったばっかりで疲れてるのよ?いきなり夕食作りなんかさせられますか。とにかく、今日は私が作りますからね!」

と一蹴され、思わずその場に崩れ落ちていました…。

その後、当然のことですが、両親からどこへ行っていたのかを問われた蘭は、「分からない」と答えました。
米花の森に入ったことを言えば確実に怒られますし、何故そんな危険なことをしたのかと追及されるのはまず避けられません。
そしたら、歩美が黒死病と間違われて捨てられたことも言わなければならなくなり、歩美の両親の立場を悪くしてしまうと思ったのです。
いや、本当の理由はそれだけではありませんでした。

「森でオレに会ったことは誰にも言うな」

新一にかたく口止めされていたので、本当のことが言えなかったのです。

「分からないったって…9日間もだぞ?その間、自分がどこで何をしてたか、全く記憶にねえってのか?」

訝しがる小五郎に、

「だって、本当に覚えてないんだもの。気がついたら、歩美ちゃんと一緒に町に戻ってきていたの」

と、蘭はただそう答えるばかりでした。
かなり無理があるとは自分でも分かっていましたが、変に凝った嘘をつくよりも、最初から記憶がないことにしてしまっていた方が、後の言い訳が楽だと考えたのです。

しかし、その一方で、「一生忘れない」と誓ったはずの新一のことを、いくら彼との約束を守るためとはいえ、「記憶にない」などと言っている自分が情けなくてたまらず、蘭は心の中で新一に謝っていました。

(ごめんね、新一。新一の存在を否定するようなこと言っちゃって。でも、本当のことは誰も言えないけど、わたしはあなたを忘れてなんかないからね…)

小五郎と英理は、そんな蘭の様子をみて、娘が何か隠しているらしいことに勘づきましたが、それも何か深い訳があってのことだろうと思い、

「そこまで何も覚えてねえなんざ、まるで米花の森の化け物みてぇな話だな。ま、オメーが無事で帰ってきたんだから、別に何でもいいんだが」

と、深くは追及しませんでした(尤も、本当のことを知ったら知ったで、小五郎なら別の意味で寝込んでしまいそうな話ではありますが)。
ともかく、そうして蘭は、まるで失踪騒動などなかったかのように元どおりの生活に戻ってゆきました。
徒弟達の食事を作り、工房の仕事を手伝い、週に1度の礼拝に通い…。

「−−−ねえ蘭?聞いてる?蘭ってば!」
「…あっ、ごめん。なあに園子?」
「もう!また聞いてなかったんだ」

今日も親友・園子と礼拝後のお喋りを楽しんでいた蘭でしたが、話の途中だというのに蘭がぼんやりしていて自分の話を聞いてくれていないと、園子は拗ねています。
けれど、何の理由もなしにそんなふうになる蘭ではないことは、園子が一番よく知っているので、

「でも蘭、あんた、このごろちょっと変じゃなーい?ぼんやり物思いに耽ってることが多いみたいだけど。何か気がかりなことでもあるの?」

と、心配そうに尋ねてくるのでした。
気がかりなこと…それはただひとつ、新一のことだけです。
今頃新一はどうしているだろう。
体を壊したりはしていないか、獣に襲われてはいないか?そういうことを考え始めると、蘭は心配で心配で今すぐ米花の森へ飛んでいきたいくらいですが、それは土台無理な話。
それに、いくら親友の園子とはいえ、新一のことを他言するわけにはいきません。

「ううん、そんなことないよ。ごめんね園子、心配かけちゃって。でも本当に何でもないの」
そう言って笑ってみせる蘭に、
「ホントー?怪しいなあ〜?」

と、園子はからかいました。

「だって蘭、まるで恋煩いしてるみたいなんだもん。遠くをみつめて溜め息なんか吐いちゃってさあ!」
「恋って…そ、そんなことないわよ!」

蘭は慌てて否定しますが、園子は気にも留めずに続けました。

「しかも蘭がぼんやりするようになったのって、このまえ行方不明になって帰ってきてからだよね?蘭は覚えてないって言うけど、本当はあの時、秘密の恋人と手に手をとって駆け落ちしようとしてたんじゃないかって、園子様は睨んでるの!でも、優しい蘭は結局家を捨てられなくて、“ごめんなさい。わたしやっぱり、あなたと一緒にはいられない…”なんて言って、涙ながらに最後の逢瀬を重ねてたんでしょ!どお?そろそろ本当のこと吐いちゃいなさいよ、奥さん!」

彼女はこのところずっとこんな調子です。
彼女なりに、最近元気がない蘭を励ましてくれようとしてくれているのは分かりますが、微妙に現実とリンクしたような園子の妄想力には、蘭も恐れ入ってしまいました。

(そもそも別れを切り出したのは新一の方だし。っていうか、別にわたしは新一の恋人でも何でもないし。…やだっ!だいたい、あれは別に逢瀬なんかじゃ…!)

とか何とか自分に言い訳しつつ、思わずボッと顔が真っ赤になる蘭に、

「あっれ〜?なんでそこで赤くなるの?何を思い出したの?白状しなさいよ、ら〜ん〜?」

とにじり寄る園子でした。

「そ、そんなんじゃないわよ!それより、園子。さっきは何の話してたんだっけ?」

蘭が巧みに話題を逸らすと、

「ああ。この町の領主様が変わるかもしれないって話よ」

園子はさっと真面目な顔になりました。
彼女は名家の娘だけあって、政治的な情報には結構聡いところがあり、蘭も、聞いていていつも勉強になるな、と思っています。こういったところは、園子と新一は似ているかもしれません。

「でも、どうして領主様が変わるの?」
「それがね。実はここんとこの黒死病やら何やらで、この町は思うような税収があげられてないらしいのよ。だけど、うちの領主様って浪費家じゃない?ロクな税収もないのに贅ばっかり尽くすから、借財が嵩んじゃって領地を維持できないかもしれないんだって。それで今、主従関係を結んでる諸侯に泣きついてる最中らしいわ。その諸侯の判断にもよるけど、まあ近いうちに今の領主様は御役御免になるでしょうね」

ちなみに、この会話の中で、領主には「様」がついているのに諸侯が呼び捨てなのは、一般市民が諸侯と接する機会など皆無に等しいため、かえって“偉い人”という実感がわかきにくいからです。

「そうなんだ。たしかに今の領主様は、ちゃんとした施策もしてくれないのに税金ばっかり取り立てるよね。お父さんの工房も、それでいつも大変なの」

妙に現実的な感想を述べつつ、蘭は園子とのお喋りを終え、家路につきました。




To be continued…….






〈7〉に戻る。  〈9〉に続く。