未来の思い出
byドミ
(2)5年の空白
蘭が目覚めた時。
暫く自分の置かれている状況が掴めなかった。
見知らぬ部屋の風景。
だが・・・知らないけれど、違和感がなかった。
ただ、ここがどこなのか、思い出せないし見当もつかない。
さっきから聞こえる物音は・・・どうやらシャワーの音で、ベッドの傍にあるドアの向こうは、シャワールームになっているようだ。
ホテルにしては、部屋の作りや置物に生活臭がある。
そして部屋のレイアウトも家具も小物類も、蘭の好み通りであった。
蘭は、大きなベッド(多分ダブルサイズ)に寝ていた。
頭が混乱したまま体を起こすと、蘭の体に掛かっていたケットがずり落ちた。
「え?きゃあああああああっ!」
蘭は、自分が一糸纏わぬ姿であるのに気付き、大きな悲鳴を上げていた。
途端に、ガチャリと音がしてドアが開き、全身濡れ鼠の男性が飛び出して来た。
「蘭!?どうしたっ!?」
その男性もまた、一糸纏わぬ姿。
蘭は生まれて初めてもろに男性のものを目にし・・・更に大きな悲鳴を上げる事となった。
自分の体に急いでケットを巻きつけ、枕を投げつけてその男性を部屋から追い出し、蘭は荒い息をついていた。
とにかく頭が混乱して、思考力がないに等しい。
蘭を大きく混乱させているのは、先程の男性。
声を聞いて、新一だと思った。
姿を見た時、新一だと思う気持ちと違うという判断とが相半ばして、ますます訳が分からなくなっていた。
顔立ちは、眼差しは、紛れもなく蘭の良く見知った新一だった。
しかしあの男性は、どう見ても二十歳前には見えなかったのである。
「どういう事?新一のお兄さんなんて聞いた事ないし・・・親戚の人か何か?でも・・・」
たとえ顔形がそっくりな親戚がいようとも、新一本人でないのなら絶対にそうとわかる筈だと、蘭は思う。
新一が分からないなんて事は、絶対にないと、蘭には自信があった。
けれど、さっきの男性は、新一より年嵩であり別人の筈なのに、どうしても、新一本人だという感覚が抜け切れない。
混乱した頭を一振りして顔を上げる。
すると蘭の目に、ベッド脇に置いてあるスタンドミラーが飛び込んで来た。
最初そこに写った像が信じられずに、目を見張る。
瞬きしても、それは変わらなかった。
蘭自身の姿が、今の高校生ではない、明らかに大人の女性になっていた。
思わず自分の顔を手で押さえると、鏡の中の像も同じ動きをする。
間違いなく、見た目通りの鏡のようだ。
部屋を見回すと、カレンダーが目に入った。
カレンダーの年は・・・蘭が知る時代より、五年先を指していた。
☆☆☆
蘭が服を身に着けて、階下にあるリビングに行くと、そこでは先程の男性がコーヒーを手に座っていた。
「あ、あの・・・」
蘭がおずおずと声を掛ける。
寝室を出た所で、ここが工藤邸に間違いない事が、既に確信出来ていた。
階下のリビングは、家具が多少変わっているものの、蘭が知っているそこと殆ど変わりなかった。
「新一・・・?」
色々状況を考えて見れば、先程の男性が紛れもなく新一その人である事はほぼ確信となっていた。
その男性――新一が答える。
「んだよ?オレ、今回は何もオメーを怒らせた心当たりねーんだけど」
そう言いながら新一は、自分の向かいの席を指差した。
そこには紅茶の入ったティーカップが置かれていた。
「一応淹れといたけど・・・多分冷めちまったな。淹れなおすか?」
「ううん、良いよ。頂くわ」
蘭はそう言って、新一の向かい側に腰掛けた。
そして紅茶に口をつける。
「美味しい・・・」
蘭は思わず呟いていた。
確かに、少し冷めかけではあったが、新一が蘭の為に、心を込めて淹れてくれた事が感じ取れる。
ここの空気は、蘭に馴染み、すごく居心地が良い。
暫く黙っていた蘭だったが、どうしても引っ掛かっていた事を確認したくて、言葉に出した。
「あ、あの・・・新一・・・昨夜はわたしと・・・その・・・」
「はあ?昨夜って・・・別に変わりない、いつも通りの夜だったろ?・・・あ。もしかしてオメー、昨夜は眠いって言ってたのにオレが三回も迫ったって事根に持ってんのか?オレだってあれでも抑えてたんだからな」
新一の答に、蘭は別の意味で頭痛を覚えた。
だが、今の2人は、そういう事が当たり前の仲であるらしい事は、確信する。
「あの・・・新一・・・。わたし達って、今、恋人同士なの?」
蘭が思い切って発した質問に、新一は目が点になっていた。
「はあ?恋人・・・って・・・今更何言ってんだ?オレ達は、んなんじゃねえだろ?」
「え・・・?」
蘭は自分の顔から血の気が引いて行くのを感じた。
「ま、まさか・・・じゃあ・・・セ、セフレとか・・・」
新一が立ち上がり、蘭の傍に素早く移動して、蘭が逃げる間もなく両腕を掴む。
「おい!冗談事じゃなさそうだな。蘭、オメーどうしたってんだ!?ここはオメーんちで、オレ達は夫婦だろ!?マジで分かんねえのかよ!?」
「え・・・夫婦・・・?」
「夫婦だったら恋人同士とは言わねえだろ?オレ達は高校卒業と同時に結婚したんじゃねえか」
新一の言葉が蘭の中で咀嚼出来るまでに、やや時間を要した。やがて意味を理解すると、蘭は安堵と共に、泣き出してしまったのだった。
☆☆☆
「記憶が、ない?」
「うん。だってわたし、ついさっきまで高校2年生で・・・新一の家で・・・新一が大事な話をしてくれる筈のところで・・・それがいきなり、場面が変わっちゃってるんだもん」
蘭がひとしきり泣きじゃくり、落ち着いた所で、新一は辛抱強く蘭の話を聞いてくれた。
「大事な話のところ・・・?」
新一は難しい顔をして考え込む。
「まるで、映画かドラマみたいに、本当にいきなりなんだもん。でも確か、記憶喪失って、失った記憶部分の時間経過を感じない事があるって聞いたような気がするの。あの時点からの記憶を失ったって解釈すれば、辻褄は合うなって・・・」
「ん〜、そうかも知んねえな。けどよ・・・昨夜は特にいつもと変わりなかったぜ。蘭が記憶を失う原因に心当たりは・・・」
「確かに何か大きなショックが引き金になる事が多いけど、そうとは限らないんでしょ?原因不明の事もあるって聞いた気がする」
「まあ、記憶喪失自体が症例少なくて良く分かってねえ部分も多いけどさ・・・待てよ・・・雷・・・」
「雷?」
「昨夜殆ど家を直撃だったな。まあオレんちは能力の高い避雷針があっから、直撃でもそれ程ダメージねえけどよ」
蘭は、記憶を失う前にも雷が工藤邸を直撃した事を思い起こしていた。
蘭は確かに雷が苦手だ。
今回の事は、雷が引き金になって起こった記憶喪失なのだろうか?
「高校2年生の時・・・って言ったよな?もしかして、蘭。その・・・コナンがいなくなって、オレが長い不在から帰って来た頃の事か?」
「え・・・う、うん・・・」
「じゃあ・・・もしかして、蘭から聞いてた、あの時の・・・そういえば、あれから5年経つんだよな・・・」
「え?新一、心当たりあるの?」
「あ、いや。大事な話って何だったのかを、ちょっと思い出しただけ」
「・・・」
蘭は、それを再度聞きたいような、でも聞く事が怖いような、気がしていた。
あの17歳の時(というか、蘭にとってはつい先ほど)、新一の気持ちが分からずに、蘭は切ない思いを抱えていた。
あれから5年の間に、二人はいつの間にか恋人同士になり、夫婦になっていた。
気持ちが通じ合い夫婦になっていた事は、素直に嬉しい。
けれど・・・。
『・・・どっちからか分からないけど、告白の時の事を覚えてないなんて・・・ファーストキスも、初体験も、肝心の場面は何もかも忘れてるなんて・・・!』
肝心の部分が、全て記憶から抜け落ちていると思うと、悲しくも悔しかった。
「ねえ、新一は、やっぱり探偵やってるよね?学校は?」
「帝丹大学法学部四回生で、今、事件現場に行く合間に卒論作成中だよ。蘭は同じ帝丹大の文学部で・・・やっぱ、卒論作成中」
「卒論・・・かあ」
五年の空白は大きい。
17歳の蘭は大学受験もまだだったのに、いきなりそれを飛び越えて卒論とは・・・大学時代に学んだ事も、友達との交流も全て空白である。
「記憶が戻れば良いけど・・・」
蘭はまだ、自分が22歳になっているという実感が持てない。
記憶喪失とは、いつ記憶が戻るものか、全く予測がつかないものなので、蘭はこの先の生活に、大きな不安を覚えずには居られなかった。
「まあ、色々考え込んでても仕方がねえ。取り敢えず・・・大学行こうぜ。蘭は真面目に単位取ってたから、今は卒論だけで授業はなかったから、遅刻って心配はねえからな」
そう言って新一が立ち上がった。
蘭は不安を抱えながらも、とにかく新一に付いて出かける事にした。
帝丹大学は、帝丹高校と近い場所にあり、高校生時代の蘭も何回か訪れた事がある。
だから見知らぬ場所という事はなかったが・・・三年半も通っていた場所だという実感は、蘭にはどうしても持てなかった。
まだ実社会に出るのが遠いと思っていたのに、いきなり、「もうすぐ社会人」である。
蘭は心細くてならなかった。
「蘭。心配しなくても、オレがついてっから」
新一がそう言って、ギュッと蘭の手を握ってくれた。
蘭が知る新一よりも大人の新一。
でも、蘭が誰より愛し信頼している相手である事には変わりがない。
まだ新一とは幼馴染であるという感覚が抜けない蘭は、戸惑いながら、おずおずと新一の手を握り返した。
『嬉しいんだけど・・・でも、新一がタナボタ式にわたしの旦那になっちゃってるって感じがして・・・何か複雑・・・』
もしも、新一が他の女性を選んでいたとか、他の女性と結婚していたという状況だったら、それは激しくショックだったろうと蘭は思う。
けれど、ずっと好きだった新一と想いが通じ合って結婚していたのだから、もっと喜んで良い筈なのに、何となく喜べない・・・というよりは、後ろめたい気持ちがしてしまう。
それはやはり、お互いに努力して積み上げてきたものが、全く蘭の心に残っていない所為だろうと、見当が付いていた。
『思い出したい。新一と過ごした日々。どういう風に、心通わせ合ったのか。でないときっと・・・私は不安で堪らなくなる』
どうやったら記憶が取り戻せるのか。
そもそも何故記憶喪失になったのか。
何も分からない。
けれど、失われた記憶の日々は、きっと大切な日々であったに違いないとの確信があった。
☆☆☆
「工藤。今日も夫婦でお出ましか。毎日一緒でよく飽きねえな」
蘭が新一と一緒に歩いていると、学友と思しき男性から声を掛けられた。
「うっせー。んなんじゃねえよ」
新一が半目になって言った。
同じようなやり取りは、(蘭の体感時間で)つい最近にもあったばかりだ。
一応2人の関係は「ただの幼馴染」だったけれど、クラスメート達からはいつも夫婦とからかわれていた。
恋人から夫婦になって。
大学生になって。
それでも2人は周囲とそんな関係のままなのだろうか。
蘭は、少しばかり気負いが取れたような気がした。
あの頃のままに、夫婦になれたのだと思うと、ホッとしたのである。
「蘭、お早う。卒論の進み具合はどう?私は結局まだ序論が出来てなくてさあ」
蘭の良く知った声が背後から掛かった。
「園子!」
声の主は蘭の親友である鈴木園子。
間違えようもない。
園子は五年の月日を経て、大人っぽく綺麗になっていた。
けれどその表情も活力に溢れた眼差しも、蘭の知るままである。
丁度その時、新一の携帯が鳴った。
新一がズボンの後ろポケットから取り出した携帯は、蘭の良く知っているもの。
『え?あれって・・・確かコナン君が使っているのと同じやつじゃない?それに、今は5年後だよね?多分携帯もあれから新機種たくさん出てる筈で、5年も前のものはレトロになっちゃってると思うけど・・・新一って機種交換してないの?』
携帯は、かなり使い古された、酷使したという感じがありありで、過ぎた歳月を別の意味で感じさせる。
「新一くんって、相変わらずあの携帯使ってんの?まあ彼、流行とか新しいものに興味なくて使えりゃ良いって人だけどさ」
「うん、そうだね・・・」
園子の囁きに、蘭は曖昧に頷いた。
確かに新一はそういう人ではある。
新製品も新一にとって便利であれば飛び付くが、特に興味がない機能については、見向きもしない。
「蘭。目暮警部からの要請が来たんで、行って来る。園子、わりぃけど、蘭を頼む」
そう言って新一は駆け出し、園子は首を傾げた。
「はあ?蘭を頼むって、何の話よ?」
園子がそう呟いた時は、新一は既にその場に居なかった。
「園子は、今日は何で大学に・・・?」
「はあ?教授に卒論のチェックして貰おうと日参してるの、蘭だって知ってるでしょ?」
そうなのかと蘭は思い・・・けれどどうしてもピンと来ない。
大学での学びは綺麗さっぱり白紙となっており、蘭は先行き不安になっていた。
「蘭、ちょっとカフェでお茶して行こうよ」
そう園子に誘われ、蘭は園子と共に学内のカフェテリアに行った。
学内とは言え、まあまあ洒落たカフェテリアで、値段は安いが、頼んだケーキやお茶の味もまずまずだった。
蘭は正直に感想を漏らそうとして思い留まる。
園子の様子からして、ここは蘭が園子といつも訪れたであろう場所だと想像出来たから。
「それにしても、蘭と旦那って、相変わらずねえ」
園子が半目になってそう言った。蘭は思わず反射的に口走る。
「んもう!だから旦那じゃないってば!」
蘭がそう叫んだ途端に、園子の目が丸くなり、暫くその場に沈黙が降りた。
蘭は、今の自分と新一とは夫婦であり、新一が正しく「旦那」である事を思い出して、ハッとなった。
園子が肩をすくめて両手を広げる。
「あんたも相変わらずねえ。結婚式から3年以上経つってのに、まあだ『夫婦』って呼ばれたら今みたいな反応するんだもん」
どうやら園子は違和感を感じなかったようだ。
「そ・・・そういう園子こそ、最近はどうなのよ・・・?」
蘭はそう言った後、ひょっとしてこの話題はまずかったかも知れないと思う。
蘭は当然のように京極真が園子の傍にいるものと思っていたのだが、5年の月日は長い。
その間に状況がどう変化したかも分からないのだ。
「あれ?真さんは今アメリカに居るって、蘭に話してなかったっけ?ったくもう、可愛い婚約者を日本に置いて、相変わらず修行の旅三昧よ」
『そっか、園子と京極さん、あのまま交際を続けて、無事婚約したんだ』
蘭はホッとした。
少し落ち着いて見れば、園子の左手薬指には、ちゃんとそれらしき指輪が光っていた。
ふと思いついて自分の左手薬指を見ると、プラチナらしい確かな存在感を示す指輪が嵌っていた。
今迄気が付かなかったという事は、意識する事がない位に当たり前に指輪があって、しっくりと馴染んでいたのだと蘭は思う。
そう言えば、新一の指にも同じ指輪が嵌っていたような気がする、と蘭は思った。
物思いにふけっていた蘭は、園子の言葉で目が点になった。
「新一くんってばさ、小さなガキんちょになっても蘭の傍にずっと居たわよね。その点だけはあやつに感心するし、蘭が羨ましいと思う」
園子はそう言って溜息を吐いたのである。
「新一が・・・?小さな子供になってもって・・・園子!?」
「はああ?蘭、アンタ今更何言ってんのよ!?」
蘭が混乱して発した言葉に、園子が怪訝そうな顔をして返した。
(3)に続く
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<後書き>
一応、「記憶喪失シリーズ」とか銘打って出したんですよね、この本。
22歳の蘭ちゃんだけど、すっぽり、5年間の記憶がない。
17歳のある時点から、いきなり記憶が飛んでいる。
実際にこういう事があったら、普通だったらきっと、混乱して簡単に落ち着かないでしょうけど。
カレンダーや鏡で状況を確認し、蘭ちゃんは「わたしは記憶喪失なのだろう」と、割合冷静に結論付けている。
それは、蘭ちゃんの強さでもあるんだけど。やっぱり、「新一君が傍にいてくれてるから、安心出来ている」という積りで、書いてるんですね。
まあ、そこを上手に描けなかったのが、未熟者です。
元のままだと、新一君の反応が(後で)辻褄合わなくなるんで、少し修正しました。
当時、本当に突貫工事で、イベント当日朝の仕上げだったんですよね。だからロクに見直し修正する間もなかった(汗)。
それと、死羅神様の件で明らかになったある事を、ちょっぴり付け足してます。うん、ちょっぴりね。
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