銀盤の恋人たち



byドミ



(7)Partner



ペアのフリー演技が、始まる。

『どういう結果になろうとも、悔いが残らない演技をしよう』

蘭は、大きく息を吸って息を整えた。
新一をちらりと見ると、新一は優しい眼差しで蘭を見詰めていた。
蘭はドキリとする。


『わたしはいつも、この眼差しに、守られている・・・』


ここが大舞台である事も、多くの観客達も、今は蘭の目に入らず。
ここにはただ、新一と2人だけ。

氷上で繰り広げる世界は、2人だけのものだ。


それぞれの位置に着く。
今回の2人の演技は、「背中あわせ」の立ち位置から、始まる。


   ☆☆☆


「さて、注目の若いペア、工藤毛利選手です!曲は、『迷宮のラヴァーズ』。スピードに乗って、まずはソロジャンプ!」
「完璧なトリプルルッツですが、それぞれのタイミングが合わないのが、このペアの課題ですね」
「はい・・・と、お。おおおっ!?」

会場が、大きくどよめいた。
新一が、蘭の体を上方に高く放りあげ、3回転して落ちて来た蘭を受け止めると、そのまま蘭の体を下に降ろさずに、左手で蘭の腰を支えて持ち上げたのである。
しかも、そのままではなく、今度は右手に蘭の体を移して、支える。

「た、高い!トリプルツイスト!そのまま連続して、ハンドトゥハンドのリフト!」
「これは、危険を伴う、非常に難度の高い技です!」

いきなり繰り出した大技に、会場のざわめきは治まらない。

「東京大会、東日本大会、いずれもここまでの技は出していません。これは、完全に全日本に照準を合わせて調整して来ましたね」
「ショートプログラムでは、規定の技を盛り込む事が必須ですが、それに失敗した場合、点数を大きく落としますから。フリー競技の方が、のびのびと演技出来る面は大いにあります」
「今の採点方式では、難度が高いものほど高得点を出せるシステムになっています。連続技にする事も、加点のチャンス。にしても、危険度もその分跳ね上がるのですが・・・とても、ペアを組んで日が浅い2人の演技とは、思えません」

新出が、手を組んでそこに顎を乗せて、言った。

「この2人。本当に、世界に通用する・・・世界でメダルを狙えるペアになるかも、知れませんよ」
「ええ。課題も多いようですけどね」
「その課題は、時間をかけてレッスンを重ねれば、何とかなるでしょう。ペアならではの、2人で組む技で、これだけ息がぴったり合っているのですから。お互いに触れていない時にタイミングが合わない、それは、これからいくらでも克服できる事です」
「何だか、あの2人を見ていると、そもそもペアに、ソロスピン(ペアの2人が別々にスピンする事)やソロジャンプ(ペアの2人が別々にジャンプする事)って必要なのかとすら、思えてしまいますよ」
「でもまあ、そういうルールの競技なのですから。シングルだろうとペアだろうと、誰しも得意なものと苦手なものがあるって事です」

新出は、リンクの上の2人をじっと見詰めた。

ペアの場合、シングルとは全く異なる問題がある。
羽賀設楽ペアの場合、叔父姪の仲という事で、問題になっていないが、工藤毛利ペアの場合、大きく問題になる可能性は高い。
早い話、「恋愛問題」である。
マスコミに、ある事ない事取り上げられると、それだけで2人を潰してしまいかねない。

2人はそれぞれ、タレントになってもおかしくない位に容姿が良いから、尚更にマスコミから追われる可能性が高いだろう。


新出は、2人の演技を見て、お互いが相手に恋情を抱いている事は、とっくに見抜いていた。
だからこそ、2人で組む技の息がピッタリと合っているのである。

『せっかく、彗星のように現れた日本期待の新生ペアだ。心ない中傷などで、潰されるような事になって欲しくはないものだ』


まだ、17歳同士の若い2人、これからどうなって行くのか、分からない。
ペアだから必ずしも、恋人や夫婦になる訳ではないが、恋愛問題でこじれると、せっかく結成されたペアの解消にもなりかねない。
解消に至らなくても、演技の質ががたりと落ちてしまう可能性はある。


「ソロスピンは、レイバックスピンから・・・おおっと、そのまま連続して、デススパイラルへ!」
「背中を反らせた毛利選手の腕をそのまま工藤選手が捉えて、氷上に壮大な輪を描きます!この連続技も、加点対象!」
「ペアならではの技の中でも、このデススパイラルが一番見栄えがする技ですね」
「その美しさに、会場から溜息が洩れます」

「フィニッシュ!2人で組んでのペアスピン!綺麗に決まりました!」


会場は大きく湧いた。
新一と蘭は、肩で息をしながら、会場の観客に向かい優雅にお辞儀をして、引き上げて行く。


「さあ。注目の得点、出ます!」
「技術点は、今まで日本のペアではなかった、高得点!が、芸術点はさほど伸びません」
「さすがに、ソロスピンやソロジャンプでタイミングがずれる弱点が、響きましたね。にしても、羽賀設楽ペアの過去実績以上の、高得点を、叩き出しました!」
「会場からは、拍手とブーイングが同時に起きています」
「ブーイングは、期待より点数が低いという事ででしょうが・・・まあ、彼らの演技には、まだまだ、弱点もありますから、仕方がないですよね、新出さん」
「ええ。でもまあ、気持ちは分かります。あのペアには、点数で出て来るものとは別の、観客を惹きつけて離さないプラスアルファの魅力が、ありますからね」



続いて、羽賀設楽ペアの演技が行われた。
こちらのペアは、全ての技に安定した力を持っている。

「まとまっていて、綺麗ですよね。ですが、何となく物足りないというか」
「いや、このペアも、以前にも増して力をつけてきてますよ。けれど、工藤毛利ペアの演技は、良くも悪くも、見た者に強烈な印象を与えますのでね。その後に演技をすると、どうしても・・・色褪せて見えるのは、仕方がないでしょう」
「既に、国際大会でも、少しずつ実績を認められつつあるペアです。息もピッタリと合っています」
「出来るなら、それこそ、両者を世界大会に出したい。が、今現在、日本でペアの代表として出られる枠は、たったひとつです」

ペアを結成して数年経つ、この2人のファンも、多い。
高い技術力と安定した歴史を持つペア。
しかし・・・新一と蘭の後に演技すると、色褪せて見えてしまった時点で、勝負はもう決まったも同然だった。


   ☆☆☆


表彰台のてっぺんに登った2人は、頬を紅潮させ。
蘭は、歓喜の涙を流していた。

『けれど・・・これからが、あの2人の試練の始まりだろうな・・・』

杞憂である事を祈りつつ、けれど現実に2人の前に広がる茨道が想像出来て、新出は溜息をついた。
上手く育てば、伝説のペアになれる可能性を持っているこの2人には、プレッシャーに負けず頑張って欲しいと、心から思う。

ペアをやりたいという気持ちを持ちながら、そういう相手を探せなかった・・・否、スケートに無縁の女性・安本ひかるを愛した時点で、ペアを断念した新出は、妙にこの2人に肩入れする気持ちを抱いてしまったのである。


日本では長い事、選手登録や試合のエントリーすら、滅多になかった、ペア。
自分自身の叶わなかった夢を押し付ける訳ではないけれども、羽賀・設楽ペアに引き続き、彗星のように現れた若い2人に、頑張って欲しいと。
強く願わずにはいられなかった。


   ☆☆☆


新一は、蘭の肩をぽんぽんと叩いて、言った。

「ま、国際大会は、出られるだけ御の字だから。気楽に、行こうぜ」
「うん・・・」

本当に、夢のような話だと、蘭は思う。
まだ、結成して1年足らずで、日本一の肩書を手にした。
それは、日本のフィギュアスケートではペアが弱いという現状があるからだけれど、それでも、2人の力で手にしたタイトルだ。

鈴木朋子から、奨学金免除の条件として提示があった、「出来れば来期、国内で結果を出す」という、第一段階は、クリアー出来た。
これから先は、国際大会に出て、結果を出す事だ。
もっとも、そのハードルは、国内とは比べ物にならない位高いという事は、勿論重々承知の上だ。
けれど、新一と一緒なら、不可能ではないような気がしていた。



阿笠一家は、新一達を置いて、さっさと3人で帰ってしまった(あるいは、観光に出かけたか)。(3人は、阿笠博士のビートルに乗ってやって来たのだ。新一・蘭も含めると一行は5人になってしまい、ビートル1台に乗るには、窮屈だ。新一が言った「阿笠一家は親子水入らずで・・・」というのも、あながちデタラメでもなかったのである。)

和葉や青子とは、カルガリーの前の強化合宿での再会を約して、別れた。


   ☆☆☆


全日本が終わり、大した骨休みもないままに正月も冬休みも終わり。
登校した帝丹高校では、2人は既に英雄扱いになっていた。

称賛の、声声声。
そして・・・同時に、2人の仲を揶揄する言葉も、出始めていた。
その多くは、からかい交じりとは言え、好意的なものであったが。
中には、工藤新一に憧れていた女子生徒達の、チクチクとした苛めのようなものも、あったのである。

もっとも、蘭は忙しかったし、学校では常に新一か園子が一緒だったし。
取り敢えず蘭がその事で苦しめられる事は、なかった。


そんなある日、阿笠スケートクラブに向かった2人の前に、1人の女性が現れた。

「工藤君、お話があるの。ちょっと、良いかしら?」

声をかけて来たのは、内田麻美だった。

「内田先輩?」

新一の言葉に、蘭は目を見張った。
今は東都大に籍を置く内田麻美が、帝丹高校の出身である事は、園子を通じて知っていたが。
内田麻美と新一との間に、接点があるとは予想していなかったのだ。

「あ、あの・・・新一、内田先輩とお知り合いなの?」
「ああ、まあな」
「お互い、スケート部の所属だったからね。まあ、帝丹高校のスケート部は、スピードスケートが中心で、フィギュアをやる人は、実質、学校の部活動ではなく、それぞれの所属クラブで練習していたけれど」

何となく蘭には、2人の間にあるのが、それだけではなさそうな、何らかの空気を感じ取っていた。
けれど、蘭に、それを指摘したり問い詰めたり、出来る筈もない。

「今は、世界選手権に向けたレッスンで、忙しいでしょうから、お手間は取らせないわ」

新一が、困惑した表情で、蘭に問いかけるような眼差しを向けた。

「あ、あのっ!わたし、先に行ってるから」

後ろから、新一が蘭を呼び止める声が聞こえたが。
蘭は、それを振り切るようにして、駆けて行った。


駆けて駆けて。
阿笠スケートリンクへ、飛び込んだ。

「うっ・・・!」

そのまま、そこにうずくまる。
涙が溢れ、頬を伝った。

「蘭さん!?どうしたの!?」

志保の声がして、顔を上げた。
泣いている姿を見られてしまった事に、蘭は焦る。

「何も・・・何もないです」
「何もない筈、ないでしょう?工藤君は?一緒じゃないの?まさか彼が、何かしたの!?」

志保が真剣な眼差しで、屈み込んで声をかけて来た。

「え・・・!?ち、違う、違うの!」
「蘭さんをこんなに泣かせるなんて!」
「わ、わたしが勝手に泣いただけ、新一は何もしてないの!お願い、新一には何も言わないで!」

蘭は必死に志保に取りすがった。
志保が優しく蘭を立たせ、誰も居ない事務所に連れて行って、座らせ。
そして、紅茶を淹れて来た。


「紅茶には利尿作用があるから、少しだけね」

甘くしてある紅茶は、蘭の体の隅々まで温め、蘭は人心地ついた。


「蘭さん、何があったの?」
「内田先輩が・・・」
「・・・内田さん?ああ・・・内田麻美さん・・・あの人が?」
「ついさっき、新一に、話があるって・・・呼び止めて」
「・・・じゃあ、工藤君は、今、麻美さんと話をしている訳?また何で・・・練習だからって有無を言わせず工藤君を引っ張ってくれば良かったのに」
「わ、わたしは・・・だって・・・単に彼のペアのパートナーに、過ぎないから・・・」


胸が詰まるように苦しい。
蘭が新一の傍に居られるのは、スケートのパートナーとしてだけ。
何故だか蘭は、頑なにそう思い込んでいたので。
自分で自分を縛りつけているのに気付かず、不安と苦しみのスパイラルの中に居た。

志保は、顎に手を当てて、考え込むような仕草をした。


「単なるペアのパートナー、ねえ。そりゃまあ、それぞれに恋人は別にいて、友人同士でペアを組むって事は、ないでもないけど。でも、やっぱりペアって、志も身も心も寄り添い合う関係だから、イコール恋愛のパートナーになる可能性は、高いだろうと思うのよね」
「志保さん?」
「だからこそ、彼もわたしも、お互いにペアを組む気になれなかったのだし」

蘭が、目を見開いて、志保を見た。
志保は、幼馴染として新一の傍に居て、その気になった事はなかったのだろうか?
そして、新一も、この美しい人がいつも傍に居て、その気にはならなかったのだろうか?

「・・・彼と一緒に居て、居心地は悪くない。話も弾む。でも、わたしと彼では、何だか同性の友人同士みたいな感じでね、お互いに全く、一瞬たりとも、その気になった事は、なかったわ。わたしは少なくともそうだけど・・・彼も同じだと思うわよ。ま、これは、幼馴染の勘ってヤツだけどね」
「でも・・・お互いに、とても素敵な方達だと、思うのに・・・」
「あら。ありがと。でも、相性ってもんがあるからね。彼とわたしとでは、友人やお隣さんとしての相性は悪くないけど、男女としては合わない。それは何となく、早くに感じていた事なのよ」
「・・・そういうものなんでしょうか?」

志保は、ふっと柔らかく笑った。
女の蘭ですら、見惚れてしまうような美しさだ。
その志保に、新一が1度も心惹かれなかったなんて事は、あるのだろうか?

「幼馴染の恋愛って、案外少ないもんだと思うのよね。ずっと当たり前に傍に居ても、馴染む感情はあっても、恋愛にはならない。それを超えて、異性として惹かれるものがなきゃ」

そういうものなのだろうかと、蘭は思う。
蘭には、幼馴染と呼べる存在は、居なかったから。
志保の感覚は良く分からなかった。

「・・・志保さんには、スケートのペアになろうと思ったお相手は、いなかったんですか?」
「え・・・?」

志保が赤くなり、目に見えて動揺する。

「だって・・・スケート、やってる人じゃないのよ」

蘭は、目を見張った。
そしてようやく、志保には新一以外に、想う男性が居るのだという単純な事実に、得心が行った。


「志保さんは、新一と同じ帝丹高校ですよね?内田先輩の事、スケート以外でもご存知なのですか?」
「どうでも良いけど蘭さん、わたしに向かってその敬語は止めてくれる?歳はひとつしか、違わないんだし」
「は、はい・・・。って、志保さん、もしかして、志保さんの恋人って、歳下?」
「ま、まだ、恋人じゃないのよ。・・・それにしても蘭さん、あなた、自分の事にはニブニブのクセに、他人の事になると、妙に鋭いわね」

志保はまた、顔を赤くして言った。

「内田さんね。去年、帝丹を卒業した、スケートの全日本に優勝しながら同時に東都大合格を果たした、才媛だわね。でも、わたしも今年、東都大に合格して見せるわよ」

志保は、ふっと笑ってそう言った。

「・・・すごい。スケートで忙しくしながら、皆さん一体、どういう頭をしてるんですか?」
「わたしの事は、どうでも良くて。今は、内田さんの話よね。彼女、中学時代に工藤君に振られた事があるの」
「え!?ええっ!?」

新一が、あの才色兼備の内田麻美嬢を「振った」などと、にわかに信じ難くて、蘭は大声を上げてしまった。
そして、更に志保から話を聞こうとしているところへ。


「蘭。ここに居たのか。練習始めようぜ」

新一の声が掛かったので、飛びあがらんばかりに驚いた。

「ん?蘭、志保、どうした?」

新一が怪訝そうな顔で、2人を見詰める。

「工藤君。練習の前に、きちんとしておく事があるでしょう?一体、内田さんの話って、何だった訳?」
「そ、それは・・・志保には、関係ねーだろ?」

新一が、微妙に視線を逸らす。

「関係ないって事は、ないでしょ?だって、話の行方によっては、蘭さんとのペア活動に支障があるかも知れない。場合によっては、阿笠スケートクラブのオーナーの娘であるわたしにも、影響して来るかも知れないのだしね」

志保が鋭く新一に迫るが、新一は無視して背を向けようとした。

「まさか、また、愛の告白を受けたんじゃないでしょうね?」
「えっ!?」

新一が振り返って、驚愕の目で志保を見た。

「お、オメー、どうしてそれを!?」
「・・・何の因果か、偶然見てしまったのよ。今迄、誰にも喋ってないから、この事は、今、話を聞いた蘭さんしか、知らないけどね」

蘭は、胸を痛めながら、目を丸くして、事態を見守っていた。
新一が、空いている椅子に、どかりと座り込む。


「中学時代、全校生徒の憧れの的だった内田麻美さんに、言い寄って振られた後輩が居るって、噂になった事があったけれど。それは、内田さん本人が、悔し紛れに流したデマなんだろうなって事は、分かってたわ。
これは、本当に全く、偶然で、その積りで覗いたんじゃないから、責めるのは勘弁して欲しいんだけど。わたし、真実がそれと逆だって事を、偶然見て、知ってたのよね。内田さんが、工藤君に告白して。工藤君がそれをキッパリ断っていた場面、スケート部の部室で、見てしまったのよ」
「・・・ったく。オレの何を気に入ってくれたのかは知んねえけどよ。まあその、全校生徒の憧れの的だって事は、知ってたけど、オレはその・・・内田先輩に興味はなかったから」
「・・・あなたは、そんな事喋る人じゃないから、誰も気付かなかったけど、もし知られたら『何て勿体ない!』って非難の的だったでしょうね」
「うっせーよ。んな気持ちになれねえもんは、仕方ねえだろ?」
「で?今日は、再告白された訳?」
「いや・・・んなんじゃねーよ・・・」

新一の言葉が妙に歯切れが悪く、蘭は胸に重しが載っているような心地で、新一を見詰めた。

「じゃあ、何だった訳?」
「来期、ペアを組まないかって、言われた・・・」
「えええっ!?」

思わず蘭は大声を上げていた。

「勿論、迷わず断ったさ。オレには既にパートナーが居るから、ペアをやりてえなら、他を当たってくれと言ったよ。だから・・・この話はこれで終わり」
「お、終わりって・・・新一!」

蘭は、泣きそうになって立ち上がった。
新一が、蘭を見て、ふうと大きく息を吐く。
そして、目の光を和らげ、優しい声で言った。

「オレは・・・蘭とのペアに満足してるし、今まで築き上げて来たもんがあるし。この先も、蘭と一緒に、やって行きてえって思ってる。それは、偽らざるオレの気持ちで。内田先輩の申し出を断ったのは、決して、蘭に遠慮して断れなかった訳じゃ、ねえんだ」
「新一・・・」
「オメーがんな顔するなって。謙遜して控えめなのは、オメーの美徳だけどよ。オレはオメーと違って、遠慮なんかしねえ性質だから。オメーが責任を感じる事は、何もねえ」

蘭は、驚いて新一を見詰めた。
新一には、蘭がついついネガティブに物事を考え不安になってしまう事が、見抜かれてしまっていた。
さすがに、蘭の恋情にまで、気付いてはいないだろうけれども。

「まあ、工藤君が遠慮なんかしない性質なのは確かだし。それに、ハッキリ言って、内田さんは性格的にペア向きじゃないわ。あの人は、自分が女王になりたい人だからね」

志保が、そう言葉を継いだ。

「もしかしたら、今季の内田麻美女王の不調の原因は、昔内田さんを振った工藤君が、可愛い女性とペアを組んだからじゃ、ないの?」
「・・・だとしたら、あまりにもプロ意識がなさ過ぎだ。オレには関係ないね」

新一の言葉は、蘭の胸に別の意味で突き刺さった。

『そうね・・・新一と他の女性との事で、いちいちくよくよ思い悩んで、それが演技に影響したら・・・それこそ、新一の足を引っ張る事になる。私情を抑えて、頑張らなくちゃ』


まだまだ、不器用な2人の想いのすれ違いは、続きそうだった。


   ☆☆☆


話は、少しばかりさかのぼる。

蘭が、阿笠スケートクラブに向けて駆けて行った後、新一は溜息をついて、逡巡した後に、内田麻美に向き直った。

「では、寒空でも何ですし。そこの店でお茶でも飲みながら」

新一は、手近な喫茶店を指差して、言った。
蘭ともまだお茶した事がないのに、内田麻美と2人で喫茶店に入る事になるとはと、内心密かに溜息を吐く。

適当に入った喫茶店は、どうも「外れ」だったらしく、店内の掃除は行き届いていないし、頼んだコーヒーは不味かった。
蘭を誘うのに、この店は無しだなと、新一は考える。
内田麻美は、頼んだ紅茶を一口飲んで顔をしかめていたから、感想は大方、新一と似たようなものなのであろう。

話があると言った麻美が、なかなか口を開こうとしない。

「今季は、残念でしたね」

何を言ったものか迷った挙句、新一はそう切り出してみた。

「そうね・・・でも、私には、あれが限界なのだわ」

麻美の言いたい事が掴めず、新一は首を傾げる。

「毛利さんは、凄いわね。ちょっと前までは、全然パッとしなかったのに。今は伸び盛りと言うか、すごく華がある」
「・・・・・・」

麻美が何を言いたいのか全く見当がつかず、新一は何も言えずにコーヒーを喉に流し込んだ。

「工藤君。来期、私とペアを組んでみない?」

麻美の言葉に、新一は危うく、飲みかけのコーヒーを噴きそうになった。
辛うじてそれをこらえ、カップを置いて麻美を見た。
麻美は真剣な眼差しで、冗談でも何でもなさそうだった。

「オレは今、蘭とペアを組んでいます」
「分かっているわ。でも、考えてみて?彼女今、すごく伸び始めている。今からシングルに返り咲いたら、絶対に世界のトップレベルに行けると思う。でも、ペアでは、日本では結果を出せるでしょうけど、世界では難しいと思うのよ」
「・・・内田先輩こそ、今季は残念だったが、シングルでまだまだ先が期待されている女王様だ。ペアなんかに転向したら、それこそ勿体ないと、思いますが?」
「元、女王よ。皆、若いからこれからだって、言うけれど。私は自分で、もう限界だって、分かっているの。一所懸命、レッスンしたわ。だけど、もう、今迄以上のものを出す事は、出来ない。でも、分野を変えて挑戦したら、また、別の可能性があるかも知れないって・・・そう思って」

新一は、苦虫を噛み潰したような顔になった。
そもそも、新一自身が「ペアのフィギュアスケートをやりたい」という意思があった訳ではなく。
蘭と一緒に滑る為に、ペアをやろうと考えたのだから、他のパートナーなど、考えた事もないのだ。

断る意志は、ハッキリしているけれど。
さて、それをどう伝えたものか。

その時、ふと頭をよぎったのは、横溝コーチの言葉だった。

『毛利には、フィギュアスケートのシングルをやるのには必要不可欠とも言える、過剰な程の自己主張がない。毛利は、ペア向きかも知れない』

「内田先輩。蘭は、時期が来たから花開いたのではないです。ペアを始めたから、花開いた」
「えっ!?」

麻美が、目を見開いた。

「あいつは、シングル向きの性格じゃない。一緒にペアをやる事で、それがハッキリして来た。あいつは、ペアとしての演技で、オレに全幅の信頼を寄せてくれる。だからオレは、あいつを綺麗に花開かせる事も、出来る。
オレは・・・ペアの相手を探していて、たまたま、あいつを見つけたんじゃない。上手く育てれば綺麗に咲くだろう毛利蘭という花を見つけて、大きく花咲かせたいと思った。だから、あいつとペアを組もうと思った。他の誰でも、駄目なんです」

麻美が息を呑んだ。その顔から、一瞬血の気が引き。そして、再び赤味がさす。

「なるほどね。蘭という花を咲かせるのは、工藤君だって、自負心がある訳だ?」

新一は頷いた。
実際のところ、そこまで自信も確証もあった訳ではなく、自惚れている訳でもなかったけれど。
麻美にハッキリ断る為には、それを伝えるしかないと、思ったのだ。

「そう・・・じゃあ工藤君は、4年前に言ってた子の事は、もう、諦めるんだ?」
「えっ!?」

新一の頬に血が昇る。
4年前。新一が麻美から告白された時。

新一は、言ったのだった。

『オレ、小さい頃から気になってんのが、いるんスよ』

多分麻美には、それが誰であるのかは、いまだに分かっていないだろう。
新一と蘭とに幼い頃接点があったと知らない麻美は、蘭がまさしくその「気になってんの」であるとは、気付いていないのだ。

それが、蘭であるという事は、今は麻美に言わない方が良いだろうと、新一は判断する。


「・・・ペアの相手を選ぶって事と、恋愛相手を選ぶって事は、別ですよ。内田先輩だって、そうじゃないんですか?」

新一は、そう切り返す。
まさか、麻美が、いまだに新一に未練があるだろうと自惚れている訳ではない。

「そうね。そうかもね。でも、工藤君は、毛利さんを花開かせたいと言った。それって、毛利さんに恋愛感情があるって事じゃ、ないの?」
「それを、あなたに言う必要はないと、思いますが?」

新一は、テーブルの下で拳を握り締めながら、言った。
一刻も早く、この不毛な会話を終わりにして、蘭の元へ行きたかった。

新一とて、内田麻美がもう一度告白したのであれば、もっとハッキリキッパリと、答を返したであろうが。
何しろ、今回のはあくまで「ペアの申し込み」であったから。
どうしても、歯に衣着せた言い方になってしまったのである。


「そうね・・・ごめんなさい、世界選手権の前にお手間を取らせて。お2人の活躍を、祈っているわ。頑張ってね」

そして、2人は席を立った。

喫茶店から出ると、関東の冬には珍しく、空はどんよりとしている。
ちらちらと、雪も舞っていた。
前途に暗雲が立ち込めているような気がしてしまい、新一はそれを振り払うように頭を振った。




(8)に続く


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銀盤の恋人たち(7)後書き


内田麻美嬢が、新一君にペアを申し込むって事は、前から決めていたのですが、どうも流れが上手く行かず、何度も書き直し。
志保さんが、うまい具合に関わってくれました。

パラレルでは、志保さんが新一君に全くその気がないように設定出来るので、ある意味楽ちんです。
原作では、微妙な感じですが、それはあくまで、あの特殊状況ゆえだと思うので。
世界設定が違えば、たとえ幼馴染でも、新一君と志保さんの間には、そういう感情は生まれません。
でも、新一君と蘭ちゃんとだったら、どのように出会っても、きっとお互いに惹かれあう筈だと思います。

志保さんをもうちょっと、当て馬的に使う予定もあったのですが、それは不要だと感じたので、アッサリ撤回しました。

毎度毎度、蘭ちゃんの胸に刺がさす話で、本当に申し訳ない。
お互いに、今後、当て馬存在を出すか否かは、考え中。
何か、ここまで散々すれ違って苦しんでいるのに、敢えて当て馬を出すのもどうかという気も、しますし。

新出さんも、その意図があって出したんですが、さて、どうするかな?


で、次回はようやく、舞台がカルガリー。
あ、ドミはカルガリーなど、勿論行った事もないので、屋外風景は、適当な描写になると思われます。

あんまり長くしたくはないけど、やっぱり試合の場面を描くのは、必要ですよねえ。
国際大会だから、沢山沢山、有力選手が出る筈だけど、名前すら考えるのが大変なので、適当に端折るかと思います。
ま、でも、今季の新一君達は、世界の強豪たちの前に、敢え無く敗退・・・の予定です。

世界選手権の後、またもや春夏秋の季節行事は、すっ飛ばす事になりそうな気がしますが、本当にごめんなさい。
そこを描いていては、いつまで経っても終わりそうにない。

(6)「カルガリーへの道」に戻る。  (8)「世界の強豪達」に続く。