銀盤の恋人たち



byドミ



(10)グランプリシリーズ開幕



新一と蘭は、高校3年になった。

園子、青子、和葉、快斗、平次、皆もそれぞれに、特に問題なく、高校3年に進級。
そして、新一達より1学年上の、志保は東都大学に、京極真は杯戸大学に、それぞれ進学していた。


春から初夏、夏、初秋と、スケートリンクに立てる時間が少ない間は、基礎体力作りやバレエのレッスンが行われる。
新一と蘭は、阿笠博士の紹介で、近くの高村バレエスタジオに通っていた。

「バレエって、傍目には優雅に見えるけど、結構体力要るんだなあ」
「それは、フィギュアスケートだって同じでしょ?」
「そう言われれば、確かにそうなのかも」

バレエのレッスンをしながら、新一と蘭はそういう会話を交わす。

「工藤君、君、結構体が柔らかいね。本気でバレエをやってみる気ないか?」

スタジオ代表者の夫であるバレリーノが、新一に声をかけて来た。

バレエもフィギュアスケートも、女子は幼い頃からやっていないと、ものにならないが。
男子は、高校生位から始めても、一流になる事が可能だ。
加えて、日本のバレエ界では、男子の不足が結構深刻だったりする。

「いや、オレは・・・バレエを本格的にやる気はありません」
「そっか。残念だね」

高村は、本気で心から残念そうな表情と声で言った。


レッスンが終わり、バレエスタジオを出た2人は、阿笠スケートリンクに向かった。
肩を並べて歩きながら、蘭は、新一との身長差が開いたなあと考えていた。


「ねえ新一。バレエ、結構真剣に口説かれてるじゃない?考えてみたら?」
「冗談じゃねえ。オレは、バレエがフィギュアスケートに役立つって言われたから、仕方なくやってるだけだ」

蘭の軽口に、新一は憮然として答えた。

「バレエは、嫌い?」
「別に。嫌いってこた、ねえけど。まあ、極めようとは、思わねえな」
「そうだね。新一は、スケートが好きなんだもんね」
「え・・・?」

蘭の問いに、新一は戸惑ったような顔をした。

「好きとか好きじゃないとか、んなんじゃねえよ・・・オレがスケートをやっているのは・・・」

新一が蘭を真剣な目で見て、言った。

「えっ?」

蘭が、首をかしげて新一を見る。
新一は、頭をひと振りして、言った。

「オレが、何でスケートをやってるかなんて、んなの、どうでも良いだろ?さ、阿笠スケートリンクに行くぞ」
「う、うん・・・」

蘭は、急ぎ足になった新一の後ろを、慌てて追いかけた。


そして、蘭自身、先ほど蘭が新一に向って言った言葉を、考えていた。

『わたしは、スケートが好きなんだろうか?・・・好きだとは、思う。でも、わたしは・・・わたしがスケートをやっている理由は・・・』

蘭がスケートをやっているのは、新一との約束の為だった。
新一は、蘭との約束を、覚えてくれていたけれど。
でも、まさか、その為だけに、スケートを続けていたなんて思えない。

『新一は、パイオニアになりたいって、だから、日本では不毛地帯だったペアに取り組みたいって、すっごく前向きだよね。わたしには、そういうのが全然ない。なのに、良いのかな?わたしなんかが新一のパートナーで、良いのかな?』


このところずっと、忙しさに紛れて忘れかけていた負の想念が、再び蘭の胸に巣食い始めていた。



   ☆☆☆



秋になり、スケートのシーズンが始まる。

それに先立ち、新一も蘭も、帝丹大学への進学を推薦で決めていた。

「その気になれば、東都大学にも行けるのに」

と教師には残念がられたけれど、今の新一には、正直、受験に時間と労力を割いている暇はなかった。
大阪の平次と和葉も、江古田の快斗と青子、そして探と紅子も、それぞれに、推薦で既に進学を決めていた。
全員、かなり良い大学を狙える実力はあるけれども、ウィンタースポーツの日本代表として、オリンピックに行ける実力がある為に、そちらを選んだのだった。



「ふう。あなた達、短期間でまあよく、仕上がって来たじゃない?」

コーチであるフサエから、2人を褒める言葉が出て来た。
新一と蘭は、昨年課題だった、「ソロジャンプ(ペアの2人がそれぞれにジャンプする事)」「ソロスピン(ペアの2人がそれぞれにスピンする事)」のタイミングのずれも、かなり克服して来ていた。
世界の強豪に交じっても、戦えるレベルになって来ているかもしれないと、期待がかかり始めている。

そして同時に。
2人の周りを、マスコミがうろつくようになって来た。
日本では珍しいペアで、しかもかなり実力があり、デビューしていきなり国際選手権で12位、今後国際大会でも活躍できるのではという期待が、かかっている。

期待のペアに、好意的な報道が多かったけれども、プレッシャーになる一面もあり。
そして、ペアという事で、別方面での憶測が混じる事もあって、最近では少し辟易する場合も多くなって来た。
正直、大事な時期である今、雑音を入れて欲しくない。


『ったく。憶測通りなら、オレは苦労しねえっての』

新一は、心の中で独りごちた。
そもそも、一体何で、こういう事になってしまったのだろうと、考える。

元はと言えば、ただ、蘭と再び会う為に、始めたスケートで。
蘭に会えれば、それ以上、スケートに拘らなくて良かった筈なのに。
しかし、蘭と待望の再会を果たした後、何故か、「本格的にフィギュアスケートにまい進する」事になってしまった。

それは。

『あ、そうか。奨学金・・・』

蘭が、スケートをやる為に、鈴木財閥から多額の奨学金を受けていて。
その返済猶予の為には、国際大会で何らかの結果を出さなければならないのだ。


ただ。
最近新一は、自分の今の立場が、奨学金の事は置いておいても、「蘭と上手く行けば良い」という自分本位の考えだけでは済まなくなっているのを、感じている。

そもそも新一は、最初に「将来を嘱望されていたスピードスケートを捨てた」経歴があり、フィギュアで結果を出さないと許されない雰囲気があった。
加えて今は、ペアのパイオニアとして注目を集めているし、新一と蘭の活躍いかんでは、来季以降、国際大会でのペアの出場枠が増える可能性だってある。
新一の最初の思惑など、とっくに飛び越えて、2人は今、世間の注目を浴びてしまっているのだ。


とにかく、結果を出せるよう最大限の努力を払わねばならないだろう。
やれるだけの事をやるしかない。


2人は、安定した実力を身に着けて来てはいたが。
国際大会で上位入賞する為には、「+α」の何がしかが、絶対に必要である。
そして、その「+α」が足りない事を、新一と蘭も、フサエコーチも、分かっているのであった。

2人が挑戦しているのは、「トリプルアクセルでのソロジャンプ」と、「クワドラブルスロージャンプ」であった。
しかし、蘭のトリプルアクセル成功率はまだ非常に低く、スロージャンプもいま一つ回転が不足する事が多く、今季は、間に合わないだろうと思われた。

「来年には、何とかなるかもしれないけど。出来る事なら、オリンピックに間に合わせたい」

次のオリンピックとなると、4年後になってしまう。
その時には、そもそも2人がペアでスケートが出来る状態なのかどうかすら、分からないのだ。


そして。

グランプリシリーズが、始まった。



   ☆☆☆



昨年、世界選手権で12位に入った新一と蘭のペアは、グランプリシリーズの2つの大会に、招待選手として出場資格を持っている。
勿論、上位に入賞した男子シングルの京極真、女子シングルの中森青子・阿笠志保・遠山和葉、アイスダンスの白馬探小泉紅子カップルも、そうだ。
真と志保・和葉・探紅子の3人1カップルは、シード権を持つため、自動的にくじ引きで出場大会が割り振られていた。

他の選手も、それぞれに出場大会が割り振られる為、自分の好きな大会に自由に出場出来る訳ではない。
ただ、自国の大会では、推薦枠がある。

今年は、カナダ大会から始まり、中国・アメリカ・日本・ロシア・フランスの順番で、大会がある。

そして、今季のグランプリファイナルは、日本だ。

志保は、アメリカとフランスの大会に。
和葉は、中国とロシアに。
真は、カナダと日本に。
探紅子のカップルは、中国とフランスに。
それぞれ、くじ引きで参加大会が定められた。

新一と蘭は、日本のペアである為に、日本の大会に推薦があり、もうひとつは、アメリカに出場が決まった。
青子は、同じく推薦で日本、もうひとつは中国になった。

昨年、世界選手権に出場出来なかった内田麻美は、推薦を受けて日本の大会に出場する。


「何か、みんな、バラバラの所に行かなくちゃいけないのね。心細いなあ」
「仕方ねえさ。強豪同士がぶつからないよう、ばらけさせる為のシードだからな。それでもまだ、オレ達は有利な地元で出場出来る権利があったが、志保達は大変だろう」
「うん、そうだね。しかも、志保さん達はシングルだから、余計に心細いよね。わたしはいつも新一が一緒なんだから、弱音はいてちゃ駄目だよね」

いつも、一緒に。
スケートを離れて、プライベートでも、ずっと一緒にいたい。

新一は、喉元から出かかりそうになった言葉を、かろうじて呑み込んだ。




そして、グランプリ初戦カナダの大会で、日本の男子シングル京極真が、金メダルに輝いたという吉報がもたらされた。
次いで、中国では。
和葉と青子で金銀に入賞。探・紅子のカップルは、金メダル。

シードで強豪がバラけているとは言え、日本勢が上位独占という、幸先良いグランプリシリーズの幕開けに、日本中が沸いた。


「青子ちゃんは、まだ妖精オーラは完全に戻ってねえみたいだけど、技術はすげえものがあるからな」
「そうだね・・・良かった・・・」
「オレ達も、負けちゃいられねえぞ」
「うん!」

新一と蘭が参加するアメリカの大会は、志保も参加する為、双方のコーチである阿笠フサエと、志保の父親である阿笠博士も同行しての、アメリカ行きとなった。



   ☆☆☆



「皆様、こんにちは。アナウンサーの高木です」
「こんにちは、佐藤です。今季グランプリシリーズも3戦目、ゲストに新出さんをお迎えし、アメリカからの中継で、お送りします」
「早速ですが、新出さん、今回の見どころは?」
「それは何と言っても、日本勢の活躍でしょう。女子シングルの阿笠志保さんは、昨年世界選手権3位で、勿論今回のメダル候補ですし。ペアの工藤君毛利さんも、メキメキ実力をつけて来ていますから、充分メダルが期待出来ます」
「新出さんも、ペアをやりたい気持ちがおありだったと伺いましたが」
「そうですねえ。実力ある女子選手は沢山いましたが、ペアをやるとなると・・・難しいですね。やはり、色々な意味で、相性の良い相手じゃないと、どうしようもないですから」
「その意味でも、工藤毛利ペアに期待は出来ますか?」
「はい。見ていると、毛利選手は工藤選手に全幅の信頼を置いているようですし、非常に期待が持てると思います」
「この大会での強敵は・・・女子シングルでは、何と言っても、昨シーズン世界選手権の覇者、サブリナ選手ですね。それと地元アメリカのクリス・ヴィンヤード選手。ペアではやはり、地元アメリカのキャメル・サンテミリオン組と、フロックコート・ハミルトン組でしょう」
「4日間にわたって行われる大会は、まず、女子シングルのショートプログラムから始まります」

「さて、いよいよ、我らが阿笠志保選手の登場です!彼女の持ち味は、指先まで神経が通う、丁寧な安定した演技」
「曲は、ロミオとジュリエット。まずは、トリプルルッツトリプルループの、コンビネーションジャンプ!綺麗に決まりました!」
「着地も安定してますし、回転も充分のようです。これは高得点が期待できるでしょう!」

今日、ペアの出番はない為、新一と蘭は、女子シングルの試合を食い入るように見詰めていた。

「よし、調子いいぞ」
「すごい、綺麗・・・」

志保はほぼノーミスで、殆ど完璧と言って良い演技だった。
それまでのトップに躍り出る。

「けど、この後、強豪が続くな・・・」
「クリス・ヴィンヤードさんは、昨年怪我で世界選手権には出場しなかったけど、かなりの実力者よね」
「ああ。そして、昨年の世界選手権覇者・サブリナ選手だ」

クリス・ヴィンヤードは、金髪の美しい女性である。
20代後半になるが、世界選手権表彰台の常連であった。
しかし、昨シーズンは怪我の為、出場出来なかったのである。


「次は、地元アメリカのヴィンヤード選手。会場が大きく湧きます!」
「黒ずくめの衣装を身にまとっています。金髪がより映えますねえ」
「曲は、R.シュトラウスの『サロメ』、妖艶な雰囲気をまとうヴィンヤード選手にはピッタリです」
「最初のジャンプは、トリプルルッツトリプルトゥループダブルループ。高さはありませんが綺麗にまとめて来ました」
「次は、ヴィンヤード選手お得意のコンビネーションスピンです。Y字スピンからピールマンスピン、レイバックスピン、ドーナッツスピン・・・変幻自在に次々と軸足ポーズを変えて繰り出されるスピンの妙は、右に出る者がいません」
「・・・ノーミスで、今、演技を終えました!得点出ます!阿笠選手を上回って来ました!現時点でトップ!」
「会場が沸きます!いやあ、魅せてくれましたねえ」
「続いて登場するのは、昨シーズン世界選手権覇者の、サブリナ選手です!」

画面にちらりと映った志保は、唇を少し噛んでいる。
クリス・ヴィンヤードは、昨シーズン怪我で欠場していた為、今回のグランプリではシード選手になっておらず、地元アメリカの推薦枠で出場して来たのだ。
なまじ、シードを外れていた為、志保は同時にアメリカ大会に出場する羽目になってしまったのである。
新一と蘭は、志保の悔しさを感じながら、ただ、見ている事しかできない。


「サブリナ選手は、淡いピンクの可愛らしい衣装での登場です」
「曲目は、レ・シルフィード。衣装も曲も、いやあ、本当に妖精という雰囲気ですねえ」


本当に。
重力が彼女にだけ働いていないかのような空気が、生まれる。

ふわりと。
風に乗って浮かぶように、アンは舞った。

「トリプルアクセルトリプルループのコンビネーションジャンプを、難なく決めます!」
「まさしく、妖精!魅せてくれますねえ」
「いくつものジャンプとコンビネーションジャンプを跳んでも、軽々とやっているように見える・・・凄いですねえ。本当は、ものすごい筋力が必要で、かなり疲れている筈なのですが・・・」
「スパイラルステップシークエンス・・・綺麗ですねえ」
「スピンもステップも、高レベル。そして、最後のジャンプになります、・・・と、これは!?」
「クワドラブル・・・ループ!?」
「観客総立ち!4回転ジャンプ成功のようです!」


新一と蘭は、テレビ画面を見ながら、目を見張った。
4回転ジャンプが跳べるのは、男子選手でも、決して多くはない。
女子選手も、公式試合で過去に跳んだ例はあるが、ごく僅か。

アン・サブリナは、今迄にもクワドラブルを跳んだ実績はある。
昨年の世界選手権でも、フリーの演技でクワドラブルを決めた。

「だけど、ループとなったら、史上初だぞ」
「えっ!?」
「練習している選手はいる筈だが、今迄の公式戦での成功例は、トゥループとサルコウだけだからな。オレはどれも無理だし」
「・・・・・・!」

昨年、アンのクワドラブルは、トゥループだった。
それに、失敗したら大きく響くショートプログラムでは使っていなかった。
アン・サブリナ選手は、どこまで高みへ行こうと言うのだろう?

そして、得点が出る。
アン・サブリナのクワドラブルループは、回転不足と見られる事もなく、史上初の快挙を成し遂げたようだ。
ショートプログラムでは、今迄に誰も見た事のない高得点が、叩きだされた。


「明日・・・志保がこれを引っ繰り返して、1位になるのは、かなり厳しいだろうな」

それこそ、アンに余程の何かが起きない限りは、まず逆転不可能と思われた。

「蘭。んな顔、すんなって。まだ、グランプリシリーズの第3戦。シーズン序盤なんだからな」
「う、うん・・・」

しかし、この怪物とも言えるような少女に、果たして太刀打ちできるのだろうか?
世界の強豪を相手に試合をする。
その事が、すごく恐ろしく感じてしまった、蘭であった。



   ☆☆☆


次の日。
結局、女子シングルは、フリー演技でもアン・サブリナが神がかりの演技を見せた。
昨日ショートプログラムで成功させたクワドラブルループを、フリーでも成功させる。

クリス・ヴィンヤードも、安定した高レベルの演技で、2位を維持し。

志保は、むしろショートプログラム4位5位の選手の追い上げに脅えながら、何とか、3位表彰台に上った。


そして、ペアのショートプログラム演技が始まる。
控室で新一は、蒼くなってガタガタ震えている蘭を、気遣わしげに見た。


「蘭!?」
「し、新一・・・ごめん・・・怖くて・・・たまらない・・・」

昨シーズンは、「ダメで当たり前」精神だったので、むしろ、気楽に滑れた部分がある。
しかし今回は、「いい成績が取れるかも」という、日本の期待を背負っての、大会出場だ。

新一とて、緊張しない訳がない。
しかし、蘭にどうしてあげたら良いものか、分からなかった。


新一は思わず、蘭を抱き締めていた。


「し、新一・・・?」
「大丈夫。オメーがこけたら、またオレが受け止めてやっからよ」

蘭は目を見開いた。
幼い頃、新一に引っ張られて天然のリンクに入った時の事を、思い出す。

そうだ、蘭は、この腕に受け止めてもらう為に、今迄滑って来たのだった。
そう思うと、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
蘭の震えが落ち着くと、新一はそっと、抱き締めていた腕を離した。

「ありがとう。もう、大丈夫だから」

そう言って、蘭はニッコリ笑った。

「前の時と同じで。駄目元で行こうぜ」
「うん!」


そして、2人はリンクに向かって歩き出した。


今回はまだ、トリプルアクセルソロジャンプも、クワドラブルスロージャンプも、出来ない。
けれど、持てる力の全てを出せば、ここでの表彰台は、決して夢ではない。


「日本期待の、工藤毛利ペアです!」

2人は、大歓声の中、リンクに出た。


今回の中継は、JHKアナウンサーの高木渉・佐藤美和子、そして解説は、かつてフィギュアスケート男子シングル日本代表だった、新出智明である。

「まずは、トリプルルッツのソロジャンプ!」
「昨年このペアの課題だった、タイミングとポーズですが・・・今のは一体感があり、綺麗に決まりましたね」
「はい。着実に力をつけて来てます。これは期待が持てそうですよ」
「演技と演技の繋がりも、非常にスムーズです」
「新出さん。工藤選手は、決して小柄な方ではありませんが、フィギュアスケートでペアをやるには、毛利選手との体格差がさほどありませんよねえ」
「そうですね。ペアの場合、大柄なたくましい男性と小柄で華奢な女性の組み合わせで、身長差も20cm以上はあるのが普通ですが、工藤選手は身長174cm、毛利選手は160cm、差は14cmしかありません。しかし、工藤選手は、それを補って余りある強靭なバネとスピードを持っています。上手くすれば、逆に非常にダイナミックに見せる事も、可能です」
「流れるような動きで、次のソロスピン。何と、タイミングを揃えるのが困難な、フライングシットスピンから入ります!」
「そこから立ち上がってY字スピン・・・更に、レイバックスピン・・・ポーズ・回転のタイミングとも、見違えるように一体感がありますねえ」
「ここまで、ノーミスです。加点が大きい大技はありませんが、ひとつひとつの技を丁寧に着実に決めています」
「ショートプログラムでは、大技より着実に決める方が大事ですからね」
「それにしても、ペアを組んで2年足らず、昨年とは見違えるほどの一体感・・・それこそ、かなりレッスンを重ねて来た事でしょう」
「今、フィニッシュです!」

2人は、大きな拍手に包まれて、会場を引き上げた。

「得点、出ます!まずまずといったところですね」
「出来の割に、評価が低かったような気もしますが・・・」
「加点要素が殆どなかったからですね。けれど、ほぼノーミスで、減点も殆どありません。明日は期待出来ますよ」


「新一君、蘭ちゃん!」
「フサエコーチ!」
「今日の出来は、ほぼ完璧よ!素晴らしいわ!」
「ありがとうございます」
「ふふふ。明日、2人の本領が発揮されたら、きっと皆の度肝を抜くと思うわ」


新一と蘭のペアは、ショートプログラムでの結果は5位だった。
しかし、トップとの得点差がそれほど大きい訳ではなく、フリーの演技次第では、充分ひっくり返す事が可能だった。
フリーの演技では、ショートプログラムではミスをしない為に控えていた大技が、待っている。
しかし、それが評価されるのは、ミスをしなかった場合のみ。

蘭は再び、体が震えるのを感じていた。



その夜。
新一と蘭は、阿笠夫妻と志保と共に、食事を取った。


「悔しかったけど、今の私の実力では、あれが精一杯だったから、仕方がないわ」

志保は唇を噛みしめた。

「でも、このままでは終わらない。次の大会では・・・」

志保が闘志を表に出したのを、初めて目にした蘭は、思わず目を見張る。

「確かに、クワドラブルは素晴らしい技だけど。それが出来なくても、勝つ事は無理ではないわ。あなたの持ち味を最大限生かして、魅せるスケートを作っていく事ね」

フサエが、我が娘に声をかける。

「グランプリ緒戦より、オリンピックで結果を残せる方が、ずっと素晴らしい事だし」
「でも、オリンピックは魔物。いつもの実力を発揮出来ずに潰れて行く人が、いかに多いか」
「それを言うなら、それこそ、アン・サブリナだって、クリス・ヴィンヤードだって、そうなのよ」

志保は、ハッとして母親であるフサエを見る。

「誰がオリンピックの魔物を手なずけるのか。それは、誰にも分からない事よ」
「ええ。そうだわね」


オリンピックの魔物。
蘭にとっては、何だか遠い事のように思える。
けれど、昨シーズン世界選手権に出場した実績がある蘭にとっては、現実のものである可能性が高い。


「蘭さん。明日も気楽に行ければ、きっと良い結果が出ると思うわよ」

志保がそう言って微笑んだ。

「おい、志保。蘭ばっかりで、オレには何も言ってくれねえのか?」
「あら。工藤君は心臓に毛が生えているから、大丈夫でしょ」
「ちぇ」

単なる軽口の類で、新一は別に真剣に志保の言葉が欲しかった訳ではなさそうだ。

蘭は、新一と志保のやり取りを見ながら、「確かに新一って強い」と、考えていた。
新一が弱音を吐くところも、泣き言を言うところも、見た事がない。
いつもポジティブ、いつも前向き。

『いっつも後ろ向きのわたしとは、対照的だよね・・・』

蘭が俯いていると、突然、額を小突かれた。

「いたっ!何すんのよ!」

蘭は、小突いた新一を睨む。

「オメーまた、ろくでもねえ事考えてんだろ」
「えっ?」
「自信持てっての。このオレが選んだパートナーなんだからよ」
「・・・自惚れちゃって」
「っせー。良くも悪くも、それがオレだ」

新一の顔を見ていると、蘭は、すぐに悩んでしまう自分がバカバカしくなった。

新一とて、落ち込まない筈がない。
悩まない筈もない。
けれど、すぐに気持ちを切り替えて前を向く。
それが、工藤新一だ。

自信過剰で嫌味な俺様男と、傍目には見えるかもしれないが。
新一の場合、陰で人一倍、自信の裏付けとなる努力をしている事を、蘭は知っている。


「・・・仲が良いわね」
「ホント。熱いわね」
「若いってのは、いいもんじゃのう」

気がつけば、阿笠親子から冷やかし半分の目で見られていた2人だった。

「そ、そりゃ、パートナーだもん!仲は良くなきゃ、ねえ、新一?」
「あ、ああ。ペアは呼吸が合うのが大事だしよ、なあ、蘭?」

慌てて言い訳する2人。
その言い訳までも呼吸が合っている事に気付いた阿笠親子は、心中苦笑していた。



   ☆☆☆



一夜開けて。
フリーの演技が行われるその日、ふたりは早目にホテルを出た。

「それにしても、アメリカの大会だってのに、あのペアがいねえのが、ちと寂しいよな」
「あのペアって・・・ジョディさん達の事?」
「ああ」
「うん、そうだね。何か妙に憎めない2人だよね」

ジョディ・サンテミリオンと、アンドレ・キャメルのペアは、アメリカの選手であるが、昨シーズン世界選手権2位につけている為、シード選手として、抽選で強制的にカナダとロシアの大会出場が割り振られている。
カナダでは勿論、堂々の金メダルを獲得していた。

「でも、ジョディさん達はファイナル出場確定だから、わたし達も頑張れば、ファイナルで会えるよ」
「・・・へえ」
「何?」
「いや、蘭がそういう台詞はくとは思わなくてさ」
「もう!だって、わたしは新一のペアパートナーだもん。いつまでも、後ろ向きではいられないでしょ?」

蘭の笑顔に、新一は眩しそうに目を細めた。
今日は、良い演技が出来そうだなと思う。


そこに、突然、女性の声がかかった。


「はーい、ライバルさん達(注:英語だが便宜上日本語表記)」
「えっ?あなたは?」

蘭は反射的に英語で答える。

「・・・あなたは、ショートプログラム2位の・・・!」

昨年、世界選手権でも出会った、アメリカのペア、ヒース・フロックコートとイベリス・ハミルトン。
そのペアが、今回の大会に参加している。
声をかけて来たのは、その、女性の方、イベリスだったのだ。

「去年よりずっと力をつけているみたいだけど。私達だって去年のままじゃないわ、負けないわよ」
「そりゃ、どうも」

新一は相手にしようとも思わない様子でさっさと歩きだしたが、蘭は振り返ってイベリスを見た。
昨年出会った時は、ライバルとすら思ってくれていなかったイベリスが、今回は強敵と認識してくれているのだ。
その事実に、心躍る。

「・・・ヤツらも、ショートプログラムでは手の内を見せてない」
「え?」
「多分、今日の一番の強敵だろうな」
「・・・・・・」

世界選手権では、彼らも表彰台にかすりもしなかったけれど、それでも、新一と蘭のペアより上位の8位につけたのだった。

「まあ、どんな相手がいても、関係ねえ。オレ達は、オレ達のスケーティングをやるだけだ!」
「うん!」


そして、フリーの演技が始まった。
観客席には、新一の両親である工藤優作と有希子、そして阿笠博士と志保の姿が見える。


「日本期待の星、工藤毛利ペア。今回は充分に、表彰台が期待出来ます!」
「ソロジャンプは・・・コンビネーションジャンプ!今のは、トリプルダブルですか?」
「いや・・・トリプルサルコウ・トリプルトゥループ・・・トリプルトリプルですよ。シングルの選手でも、そうそう簡単ではありません」
「それを、ペアで?」
「ええ。ペアの場合、相手とタイミングや角度など合わせないといけないから、その困難さはシングルの比ではない。昨シーズンに比べ、ものすごい成長ぶりですね」
「技と技を連続させ、難度をあげた大技にするのも、2人の得意技。ソロスピンからそのままデススパイラルに移るのは、すでにお馴染みです!」
「デススパイラルから・・・工藤選手が毛利選手を引き起こしたと思うと、そのままリフトへと移ります!」
「これは、女子選手が回転しながら男子選手の頭上に上がるという、かなり高難度の技!」
「しかも、ワンハンド・・・工藤選手が片手で毛利選手を支えています!」
「先のデススパイラルと言い、このリフトと言い、工藤選手が大男でない分、むしろダイナミックに見えてしまいますね」
「ええ、そうです。それもこれも、工藤選手が見た目では想像出来ない強靭なバネを持っているからこそ、ですよ。勿論、毛利選手の方にも、尋常ではないバランス感覚の素晴らしさがありますね」
「トリプルツイスト!高い!」
「次はスロージャンプ・・・おお!トリプルアクセルスロージャンプです!」
「これは、成功例が少ない大技ですね!観客からもどよめきが起こります!」
「次から次へと繰り出される大技・・・しかも、ミスは殆どありません!」
「美しいポーズのスパイラルシークエンス・・・挙げる足の角度も、全く一緒です」
「いやあ、素晴らしいですねえ。昨シーズンの課題を克服して・・・これは、ひょっとするとひょっとしますよ」
「ええ・・・最後のペアスピンに入ります」
「これ!私、2人のこの技が好きなんですよ!」
「佐藤アナウンサー?」
「だって・・・お互いを見る目がすごく切なくて、胸がキュン!ってなりません?」
「・・・コホン。ええっと・・・」
「そう言えば、今まで気付きませんでしたが。確かに、このペアは、ペアスピンでどんなポーズを取っても、必ずお互いを見つめ合っていますねえ。佐藤さん、良い所に目を付けましたね」
「そうですか?良かった、新出さんにそう言って貰えて」
「両選手が意識してそうしているのかは分かりませんが。・・・フィニッシュです!」
「観客から惜しみない拍手が送られます!」
「これは、高得点が期待出来ますね」
「・・・得点、出ました!非常に高い!観客からも惜しみない拍手が送られます!」
「芸術点の方も、かなり高得点が出ました!」


得点表を、蘭は信じられない思いで見つめていた。
その後も、それぞれにかなりの演技をしたペアもあったが、新一と蘭のペアを上回る者はなく。

2人は、国際大会で初めての表彰台・・・それも、真ん中に上った。

「・・・これで。グランプリファイナル出場、確定だな」
「うん」
「オリンピック・・・行こうな」
「うん!」


蘭にとって、夢のような出来事だった。
けれど、これが2人にとって新たな試練の幕開けでもあったのだった。




(11)に続く


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銀盤の恋人たち(10)後書き


暑くなるって時期に、スケートのお話で、アイヤー!ですけど。
来年は冬のオリンピック、ですからねえ(遠い目)。
間にオリンピック二つを挟むなんて、一体、何年越しの連載だよ!と、自分に突っ込みを入れつつ。

今度こそは、冬のオリンピックが終わる前に、書き終わりますようにと、自分にネジを巻いています。
という事で、暑い時期に冬のお話で、ごめんなさい。


クリス・ヴィンヤードさんは、アメリカの女子選手と考えて急きょ出しただけなので、「姿形と名前だけ」あの人だって、思って下さい。
このお話の中では、その正体が実は・・・って事は、ありません。それに、新一君にも蘭ちゃんにも志保さんにも、絡ませる気はありません。

今更ながらグランプリシリーズを調べたりして、自分の無知〜ぶりに青くなったりしています。
間違いは多々あるかもしれませんが、もう、「現実離れしたフィクション」なんで、その積りでお読み下さいませ。

教材も兼ねて(?)、フィギュアスケート漫画を色々買ってしまったりしてるんですけど。(そして、読みふけって、なかなか筆が進まない(滝汗))
その中に、最近文庫本で出されている赤石路代先生の「ワン・モア・ジャンプ」ってのが、ありまして。
ああ、この漫画の時代は、年齢制限が今より緩かった(若年層がオリンピックに出られる)んだなあと、妙に感慨深かったです。
あの頃だったら、真央ちゃんも一足早くオリンピックに出られたのにね。

現実世界では、日本男子シングルも世界に通用する方が大勢になって来ていて、世界選手権でも3人枠になってるのに、代表がまこっち1人って有り得ないんですけど、他の選手を考えるのが面倒なので、ご容赦ください。
色々と現実離ればかりしているお話の中で、そこだけは何故か、現実より後退してしまってます。


(9)「宴のあと」に戻る。  (11)「グランプリシリーズ日本」に続く。