First Love,Eternal Love



byドミ様



(8)夏の誘惑



梅雨明けしたばかりの陽射しの強さに、蘭は目を細めた。
広い工藤邸の庭では、蝉がやかましく鳴いている。

大学はもう夏休みに入っていた。
高校も間もなく夏休みになる。

尤も新一は夏休みになったからと言って、暇になる事は無いだろう。
警察に事件で呼び出されていない時でも、体の鍛練をしたり、インターネットで情報を集めたり、専門書を読んだりして、日々探偵としての修行を怠らない。

新一はもともと部活でサッカーをやっていた。
超高校級とまで言われ、プロサッカーチームからの引きもあり、1年でいきなりレギュラーだったのに、探偵活動が忙しくなり、両立できないからとやめてしまったのだ。

「サッカーは、探偵に必要な運動神経をつけるためにやっていただけだよ」

そう言って新一は笑う。
無論、好きでなかったら、そこまでやれる筈がない。
ただ、彼にとっての1番がサッカーでなく探偵であって、きっぱり選び取れる程に潔いというだけの事だ。

蘭は新一のことを思いながら、汗だくになってプール掃除をしていた。

工藤邸には、何故か小さいながらもプールまである。
超売れっ子の推理小説家である工藤優作が一代で築き上げた財産。
新一は金や物に不自由せずに育ち、膨大な専門書や推理小説も、ふんだんに読めるという、贅沢この上ない環境で育った。

新一はそれを呼吸するようにごく自然に受け止め、驕るでもなく、怠けるでもなく、探偵の修行に必要なもの以外はさして贅沢をするでもなく、過ごしている。

優作たちも、新一にふんだんにお金を与えながら、ちゃんと信頼している風である。

『知れば知るほど、何だかすごい家族よね』

デッキブラシでプールをゴシゴシこすりながら、蘭は考えていた。

掃除が終わって、水をはる。
これで一夏、新一が涼んだり、鍛錬したり、寛いだりするのに使えるはずだ。

しかしプール掃除は重労働で、普段空手で体を鍛えている筈の蘭でも、ぐったりと疲れてしまった。
シャワーで汗を流した後、リビングのソファーに横になり、開け放した窓からの風を受けながら、いつしかうとうとと眠り込んでしまっていた。


目が覚めたとき、いつの間にか帰ってきて着替えを済ませた新一が、少し離れた所から困ったように蘭を見下ろしていた。
日は大分傾いている。

「あ!お帰りなさい!・・・御免なさい、すぐ御飯の支度をするから」

蘭はそう言って慌てて体を起こす。

「いや、飯はまだいいけどよ・・・」

新一は蘭の向かい側に座り、立ち上がりかけた蘭に座るよう促す。

「昼寝するならするで構わねーけどよ、自分の部屋があんだろ」
「ごめんなさい・・・」
「蘭さんさー、意味わかってねーだろ。言っとくけど、俺は寝てたことを言ってるんじゃねーんだからな。こ・こ・で・は・寝るなって言ってんだ。俺が困る」
「・・・どうして?」
「どうしても。訳はお願いだから訊かねーでくれよ。とにかく寝るときは自室!いいな?」
「うん」

蘭は不得要領な顔をして頷く。



  ☆☆☆



2階の自室に引き上げた新一は、1人悶々としていた。
つくづく考えが甘かったと思う。
ひとつ屋根の下に、好きな女と一緒に暮らすというのが、どういう事なのか判っていなかった。

蘭はその手の事には鈍感で、新一がそれらしい事を何度もほのめかしたというのに、全く新一の気持ちには気付かない。
園子にだって、簡単に見抜かれてしまったと言うのに。
そして蘭は無自覚のまま無防備な姿をさらしてくる。

どんな事があっても守りたい、大切にしたい相手。
けれど今日家に帰ってきたとき、ソファーで眠る蘭の姿を見てどうしようもない衝動にかられかけ、他ならぬ自分自身が蘭を傷つけてしまいかねない事に気付く。

「せめて、警戒心を持ってくれればな・・・」

けれど、純粋な蘭は、そういった男の衝動など理解できないのだろう。

「よく今まで無事だったよな。女子校だったためもあるか」

最初の出会いの日。

自分が流されそうになりながら、必死で流される人を助けようとしている少女を見かけ、思わず駆け寄り、手助けをした。
何とか岸辺に助け上げ、改めてその少女の姿を見、息を呑む。
まだあどけなさが残るが綺麗に整った顔立ち、白く透き通った肌、大きな黒曜石の瞳、長い睫毛、桜色の唇・・・一瞬で魅了されていた。
そして、助けようとしていた相手が全く通りすがりの人であったことに、心底驚いた。

父親・母親共に有名人であるため、下心をもって近付く人間に嫌と言う程出会い、さんざん、人の醜い面を見せつけられてきた新一は、小学校5年生にして妙にさめてしまっていた。
しかし、何の見返りも求めず、ためらわずに人を助けに飛び出した少女の、本当にけがれない心を知り、

「世の中にはこんな人もいるんだ」

そう思った。

少女の外見以上に美しい魂を知った――その瞬間が恋におちた時だったと想う。
何としても守りたい、と思った。

川原で近付いて来たあの男たち――醜い欲望で少女を汚そうとする相手に、すさまじい怒りを覚えた。
自分自身がまだ子供で、、少女を守りきるだけの力を持っていないことが、悔しくてたまらなかった。

それなのに――もう他に何も見えなくなるくらい、少女に捕らわれていたのに、初めての恋に自覚が遅れた。

両親と共にロサンゼルスに行ってしまってから、日毎夜毎に少女の幻に苦しめられ、ようやく自分の気持ちに気付く。
遠く離れてしまって、会う事ができないと思うと、辛くてたまらなかった。

綺麗な少女だった。この先もっと綺麗になるだろう。
自分が遠くにいる間に、誰かが攫って行ってしまうかも知れない。
あるいは傷つけられてしまうかも知れない。
そう思うと、居ても立ってもいられなかった。

一刻も早く日本に帰りたかった。

高校は日本の高校に行きたい――そう両親を説得して、やっと日本に帰ってきた。

すぐに蘭の姿を見に行った。
自分の想像以上に美しくなった姿に胸が騒ぎ、男の影がないことに心底ほっとした。

尤も、男がいたとしても、絶対に奪い取るつもりではあったが。
時折遠くから見詰める事はあっても、なかなか出会いのきっかけも掴めないままに、1年が過ぎた。

それがこういった形で再会する事になるとは――。

幸せな毎日ではあるが、最近では、同時にかなり辛い思いも味わわなければならない。

新一は溜め息をついて頭を振った。



  ☆☆☆



夕食が終わって、リビングでくつろぐ一時。

「ねえ、私もあのプールで泳いで良い?」

蘭はコーヒーを注ぎながら、そう新一に問いかける。

「ん?まあ、俺一人で使うのも勿体ねーしよ、別に構わねーけど」
「やった!普通のプールって、夏休みは混んでるんだもん。でもすごいよね、プールまであるなんて」
「母さんの水着姿を、父さんが他所の男に見せたくなかったらしいぜ」
「・・・結婚して何年たっても、本当に仲の良いご夫婦よね」
「それが当たり前だったからな。夫婦ってのはそんなもんだとずっと思ってたのに、意外と世間ではそうじゃないらしい事を知ったときは、なんてゆうか、カルチャーショックだったぜ」
「ご両親があんまりラブラブで、新一さん、寂しくなかった?」
「そんな風に思った事は無かったな。あれであいつらは、俺を大切にしてくれてるし、結構放任だったけど、ちゃんと見てくれているのは判ってたし。俺も妙に早くから親離れしてた様な気がするな」

それに、11歳の時にはもう、親よりも大切な存在が出来てしまったから―――。
その言葉は、新一の胸の内だけで紡がれる。

そして新一は、この時もうっかりしていた。
蘭と2人きりのプールが、どんなにとんでもない事なのか、全く気付いてなかったのだ。



  ☆☆☆



「この状況は、とってもやベー」

プールサイドで、デッキチェアに腰掛けながら、新一は頭を抱えて呟く。
帝丹高校の終業式終了後、帰宅した新一を待ちかねたように蘭にプールに誘われ、そして今――。

蘭のスタイルが良いのは判っていたが、至ってシンプルなワンピースタイプの水着に体のラインが露になって、新一は必死になって理性をかき集めなければならなかった。

見詰めていたいが、見たらやばい。

そんな新一の苦悩も知らず、蘭が呼ぶ。

「新一さんも泳ごうよ。水が気持ちいいよ〜」

溜め息をついて立ち上がったとき、新一は蘭の異変に気付いた。
水の中でもがいている。
おそらく足がつって溺れかけているのだ。
新一は考えるより早く水に飛び込み、蘭を捕まえ、プールサイドに引き上げた。

水を飲んでむせる蘭が落ち着くまで、背中をさする。
ようやく落ち着いた蘭が、顔を上げる。

「ごめんなさい・・・ありがとう」
「いや、別にいいよ。けど、家庭用の小さなプールだからって、油断は禁物だからな」

そして目が合った途端に、2人は固まる。

新一が蘭を抱きかかえた格好で、触れ合う素肌、すぐ側にある顔・・・。

触れ合った部分が、異様に熱い。
お互いに目をそらせない。

新一が顔を寄せて、掠れた声で囁く。

「らん・・・」

蘭は目を閉じた。

ゆっくりと2人の唇が重なった。







蘭は1人リビングのソファーでぼんやりとしていた。

あの後すぐ、2人はぱっと離れ、何となく気恥ずかしく気まずいまま、言葉を交わす事も無く、それぞれにプールから引き上げて行った。

そして新一は、事件で警察から呼ばれ、出かけて行った。
蘭はそっと指で自分の唇に触れてみる。
奪ったのでも奪われたのでもない、ごく自然に重ねられた唇。

蘭のファーストキス。

甘やかな幸福感は、しかし苦味を伴っている。

『あの人には、好きな人がいるのに・・・男の人って、好きな人以外とでも、こういう事ができちゃうのかな・・・』

トロピカルランドに行ったあの日以来考えないようにしていた、新一の好きな人のこと。

『お付き合いしている訳では無さそうだし、新一さんの片思い?じゃあ、私は・・・』

ひょっとして、好きな人の身代わりに口付けられたのかも、と思う。
でも、あの人の傍に居られるのなら、例え身代わりでも、欲望のはけ口でも、構わない。

蘭はそこまで思い詰めていた。



遅くなっても新一をちゃんと迎えたくて、蘭はリビングで待っていたが、段々どうしようもなく睡魔が襲ってくる。

『寝るときは自室!』

そう言った新一の言葉が頭を過ぎったが、すでに体は動かず、蘭はそのまま眠りに落ちて行った。



  ☆☆☆



蘭が目を覚ますと、すぐ目の前に新一の顔があった。

「新一さん?」
「・・・忠告を無視したおめーが悪いんだからな」

新一の目が、今までとは全く違う。
いつもの優しさは無く、暗い炎を宿した、底光りする目――。

男の目だ、と感じ、怖くなる。

ふいに新一がのしかかるように倒れこんできて、強い力で蘭を抱きすくめた。
そのまま唇が重ねられる。

「ん、んんっ」

激しく長い口付けに、蘭は息が止まりそうになる。

新一は、蘭の唇を貪った後、首筋から胸元へと唇を這わせた。
鎖骨のあたりを強く吸い上げられる。

「あっ!」

思わず声があがる。
鈍い蘭でも、新一が何をしようとしているか予測がつき、体は強張り小刻みに震え始めた。
いやな訳ではない、嫌悪感は全くない。

けれど、怖かった。

しかし新一は、ふいに蘭を突き放すようにして離れると、背を向けて部屋の反対側まで走って行った。

壁を拳でドンと叩く。

「新一さん?」

蘭は驚いて身を起こし、ソファーから立ち上がる。

「来るな!」

新一の叫び声に、蘭の動きが止まる。

「俺に近寄るな!今の俺は何すっかわかんねーぞ!」

こちらを振り向いた新一の目は、どこか傷ついたような光を湛えていた。
壁を叩いた拳からは血が滲んでおり、蘭は息を呑む。

「蘭さんは、探偵の俺を信用してるって言ったけど!俺だって、普通の男子高校生に過ぎねーんだよ!普段は抑えてっけど、そういった欲望は持ってるものなんだっ!」

新一は目を伏せて息をつき、今度は抑えた声で言葉を継いだ。

「わりぃ。俺が修行不足なのは判ってんだけどさ。その気がねーんなら、頼むから、おれの前で無防備な姿をさらしたりしないでくれるか?こっちの理性にも、限度ってもんがあんだからさ」

新一はそれきり目をそらし、こちらを見ようとはしない。
蘭は何と言ったら良いのか判らず、思わず口をついて出た言葉は――。

「ごめんなさい」
「蘭さんが謝ることじゃねーって」
「でも・・・」
「頼むから、今夜はもう俺に構わねーでくれよ」

蘭は、しばらく佇んでいたが、やがてしおしおと自室へ引き上げて行った。

そして眠れぬ夜を過ごす・・・。







喫茶店で、蘭と園子は向かい合わせに座っていた。

「で、蘭。一体どうしたって言うのよ」

園子が問うが、蘭の答はない。
蘭は、泣くのを堪えながら両手を握り締めて俯いている。

あの後、新一は明らかに蘭を避けていた。
家に居るときは自室に篭っている事が多く、食事も一緒に取ろうとはしない。
蘭はどうしたら良いか判らなかった。
それで、園子に相談に乗ってもらおうと呼び出したのだった。
なかなか口を開けない蘭だったが、やがてポツリポツリと話し出す。

園子は暫く黙って聞いていた。



「蘭。わたしさあ、基本的にはあんたの味方だけど、今回は工藤くんに同情するわね」

園子の言葉に蘭は顔を上げる。

「男の前で無防備に寝姿をさらすなんて、はっきり言って、襲われても文句は言えないよ?彼が途中で思い止まったのは、よっぽど理性が強いか、それだけ蘭の事が大切か、としか考えられないわね」
「わたしが大切って、そんな事ないと思う。だってあの人には、好きな人が居るんだもん」

蘭の目から堪え切れない涙が溢れて零れ落ちた。
蘭が辛いのは、新一に襲われかけたからではない。
新一が蘭を避けている事、他の女性に心奪われている事、それがこんなに辛いのだ。

「好きな人がいるって、工藤くんがそう言ったの?」

園子が首を傾げながら訊いてくる。

「うん。その人に会いに日本に帰って来たんだって、そう言ったもの・・・」
「相手がどんな人か、聞かなかった?」
「えっとね・・・年が2つ上で、綺麗で可愛くて、家事が得意で、腕っ節は強いけど優しくて、泣き虫で、他人の事でも自分の事のように心配して泣いてしまうお人好し・・・」

新一が言った言葉は、一言一句覚えている。
園子は目を丸くしていたかと思うと、テーブルに突っ伏した。
その肩が小刻みに震えているのに気付いて、蘭はむっとする。

「何で笑うのよ!人が真剣に・・・」
「・・・これが笑わずにいられますか。ああもう、あんた最高だわ。もうほんとに、わたし工藤くんに同情する!」
「園子、訳判んないよ!」

園子は笑いを収めると、真面目な顔をして蘭の目を見詰めながら言う。

「蘭。今わたしが何を言ったところで、あんたは意固地になってきっとそれを受け入れられないと思う。蘭も結構頑固だからね。でもね、あんたがもうちょっと自分自身と工藤くんに対して素直になったら、ちゃんと答が、真実が見つかると思うよ」
「え?」

園子は、蘭の胸を指差して言った。

「蘭、あんた自分の気持ちをちゃんと言ってないでしょう」
「だ、だって」
「1人でイジイジしてたって、勇気を出して前に進まなければ、何も始まらないわよ。蘭は本当に、工藤くんが他の人と付き合うようになったって、構わないと言うの?」
「それは・・・」
「今の状態、蘭は辛いと言うけれど、ただ遠くから見てるだけの方が良かったとでも言うの?」
「・・・ううん。何があっても、あの人の傍にいる方が、ずっと良い」
「蘭、頑張って。蘭が幸せになれるのなら、わたしにできる事なら何でもするから」





(9)につづく

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(8)の後書対談

「新一くん、今回は暴走しかけたわね・・・でもよく、途中で思いとどまったわね」
「で、園子、今回はおめーと対談かよ。蘭はどうしたんだ」
「ちょっと落ち込んじゃってて、出て来れないみたい。ところでこの世界では、わたしは『鈴木さん』じゃないの?」
「おめーの方だって、俺の事、『工藤くん』だろ?ああ、やっぱ違和感あるよなあ」
「でも、蘭が鈍いのはいずこも一緒ね。新一くんが蘭に対して不器用なのも」
「うっせーな。・・・それにしても、いくら工藤邸が豪邸でも、原作では流石にプールまでは無かったよな」
「プールのエピソードは、ドミさんのオリジナル妄想の時からあって、どうしても外せなかったらしいわよ」
「その割りには大した話じゃないじゃん」
「蘭のファーストキスを奪っといて、よく言うわね」
「・・・ところで、次回はどうなるんだ?」
「新一くん、ドミさんから何も聞いてないの?はあ、無理ないか。次回は榊田譲が再登場。蘭の身に危険が迫る。新一くんが知ったら、とても平静ではいられないお話とだけ、言っておくわ」


(7)「誤解」に戻る。  (9)「そして始まりの日」に続く。