その時まで、私には不安なんて全然無かったの。
昔からずっと好きだったあの人に、好きだと言ってもらえて、一生私だと誓ってもらって、本当に本当に幸せだった。

あの人は、言っちゃあなんだけど、ルックスも良い、頭も切れる、スポーツもサッカーは超高校級と言われ、その上、世間で知らぬ者の無い高校生名探偵。
これでもてない筈がない。
ファンレターは山のように来ているし、学校でも、私が彼女だと知っていながら彼にアプローチしてくる女の子はたくさん居た。

でも私は、全く嫉妬しないと言えば嘘になるけど、あまり心配はしていなかった。
幼い頃から彼を見てきた私は、彼の格好悪い所も、意外と不器用な所も、情けない所も、子供っぽい所も、みんなみんな知ってて、そんな事を全部ひっくるめて彼が好きで好きでたまらなかった。

だから彼の上辺の格好良さだけに惹かれる女の子たちに、気持ちが負けるなんて思った事は無かった。
彼の、上辺のフェミニストぶりでない本当の優しさも正義感も、私が一番よく知っている、そう思っていた。
だからどんなに女の子達が騒いでも、どこか寛容でいられたのだと思う。



けれど――。

彼が薬で子供の姿になり、ずっと私を欺いていた間、彼の秘密を知っている女の子が彼のすぐ傍にいた。

その存在を知ったとき――。

私の中で、何かが音をたてて崩れ落ちていった。







月の光と日の光


byドミ


(1)



夕方の陽射しが、長い影を落としている。
新一と蘭は、夕日に照らされながら道を歩いていた。
真夏なので、夕日でも、すさまじい熱を持っている。
アスファルトの照り返しがきつく、熱で景色がかすかに揺らぐ。
2人は、駅から何分も歩いていないのに、汗だくになっていた。
友達同士6人で誘い合って行った伊豆旅行の帰り道である。
楽しかった旅行であるが、旅行の後半は3カップルに別れ(しかも1カップルはその旅行中に出来上がった)、水入らずで過ごすという、親にはとても言えない結果となった。

新一と蘭は、今米花市に帰りつき、新一の家に向かっているところだった。

「蘭、俺んちで何か冷たいもんでも飲んでくか?」

蘭はちょっと小首を傾げて考えた後、首を横に振る。

「ううん、お父さん待ってるから、帰らなきゃ」

新一に訝しげに見られて、蘭は赤くなる。
駅からわざわざ工藤邸の方に遠回りしているのだから、変に思われるのも当然だと思う。
けれど、蘭は工藤邸に上がり込んでしまったら、帰りたくなくなるのが自分で判っていたのだ。
だから敢えて、帰ると言った。
でもわざわざ工藤邸までの道を一緒に歩いているのは、1秒でも長く一緒に居たいという女心。
それに旅行の後半から、自分でもよく判らないわだかまりが心の中にあって、新一と離れたくなかった。
新一が自分はコナンだったという事をはっきり認め、話をしたあの時から、何かが蘭の心の中に引っ掛かっていた。

新一と離れるのが、不安でたまらなかった。

「判った。んじゃあ、荷物置いたら送ってくからよ、ちょっと待ってろ」
「いいよ、まだ日も高いし」
「駄目!とにかく送ってくから」

新一は、コナンになってしまったトロピカルランドでは、もう暗くなっている中、蘭を1人にしたくせに、最近では、たとえ昼間でも蘭が1人で出歩くのを嫌がるようになった。
色々な目に遭った為に、心配性になってしまったらしい。



  ☆☆☆



程なく工藤邸に着き、新一が門を開けて蘭を招き入れていると、声がかかった。

「工藤くん、やっと帰って来たのね。ちょっと家の方に来てくれないかしら」

けだるげなアルトの、艶のある声。
新一と蘭が振り向くと、そこには、最近阿笠博士が養女にした女性――阿笠志保が立っていた。

切れ長で少しきつい理知的な目、ボブに刈りそろえられ、前髪がゆるくカールした柔かそうな茶色の髪、赤く薄い唇、透き通った白い肌、細身でスタイルの良い、美しい女性――。

蘭は胸が騒いだ。

旅行中に、江戸川コナンという子供が、実は新一の仮の姿であった事が一行にばれ、新一はコナンであった時の事を全て語った。
その中で、新一と同じように組織の作った毒薬で小さくなった女性の話があった。
阿笠博士の所に居た灰原哀という小さな女の子が、実は妙齢の女性であり、組織を倒すために、様々な事でコナン(新一)に協力してくれていたのだという事だった。
その話を聞いた時、蘭の心に小さくない不安の種が蒔かれた。
そして今、目の前に居るこの美しい女性は、博士の親戚筋の娘と言う事になっているが、やはり博士の遠い親戚という事になっていた灰原哀にそっくりである。

いくつかの欠片が、蘭の頭の中で組み立てられていく。

不安の種が芽吹いて育ち始める・・・。



「あら?お邪魔だったかしら」

志保が蘭の姿に目をとめて、皮肉気に言う。

「うっせーな。何の用だよ」
「1人暮らしだと、女の子を引き込み放題で、いいご身分ね」
「宮野。喧嘩売りに来たのかよ」

新一の目が細められ、声に怒気が混じる。
大抵の者がびびるそれにも、志保は全く動じる様子が無い。
蘭は志保のその様子を見て、新一とそれだけ親しく交わっているように思えて、胸が苦しくなっていく。
大体、仮にもフェミニストの新一が女性相手にこんなに口が悪いという事だけをとっても、かなり親しい間柄と思わせる。

志保は肩を竦めて言った。

「別に。用があるのは私じゃないわ。博士よ」
「後で行くからよ、博士には宜しく言っといてくんねーか」



  ☆☆☆



新一は玄関先に荷物を放り込み、蘭の方を振り返って動きを止めた。

「蘭。どうかしたのか」

蘭は自分が今、きっと変な顔をしているのだろうと思う。
精一杯笑顔を作り、言う。

「ううん、どうもしないよ。どうして?」

新一は納得がいかないような顔をしていたが、それ以上は何も言わず、蘭の荷物を抱えて歩き出した。

並んで歩きながら、蘭が口を開く。

「ねえ、新一。さっきの人、志保さん」
「ん?宮野がどうかしたか?」

宮野志保が阿笠博士の養女となって阿笠志保となってからも、新一は志保のことを「宮野」と呼ぶ。

「あの人が、灰原哀ちゃんだったのね」
「・・・言ってなかったっけ?そうだよ」
「哀ちゃんのときもすごく可愛かったけど、元の姿だと、本当に綺麗な人よね」
「んー、まあ、そうかもな」

気の無さそうな新一の返事。
けれど今の蘭は、それを額面どおりに受け取れない。
不安の芽は枝葉を拡げ、心を侵蝕していく。



  ☆☆☆



蘭は家に帰りついた後、まず溜まっていた掃除洗濯を片付けた。
夕御飯の後は自室に引きこもり、受験勉強を始めたものの、気が乗らない。
楽しかった旅行の後には勉強を頑張らなければと思うものの、全く集中できない。
蘭は溜め息をついて問題集をパタンと閉じた。

ふと思いついて携帯を取り出してかけてみるが、新一は電源を切っているようだった。

「もしや事件で駆り出されているのかしら。それとも・・・」

『ちょっと家の方に来てくれないかしら』

そう言った志保の言葉が心を過ぎる。
馬鹿げた事を考えて、と蘭は頭を振る。
博士が用があるって言ってたのだから、志保に会いに行った訳じゃない。

それは判っている、判っているけれど・・・。



  ☆☆☆



「お父さん、ちょっと出かけてくる」

蘭がそう言って出て行こうとするのを、小五郎は訝しげに見た。

「今頃どこ行くんだ〜?」
「コンビニよ。何か欲しいものある?」
「じゃあビールと何かつまみ頼むわ」
「また?もうさんざん飲んだでしょ。少しは控えたら?」

そう言い置いて出ていく蘭に、小五郎は特に不審なものを感じはしなかった。
後から自分の迂闊さを呪う事になるのだが。

蘭とて、別に家出をしようなどと思っていた訳ではなかった。
ちょっと工藤邸に着替えなどの荷物を置いて、コンビニで自分の食べるアイスと小五郎のビールを買って帰るつもりだったのだ。

この時点では――。



  ☆☆☆



蘭は工藤邸に着いたが、家に灯は点っていなかった。

「やっぱり事件かな」

阿笠博士の所に合鍵を借りに行こうと思ったとき、道の向こうから近付く人影に気付き、蘭は思わず物陰に隠れてしまった。

現れた人物は、阿笠志保。

「全く工藤くんったら人使いが荒いんだから」

ブツブツ言いながら、もの慣れた様子で工藤邸の門を開け、合鍵を取り出して玄関を開ける。

蘭はその様子を見て、足元が崩れていくような感覚を覚えていた。
志保が合鍵を使って、当然のように工藤邸に出入りしている、その姿は蘭にとって大きな衝撃だった。

「合鍵なんて、私はもらって無いのに!」

そして新一は、どうやら阿笠邸にいるらしい。

蘭を送って帰った時間から考えると、かなり長い時間を阿笠邸で過ごしている事になる。
志保が再び工藤邸を出て阿笠邸に向かった後も、蘭はその場を動く事ができなかった。



  ☆☆☆



新一が自宅へ帰って来た時は、もう日付が変わろうとしていた。
門を開けて、ポーチにうずくまっている人影に気付く。
慌てて駆け寄る。

「蘭、どうしたんだ一体」

蘭は顔を上げたが、その目は焦点が合っておらず、新一はギョッとする。
思わずその肩を掴んで揺さぶる。

「蘭、蘭?」

少しずつ蘭の目の焦点が合って来て新一の姿を認めると、蘭はいきなり新一の手を振り払い、顔を背けて泣き出してしまった。

新一は、突然の拒絶に訳も判らず、呆然とする。

「・・・蘭、おっちゃんが心配するぞ。帰らないと」

蘭は涙で潤んだ目で新一を睨みつける。
蘭のそんな眼差しを見るのは初めてで、新一は知らず顔を強張らせる。

「追い帰すつもり?」

蘭の声も普段とはまるきり違う、ざらついた低い声である。

「蘭、どうした、何があったんだ?」
「今まで何してたの?何処に居たの?」
「え?」
「隣の家に居たんでしょ。志保さんの所に居たんでしょ。志保さんに合鍵まで渡してるんでしょ!」
「突然、何言って・・・」
「誤魔化さないでよ!」

蘭の強い口調と憎しみが篭ったような目に、新一は怯む。
蘭に対して後ろめたい事がある訳では絶対に無いのだが、取敢えずここは、下手な誤魔化しなどしない方が良いと判断する。

「阿笠博士の所に居たよ。宮野もいたけど、2人で居た訳じゃねえ。合鍵を渡してるのは阿笠博士にであって、宮野に渡してる訳じゃねーよ。これで納得出来ねーか?」
「じゃあ何で志保さんが、当然のようにこの家に出入りする訳?私だって、まだ合鍵なんてもらって無いのに!」

蘭の声に悲痛な響きが混じる。
どうやら、先程志保が合鍵を使って工藤邸に入った姿を蘭に見られたらしい。

見当違いの焼き餅だと言ってしまいたかったが、蘭の様子は尋常では無い。

新一は蘭を抱きしめる。
蘭は一瞬体を強張らせたが、今度は拒絶はしなかった。

「深い意味なんかねーよ。事件の事とか、新しい医学情報とか、色んな事で、阿笠博士と話し合っている時、よく宮野に家にある資料を取りに来てもらってた。でも、蘭が嫌ならもうそんな事はしねーよ。それに、おめーに合鍵を渡して無かったのは、その・・・、おめーを離したくなくて、けじめがつかなくなるんじゃねーかって、そう思ったから・・・」

蘭の睨みつけていた眼光が弱まり、強張った体から少し力が抜けたのを感じて、新一はそっと息を吐く。

「取敢えず、中に入ろう、な?」

新一は、今が夏で良かったと思う。
でなければ、蘭は今頃凍えきっていただろう。



  ☆☆☆



新一が促すと、蘭は素直に玄関から一緒に入ってきた。
少しだけ落ち着いたものの、蘭の様子はまだ普通ではない。
蘭が志保の存在に対して焼き餅をやいたのは確かな様だが、どうして蘭がここまでおかしくなったのかが、新一には判らない。
取敢えず蘭をソファーに座らせ、新一はコーヒーを淹れる。
さてどうしたものかと考えていると、電話のベルが鳴った。

『おい!蘭はそこに居るか!?』

小五郎の怒声が電話の向こうから聞こえる。

「・・・はい」

新一は嘆息しながら答えた。
ここで誤魔化してもどうしようもない。

『てめえ。旅行が終わったばかりだってーのに、いい度胸してんじゃねーか!』
「済みません。俺も用事があって今帰宅した所なんです。すぐに帰しますから」
『ったりめーだ、バーロ。あんまりふざけた事してっと、次はねーと思えよ』
「私、帰らないよ!」

突然強い声が聞こえ、新一も、電話の向こうの小五郎も驚く。

「ここに居るんだから、絶対、離れないんだからっ!」
「蘭、何馬鹿なこと言って・・・」
『おい、一体どうなってんだっ?』

電話の向こうで小五郎が怒鳴る。

「済みません、俺にも何が何だか・・・」

新一の言葉の半分以上は本音である。

『もういい、判った!俺が今から迎えに行くっ!』

小五郎はそう言って電話を切った。
新一は溜め息をついた。

『これでますますおっちゃんを敵にまわしたな・・・』

蘭との未来を考えると、溜め息も出ようというものである。
しかし、今は小五郎よりも更に大きな難関が立ちはだかっていた。

「新一、私帰らないからね」
「だから蘭、どうしたってんだよ」

蘭は黙って俯いている。
取り付く島もなかった。



  ☆☆☆



「蘭、いい加減にしろ!帰るんだ!」

駆けつけてきた小五郎が怒鳴る。

「嫌!ここに居るの!ここに居たいの!」

新一も小五郎も、困惑した顔をしている。
蘭は、自分でもどうかしていると思う。でも、どうにもならない。
打ち消しても打ち消しても、自分がここに居ない間に新一と親しくする宮野志保の幻が、頭から離れない。
決して新一を疑っているわけではない。
けれど不安がなくならない。
新一が口を開いた。

「おじさん、申し訳ありませんが、蘭が落ち着くまで、俺の家で預からせてもらえませんか」

蘭は驚いて新一を見た。

「貴様、何言ってるのか、判ってるのか」

小五郎が低く唸るような声で言った。

「判っているつもりです。何が蘭をこれほど不安にさせているのか、俺にはわからない。けれど、今無理に帰宅させたら、蘭は今以上に傷つき、不安になると思う。だから、無理を承知でのお願いです。蘭をしばらくここで預からせてください」

小五郎はしばらく黙って新一を睨みつけた後、口を開いた。

「・・・仕方ねーか。・・・けど、蘭に手は出すなよ」
「それは・・・、お約束出来ません。好きな女と同じ屋根の下で2人きりで過ごして何もせずにいられるほど、俺は人間出来てませんから」

新一の即答に、小五郎は顔を歪めた。

「なんでおめーはそう馬鹿正直に答えるんだ。・・・嘘でも、約束します位言えねーのかよ」

小五郎は深い溜め息をつくと、蘭に向かって言う。

「おめーも言い出したらきかねーからな。家に連絡だけは入れろよ。そして、1段落したらちゃんと帰って来い」

張り詰めていた蘭の表情が、少しだけ緩む。

「お父さん、御免なさい」
「・・・新一。おめーばかりの所為じゃねーとは判ってるが・・・、一発殴らせろ」
「お父さん!」

蘭の制止の声が上がったが、すでに遅く、新一は小五郎の拳で吹っ飛んで、壁に叩きつけられていた。

「ふん、覚悟はしていたようだな。ったく。新一、蘭をこれ以上泣かせたら、次は本当に容赦しねーからな!」
「はい」

新一は立ち上がり、真直ぐに小五郎を見て短く答えた。

小五郎は1人、玄関を出ていく。
その背中がいつもよりずっと小さく感じられ、蘭は申し訳ない気持でいっぱいになる。
けれど、蘭自身にもどうしようもなかった。

「新一、ごめんね・・・」

蘭は、自分のせいで小五郎に殴られた新一にも申し訳ない気持で、涙を浮かべた。
新一の口角から滲む血を自分のハンカチで拭いとる。

「蘭、謝らなくて良いよ。こん位、なんて事ねーんだからよ」

新一の優しい言葉に、それでも一向に拭われない不安に、蘭は涙を流した。



  ☆☆☆



その夜、蘭は新一の腕の中で、いつにない乱れようを見せた。
愛情からではなく、欲望からでもなく、強い不安から新一を求める蘭の姿に、新一の胸はどうしようもなく痛む。
新一にとって、こんなに辛い思いで蘭を抱くのは初めての事だった。





(2)につづく




「夏の陽射し・おまけの新蘭・真園編」に戻る。  (2)に続く。